ベートーベン ピアノソナタ第28番イ長調 作品101
2024 NOV 8 23:23:51 pm by 東 賢太郎
1815年にインドネシアのタンボラ山で過去1600年間で最大規模の噴火があった。ポンペイを消滅させた79年のヴェスヴィオ山噴火の約20倍の規模で、広島型原爆の約52,000倍に相当するエネルギーであったと見積もられている。噴煙や火山灰が成層圏に達して火山性エアロゾルにより日射が遮られたため夏の気温が平年より4℃も低く7月4日には米国東海岸で降雪が、ハンガリーには茶色の雪が降り、イタリアでは1年を通して赤い雪が降った。大雨でライン川が洪水をおこして農作物が大被害を受け、暴動が相次ぎ、ヨーロッパ全体ではおよそ20万人もの死者が出た。ナポレオンがワーテルローの戦いで敗戦に追い込まれた原因の一つはこの大雨であるといわれ、1816年は欧米で近代史上最も寒い年として夏のない年(Year Without a Summer)と命名されている。
噴火の3年前、1813年12月8日にベートーベンはウィーンにて「ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い」作品91を自らの指揮で初演していた。別名「戦争交響曲」という。ナポレオンを賞賛し、当初は「ボナパルト」と題されていた「英雄交響曲、ある偉大なる人の思い出に捧ぐ」を作曲したが皇帝になったと聞いて激怒し、楽曲の表紙を真っ二つに引き裂き床の上に投げ捨てた。そしてその10年後、今度はナポレオンの敗戦を望む王侯貴族を歓喜させる作品91を轟かせて大人気を博したのである。
翌年の1814年、彼らの望み通りにナポレオンは敗退してエルバ島に流される。諸国の王、外交官が集結して戦後処理のウィーン会議が開かれ、ベートーベンはさらにカンタータ「栄光の瞬間」を書き「戦争交響曲」がもたらした収入は彼の全作品の最高額にのぼった。しかし貴族階級に対して根深いルサンチマンがあった彼の心情が複雑だったことは、エロイカが至高の名曲となったのに対し、戦争交響曲とカンタータはほとんど演奏されなくなったという出来栄えの格差からうかがえる。
そのせいだろうか、人気、収入、そして不滅の恋人の出現と人生の絶頂であった1810~1814年に作曲はスランプに陥っているのである。その期間の彼のメインストリームの作品というと、1810年の弦楽四重奏曲「セリオーソ」、1812年の交響曲第8番、1814年のピアノソナタ第27番しかなく、公衆を喜ばせ金銭を得ることと真に書きたい音楽を書くことへの分裂があったかのようだ。これは一見、フィガロの作曲中にピアノ協奏曲第24番ハ短調を書いたモーツァルトに重なるようにも見える。しかし、真相はそうではない。
1814年4月11日、ナポレオンが島流しになった5日後にベートーベンはウィーンのホテル「ローマ皇帝」で自身がピアノを弾いてピアノ三重奏曲「大公」を初演したが、それが彼の公の場での最後の演奏になった。なぜかというと、弦楽器の音をかき消すほど乱暴にピアノを弾き、演奏は失敗に終わったからだ。近代史上最も寒い年まであと2年。人前での演奏を断念するほどに彼の耳は絶望の崖に向けてさらに悪くなっていたのである。スランプの理由は難聴が最悪になったショック(パニック)だったとシンプルに考えれば筋が通る。その証拠に、問題の1816年には藁をもつかむべく「補聴器」が、そして18年にはいよいよ言葉を聴きとることを断念して「会話帳」が必要になっている。
1815年に弟カスパル・カールが死去し、甥カールの親権をめぐる法定闘争が4年半もあったことがスランプの原因とする説もあるが、私見では、それは原因ではなく結果である。彼は日々心血を注いで育てるべくカールを手元に置くことに異常な執念を見せたわけだが、なぜかというと、ひたひた迫りくる悪魔の如き「音無き世界」の恐怖から逃れるために集中する相手が必要だ。彼が多くの女性、とくに人妻(子連れ)に結婚を迫ったことも同様で、多情だったわけでもプレイボーイだったのでもなく、そうした別の、誰かと一緒にいたいというより切実な「内面からの」切ない欲求だったと解釈ができる。この恐怖はただでさえ人を支配する。しかも、心から気の毒と思うことに、健常者すら平穏に過ごせぬ気象の暗転が追い打ちをかけていた。
以前に書いたが、僕は香港時代にストレスから突然パニック障害に襲われた経験がある。消えたと思うや何の前ぶれもなく現れ、内面の異変から一生逃れられない恐怖は人を打ちのめす悪魔だ。ベートーベンほど細かい神経を持つ人間が絶望の淵に追い込まれ、そんな状態で生きるなら自死して悪夢を絶つ方が余程ましだと追い込まれて書いたのがハイリゲンシュタットの遺書だという理解は僕には自然だ。死ぬまで至らぬとも多くの人が一歩手前で容易に陥る症状であるパニック障害(現代の米国人の2%が罹患)に陥らなかったとは考えにくく、そう記録されていないのは当時の医学では病気と認識されず奇行癖で片づけられたからだ。
そしていよいよ夏のない年、1816年がやってくる。補聴器を携えひとり過ごす日々は歴史に刻まれるほど長く暗く寒かった。前年から手掛け、この年に完成したピアノソナタ第28番イ長調が問題の年のベートーベンの心を映す鏡だったことは多くの方の同意を頂けるのではないか。同年にはもうひとつ、連作歌曲「遥かな恋人に寄せて」も作曲されている。これは史上初のリーダークライス(円環形に閉じた連作歌曲)であり、すでにソナタ第28番においてMov1冒頭主題が終楽章で再現する原型が見られる。連作歌曲はシューベルト、シューマンに連なり、冒頭主題の終楽章での再現はブラームス、フランク、ヤナ―チェックに連なる。「遥かな恋人に寄せて」はシューマンが愛好し幻想曲ハ長調、弦楽四重奏曲第2番に引用しており、第3曲はメンデルスゾーンの真夏の世の夢の「舌先裂けたまだら蛇」にエコーしており、これがメインストリームの作品であることがわかる。困難の最極北にありながら彼は運命に抗い、けっして負けていない。このことほどベートーベンという人の本質をあらわすものはない。
本稿の本題であるピアノソナタ第28番にやっとたどり着いた。僕はこれにベートーベンの内的葛藤を聴いて心苦しくなりもする(Mov2)が、終楽章の圧倒的なフーガ(厳密なフーガでないのはモーツァルトのジュピターと同様)に至って、この理詰めで精緻な音楽構築への没頭こそ彼が病を乗り越えて天寿を全うできた鍵であったことを知るのである。これの同型のバージョンアップが第29番ハンマークラヴィールであり、どちらも絶対の勇気を与えてくれるのは、彼が難事を克服せんと封じ込めた音魂が琴線に触れ、鼓舞もしてくれるからだ。彼の実像は蓋し肖像画がイメージさせる不屈の意志を持った強い超人ではないだろう。我々と同じく弱い一個の人間だ。にもかかわらず、折れかかっては立ち向かい、それが最後に彼を満足させたかどうかは問うまでもないが、為すべきことをしたのである。28番がその入り口とされ、以降は「後期」と呼ばれる彼の最後のピリオドは他のどの作曲家とも違うのはもちろん、それまでの彼自身とも異なる。
28番はドミナントのホ長調で優しげに始まる。しかし調性も曲調もファジーであり、やがてシンコペートされたリズム、増四度のAisの曖昧模糊とした霧にまぎれこみ、終わってみれば何を見ていたか忘れてしまった白昼夢のようだ。そこに唐突なヘ長調で暴力的に闖入するMov2はメフィストフェレスのダンスで、平和な気分を狂気の情動が突き上げる。スケルツォのようだが “生き生きと行進曲風に” とあるこれは心中で彼を追い詰めるカリカチュアだが、諧謔とは程遠い残酷で無気味なものだ。リヒテルとホロヴィッツのライブは一聴に値する。特に後者のスタッカートは悪魔的であり、シューマンのクライスレリアーナ第1曲にエコーしていることがわかるという点でMov2は僕はホロヴィッツを採る。
クライスレリアーナのクライスとはE.T.A.ホフマンの自画像であるヨハンネス・クライスラー楽長に由来するが、Kreisは「円」であり、リーダークライス(Liederkreis)に通じることからも両曲の関連をシューマンは意図したと見える。やがて右手がつまづいたが如くDes durの挿入で切断され、音楽は低音部で調性感を失って浮遊しながら落ちてゆき、地の底に届いて沈殿する。するとピアノはサステインペダルを解放し、大地から立ち昇る陽炎が天使の姿になって無数に空に昇ってゆく風である。右手のつまづきの部分はクライスレリアーナでは闖入するB durの驚くべき和声的イベントとして耳を釘づけにする。中間部は鏡像の対位法的で最後に低音でリズムの律動が裸で脈打つ所はシューマンがライン交響曲Mov1で使う。神は細部に宿るというが、こうした部分に天才たちの感性が光っている。
Mov3は序奏にアダージョがある。アンドラーシュ・シフはこれがチェロ・ソナタ第4番と共通の構造だと看破しているが、僕はMov3序奏を楽章と見た場合に28番の楽章の調性A-F-Am-Aと交響曲第7番のA-Am-F-Aに近親性を見る。このアダージョは通して弱音ペダルを踏み、素材もテンポも類似はないが第7番のMov2を想起させる。緩・急の対比ということでいえば大公でラズモフスキー1番を先駆とする「緩と急(スケルツォ)の逆転」がおきており、ピアノソナタ第28-31番、第九交響曲、弦楽四重奏曲第16番に引き継がれる。28番では逆転した緩徐楽章が終楽章の序奏になっており、これは29番で長大かつ深淵なアダージョ楽章に発展する萌芽である。ちなみに彼を尊敬したシューベルトはこれだけは従わず完成されたピアノ・ソナタで第2楽章にスケルツォが来る作品はなく、ベートーベンを範としたブラームスも交響曲でそれを踏襲しなかったが、シューマン(!)は交響曲第2番で、ブルックナーは8、9番、マーラーは6番で行った。
アダージョの最後にひっそりとMov1冒頭のテーマが再現する。それは旋律的ではあるが後ろの楽章の素材になっていたわけではなく、醸し出すある一定の夢のような感情、アトモスフィアを漂わせるだけの存在であったことがわかる。そして、それをかき消すように精気溢れるアレグロ主題が現れる。こちらは旋律的ではなく運命主題のごとくメカニックであり、技法の限りを尽くした息もつかせぬ展開の末にフーガに至る。彼は11才から先生のネーフェにバッハの平均律をたたきこまれており、これは29番のフーガフィナーレに発展するものだ。ベートーベンにしか書けぬ鋼の如き音楽である。白昼夢、悪夢、悲嘆と辿ってきた音楽は白昼夢の回想で目覚め、意志の力ですべてをふりはらう。
PS
昨日11月7日、インドネシアのレウォトビ火山で大噴火が発生した。それを知ったのは同日の夕刻、出張先の静岡でのことだ。本稿はインドネシアのタンボラ山噴火の話で始まるが、執筆は11月3日からで噴火の前日の6日に脱稿している。何とも奇遇だなあと思った。先ほど帰宅して調べると噴火は11月3日から始まっていて、書き始めたのはほぼ同時だったこともわかった。もちろんそんなこととは夢にも知らない。
ベートーベンの28番に言及するのに噴火の話から書き始めたのは、太陽黒点の数が減少した「ダルトン極小期」と関係がある。僕は太陽活動が人類に影響を与えると考えており(与えないはずがないと言った方がいい)、太陽黒点数の推移データに関心を持っている。この期は1790年から1830年まで続いた。すなわち、ベートーベンの全作品は始めも終わりもほぼぴったり重なってダルトン極小期に書かれているのである。
そこでネットを検索すると、他の多くの極小期と同じくダルトン極小期でも寒冷化の現象が見られ、特に1816年はタンボラ火山の噴火から極めて寒冷となり「夏のない年」となったことを知った。こうなると僕は抗いようのない習性から「その年にベートーベンは何を書いたろう?」となる。それが28番であり、偶々11月2日にそれを聴いており、朝からMov2が頭で鳴っていた。だから11月3日に28番について書こうと思い立ち、夏のない年、タンボラ火山、という流れになったのが顛末だ。
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