Sonar Members Club No.1

since September 2012

我がペニーレイン「和泉多摩川」に

2024 OCT 6 15:15:38 pm by 東 賢太郎

医師に「走るなら夜でなく朝ですよ」と諭された。暗がりの階段から落っこちてひどい目にあったので返す言葉がない。そこで前の週末、7時半から朝走りをやってみた。空気がちがう。よし、もっと遠出してみるかという気になったのは二子の駅まで来てからだ。戻ると7キロぐらいだ。夜だったらそうするが、まだ朝である。こういうとき「ここで帰るのはもったいない」となるのは子供時代からの困った性癖で、あらぬ場所に冒険したり友達の家にいりびたって行方不明になり、母が110番する寸前に何食わぬ顔で帰宅して大目玉を食らうなんてこともあった。ということだ。二子玉川駅から神奈川県側の二子新地駅にかかる鉄橋を渡る電車の “がたんがたん” がノスタルジーをそそったのも大いに加勢して、多摩川のもっと上流のあそこへ行こうという勇気がにわかに湧いてきた。

それは登戸稲荷神社だ(亡き父に捧げる五月五日のこどもの日)。両親は2歳の息子を連れ、昭和32年に板橋の実家から和泉多摩川に引っ越した。いまからみればまだ終戦後だったそのころ、当地は東京とはいえ最南端で川べりの田舎であり、住み家は1棟24世帯が5棟並んだ3LDKのひとつである。つまりなんでもないアパートなのだが両親には新天地だったと知ったのは、それこそが昭和38年に流行語となった “核家族化” だと後に学習したからだ。親離れしてモダンな家電とマイカーで “ハイカラ” な新生活を始めるのが若夫婦の憧れという世相は、同37年に大ヒットした吉永小百合・橋幸夫の「いつでも夢を」にくっきりと投影され、やがてくる高度成長期の礎になる。先んじて鉄筋コンクリートの新築社宅に入ったというのは銀行員の役得とはいえ、実家を追い出される立場である次男坊の父には誇らしいことだったに相違ない。そこに住んだ時期、僕には辛いこともたくさんあったが、家の中の記憶ということにフォーカスするならば燦燦と陽光がさしこむ明るい光景ばかりなのは不思議なばかりだ。意気揚々の両親のオーラに満ちていたからだろう。

走るといっても休み休みだ。道すがら河原に降り立って懐かしい草むらや川藻のにおいを深々と呼吸し、野の花や蝶々の写真をとったりと童心にかえったのは忘れ難い。東京にこんなきれいな蝶々が飛んでるなんて!あのころ、通っていた成城学園の周囲もまだ野っぱらだらけでそれはそれで楽しかったけれど、巨大な水流が秘める無尽蔵のエネルギーがあれば世界に不可能なことはないとさえ思わせる多摩川となると別格のド迫力であって、神々がこれを使えと伝えてくる鼓舞みたいなパワーが大地をメリメリと伝わってくる感じがしていた。野球を覚えるずっと前から友達とバッタやトンボを追っかけたり川面に石投げや水切り競争をしたり、いまは考えられないが遊泳や舟遊びまででき、冒険に興味津々の幼児にとってさらにゴージャスであった。

そこから数キロ走るとダムがあり、やがて我が故郷である和泉多摩川と神奈川県側の登戸にまたがる小田急線の鉄橋が遠く視界に入ってくる。住んでいたアパートはとうの昔に消えて今は14階だての立派なマンションが聳え立っており、商店街のお店もすっかり変わってしまっているが、タモリが言っているように道のくねりや幅や高低差はそのままだ。駅も高架になっていてまるで別な場所だが、その個所からの距離感は体が覚えていて、踏切があった場所がここ、そこから歩いてこのへん、このへんと往年のお店の位置が手に取るようにわかる。まず現れるのは左手にあった床屋さんだ。いまはラーメン岡村屋になってる。なぜか角っこに入口のドアがあって不思議だったが、なるほどこの T字路は直角でなく、駅から来ると鋭角になる。そこでとんがった角を切って車が曲がれる地形にした土地だったのだ。それが写真の自転車のある部分だ。床屋の例のぐるぐるはその左端にあったと思う。母に手を引かれて恐る恐る入っていく3歳の自分がみえる。

椅子は入ると正面に2つあった。座ると鏡に自分がおり、白い布を巻きつけられ首まで縛られる。いつも緊張していた。鏡の前に濃い青のガラス瓶が冴え冴えと鎮座しており、たしか赤?もあったが僕の眼はやたら青に反応するらしく覚えてない。それに液体に浸した器具らしきものが数本立ってる。もちろん櫛(くし)とハサミなのだが、変なのが出てくるとやだなと恐れてた。刈ってくれるのはいつだってヒゲの剃り跡が青々の旦那さんでやさしそうな面立ちなのだが、無口であって声をきいた記憶がない。髪を刈るとき手が仄かに消毒液の匂いがした。そんなに危険なものなのか・・。虚弱で毎週のように風邪をひいて、隣駅の狛江にあった久保田医院で注射されていたものだからそれを連想して固まってしまうのだった。いつも母は僕を置いて買い物に出て行ってしまい不安が増した。すると、それを悟ったのだろう、大柄で陽気な奥さんが「ボク細いねえ、ご飯たくさん食べなきゃね」なんて暖かく声をかけてくれてほっとするのだ。なんてビビり症の子だったんだろう。

写真の右手の建物、黒と黄の縞模様が貼ってある間口の狭いガラスの部分におばあちゃんがやってる小さな駄菓子屋さんがあった。ここはヘンゼルとグレーテルのお菓子の家みたいに夢のようなお店で、毎日学校の帰りにこっそり寄っては炭酸煎餅でウサギを作ってもらっていた。その工程はわくわくするもので、まず煎餅に水飴をはさみ、もう1枚を2つに割って耳にして飴でくっつけ、赤い梅味のシロップで目、鼻、口を書いて10円である。ある日、ポケットに5円玉しかなく入ろうかどうか迷ったが、これしかないですと差し出すとおばあちゃんは笑いながら「ボク、こんどは10円はもっておいでね」とウサギをやってくれた。それが「オレンジラムネ事件」の伏線であったのだが、その顛末はここにある。

男の子のカン違いの効用 (2)

思えば、おばあちゃんから僕は2つのことを学んでいたことになる。ひとつは商取引だ。お得意さんへの掛値販売というものの有効性、そしてそれが金利というものを生じさせる原理である。もうひとつは、これは非常に印象に残っているが、助詞「は」の用法である。あのときにおばあちゃんが言ったことを外人の子に伝えるならば Boy, if you like to come here next time, you must have at least 10 Yen coin with you. なんて長ったらしいものになる。それが「10円」でエコノミーに完膚なきまでに明瞭に伝わるのである。なんてすばらしい言語だろう!日本語を学ぶ外国人が最も苦労する助詞の威力を一気にマスターしたのは、この言葉に参ってしまって、心からおばあちゃんに悪いと思ったからだ。

そのお向かいにはパン屋の幸花堂さんがあった。3歳ぐらいのころだろう、一人でお使い行かされ、入り口で足を踏ん張って突っ立ったまま大声で「パンいっきんください!」と教えられたまんまオウムみたいに唱える。すると「ボクお利口さんだね」とおばさんが出てきて紙で包んだパン一斤とお釣りを持たせてくれるのだ。そんな子供をだまそうなんて、まして誘拐したりいたずらする日本人なんてものは100%いないと確信に満ちた善き時代だった。覚えてるのはほめられてうれしかったことのみで、つまりこのストーリー、リアルタイムでの記憶はかすかにしかない。のちになって父が何度も人前で語ったから知ってるのだ。うちの息子は賢い、そう言いたくて賢太郎になったのであって、ほんとうにそうだとは僕は思ってない。それなのに、パン一斤の時と同じで父がそう思いこませてくれたから、その気になって多少そうなっただけというのが真相と思う。

道を先に進むと右手にあった肉屋さん、アラビキとかミンチとか知らない言葉が飛びかい、たぶんあれが好物のハンバーグになったんだろう。その左手には八百屋さんで、親父さんの威勢のいい声が飛び交い、薄暗くなると裸電球の横の籠がぶらぶらして蛾なんかが飛んでるのが目につく。つり銭をさっと選び出す手際よさは見事だったが。一番奥の右手角っこは本屋さんで、ここはとても重要だった。おやじさんが自転車で毎週火曜日に少年サンデーを配達してくれるシステムだったが、いつもその日が待ち遠しくて放課後にほかの誘惑を断ちきって早く帰ってるのにえらく待たされる。へたすると夕方だ。そこで待ちきれず取りに行ったらおやじは文句をつけられたと解釈したんだろう、ひどく愛想がなく、世の中こんなもんかと思って後の証券飛込外交の心構えとして役に立った。そんなことは委細構わず持ち帰ってむさぼり読んだ伊賀の影丸。僕は学校よりアニメで日本語を覚えた最初期の人種だ。蕎麦屋、鮨屋があったはずだがいつも出前なのでどこか知らない。

うれしかったのは江戸屋さんだ。商店街で唯一、60年前と同じ名前で残ってるのは感動的と評するしかない。いまは酒屋のようだが当時は建物全部がスーパーだった。なにせそんなものはハイカラでそんじょそこらにはなく、母とよく行った。「くすりの中山薬局」の部分の入ってつきあたりにコロッケ屋があって、母が小声で「こう言いなさい」と教えたとおり「めんちみっつください!」と大声でいうと、ガラスの仕切りの向こうで親父さんが笑顔で「はいよ!」とじゅーじゅー揚げてくれる。これはリアルに覚えてるからパン屋より少し後のことだったんだろう。コロッケよりメンチがちょっと高級感があってうれしい。持つと重たくて油紙がほんのり温かいのも良かった。そういう小さな幸せいっぱいの日々だった。そしていま、母の隣でメンチの大声を発したまごうことなき “その場所” に69歳の自分が立ってるのである。思わずぼろぼろ涙があふれ出てきた。

いよいよ川の堤防に出て多摩川水道橋を渡り登戸へ向かうことにした。橋のうえから今の自宅の方角を遠望する。二子のビル群が見え、川はそこで右に折れるからあのへんかと目途をつける。すると、家から見るとここはあのへんかと心当たりができるのである。そうこうして目当ての登戸稲荷神社についた。あれ以来はじめてであるし、橋を徒歩で渡ったのもそうだ。あれというのは両親に連れられて羽織袴で来た初めての七五三、つまり66年前だ。ポスターを見ると祈願があるのは11月2~10日である。1958年11月初旬で父が休みなのは日曜、休日だから2,3,9日のどれかであり、時刻は後述する件から午後3時に近かったと思われる。ともあれ、この時の父は33歳、母にいたっては30歳だなんて、とても妙な気がする。境内を歩いてみるとあっけにとられるほど小さい。人でにぎわっていて正月の日枝神社みたいな巨大なイメージがあったものだがこうだったのか・・・。どんな祈願をしてもらったかとんと記憶にないが、とにかく涙腺がゆるくなってるのはどうしようもない。周囲には人がいたが、なんであの人ひとりで泣いてるのか気懸りだったんじゃないか。

この境内には小さなエピソードがある。その日、一匹の茶色い犬がいた。雑種の成犬だったが、大勢人がいるのになぜか僕に付きまとってくる。さあ帰ろうと神社を出ても歩く後ろをトコトコついてきた。犬に好きとか嫌いの感情はまだなく、こっちもなついてくれたのに嬉しくなっていた。ところが橋までやってくると父が僕を抱き上げて欄干に乗せ、ケンちゃん歩いてごらんという。怖かったが手をがっちりつないでもらい、その上をこわごわ歩いた。とても長い。だんだん慣れてくると目線の高さに意気揚々となり、父との男のつながりで母の再三の「危ないわよ、やめなさい」はすっかり無視した。

多摩川水道橋(左手のフェンスが太い鉄骨で幅があり歩けた)

対岸につき地面に飛び降りてほっとすると、犬はそこにいた。ついてきたのか!いとおしくてじゃれあって、やがてアパートの2階だった家の前まで来た。さあ中におはいりと当然飼ってもらえるものと僕も犬も思ったが、父は入れちゃだめだと頑として首をたてに振らない。そりゃ団地はペット禁止で仕方ないがそんなのは幼児には通じない。犬の鼻先でドアが閉められてしまうのを見て、僕は大声で泣きじゃくった。やむなく翌朝早々に起き出し、きっとあいつはドアの外で待ってると信じ、そーっと開けてみた。いない。外へ駆け出してそこいらじゅうを探し回ったが神隠しのようにどこにもいない。そこから何がどうなったかは闇の中で、覚えてないということは何もいいことはなく、記憶がデリートされたと思われる。どこでどうなってしまったんだろう、ごめんな。橋を戻りながら胸が痛んだ。

そういうことがあって、しばらくして母がどこかから黒猫をもらってきた。妹によると成城のクラスのお母さんからだったようで、とすると小学生になっていたから数年後ということになる。猫は大声で鳴かないし、外に出さないからという約束で父を説き伏せたと思われる。いま思うと、これが犬派・猫派の運命の分岐点だった。あのまま茶色が飼われていたら僕は間違いなく犬派になっていた自信がある。チコと命名されたこのオスはしたがって家猫になったわけだが、どういうわけか洗濯機の隣に首輪と紐でつながれてしまい、家族の一員になったとは到底いえない。母の運転する車が帰ってくると、幾台も車は来るのにエンジン音を正確に聴き分けてチコは鳴いた。僕はわからないのに凄いやつだと思った。何年かして、可愛そうだというので行きつけの伊豆下田の民宿に泊まった際に置いてくるという父の驚くべき裁定が下った。魚がいくらでも食えて幸せだといわれたがそんなのは口実だと思っており、どんな事情だったかは知らないが、おそらく猫が苦手な父がストレスになってだめだったのだ。チコと紐で遊ぶのは日課で飽きなかったが、僕も妹も歩くと足にじゃれつかれたり引っかき傷が絶えなかった。子供はなめられてたのだ。そのおかげで僕は猫とのつき合い方にめざめ、完全そっち派の人生を送ることになり長い長い豊穣のつき合いが始まったのだから偉大な猫であった。

そんな父だったが、和泉多摩川から中2で引っ越した鶴川の一軒家で野良猫が1匹、2匹、3匹と順次居つくと、家に出入りできるよう雨戸に猫の出入口をつけてくれた。大人になっても嫌なものはいつまでも嫌なもの。これは人間の法則であって僕もそういうものがたくさんある。猫のために新築のマイホームに穴をあけるなど父の性格からして苦渋の決断だったはずだが、その癒し効果で息子が東大合格すると猫たちの地位も向上したとみえ、次に調布に引っ越すと全員が車で同伴となった。本物の家族である。しかし猫は嫌いな人がわかる。僕が就職でいなくなると、愛猫家である母がいたのだけれどリーダー格のチビは家出して隣の猫になってしまった。それみろこの不届き者めと父が憎々しく思っていて不思議はない。50年近くもそうだったと思っていたが、先日、御殿場のお墓参りの折に食事していると、妹から「えっ、知らなかったの?チビはウチに来る前はお隣の猫だったのよ」と聞き天地がひっくり返るほどびっくりした。そして父の遺品の中にこれをみつけてさらに愕然としたのである。

97歳まで英語を勉強してた人だ。Scriblling Note(落書き帳)と題してわざわざ3匹の猫の、しかも毛の柄まで似たノートを選び、CHIBI、 CHARKO、KUROと各々に名前を記している。本当に猫好きに転じたなんて信じることはどうしても難しいのだけれど、不器用で猫には伝わらなくても父は家族として愛してくれていた、そうでなければこうはならない。Cats For Loveは後を僕に託す、つながってるぞというメッセージに思えてくる。2番目の猫は僕と妹にとってはチャーであって、メスだからと子をつけて呼んだのは既に先立っていた母だからそれも込められている気がする。これは実は落書きなどでなく、半分は遺書であり、半分は達筆でしたためられた膨大な自作他作の俳句 / 短歌集である。

似た瓶をロンドンで買った

物心つくかつかないかの出来事なんてあんまり覚えてないものだが、好み、趣味というものはこうやって芽生えてくるのなのだろうか、僕においては今もメンチとハンバーグは欠かせないし、炭酸煎餅に水飴をはさんで食べ始めると止まらなくなるし、チョコレートはゴディバよりあの植物油っぽい駄菓子チョコの方が断然高級に思えるのである。床屋の鏡の前にあった濃青色の瓶(びん)。あれはその象徴みたいなもんで、梶井基次郎の「檸檬(れもん)」の「ガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」という文章を読んだとき(たぶん高校の教科書にあったんじゃないか)、ああこれがあれだなと感じ入って、それこそ文字がカーンと冴えかえって見えた。あの人間離れしたディープ・ブルーの冷々たる佇まいはそれ自体が神界の奥義をぎゅっと集積した鮮烈な現象であって、音楽ならバッハの平均律のようなものだ。やがて僕はその色のエーゲ海が好きになり、家のステンドグラスも濃青を散りばめてもらい、ソナー・アドバイザーズの名刺にはボトムに深海をイメージしたディープ・ブルーの帯を印刷することになった。

本稿を書きながら、ふとビートルズのこの曲を思い出した。ポール・マッカートニーが「子供時代の記憶を呼び戻した」と述べているこれである。

歌詞に出てくる床屋

ペニーレインはリヴァプールの南の郊外にある何の変哲もない通りだが、小中学生時代のポールがジョン・レノンと頻繁に立ち寄る場所だった。彼はこう語っている。「Penny Laneはちょっとノスタルジーの部類になるんだけど、本当にジョンと僕が子供のころよく知ってる場所を書いた曲なんだ。だってお互いの家に行くとバスがそこで終点でね、ラウンドアバウトみたいなもんなんだけど、乗り換えなくちゃいけなくて二人でしょっちゅうあたりをぶらついてたんだ。だから我々の知った場所だし、歌詞に出てくる話もみんなおなじみなんだ」(筆者訳)。

In Penny Lane there is a barber showing photographs.

この曲でも「床屋」が冒頭に現れる。

Penny Lane is in my ears and in my eyes.

ペニーレイン、ぼくの耳と目に焼きついてる。

天才であるポール・マッカートニーはノスタルジックになることで凄い曲を書いたが、凡才の僕がそうなって書けたのはこのブログだけだ。この日曜日、帰宅してスマホをみると走行距離は22キロ、歩数は4万歩だった。

Categories:______自分とは

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊