モーツァルト ミサ曲 第13番 変ロ長調 K.275
2025 FEB 13 10:10:07 am by 東 賢太郎

K.275の成立時期については、母と共にパリに旅立つ直前に書いたという説、および、中途のミュンヘンで書きあげてザルツブルグへ送ったという説がある。出発が1777年9月23日で、唯一の手掛かりである父の手紙が12月21日の初演のことを伝えているからだ。3か月の空白の理由は自筆譜が失われ説明できないのである。
どちらが真相であれ、大事な点はK.275が人生をかけた就活旅行を前にして書かれたことだ。幼い少年の芸は王侯貴族に愛でられたが、ポストという実利を得られないまま息子はもう21才だ。焦った父レオポルドは6月に父子での2、3か月の旅行(休暇)をコロレド大司教に嘆願したが「息子だけなら」の許可が出た。これはあながち意地悪とは思えない、なぜなら7月末に皇帝ヨゼフ2世がザルツブルグを来訪し、式典のため父子どちらかがコンマスとして必要だったからだ。憤懣やるかたない父は再度8月に「父子で」を飲ませようと、息子の名を語って「だめなら私は辞職したい」(もちろんポーズ)と大胆にも書き添えた手紙を出す。息子を失うのは困るだろうと勝負をかけたわけだが、偽装を見抜いた大司教は「二人とも辞職を認める」(要は親父はクビ)ともっと困る返答をしてモーツァルト家を仰天させる。父はショックで寝こんでしまい、姉のナンネルは頭痛に襲われて嘔吐した。まさしくお家の一大事だったのである。
息子は休暇をもらい、旅慣れぬ母親が自分の代わりに同行する、という窮余の辻褄合わせで父は許しを得、クビは免れた。どう考えても就活に寄与するとは思えない母アンナ・マリアの同行。これがなぜなのか僕には長年の疑問だった。全行程を馬車で行くのは現代ならタクシーをチャーターするようなものであり、宿泊代はもとより膨大な出費を伴う点でも無用な同行者をつける余裕など一介のサラリーマンにすぎないレオポルドにあったはずがない。息子の素行を信用していなかったことはあろう。しかし問題の大司教への手紙をよく読むと、父の同行の必要性をこじつけようと「子を助ける親の義務」を聖書まで引き合いにして権力者に対して不遜なまでに強く説いてしまっている。6月時点で「息子だけならOK」だった許可に文句をつけた以上、偽手紙を書いてばれたみっともない咎(とが)を許してもらう綱渡りの状況の中で、「母親の同行」で書いたことへの最低限の筋を通す必要がどうしてもあったのではないだろうか。そんな経験のある方はほとんどおられないだろうが、経営に反発して自分から辞めたいと申し出たサラリーマンごときに世間はそう甘くないのである。レオポルドにとっては人生の汚点であるこの顛末が手紙によって音楽史に刻まれようなど思いもよらなかったろうが、自分の身を守るため当局に魂胆をさらに読まれる危険のある言動は断じて慎んだに違いない。だから文献が残っていようはずもなく学者の立場にある方がとりあうことはできない。幸いにして僕は素人であり、さらに「自分から辞めたい」の申し出を3度やったことがあり、経験から補完して察している。もしそうならレオポルドの後悔はいかばかりだったろう。
そんな激動の中で息子が書いたのがK.275だったのである。大司教の「45分以内」の注文に添う、むしろ反抗かあてつけとさえ思えるわずか20分の異形のミサである。他の都市での売りこみ商品にしようという意図はあまり感じられない。ではなぜ書いたのだろう?母との旅路の平穏を神に祈るためだろう。旅路というより、異国も外国語も知らぬ可哀想な母の無事である。しかし神の加護はなかった。母は思いもよらぬ厳しい馬車の旅、見慣れぬ土地での不安、寒い冬、貧しい宿と食事に疲労困憊し、病となり、翌年の7月3日にパリで客死してしまう。それほど無謀な計画を履行するほどモーツァルト家は権力に平伏し、しかし息子の栄達への願望と確信はレオポルドの心中では我が事になっていたのである。
僕はこの曲が大好きであり、何十回聴いたことか。祈りはキリエのソプラノ独唱で始まる。Vnの「ンタタタ」で気分は軽く、最後のタで弱起するソプラノもスキップのように浮き浮きはずむ。極めて肯定的に、「僕と母は大丈夫ですよね、いいことありますように」と旅路の平穏を神に祈る。すると3小節目、テュッティで合唱が神の声で、強起で決然と、「そうだ、いいことあるぞ!」と歓喜の爆発で答えてくれる。彼はこの安心を心から求めていたんだろう。こうしてKyrie eleisonが2度繰り返される。
ところがChriste eleisonになると曲想はハ短調に暗転し「そうはいっても危険はあるよ、気をつけなくっちゃね」となりもう一度明るくKyrie eleisonを歌った次、二度目のChriste eleisonが下の楽譜になる。ソプラノの移動ドで読んだ変ロ長調のファが予想外に半音上がってふわっと宙に浮かんだ感じになり、次の小節で戻りバスが半音下がって陰る。和声進行で示すならB♭、C、F、Fm、B♭、E♭だ。この部分を聴くたびに僕は「いいことあるぞ!」と一瞬にして希望に胸をふくらませ、一瞬にして雲間にそれが陰る情動の揺れにおののく。まるで魔法のように。
音楽に理屈はない。美味に舌がとろけたり香水で華やかな気分になったりするようなものだが、ほんの一瞬に過ぎ去るこの和声進行は僕は彼の作品で他に知らない。少なくとも、例えば、4音のジュピター音型やアマデウスコードなら若い頃から複数の場面で使っているのにこれはそれがない。どうしてこんな素敵なものが降ってきたのか?どうしてこれを繁用しなかったのか?奇跡と贅沢が謎となって耳にこびりつく。こういうことをもってモーツァルトが天才だというなら反論の余地もなく、彼は今をもってしても人類唯一無二の作曲家だと思う。
僕にとって大事なのは、モーツァルトも魔法を感じたからこう書いたのだろうということだ。かように、彼ほど精神の合一感を与えてくれる作曲派は僕には他にいない。それを見つけることこそがモーツァルトを聴く喜びであり、皆様にとってどうかはわからないし、それを喚起する曲がケッヘル何番かも人それぞれなのだろうと思う。
もしそう意図してこの場所にこの音符を置いたなら、キリエは旅立ちの祈りにふさわしい、というより、僕にとってそれ以外に解釈のしようがない。平穏を神に祈り、祝福されている喜び。ザルツブルグの気障りで不愉快な空気から脱して、翼が生えたように自由の身となって、ミュンヘンやマンハイムやパリで大チャンスをつかんでやるぞという21才の、Christe eleison(キリスト憐れみたまえ)を突き抜けた幸福への憧憬、極楽への希求がありありと感じられる。
そう思うのは僕だけだろうか?それほどの魔法である和声進行B♭、C、F、Fm、B♭、E♭の効果に他に気がついた人はいないのだろうか?いや、そうではない。いる。どこかで聴いたことがある。弾いているとわかった。これだ。
皆さんご存じの「サウンド・オブ・ミュージック」の「クライム・エヴリ・マウンテン」だ。これも教会音楽の設定であり、なんとこれも変ロ長調だからまったく同じ和声進行。ミュージカル作曲家のリチャード・ロジャースがK.275を知っていたかは不明だが、オーケストレーターでナディア・ブーランジェに師事し、ガーシュインやラフマニノフと仕事をしたロバート・ラッセル・ベネットが知らなかったとは考えにくい。パリに意気揚々と向かうモーツァルト、Climb every mountain!
K.275の和声、リズムについて細かいことを書くときりがない。神は細部に宿っているとだけ書いておく。しかしモーツァルトはブルックナーのように神や信仰を描くのではなく、まったく人間くさい。構造的には定型的なミサのラテン語歌詞につけてはいるが作法はまるで無視で、対位法より圧倒的に和声の音楽だ。くそうるさいコロレド大司教へのあてつけと取る人がいるのもごもっとも。アニュス・デイはまるでオペラで、これを教会の冒涜と怒る輩が出たのも仕方ない。しかし使っている和声は後期ロマン派を聴き尽くした耳も飽きることがなく、ケッヘル番号200番代でこの域というのは驚くしかない。作法は無視でも全曲を聴き通すと一個の作品として凝縮した感性を味わうことになる。そうしたきき方を宗教家、保守本流の学者・評論家が許容しないことは知っているが僕はそうしたドグマから自由な立場で楽しむ鑑賞者だ。自由な彼の精神は縛られた耳では感知できない。父子のやりとりの手紙。天才の日々や精神活動を知る克明で大量の一次資料がこれほど残るケースは稀有で、だからこそモーツァルトは「後世にこぞって語られる存在」であったのだが、必ずしも音楽を深くは知らない人々も多く参加し、200年のうちに人口に膾炙した一人歩きの物語ができ、それもまたドグマとなり、固定したモーツァルト像を形成してしまっている。僕は手に入る一次資料、研究、学説はほぼ読破しているがだからどうということはない。自分の耳と感性であれっと思うことがたくさんあるからで、本稿はその一例である。
ロマン派のように開始するアニュス・デイはアレグロ・モデラートに転じる第26小節から第175小節の終結に至るまで歌詞はドナ・ノービス・パーチェム (Dona nobis pacem、われらに平和を与えたまえ)の繰り返しで、その言葉こそが彼がこの曲にこめた願いだろう。最後、つまり全曲の結尾がピアニッシモで、まるで彼と母を乗せた馬車が晩秋の霧の彼方にひっそりと消えていくようではないか。
ずっとのち、1791年のことになる。身重の妻コンスタンツェにスパ療養を必要としていたモーツァルトは、温泉地バーデン・バイ・ウィーンに宿泊施設を見つけてくれたバーデン聖シュテファン教会の楽長アントン・シュトールの求めで、自身の指揮でK.275を演奏した。それがこの写真の場所だ。7月10日の日曜日だ。母の命日は7月3日。そして彼は5か月後に母のもとに旅立った。
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