ヨーロッパ金融界で12年暮らしたということ
2025 JAN 8 2:02:00 am by 東 賢太郎
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本稿を箱根から始めるのは箱根が好きだからです。リタイアして住むなら軽井沢もいいのですが僕は温泉がプライオリティであり、東京23区の最南端に居を構えたのも東名が混まなければ箱根に1時間でいけるからであり、なにより両親が眠りいずれ自分もという地が御殿場なのでやっぱり箱根なのです。食事も良い店がありますが、仙石原のアルベルゴ・バンブーはこの手の所が好きな方にはおすすめです。ドラマのロケ地にもなったらしくご趣味によっては華美と見る向きもありましょうが、どうせ欧風にやるなら大理石までこだわったこれぐらいやらないと意味ないですね。シェフがかわったらしく料理、ワインは大変結構。この日は伊豆の鹿肉をいただきました。長いことこういう洋館で食事してきたので落ち着くわけですが欲をいえば一度ここで給仕されてひとりっきりで食事したい。おいしい料理は会話より鑑賞する空間と集中が必要なのです。ここで音楽を流せといわれれば僕はテレマンの「ターフェル・ムジーク第1集」第4曲 トリオ・ソナタ 変ホ長調を選びます。イタリアンでドイツのバロックになりますが重めのバッハ、躍動のヘンデルよりテレマン。まさにそのプロが書いた食卓を邪魔せぬ質の高い音楽です。欧州の王侯に国籍はありません、あるのはこういうもの、いうなればテレマン的なものです。
クラシック音楽という趣味の素地はありましたがそれだけでヨーロッパ社会に受け入れられることはありません。日本を代表する証券会社に入り、国際派インベストメントバンカーとなって金融界に深く入りこめたことが幸運でした。なぜならそこは顧客も富豪で業者もターフェル・ムジークで食事を当たり前のようにするアッパー(上流階級)の世界であり、趣味と調和してしまったからです。
振りだしはロンドンです。初めて行ったのは28才のアメリカ留学中で、トラファルガー広場からの景色に圧倒されたのが強烈な第一印象でした。これぞ大英帝国!軍事力、財力、歴史、科学、文化、芸術、ライオンまで強そうだ・・七つの海を支配した国の威容と品格は戦さが強いだけのバーバリアンとは一線を画しており、その後に訪れたどの国も遠く及ぶものではありません。いま写真を見ながら当時の残像が不意に蘇ってしまい、万感の思いがこみ上げて涙が出てました。もう一度行きたいなあ。やっぱり僕はお世話になった英国が忘れられないのです。
欧州の都市はどこもそうですが中世がそのまま同居しています。タモリの「ここに江戸時代の痕跡が残ってますね」なんて視点で見るならロンドンは丸ごと痕跡であって、昔から物価もホテル代もとても高いのですが、それは都市自体が博物館であり何を買ってもすべてに入場料、拝観料が乗っている。だから大英博物館もナショナル・ギャラリーもタダなのだと理解すれば辻褄が合いますね。それでも観光客が押し寄せ、物価が市場原理でプライシングされているという意味で資本主義を構造的に体現した都市なのです。
我が家は留学を終えて直接移り住んだので肌感覚での英米比較ができました。フィラデルフィアはアメリカ独立宣言が採択された誇り高い古都ですが、重厚な威容と厚みという点でロンドンと比較にならない差を感じました。写真の金融街シティのバンク駅周辺あたりはフォロ・ロマーノの往時かくありきの幻想を懐くほどではありませんか。まあ僕は古いもの好きだから割り引かなくてはいけませんが。
ロンドンでは京都の寺社仏閣と異なり古い建物が現在もビジネスの舞台です。代表的な日本企業が続々とインフォメーションミーティング(IR)に来るのですが、会場によく使ったブッチャーズホールは10世紀の肉屋ギルドの本拠でした。ランチタイムに我々がシティの運用会社のお歴々を集め、社長さんが業績などをプレゼンするのですが、ロンドンの序列では下っ端の僕が通訳です。米語とちがう英語が通じているか不安でしたがそれが欧州デビューであり、これから俺もシティの一員になるのかという武者震いの場でした。
6年後にロンドンを去って東京に戻るとき寂しかったものはゴルフ場、カジノなど多くありますが、食べ物というとホイーラーズのドーバーソウル、ハロッズのブルースティルトンとサヴォイホテルのこれでしょう。日本でもスコーンは知られていますが、それに主眼があるというわけでなく、大量に皿に盛ってアンパンみたいに振る舞うものでもありません。アフタヌーンティーという様式の中の食材であってジャムとクリームと紅茶の好みのブレンドを楽しみ、サンドウィッチで口直しをしながら他愛のないおしゃべりでゆったりと夕刻を迎える。そんなものです。暇でゆとりのある人のための3時のおやつであり田園で食しても都会的。モーツァルトのディベルティメントのような軽く華やぐ気持ちにしてくれるものです。
「おいしい料理は鑑賞する空間と集中が必要」と書きましたが、アフタヌーンティーでは職人的に凝ったおいしさというものは重要ではありません。上流階級の方々がどう思ってるかは聞いたことがありませんが、僕レベルの者にとっては、手をかけてめんどうくさいシチュエーションを丹念にしつらえてもらい、3時のおやつごときで至福と思える俺はなんて幸せだろうと思える自分がいるかどうかなんです。いないときはだめです、特別に旨いものでもないし。それが「泰然自若」(composed)という精神状態で、余裕なのはお金でも時間でもありません。そういうところが英国っぽいなあと思えるようになれば心から楽しめます。ちなみに箱根の富士屋ホテルでは似たものが供されますがお値段はたしか6千円ぐらいです。
次は初めて社長職に就いたフランクフルトです。会場で好きだったのはシュロスホテル・クロンベルクですね。去る12月23日に100歳で亡くなられたシュレジンガー元ドイツ連邦銀行総裁とここで食事しました。当時総裁はたしか退任された翌年で70才。今の自分ぐらいだったというのだから感無量です。イギリスのヴィクトリア女王の娘であるヴィクトリア皇太后が、ドイツの皇帝でプロイセン王である亡き夫フリードリヒ3世を記念して建てた誠に素晴らしいホテルで、郊外のタウナス丘陵に位置しゴルフ場がついてます。我が家は隣町のケーニッヒシュタインにあり、ドストエフスキーがカジノ狂いしてすってんってんになったバートホンブルグも隣の温泉町です。
タウナス丘陵はロスチャイルド家の別荘、メンデルスゾーンの姉ファニーの邸宅(弟はそこに1年逗留してヴァイオリン協奏曲ホ短調を書いた)もあり、住民の平均収入がドイツで最も高い地域ということを後になって知りましたから期せずして田園調布か芦屋のような所に住んでしまったようです。当時、ドイツでも「世界の」で認識された日本の証券会社の39才の若僧と連銀総裁が飯を食ってくれるわけですから現法の社長宅は必然的にそういうものという理解で、次に引っ越したフランクフルト市内の家のお隣さんも親ぐらいの年齢のウエスト・ランデスバンクの頭取でした。現地採用の社員はそれを社格として見ます。東京の外資系トップの住居と同様です。
次のチューリヒでは多い時は週に2,3件ある日本企業の起債調印式を社長がホストします。初日は昼夜と会食で翌日はアルプス観光にご案内し、お好きな方はオペラやカジノと、この2年半は証券マンというより接遇のプロでありました。楽なようですが肉体労働ですから実に大変で、体重が一気に増えました。よく使った湖畔のホテル・ボーオーラックは世界の王侯貴族、俳優、アーティストの定宿であり、近くの大聖堂にステンドグラスの名作を遺したマルク・シャガールが愛し、リヒャルト・ワーグナーがフランツ・リストの伴奏でワルキューレ第1幕を初めて披露した場所です。じっくり往時のムードに浸りたい所なのですが残念ながら仕事場でしたね。
最初に住んだ家はチューリヒ湖をのぞむ丘陵でゴルフ場付きクアハウスホテルのザ・ドルダー・グランドの近郊であるフルンテルンにあり、チューリヒにたびたび滞在しトーンハレのこけら落としを指揮したブラームスが毎朝好んで森を散策したあたりです。ウサギを飼ったり動物園がすぐ近くで子供達には格好の住まいでしたが契約満了のためキュスナハトという湖畔の丘からアルプスをのぞむ家に移りました。千坪近い庭付きの邸宅でかつて住んだ家でも最上級でしたが、最大の収穫は庭でゴルフの寄せがうまくなったことでしたね。
キュスナハトは心理学者フロイドの友人で精神科医のカール・ユングが亡くなるまで診療所を持ち、「ヴェニスに死す」のトーマス・マン、ロックンロールの女王で女優のティナ・ターナーが住んでいました。そして、庭越しに毎日のように眺めていた湖の対岸の街がリシュリコンです。ブラームスはそこの丘陵にある家(左)に1874年に数か月滞在しています。湖を見渡す我が家と似たロケーションで、21年を費やした交響曲第1番の完成は1876年ですから2年前にそこで書いていたのは第4楽章でしょうか。あのアルペンホルンはこの景色から着想したのかと想像すると何とも幸せな気分になります。彼と住居の趣味がとても似ていたというのはブラームス好きの秘密に思えてなりません。
キュスナハトの家には母を呼んで1か月ほど夏にのんびりしてもらい、それまで何百回も交響曲第1番をきいて愛した僕のヨーロッパ生活の最後の家がここだったことはまさに運命的と思います。ここに移って現地でのおつきあいも当初より格段にグレードアップしてスイス中央銀行のツヴァーレン総裁やUBSなど大銀行の幹部となり、日本企業をお連れして巨額の起債手数料と税金を落としてくれるノムラはスイス金融市場のお仲間と認めていただきました。総裁と奥様に母が来ていると伝えるとクランモンタナのご自宅に家族ごと呼んでいただき、歓待していただいた御恩は一生忘れません。
就職のときこんな素晴らしい12年が待ちうけているとは夢にも思いませんでした。しかも1992年にドイツに行けと言われた時は左遷と思いこみ、会社を辞めようと考えましたから大きな分かれ道でした。辞めなくてよかったし、海外にいたお陰で国内の証券不祥事や総会屋事件とは無縁で済みましたし、そこで生まれ育った3人の子供達にはヨーロッパという素敵な故郷をあげることができました。もうひとつ幸運だったのは、証券会社だから赴任先は国際金融市場がある先進国オンリーで、オペラハウスとオーケストラが必ずあったことです。昼間は交渉事のすったもんだで疲れきっても、夜にはクラシカルな世界で生き返り、何とか無事に乗り切ることができました。そして最後になにより、米国留学から始まった5か国への全行程で苦楽を共にし、見知らぬ外国で3度の出産と育児を立派に終えてくれた妻には尊敬と感謝しかありません。
仙石原のアルベルゴ・バンブーで想ったのはそんなとりとめのないことです。ここともうひとつホテル・ニューオータニのトゥール・ダルジャンは、たくさんありそうで実は多くないそんな気分にひたれる場所で時々行きたくなります。食事も含めどちらもおすすめですし、欧州旅行の折には真のトップトップである上掲ホテルに宿泊され、良き思い出を作られてみてはいかがでしょうか。
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