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お彼岸の浅草で考えたこと

2024 AUG 17 18:18:52 pm by 東 賢太郎

浅草へ行った。不思議な処だ。神田育ちで下町好きの親父に連れられてよく来たが、にぎにぎしい仲見世通りのこの風情たるや、テキ屋がずらっと並んでうきうきするやすぐ閉じてしまうお祭りや縁日を年中やってくれている贅沢感がたまらない。当時、ハイカラだねという日本語があった。世田谷も成城あたりで育つとこれのことかと思い込まされている種の言葉で、だからここは異界である。長じて知ることになった異国情緒なるものに似た気分さえ味わっていたのだから、いまそこいらじゅうから聞こえてくる異国の言葉の人々がこれをどう感じているのかは想像すらつかない。日本らしさ東京らしさを覚えているならばそれは正しくもあり、誤解でもある。

浅草寺の北のほうはさらに馴染みがないがその昔は吉原あたりで、いまも猥雑さが残る。飯はだいたいがそうした界隈のほうが旨いというのは大阪でもそうだった。単に自分がB級好きということかもしれないが、香港やタイやベトナムでも、さらにはニューヨークでもロンドンでもフランクフルトでもそれは思ったからインターナショナルな法則かもしれない。せっかく来たから弁天山美家古鮨はどうかなと馬道通りに向かった。まあ盛夏に寿司なんてろくでもねえと思いきやちゃんとお盆休みだ。じゃあ趣向をかえて洋食だねということで、これも老舗であるリスボンと相成る。10分ほど待ってありついたのはカツレツだ。ソースはケチャップで、衣のカリッとした歯触りが実にいい。

満腹で外に出たところが、くそ暑いなかで一気に飲んだビールがいけなかった。隅田川に出たあたりでだんだん足どりが重くなり、視界が青黒くぼやけてちらちら星が見えだしたからいけない。向こう岸に東京スカイツリーがそびえるあたりで手すりにつかまってじっとしていると熱中症だといわれたが、その病気はどこがどうなってどうすれば治るのか知らない。そういえばペットフード屋の策略なのか猫に甲殻類をやると死ぬとか騒ぐ。てんでおかしい。うちのチビは天丼の海老のシッポなんかばりばり食って長生きした。素人の分際で熱中症もそのたぐいとはいわないが、日本人が国民的に弱体化したのでなければいわゆるひとつの暑気あたり、関西ではあつけがはいるというもので、平均気温が上がった分だけ数は増えたのだろうが昔から亡くなる人もいたし平気な人もいて、いま甲子園でやってる子たちは平気な部類であり僕もそうだ。

休み休み川沿いの公園を上流の方に歩く。すると道端の句碑らしきものが目にはいり、

羽子板や 子はまぼろしの すみだ川

と読めた。水原 秋桜子遠い記憶がよぎる。高浜虚子と同様、教科書で見覚えて気に入った俳句があったが忘れた。まだぼーっとしておりその場はそれだけで去ったが、後で調べると秋桜子(1892 – 1981)は神田猿楽町の産院の息子で、我が曽祖父のキカイ湯の客人であったかもしれないと想像すると楽しい。獨協、一高から東大で医学博士、それで俳人になった。普通でない人は実に興味深い。東大医学博士の文人は森鴎外もいるが、個人的には音楽の方が好きであるのは理系確率が高く双方に親和性あるアートであるからかもしれず、れっきとした学位がある数学者のアンセルメ、ブーレーズ、クセナキス、化学者のボロディンはみな根っからの好みだからけっこう正しいと思ってる。

羽子板の句が気になっていた。帰宅して調べると、まぼろしであった亡き子はあの梅若丸のことだ。公園から少し上流の対岸にある木母寺に梅若念仏堂がある。この寺には伊藤博文揮毫の先祖の石碑があって無縁でない。ホームページに『梅若の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設し、四月一五日の梅若丸御命日として、梅若丸大念仏法要・謡曲「隅田川」・「梅若山王権現芸道上達護摩供を開催します』とある。「隅田川」というと、1956年に訪日してこの能に感銘を受けたベンジャミン・ブリテンは2度も鑑賞した。その印象をもとに作曲したのが教会上演用寓話『カーリュー・リヴァー』である。ピーター・グライムズが大変な曲であることに気づき、ブリテンの歌劇、声楽曲はぜんぶ聴こうと思った矢先だ。

さて、そろそろ酔いも覚めたなと先に進むとほどなく言問橋(ことといばし)に至る。1945年3月10日の東京大空襲で米軍のB29が無辜の民を一晩で10万人殺したとんでもない惨禍がこのあたりだった。橋は焼夷弾で狙われて真っ赤に燃え上がり、浅草側(写真手前側)から逃げる人と、向島側(写真奥側)から逃げる人が身動きが取れないまま焼かれた。れっきとした戦争犯罪である民間人の殺戮は原爆だけではないことを、日本人であるならば記憶しておかなくてはいけない。

政治家の靖国参拝にかまびすしい者があるが、参拝はおろか僕はその隣の敷地にある九段高校で3年間の時をすごした。父方の親類はガダルカナルで戦死、母方の方はあわやA級戦犯でそこに祀られていたかもしれぬ。そんなに長くその場におれば英霊の魂もついて居ようというもの、79年前のことで済んだ話ではない。それでいて、米国の建国の地の大学院で2年の時をすごしてグローバリストの教育を受けたというパーソナル・ヒストリーは分裂的で、社命であったという以外に自己弁護の隙間がない。多くを学ばせてもらったことに相違はなく、みなが原爆投下を支持したわけでないことも理解した。米国のまともな人と真剣につきあう。大いにビジネスもする。そうしてジレンマを解き、英霊に報いる道を探る。それは両国をよく知る者しかできず、自分が最後の最後にやるべきことではないかと考えている。

戦争責任は布告なしの開戦にあり、その行く末に特攻により自国民に命の犠牲を強いるまで追い込まれ、よって米国が戦争を終結させるためやむなき無辜の民の殺戮へと至ったという大義のストーリーによって戦後の日本が独立国に戻り得ないよう囲い込まれ、無条件降伏による絶対服従のくびきに今もって甘んじ続けているという事実。その屈辱を全国民に分かりやすく開陳したことは、岸田内閣が日本のためにした唯一の功績である。これほど戦略思考のしたたかな米国および背後の勢力に対し、我が国は政治家にその程度の人材供給しかない。ならばいっそ米国の州になれ、それなら大統領を選挙できるという冗談がまともに響く。

伊藤博文(1841-1909)

明治から大正にかけての日本は日英同盟によって囲い込まれ、収奪したい清国、邪魔者であるロシアに闘犬の如くけしかけられた。勝ってしまった熱狂の陰でほとんどの日本人が気づいていないが、英国東インド会社は同じ手で薩長に武器を与えて倒幕させ、まやかしの同盟という美名をもって日本全土を囲い込むのに成功したのである。その英国に密航、留学し、手先として取り込まれて内情を知り、明治維新と呼ばれることになるクーデターを推進して初代日本国総理大臣になった伊藤博文は日英同盟締結に懐疑的だった。相手を魑魅魍魎と熟知していたからだ。だから日露開戦に反対であり、むしろ同盟すべきと考えていた。よって邪魔者となりハルビン駅頭で射殺されたのである。犯人は朝鮮独立運動の志士、安重根ただひとりということになっているが伊藤に命中した弾丸は複数の狙撃手から発せられたものであることが判明している。2年前、そしてつい先日に聞いた話は1909年から現実だったのである。

 

 

 

Categories:______歴史に思う, 政治に思うこと, 若者に教えたいこと

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