ヴェネツィアの残照
2025 MAY 7 15:15:31 pm by 東 賢太郎

かつて観た都市でもっとも富というものを感じたのはニューヨークでもロンドンでもパリでもない、ヴェネツィアだ。いままで英国式にこの都市名をヴェニスと書いてきたが、イタリア語はヴェネーツィアでネーを強く、ツィアもはっきり発音する。どっちでも通じればよいのだが、イタリアの歴史を書くので本稿ではヴェネツィアとしよう。
ヴェネツィア共和国(697年)の成立は平城京(710年)、平安京(794年)より古い。まず歴代総督が隣国の勢力を巧みにあしらって自治権をもった都市国家となり、東ローマ帝国の制海権に守られ交易で利を得る。さらにアドリア海沿岸の海上防衛を担う代償に貿易特権を得て東地中海最強の海軍国となり、港市の多くを支配下に置く。そして第4回十字軍を事実上率いてコンスタンティノープルを陥落させ、帝国分割で巨利を獲得して政治的にも欧州有数の勢力になったことは皆さん世界史で習った。
いっぽう、以上をヘゲモニーの視点で読み解くなら、この都市の興隆の歴史は日本国の将来にとって興味深い示唆があろうと指摘したい。まず交易、金融、外交のインテリジェンス、そして世界で造船・兵器製造の一大拠点となる資金力の両方がないとこういう芸当はできなかったということだ。現に大航海時代の到来で交易がアドリア海から大西洋、太平洋に移るとビジネスモデルが崩れて資金が枯渇し、ガラスやレースの工芸品を造ってしのいだものの、ついに1797年、ナポレオン・ボナパルトに侵略されたのである。なくなったのはキャッシュフローであり、それゆえの資金調達力であって、富はあった。日本にも富はあるし、あり続けるだろうが、それでいいのかということだ。
この都市には3回行った。まず観光。次はエーゲ海クルーズの発着。最後は仕事だった。アドリア海からクレタ島への船旅は第4回十字軍の航路で感慨深く、仕事ではフライトのキャンセルでヴェネツィア~トリエステをゴンドラで移動し、海上からヴェネツィアを眺めて実感した。その地はもともと異民族に襲撃されて追い込まれた湿地帯であることをだ。農業も産業もないそこを水路で守備して根城にし、ムスリムやフランク王国という、征服されかねない異文化圏と交易で儲けようというのだから複式簿記を発明するような知恵も交渉力も要る。シェークスピアは無知ゆえか偏見かそれをシャイロックに仮託したがここの商人がみなユダヤ人だったわけでもなく、世襲でない有力家門(ドージェ)の寡頭制ではあったがフィレンツェのメジチ家のような僭主がいたわけでもない。選挙で選ばれた歴代総督が賢かったという事だ。しかし、くりかえすが、富がありすぐれた統治者がいたとしても、経済成長力が衰えれば国は滅ぶのだ。
ちなみに、富のバロメーターである地価を調べると一等地サン・マルコ広場の近辺で240㎡の高級アパートが130万ユーロ(約2億2千万円)というのを見つけた。1㎡90万円は新宿区ぐらいだ。この都市の輝かしい富が手に入るわけではないが、富というものは実は多くを所有する必要はない。身近で他人に邪魔されずあるぐらいでいいのだ。新宿駅が身近で便利なのと、こんな財宝を日々眺めて暮らすのと、多数決で決めたら同じ値段だったという厳然たる事実がここにある。世の中はずいぶんおかしなものだと思うしかないが、物もサービスも金も株式も、値段はそうして決まっている。
正面がサン・マルコ寺院だ。この地に寺院が建ったのは9世紀で空海が高野山金剛峯寺を建立したのとほぼ同時期である。10才のヴィヴァルディは手前側にある学校に通い、毎日この景色を見ていただろう。15才のモーツァルトは父と共にこの広場で仮面舞踏会を夜中まで楽しんでいる。
サン・マルコ寺院にはいってみよう。
ビザンチンの教会は、満々と湛えられた空気の膨大な質量が全身に訴えかけてくる異空間である。これが水ならどうだろう。泳いで空間を天使のように浮遊し、我々はこんなものを眺めているにちがいない。
天空の秘密。地上に据え置かれた我々はそれを知らない。
巨大なマスであるここの空気が声や楽器でうち震えると、それは波になり、些かの間をおいて天井の円蓋まで覆い尽くすやこちらに向けてこだまのように降ってくる。それが元の波とぶつかって干渉し、さらに複雑な波となり、我々を体ごと共振させ、なにやら娑婆とは別物だという魂の体験をさせるのだ。音ではなく波動だからそこで経験しないとわからないが、一度味わえば忘れることはない。
無意味なアーという発声であってもそうなのだが、それが楽音のドであればそれが空間に高々と飛散し、数秒間もありありと浮遊し、次に楽音のソを発して重ねてみれば両者は交って完全五度を成して戻ってくる。この発見から和声が産まれた。それでは戻ってくるメロディーに調和するように元のメロディーを書けばという発想でカノンが産まれた。サン・マルコ寺院でどう響くか。テノールがひとり二重唱になる様子がこのビデオでわかる。
つまり寺院、大聖堂なるものは我々が「音楽」と呼ぶものの母体であり、さらに成長させるゆりかごでもあったということだ。物理的に表現するなら楽譜は2次元、演奏は3次元で、時間軸が加わった教会での演奏は4次元のアートという事になる。音楽の4次元化はルネサンス音楽を代表するフランドル楽派の巨匠であり、ヴェネツィア楽派の開祖となったアドリアン・ヴィラールト(1490年頃 – 1562)に発する。
この人はいまでいうオランダ人だ。サン・マルコ大聖堂楽長への就任は大胆な人事だったと思われる。世襲、独裁、汚職の排除と人材の登用は小国ヴェネツィアの生きる知恵であり、1593年にはガリレオ・ガリレイを造船・兵器製造の技術顧問に雇ってもいる。ヴィラールトは1527年の契約から1562年の逝去までポストにあり、この人の起用は西洋音楽史上で最も重大な契約のひとつだったと評価される大きな成果をあげた。それが巨大で複雑なサン・マルコ大聖堂の音響構造を利用した分割合唱様式の発明であった。後の楽長にふたりのガブリエリ、モンテヴェルディという大物が就くが、やがて潮流はバロック様式を経て教会の厳格なポリフォニー音楽を離れて歌と伴奏のオペラへ向かうのであって、分割合唱様式の生んだ作品の位置づけは懐古的なものになろう。しかし「その場所でしかできない」という音響はオンリーワンの存在で、永遠の価値を誇るヴェネツィアそのものという視点からの評価はこれからむしろ高まるのではないだろうか。
1970年の大阪万博で西ドイツ館のシュトックハウゼンが気に入ったことを書いた(シュトックハウゼンは関ケ原に舞う)。シアターピースという位相を導入した概念は分割合唱様式に始祖があると思う。西洋人は教会で賛美歌を歌って育つので大空間の音場の残響と反響は脳への当たり前のインプットとなっているだろう。いっぽう山びこだって珍しい我々はレコード屋のクラシック売り場は「古楽」から「現代」までジャンル分けされているのが当たり前と覚えている。ケルン近郊生まれの敬虔なカトリック信者だったシュトックハウゼンがあの大聖堂の音響を知らなかったはずがなく、レコードが「現代」に置いてある彼が子供のころからなじんだその響きから天上のスピーカーの音が走るあの空間を着想したとしても何ら不思議ではない。
例えば大バッハは15才から数年間リューネブルクの聖ヨハネ教会の合唱隊の一員として歌っているが、そこの音響はこんな具合である。
明らかに残響が実音に「かぶって」いるが、賛美歌は天のこだまと交唱しているかのようなサウンドが「らしさ」を醸し出すので、屋外でこの楽譜を歌っても感じが出ないだろう。想像になるが、若き日をこの音響にどっぷりつかって暮らしたバッハには実音だけを聴いても「かぶり」がきこえる感覚ができあがっていたのではないか。だから自分の脳内に響いている両方を楽譜に書き取ろうと試み、そこから進化した技法の集大成がフーガになったのではないかと思う。
僕が日本で一度も足を踏み入れたことない教会に初めて入ったのは学生時代にアメリカのバッファロー大学に短期留学してホームステイした時のことだった。一緒に賛美歌を歌わされたが、天上にふわっとぬけていくその響きこそ衝撃だった。一気に好きになって、それ以来、海外で知らない処に行くたびに大聖堂や教会に入って音を聴いたからもうマニアと言える。小さいものは忘れたが、覚えてるだけでこんなにある。
ドイツはケルン大聖堂、シュパイアー大聖堂、フランクフルトの聖バルトロメウス大聖堂、マインツ大聖堂、オーストリアはザルツブルグ大聖堂、ウィーンのシュテファン大聖堂/聖ペーター教会/カールス教会/聖ミヒャエル教会、チューリヒのフラウミュンスター、英国はウェストミンスター寺院/セント・ポール大聖堂/チチェスター大聖堂/ヨーク大聖堂/セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ、パリはノートルダム大聖堂/サン・トゥスタッシュ教会/サントトリニテ教会、ルーアン大聖堂、ストラスブールのノートルダム大聖堂、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、ミラノのドゥオーモ/サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、ピサ大聖堂、バルセロナのサグラダ・ファミリア大聖堂、ブラジルのリオデジャネイロ大聖堂
これらの地の多くはクラシック音楽の殿堂でもあり、大聖堂があってオペラハウスがない都市はなかろうから両者の関係は緊密だ(日本は両方ない)。「古楽」も「現代」も「ロック」もない。ポール・マッカートニーは「みんなもう讃美歌は聞き飽きて心に響かないんだ、僕らはむしろ熱心な教会支持者だった」と語っている。教会マニアになったおかげで僕もどうやらそれらしい耳ができあがり、自宅の音楽室は石造りで窓にはステンドグラスまで入ってしまった。日本のコンサートホールでそういう音は記憶にないが、いちどだけ、ライブイマジンの練習で吉田さんに舞台上のピアノを弾かせていただいたとき、ふわっと天井に昇っていく感じがあれに近いなと思ったのは客席が空だったからだろうか。
サン・マルコ大聖堂楽長としてヴィラールトとモンテヴェルディをつなぐ人にヴェネツィア生まれのジョヴァンニ・ガブリエリ(1554または1557 – 1612)がいる。彼が生まれた頃、ちょうど日本では川中島、桶狭間の合戦が行われていた。1579年に織田信長は権勢のピークにあり、豪華絢爛の安土城にはいりセミナリオで西洋音楽を聴いているが、その頃にミュンヘン留学からヴェネツィアに帰国したガブリエリはサンマルコ大聖堂の特性を活かした分割合唱様式でヨーロッパで最も有名な作曲家となってゆく。ほとんどの作品は、祭壇の左右に配置した2つの合唱団ないしは器楽集団が、まずは左手から聞こえ、それを右手の音楽家集団が追うというアンティフォーナルに構成される。このビデオでわかる。
次にサン・マルコ大聖堂の響きを聴く。アコースティックはこの400年の間にほとんど変化していないという。
ひとつ前のビデオもそうだが、発売されたときにFMだったかで耳にして印象に残ったのがフィラデルフィア管、クリーヴランド管、シカゴ響のブラスセクションによる(たしか「ガブリエリの饗宴」と銘打った)1968年録音のLPだ。それぞれオーマンディ、セル、マルティノンの時代でまばゆい金色に輝く。まだ中学生でガブリエリが人名であることも知らず、クラシックは富裕で豪奢なものというイメージができた記念すべき録音だ。ヴェネツィアにもそれが焼きついていたかもしれない。
(ご参考)
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