Sonar Members Club No.1

since September 2012

日本民族の宗教観はスピノザ的である

2025 FEB 21 21:21:42 pm by 東 賢太郎

金星が明るいです。西空に高いです。2月15日に1等星の100倍の明るさになりました。なんたって目立つし、夜明けに出たと思えば宵にまわったり、位置も明るさもコロコロ変わる金星は子供心に気を引かれる存在でした。天文図鑑によるとどうやら地球の兄弟らしい。位置が微動だにしない北極星やオリオン座はというと、こっちは遥か遥か遠くの存在で、太陽はその仲間のひとつであって地球はその周りを回っている。そういう遠近感というかスケール感というか、気絶するほど巨大な空間が頭上に開けているというぴんと張った感覚。これが頭の中にプラネタリウムみたいに設定され、空間は英語でスペースですからそれがいわゆるひとつの “宇宙” であって、僕にとってそれは宇宙人とか宇宙戦艦ヤマトとかそういう類いのものではなく、すぐれて「静的な物質的存在」であり、いまでもそうあり続けてます。

そうすると、たまたま生まれた地球と呼ばれる物体の、その上に立って、いま空を眺めている自分は誰なんだろうという謎かけのような漠たる疑問が自然と泉のように湧き出てきたのです。それが何歳ぐらいのことだったかは覚えてませんが、ここに書いた学園祭の出来事が7才なのでそれよりは前でしょう(99.9%の人には言わないこと | Sonar Members Club No.1)。とても大事な理解は、その疑問は天文学や物理学では解けないということです。星を素粒子まで分解して解明しても、どうしてそれが「在る」のか、どうしてそれを在ると判断している自分(の意識)が「在る」のかは説明できないからです。それを解くにはどうしても哲学に踏みこむ必要があるということを、13年後に、その学園の講義で知ったのです(ハイドンと『パルメニデスの有』 | Sonar Members Club No.1)。さらに後になってショーペンハウエルやデカルトの本を読みましたが答えは書いてない。ところが、やっぱり同じことを悩んだんじゃないかと思える男の本に出会って勇気づけられたのです。それがオランダの哲学者スピノザ(1632 – 1677)のエチカです。

デカルト(1596 – 1650)については私見を述べました(学校で学んだことでなお残っているもの (3) | Sonar Members …)。スピノザはその方法論の偉大な後継者です。アムステルダムの富裕なユダヤ人貿易商の子に生まれますが、聖書、ユダヤ教と異なる宗教観を唱えたためにコミュニティで異端者扱いされ、シナゴーグから石もて追われます。父のビジネスも負債だらけで立ちいかなくなってしまい、やむなくレンズ研磨で生計をたてますが、怯むことなく自己の哲学を「エチカ」-幾何学的秩序によって論証されたに総括して2年後に45才で世を去りました(ちなみにレンズ研磨者としても欧州最高の1人で、顕微鏡を作った “微生物学の父” レーウェンフックのレンズは彼のもの)。そうしたエンジニアに通じる知性はエチカの副題に明白で、ユークリッド幾何学的な体系をとった演繹法でロジックを積み上げる様は壮観であります。まず尋常でないのは高等教育を受けず独学でエチカを書いたこと(音楽ならモーツァルトに匹敵する天才と思料)。次に、自ら宇宙の謎を解き確信に至った信念をもって聖書の「神」という既成概念をぶち壊したこと。ユダヤ教であれキリスト教であれ神は当時の万人の精神的基盤であり、王侯貴族の権力のフェークのレゾンデトルであり、さらに世俗的には膨大かつ強大な宗教シンジケート構成員の飯の種であった、それのアンチテーゼを唱えるのはガリレオ・ガリレイの例を引くまでもなく身の危険があり、現にスピノザも殺されかけました。緻密なロジックを積み上げたのは信念の正しさへの自省であると同時に、既成勢力の攻撃に対し反論するなら来いと身を守る屈強の鎧(よろい)でもあったと考えます。

第一部「神について」の根幹「すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物もありえずまた考えられない」(定理15)という非人格的な神概念の設定は斬新です。ゆえに無神論と攻撃されましたがデカルトの前例があり誰も有効な反論はできなかった。神がすべての結果の原因で、しかも自らは何の原因も要しない万物の内在的原因であり(神即自然)、万物は神がそうあるべく決定した通りにあってそれ以外のあり方はない。自然に偶然はなく原因のみがあって目的というものはない。つまり人間が自由な意思で目的を持って行動することで世の中は成り立っているという目的論的世界観を全否定したのが画期的です(人間があると思っている自由は実はない)。つまり思惟(観念)の世界と延長(物質)の世界に因果関係はないが、ほぼ同時に起きているのは両方とも神が造ったから(心身平行論)とします。北極星やオリオン座が在る理由はなく、神がそう決定した通りに在り、空を眺めて自分は誰なんだろうと漠たる疑問に困惑している自分も神がそう決定した通りに在る。この宇宙観は一見すると人為的ですが、そう仮定することで解はここにあったと腑に落ちる(包括的整合性がある)ことから信奉するに至りました。

何が腑に落ちるかというと、観念も物質も、意思も行動も、物質も精神も時間も因果も感情もすべて神が決めた(”プログラム” した)とするならシミュレーション仮説とも、量子力学とも、ゼロポイントフィールド仮説とも、ヒンズー教由来のアカシックレコードとも根本的なところで矛盾しないからです。我々が観測できる宇宙は質量の4%しかなく96%は正体不明のダークマター、ダークエネルギーであることがわかっていますが、量子論の二重スリット実験のごとく観測によって見えなく(ダークに)なる物質かもしれず、在るのかないのか、在るならば物理的に何か、何のために在るかを考えても意味はなく、何の因果関係もない我々の思惟(観念)が正体を見出すことはない、何故なら神がそのようにプログラムを書いたものだからというものかもしれません。その前提で僕がイメージするのはスタニスワフ・レムがSF『ソラリスの陽のもとに』で描いた「海」の汎宇宙版で、小説ではそれは意志をもって人間をトリックするのです。そのトリックは異常に(非現実的に)リアルであって、まるで生身の人間(死んだ彼の妻)という記憶や触感を伴った三次元ビジョンが人間に観測できる、つまり思惟(観測)させることができる、だから、そのことにおいて自分も存在する(我は思惟しつつ存在する)。この小説は映画化され、それを観て漠たる恐怖を覚えたのですが、1度目は何が怖かったのかわかりません。もう1度見返して、根源はそこにある、つまり、トリックして最後は自分を殺す犯人は実は自分だという所にあったことに気づきます。これは量子論のマルチバース(多宇宙)の置換のようでもあり、量子論と対立したアインシュタインも「信じるのは人間の運命と行動に関心を持つ神ではなく、スピノザの非人格的な神である」と述べているのだから包括的な哲学というしかありません。僕も長年星を眺めてきた直感から唯一絶対の神の存在を確信しており、複数ある宗教はその表現の多様性であって同じ富士山を四方八方から眺めていると考え、決して無縁ではいられず怖ろしさを体感し、しかしそれを考えるのは無為なことと観念しているのです。我が家は浄土真宗ですがそれは先祖がそうだったということで、個人的には何教徒でもなくスピノザ的な非人格的な唯一の神を信じ、神社でも寺でも教会でもいかなる宗教施設においても、その絶対的な存在(being)に祈っています。

以上のようにスピノザの哲学は神即自然(汎神論)といえるものであり、徹底した西洋の合理主義の産物ではあるのですが、一方で、我が国の「八百万の神」(自然界のあらゆるものに神が宿る)という神道にも通じるように解せるのは大変興味深い。神道はすべてのものに魂があると主張するアニミズムとされますが、それは生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは精霊が宿っているという考え方です。八百万(やおよろず)という言い方が象徴しているように“神”は民衆の周囲にあまねく存在するもので、姿かたちがないがないため「祭礼の度ごとに神を招き降ろし、榊・岩石や人などの依代(よりしろ)に憑依(ひょうい)させることが不可欠」でした(憑き物になるという考えは能、狂言にも現れます)。何にでも憑くゆえに「八百万」であるのです。明治政府によって国家神道となって神社ができてもご神体がないのは、姿を特定できない以前にそもそもが汎神論的であったことが理由ではないでしょうか。

だから神道は偶像を拝む仏教とは水と油であって、便宜的、慣習的シンクレティズムである神仏習合は本来不可能なのです。当初は理解が浅薄で、神仏をも丸呑みしてしまうほど日本人の宗教観はおおらかで “多神教的” なのだと考えておりました。恐らく、現代の多くの日本人はそう考えているのではないでしょうか。しかし、「鰯(いわし)の頭にも信心」は鰯を拝んでいるのではなく、対象となる神様(精霊)に鰯という魚の精神的な性質を見出して拝んでいるのでもありません。そこに精霊である神様が宿っており、何に宿っていようが「精神的本質が統一されている」と感じるから拝んでいるのです。ということは、古来の神道は「すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物もありえずまた考えられない」(エチカの定理15)に該当する汎神論(すべてのものは、それぞれの精神や魂を持つのではなく同じ本質を共有している)であったと考えられないでしょうか。多神教とは神の類似品が多くあるという意味です。多が大きくなれば無限であり、無限とゼロは数学的に等価ですから無限の多神教は一神教だからご神体がないと考えられないでしょうか。

本居宣長 (1730-1801)

神道の存在は江戸時代に本居宣長らの国学者が古道として再構成し、明治政府が国家という新統治概念の思想的背景として統一するまで歴史の表舞台にはあまり現れませんが、脈々と日本人の精神構造の中で生き続けていました。僕は香港に2年半住んでいる間に東南アジア主要国はほぼ訪問したのですが、寡聞にして、日本人はアジア人であるからどの国民ともある程度は同質的だろうと思っていました。しかし、知れば知るほどそうではないのです。皆さんご自身でお考えになってみてください。古来より「清めの文化」が日本だけにあるのはなぜでしょう?中国、韓国、シンガポールのトップスクール(最難関大学)の男女比はほぼ50/50ですが日本だけ80/20なのはなぜでしょう?そして、なぜどれだけ武士の天下になっても万世一系の天皇が脈々と続いてきたのでしょう?

Baruch De Spinoza

以上から僕は日本民族が根底で共有している宗教観はスピノザ的な側面があると結論しました。同じ聖書を信じながら偶像崇拝を禁じるユダヤ教、イスラム教ではなくそれを許容するキリスト教が欧州世界を制覇し、日本でも偶像のない神道は仏像を許容する仏教と混交することでて徳川幕府の統治の道具となった。即物的に見れば、人間がビジュアルに弱いという盲点を突いた宗教が栄えたといえるかもしれません。しかし、「北極星やオリオン座がなぜあるのだろう」という疑問に答えるためには、統治に使えるか否かは何らの貢献もありません。伊勢神宮、明治神宮、靖国神社の存在に我々は国家という認識を否応なく付加していますが、神道の精神は皇室にとどまらず、国家がなかった時代から民衆のプライベートな空間で仏教や祖霊信仰と混交しながら心の深奥に脈々と根づいて途切れませんでした。それは例えば家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神神社に籠る習慣だった初詣(はつもうで)が、それをしない日本人はほとんどいないほどの国民的行事になっていることからも伺えます。神道という日本人の民族性の根幹は僕の知る限りどの外国人にも一切見られぬ特質、美質であって、国家が国のかじ取りを誤ろうが未来に途切れることがないスピノザ哲学の如きレジリエンス(弾性エネルギー)を有することを確信しています。政治がいくら堕落しようと絶対に触ることのできないサンクチュアリのようなもので、日本よりもっと堕落する可能性のある世界の政治状況の中に置かれても、北極星のごとく不動の位置を占め続けることができるということです。

最後に、今を時めくイーロン・マスク氏です。彼は履歴を見るに資質的に理系的、エンジニア的人間と思われ、ペンシルベニア大学ウォートンスクールで物理学士と経済学士を1995年取得したと主張し、学校は2年後の1997年に授与したとしているようです(wikipedia)。物理と経済のダブルは日本では東大理学部数学科に入って経済学部に転入した日銀の植田総裁しか知りませんが、別に変わり種でも二刀流でもなく、経済学は日本的仕分けなら理系学問でその仕分けの方が変わり種なだけです。そんなことよりマスク氏が専門バカではなく哲学書も読みこんでクロスオーバーな関心をもっていることのほうがよほど重要です。こういう人は日本ではあまり見たことがありませんがGAFAのトップは口を揃えてビジネスには数学と哲学が大事と発言しており、日本人とは最も精神構造が異なると思える点です。縦割り社会のそれぞれでトップになろうという人と、宇宙原理を解読しようという人は人生のモチベーションがまったく違います。クロスオーバーもクロスボーダーもへったくれもないわけです。彼がそういう学習プロセスを経て自分なりの哲学を確立し、それをビジネス化していることに注目です。

https://youtu.be/YRvf00NooN8?si=_vleSRZkwr6Oh-HT

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

Categories:______体験録, ______哲学書, ______気づき

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊