新婦の父になった日
2025 MAY 13 8:08:46 am by 東 賢太郎

日曜日に長女を送り出しました。近年は結婚式の場もガーデンやビーチなど多様化し、親しい人たちと心地よい時間を共有する傾向にあるようですが、娘たちは私共の世代と変わらぬクラシックな場を尊重しました。帝国ホテルにしたのは理由があったようで、人気の5~6月は意中の部屋の空きがなく1年ほど待つことになりました。その甲斐は大いにあって、新婦の父として忘れえない思い出をつくっていただきました。スピーチを頂戴した主賓、ならびにご列席いただいた神山先生ご夫妻、ご親族、ご友人、ご同僚の皆様、ソナー関係者の皆様、当家の親族、ご協力いただいたホテル担当者の方々に厚く御礼を申し上げます。
新婦の父役は簡単ではありませんでした。「お父さん、いい?バージンロードを一緒に歩くのよ、ドレス踏まないようにね。でもスピーチはしなくて大丈夫だからね」。それが何かも知らず娘の指示で一応の安心はして当日にのぞんだのです。歩くのは花嫁の後ろからと思っていたので踏むわけないだろと余裕でした。モーニングに着替えてホテルの教会の待合室にはいると神父さんと介添え人の女性がおられ、手袋おもちですね、こう指をそろえて左手で、持ち方はこうです、右手はこう曲げて手の甲が上で力は抜いて、はい、そんな感じで動かさず、などと矢継ぎ早に教わります。歩き方ですが、右足からです。花嫁と歩調を合わせて、とにかくゆっくり、靴の幅ずつ進む感じでいいですよ、気をつけていただきたいのはスカートが横に広がってるので踏んじゃう方がおられるんです、そうならないように右ひざはやや内側に回して入れる感じで・・・
ウェディングドレスを試着した写真は見ていましたが、現れた新婦姿の娘には息をのむばかり。圧倒されてしまい、想定外だった腕組みをされると、なるほど横幅がすごい。気が動転したまま廊下をしずしずとバージンロードの扉の前まで進みました。この数メートルで難しいと直感しましたが時すでに遅し。「それではご入場です!」と声がかかり、ぱっと扉が開くとサーチライトか眩しくてなにも見えません。オルガンが轟々と鳴り響いて「はい右足からどうぞ!」。覚えてるのはそこまでで、人がたくさんいるな、立ち上がってばしゃばしゃ写真を撮られてるなと感じて固まりつつ道がまっすぐかどうかもよく見えません。とにかくスカートを踏まないことだ!それに専心すると歩調も何もあったもんじゃなく、人生でこんなにゆっくり歩いたことはないゆっくりさで片足に乗る時間が想定をこえて長く、2度左にこけそうになりました。やっと終点が見えてやれやれ。そんなことはどこ吹く風と泰然自若で歩を進めるヨーロッパ育ちの娘をこんなに頼りに思ったことはありません。
そこで待ち構えていて、よろしくお願しますと礼を交わして娘をお渡しした新郎。彼もまた18才で志してロケット工学を学びに単身渡米した海外派です。結婚の誓いも堂々とした声で頼もしいもので、心の底から安心しました。彼を育て、若い志を後押しされたご両親も立派としか申し上げようがございません。名門テキサス大学アーリントン校(UTA)卒で、英語で理系という大変さは私の想像を超えますが、ラグビーで鍛えガリ勉でもアメリカかぶれでもない、こんな若者が日本にいたのかという驚きと共にこの人を見つけてきた娘も思いっきりほめてあげたい。UTAのスポーツチームの名称はテキサスの誇りマーベリックス(異端児)だそうで、映画トップガンのトム・クルーズのように “カッコいい型破り” の意味です。何があっても臆することなくふたりでその道を突き進んでいってください。
披露宴は主賓のお言葉を頂戴し、少々リラックスもさせてもらいました。ちなみに、流す音楽はホテルおまかせでなくすべてふたりでプロデュースしたいとリクエストがあったので、結婚式に向いているかどうかよりも娘の思い出がある30曲を選んで送りました。ドイツにいたころ、ピアノでドラえもんのテーマ曲などを弾いてあげるとキャッキャ喜んでいた頃から覚えていた曲ばかりです。結果として私のCDルームから持ち出していったのはヘンデル、モーツァルト、シューマン、ブラームス、チャイコフスキー、ラフマニノフ、L・アンダーソン、R・ロジャースでした。ひそかに楽しみにしていましたが、なるほどそこに使ったか、いいセンスだねというものばかりでいうことなし。満点。Climb Every Mountainは画像とあいまって最高だったし、我々には別格であるラインの第5楽章、あれを流した人はまず他にいないでしょう。オンリーワンの宴になりました。
いろんな思いがめぐり食事もそこそこに感無量で式を眺めていましたが、いよいよ「それでは最後にご両親への花束贈呈です」とアナウンスがあり、いかん、そういうのがあったっけと金屏風の前に立ちました。花嫁の万感のこもったスピーチにまず家内が泣きだしてしまい、私は唇をかんでこらえましたがハグされたらもうだめでした。そのシーンを激写していたのがソナーの慶応グループで、閉会後に見ろこれが証拠写真だと盛り上がりました。私が涙を耐えられるかどうかで賭けが進行していたのです。
43年前、私と家内はこの桜の間のひな壇に座っておりました。留学でアメリカに発つ前の弱冠27才と24才で、借りてきた猫のように固まっており、皆様から前途洋々のお言葉をいただたのがうれしかった遠い昔の思い出です。まさかそこでこの日を迎えようとは想像だにしていませんでしたが、これは娘たちのプレゼントでもあったのでしょう、そういえばこうだったと記憶の片隅に埋もれていた父のモーニング姿と母のおめでとうという声をはっきりと思い出しています。私は大学2年のとき全くの偶然から広島のユースホステルで家内に出会い、思えばこの会場から我が家が始まったのです。その日の新郎新婦の両親は家内の母ひとりになってしまいましたが、93才と思えぬお元気な姿で神戸からかけつけてくれました。おりしもこの日は母の日であり、天国の我が母が喜び、義父も我が父もそろって祝福してくれたのでしょう、曇天で小雨模様の日々だったにもかかわらず、披露宴の窓からは燦燦と陽光がさしこんでおりました。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
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5 comments already | Leave your own comment
中島龍之
5/13/2025 | 11:28 PM Permalink
お嬢様のご結婚、おめでとうございます。東さんご夫婦が43年前に、同じホテル同じ場所で結婚式を挙げられたとのこと、本当に感慨深いことだったことと推察いたします。お嬢様の素敵なプレゼントですね。私も娘二人おり、すでに結婚しておりますので、バージンロードを娘と歩いておりますが、娘と歩数を合わせるのに一生懸命で回りを見るゆとりがなかったことを思い出します。花婿さんのところにたどり着いてひと安心してました。そして、長女の時は、娘からの感謝の言葉の場面では、泣くまいと思いながらも不覚にも涙ぐんでしまいました。そのあと長女に、「お前が泣くので思わず泣いてしまった」と言ったら「それ以外にすることあるの?」と言われてしまいました。納得ですね。次女の時は、とにかく明るく泣かずにしようと言われ、笑顔の結婚式となりました。。長女、次女違うものですね。などと思い出してます。東さんは家族も増え、きっと更に豊かな人生となることを祈念しております。
東 賢太郎
5/14/2025 | 12:19 AM Permalink
中島さん、ありがとうございます。無事に終えてほっとしております。そうですか、やっぱりバージンロードは大変だったんですね。冷や汗ものでしたがお父さんは普通もっと若いんで足腰の問題ともいわれております(笑)。同じ部屋で式をして感慨深かったのは43年よく生きてたなということですが、家内がよく一緒にいてくれたなという感謝もございました(笑)。あと2回やれば人生すべてのお役目は終了です、それまではなんとか頑張ります。
中島龍之
5/14/2025 | 10:46 PM Permalink
娘二人が結婚した時点でホッとした感はありましたね。責任を一応果たした安堵感でしょうか。あとは夫婦ふたりでやってくれ、というところです。でも、そのあとは、孫のお守りが待ってますよ。ちょっと自分の子どもとは違う心配ですが。そんな生活送ってます。
東 賢太郎
5/15/2025 | 8:44 AM Permalink
そうですか、そのホッとした感はいまとてもよくわかりますよ。お疲れさまでした。孫のことはまだわかりませんが、自分の子のお守も満足にできませんでしたしあんまり自信はないんですが、中島さんのおっしゃることはいつも重みがあるものですから覚悟しておきます。
中島龍之
5/17/2025 | 9:51 PM Permalink
参考になれば幸いです。昨夜も同居の娘夫婦と私ら老夫婦4人で孫が寝た後、ビール飲みながら孫のことを長男と次男は違うね、などとと話してました。東さんにもきっとこんな場面が来ることでしょう。個人的なことですのでこの辺でやめますが、東さんの娘さんの結婚式のエピソードをきっかけに色々感じた
次第です。