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グイド・カンテルリのベートーベン寸評

2025 MAR 25 10:10:48 am by 東 賢太郎

グイド・カンテルリ(1920 – 1956)はヴィクトル・デ・サバタの後任としてスカラ座の音楽監督になり、ウィーン、ロンドン、ニューヨークでも高い評価を受けた。なんといってもあのトスカニーニが後継者と目し「私は長い経歴の中で、これほど才能のある若者に出逢ったことがありません」と奥さんに手紙を書いたという。この人が36才で飛行機事故で亡くならなければ音楽界はどうだったろう。2才年長のレナード・バーンスタインがもしこの世にいなかったらと考えれば損失の大きさが窺われる。

このセットを買ったのは2007年だ。どの店だったか覚えがないがたぶんタワレコ渋谷だろう。千円台だったが中身をよく見ると魅力があった。カンテルリがニューヨーク・フィルを振った1953~56年の演奏会でベートーベンのピアノ協奏曲の1,3,4,5番が入っており、順にゼルキン、フィルクシュニー、バックハウス、カサドシュという20世紀を代表するピアニストのライブ演奏が聴けるからだ。

モノラル時代の、それもラジオ放送だろうか、商業用録音でないから音質はそれなりだ。デジタル時代生まれの聴衆は「何が悲しくてこんな貧相な音で」と思うかもしれないが、時としてそれを補う宝物が埋まっていることを知ってほしい。レコードは文字通り “記録” である。何が記録されたかにこそ意味があり、良い音質というものはその音源の商品価値(お値段)には寄与しても記録内容の価値を高めることはない。写真の画素数を上げれば普通の人が麗人に撮れるわけではないのである。本稿はその例として書いている。

クラシックは古典芸能だから骨董品や遺跡の発掘品と同じで根本的に古びない。というよりその概念がない。演奏家、聴き手の感性は時代に連れて変化するから演奏スタイルに “今風” があって結構だが、19世紀、20世紀のスタンダードを知らなければ今風かどうか知る由はない。だから、これでいいんだろうか、ベートーベンが聴いたらほめるだろうか怒るだろうか?と想像し頭の体操をしてみる余地がある。

他人の意見を検索などしてはいけない。自分で出した問題なのだから自分の頭で考えろ、である。ショーペンハウエルが「馬鹿になるから本を読むな」といっているのと同じ理由で、他人の耳で音楽を聞くことになる。好奇心のある人は考える材料を調べてみようと興味が出るだろう。僕の若い頃、それを探り出すのは大変で、だから書物が家に山ほどある。ところが、実にありがたいことだが、ネット時代の恩恵で今はあっという間にググれるのだから皆さんやらないと損だ。すると、何が起きるか?人間は興味のあることは暗記などしなくても勝手に覚える。曲のレパートリーを増やし、理解を深めるのにこれほど簡単な手はない。

録音した時の4人の年齢は、ゼルキン50才、フィルクシュニー43才、バックハウス72才、カサドシュ56才だ。僕はこの押しも押されぬ大ピアニストたちの素晴らしいレコードをたくさん聴いて育っており、最初の2人は米国で実演もきいている。まだ知らなかったこのCDに記録された4つの演奏会のチケットたるや、僕が当時にタイムマシンで行けるなら、1994年に満を持して買ったカルロス・クライバー / ベルリン・フィルのブラームス4番ぐらいに食指をそそられるものだ。

バックハウス72才の4番のライブが2年後のウィーン・フィルとのスタジオ録音と比べてどこがどうのという興味はない。レコード芸術で入門して同曲異演の聞き込みに没頭したことがあったが、レコードといえど聴く側の気分や体調は毎日違うのだから聴くたびに一期一会であると思い至った。英雄がききたいときに英雄を、悲愴がききたいときに悲愴をきけばいいのであって、立派に書かれたスコアがちゃんと感動させてくれる。

カンテルリのCDは好みだ。彼を気に入ったトスカニーニのベートーベンが好きなのと同系統の趣味なのだろう。4人のピアニストを円熟と書いたが、緩徐楽章にそれはあるが老成したものではなく、どれもライブなりの強烈な気迫がありアレグロはミスタッチをものともせずどれも眼前できいたら圧倒されたろう。4人なりの個性全開で大変味が濃く、これだけ大家たちがやりたいことをやらせながら総じて速いテンポでぐいぐい押す。半分ぐらいの年齢のカンテルリに付き従っている観がある。以下、各曲の寸評を記す。

1番。モーツァルトの衣鉢を継ぐのは俺だと才気煥発な25才のこれを出だしからもっちゃり、のっそりのテンポでやる指揮者が結構多いが信じ難い。これは僕の知る限り最速か少なくともその部類で、オケの愉悦感はまるでハイドンである。古楽器演奏の干からびたこじつけでなく、音楽はこういうものというスピリットにおいても時代考証的にも大いに納得である。嬉々として弾く脂の乗り切ったゼルキンもライブならでは。Mov3のソロ主題でルバートをかけるなど彼には思いもよらない遊びまで出てくる。

3番。NYPは出だしが鈍重、ピッチも悪く、テュッティが汚い。フィルクシュニーも入りでミスする。どうなるかと心配になるがこのチェコの名ピアニストの腕前はタングルウッドできいたモーツァルト24番でわかっている。カンテルリは1番から一転、中期へ向かう重みに比重を寄せる。3番のMov1の解釈でこれはありだ。フィルクシュニーは展開部あたりから興がのりカデンツァは全開だ。Mov2のタッチの深さ、静かな部分の沈静感は彼ならでは。Mov3はオケが騒がしく好みでなく快速調でやや統一感を欠くきらいはある。3番はコーダでアマデウス・コードを2度繰り返し自らモーツァルトの影響を吐露しているがそういう部分にも意を用いているようにはきこえない。深みという点で4曲でこれはやや落ちる。

4番。バックハウスが聴きものだ。世評通りだから書くまでもないがベートーベン演奏でこの人ほど傾聴に値するピアニストはない。彼はそれをスタジオでもコンサート会場でも再現できたということがわかる。他より圧倒的に深みのある4番という音楽のせいもあるが、カンテルリはバックハウスをよく聴き完全に伴奏者に回っている。Mov3のカデンツァもほぼ乱れなく、ベートーベンはこうでなくてはという力感と居住まいの正しさ。コーダへの追い込みでカンテルリがダッシュをかけ両者がなだれ込むが品格は微塵も崩れない。王者のたたずまいとはこのことだ。

5番。入りからして立派な皇帝というしかない。僕はカサドシュのドビッシー、ラヴェルを愛聴する者だが、同じく明るく明晰なタッチでこれほど玉をころがすようにベートーベンを弾ける人がいただろうか。Mov3のミスタッチなど明らかにこれがバックハウスのように自家薬籠中の物でなかったことをうかがわせるが、驚くのはオーケストラもそれに合わせて透明感の高い演奏になっていることで、録音のマジックが使えるスタジオ収録でないのだから本当にそういう音が鳴っていたということだ。このベートーベン・チクルス、ドイツの巨匠二人にフランス人、チェコ人に弾かせたわけだが超大物のバックハウスとカサドシュを連れてきたニューヨーク・フィルのマネジメントもパワフルだ。それを任され対極的なアプローチを使い分けた指揮者の能力は高いと思う。このまま彼が生きていればバーンスタインはどうなったのだろう?

200年前の音楽の70年前の演奏がこれだけ心を震わせる。クラシックは不滅だ。

 

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