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カテゴリー: ______サイエンス

スティーヴ・ライヒ 「18人の演奏家のための音楽」

2016 SEP 16 13:13:30 pm by 東 賢太郎

前回のリゲティが宇宙空間をただよう静けさならこちらはどうか。単調なリズムの反復による同一和音の漸強、漸弱と音色によるグラデーション。満ちては引く潮のようであり、生まれ羽ばたく生命の息吹のようである。宇宙的に対して地球的であり、リゲティが横断的ならこちらは垂直的に感じる。これはミニマル・ミュージックと呼ばれ、スティーヴ・ライヒはその作風を代表する米国の作曲家である。

地球的?いや、しかし、これは実はCosmic(宇宙的)でもあるのだ。このリズム・パターンの繰り返しは、高速でぐるぐる回る中性子星が送ってくるX線パルスの描くグラフの規則的な律動を強く想起させる。

話はあらぬ方に行くが、天文マニアである僕がいま最も興奮している星がある。白鳥座の1,480光年先にあるKIC 8462852という恒星がそれだ。ご興味ある方は、米国エール大学の天文学者、タバサ・ボヤジアン博士のわくわくする講義をお聞きいただきたい。

この星の明るさ(明度)は唐突に不規則的に22%も落ちる。何か物体が恒星の前を通過して光を遮っている。その部分の明度グラフは非対称だからその物体は球形ではない。彗星ではない。恒星のエネルギーで熱を持つと出る赤外線放射がない。太陽系外から見ると木星による明度低下ですら1%でしかなく、22%になるには地球の1,000倍の超巨大な物体が横切ることが必要だ。

そんな物体があり得るのだろうか?

この問いにリーゾナブルに答え得る解答は「巨大な人工建造物」だそうだ。地球外生命が作ったダイソン球というストラクチャーが恒星をぐるりと取り囲んでいるのだと博士は推論する。要するに、平たく言えば、そこに高度な文明を有する宇宙人がいなくてはならないということになる。

米国人はこういう話題が好きで、お茶の間向けのワイドショーまでがとりあげていると聞く。4人にひとりが地球が太陽を公転していることを知らない国でもあるが、サイエンスへの素朴かつ素直な好奇心が比較的広くあるように思う。フロンティア精神に起因するのか教育なのかアポロ計画以来の宣伝効果なのか。

一方、これを我が国のバラエティ番組が放映することは想定しがたいが、ことはお茶の間の話しばかりではない。太陽のような恒星のぐるりにエネルギーを取り込む装置をめぐらせ、地球のエネルギー源が枯渇しても宇宙ステーションで生きのびるという科学者のデッサンには底知れないスケールとパワーを感じる。その実例が1480光年先にあるのだとする推理力、構想力はなんと雄大なものだろう。

5か国に住んでみて思ったのは、平均的な日本人の科学への知識と敬意は先進国としては低いことだ。科学者は特別に頭脳明晰な人であり、同時にお相撲さんと同じぐらい一井の人とは別種の人だ。ノーベル賞をとると、彼の研究内容ではなくいかに「普通の人」のところもあるかという関心がもたれる。

報道はお茶の間で「へ~」という声が上がる方向に偏向し、科学に関心を向けるのは視聴率を気にしなくてもいいNHKの教育番組ぐらいのものだ。僕はお茶の間の科学への関心と知識レベルは江戸時代と変わらないと思っている。天に唾するが、僕を含めた大学の文系卒業者も似たものだ。地球の公転はクイズ番組と同じノリで、知らないと恥ずかしい国民の常識として知られている。

その土壌で育った科学者が、タバサ・ボヤジアン博士のようになるのだろうか?能力の問題ではない。良い種も土に左右される。KIC 8462852の不可解な現象に「エキサイティング!」と目を輝かせ、一般人か学生と思われる聴衆、公衆に自らのわくわく、どきどきを訴えかける。ペンシルバニア大学で彼女のような先生たちについて勉強しながら、僕は何度「エキサイティングな国だ」とため息をついたことか。

女性科学者と見るや割烹着を着せ、「リケジョの星」に仕立ててお茶の間の「へ~」にしようなどという恥ずかしい国との差は測りがたいものがある。お茶の間は仕方ないだろう。しかし「2位じゃダメなんですか」がお茶の間受け狙いのバラエティー番組作戦だったことがバレた、そんな政党が政権を取るという日本史上最大の悪夢があった。こういう日本人の民度を下げ国力を削ぐ政治家は僕が長年主張してきていることと真逆の人間であって、日本国のために永遠に許し難い。

ライヒのミニマル・ミュージックは「意図的に単調」であって、こういう音楽を発想する、これもまた科学と同様、「デッサンの底知れないスケールとパワー」を体感するのだ。最初はクラシックを聴くモードで入るが、だんだん集中力が弛緩してぼんやりしてくる。これまたどういうわけか僕は眠気を催すのだ。旋律も和音変化もないものだから中性子星のX線パルスみたいなものだ。KIC 8462852の非対称性がないものだから脳が思考停止してしまうのだろう。

眠るというのは、意識が飛んで精神が宇宙に同化している状態のような気がする。人生最後の睡眠が死というものだ。寝ている間、精神はふるさとである宇宙を彷徨っているが、最後の日だけは地球にある元の体に戻ってこない。音楽という精神作用は、深いところで人の生死、睡眠と関わっていると僕は信じている。そういうスピリチュアルな次元において、表面的には正対しているリゲティもライヒも新しい音楽の地平を開いているのである。

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スマホによる人類無能化計画

2016 JUN 6 20:20:49 pm by 東 賢太郎

現代人は暇があればスマホをのぞいている。気になる人のメールやSNSをチェックし、ゲームで遊び、ニュースや地図や天気予報や動画を見るわけだ。実世界よりもスマホをインターフェースとした仮想世界と接している時間が増えている。それが人間の精神になんの変容も起こさないと考える方が難しいだろう。

WWW(World Wide Web)というハイパーテキストシステムは異なるプロトコルのコンピューターをつないだネットワークであるインターネット上で、例えばwikipediaを中心にしたハイパーリンクはこんな樹形図のイメージとなっている。何か単語をwiki検索してこの枝を通じて得たい知識や情報にたどり着くことができるわけだ。

WorldWideWebAroundWikipedia

僕らの脳というものも、ネット社会になる前、いや太古の昔から、中身はおそらくこれと似た視覚化ができるのであり、樹形図の真ん中に単語を置けばそれにかかわる単語がこうやって連なって広がっていくことは容易に想像できる。

「銀座」と真ん中に入力すれば(つまり意識で念じれば)シナプスを電気信号が流れて、あらかじめ頭に入っている「地図情報」のエリアにそれが届き、「道順」という情報が出てくる。7×3+9と入力すれば脳内の「便利ツール」領域に信号が届いて30と答えが返ってくる。

そう考えると「勉強」というのはこの脳内の樹形図を大きく立派にするプロセスのことだということがわかる。ハイパーリンク先の数(枝葉の分岐数)が多く、リンク先の中身が「リッチ」(四則計算だけでなく微積分まで処理可という風に)であるほど「勉強ができる」という結果に物理的かつ不可避的になる、あるいは、なるように試験問題というものは作られている。

リンク先が多ければバラエティ番組の「クイズ王」や「ものしり博士」ぐらいにはなれるかもしれないがノーベル賞は取れないだろう。まして知らない言葉はその場で堂々とスマホ検索して失礼でない時代となると誰もが居酒屋で立派な「ものしり博士」なのだ。もはや情報というのは無償で大量消費されるコモディティであって、知っていると生涯年収が増えるわけでもなければ女の子にモテるわけでもない。

恐ろしいのは、万人が日々同じスマホ情報を眺めて洗脳されていく傾向があることだ。発信する方はアルゴリズムで検索されやすい語彙を選んで投げかけてくる。するとすべての人間の脳の中にはやがて同じような枝葉の樹形図がだんだんとできあがり、エイリアンみたいに育っていって、ついには地球上のすべての脳にそれがそのまま「棲みついて」しまうのでないかということだ。

そういう世の中では、樹形図の真ん中に「参議院選挙」と置いたときに日本人は知らず知らずに同じ候補者の名前に行き着き、その人を無意識に選んでしまうかもしれない。そうなるように毎日毎日、計略的にある情報をネット上で連呼し、たれ流し続けるとそのワードやメッセージが脳に刷り込まれ、人間の意思決定が操作できて商品を大量に売り込んだり国政を簡単に握ったりできてしまう。SFのようだがその現実味がある世の中になっているかもしれない。

これを「アルゴリズム支配」と呼ぶが、当人がそう意識したかどうかはともかく舛添都知事の採った戦略はその一例として秀逸だ。「厳しい第三 者の目」を意図的に連呼し、「厳しい」「第三者」で検索してすらyahoo、googleで彼の名前がトップに出るようになった。これであらかた成功だ。調査結果が「法律違反はない」であるのは法律を読めば自明である。するとあらかじめ刷り込まれたワードが効いて、厳しい第三 者が法律違反はないと判断している、何が悪いか厳しい第三 者の目で反論してみろ、と反問が心理的に返ってくる仕掛けになっている。より立派な樹形図を脳内にもった者はマスコミにも議会にもいないだろうから有効な反論は無理だろう。

さらに人類にとって危機的な事態が進行していると思われるのは、情報蓄積のクラウド化と同時に人工知能という情報プロセッサーが進化していることだ。人はものを覚える必要はなくなるばかりか運転すら車が勝手にやって銀座へ連れて行ってくれる。道順や運転を覚えたりという苦労から解放されたからといって、では人間は楽になって空いた時間と労力を使ってコンピューターにはできない諜報(intelligence)づくりに徹することができるかといえば、たぶんそうではないだろう。

例えばパソコンを使い始めて、便利にはなったが漢字が書けなくなったという声をよくきく。「挨拶」「昵懇」なんて僕もあぶない。じゃあそんな漢字は検索すればいいのだから学校で教えるのはやめよう、そうすればそのセーブした時間と労力で子供は文章力を磨くことができるではないかと主張するのは、日光の山猿より上野動物園の猿の方が餌をとる時間が不要だから賢いのだというぐらいに説得力のないものだ。「記憶する」という作業はあらゆる学習の母であると思う。それなしに思考はできないしintelligenceを持つに至ることもない

学習の母?そうだ。僕は不得手な受験勉強で苦労したご褒美として、数学の問題を解くというのが「ひらめき」でないことを知った。似た問題を解いたことがあるか?ほぼそれだけだ。試験会場で定理の発見みたいなことが受験秀才ごときにできるはずがないではないか。差があるのは樹形図が充分に大きいかどうかだけであり、受験数学というのは実は解法の暗記科目である。一見初めてだがハイパーリンクでほかのサイトに飛ぶと、「なんだあの問題とおんなじだ」、こうやって解ける。この「飛ぶ」が「ひらめき」と感じているうちはだめだ。シナプスが太くなっているとサイトは自然に繋がる。

つまり、あくまで僕がやった数ⅡBまでの話ではあるが、「問題をたくさん解くこと」+「解き方を覚えておくこと」しか上達法はない。数学ですら覚えておく(記憶)というプロセスなしにできるようにはならないのだから、「記憶はせずに検索だけで」という人が空いた時間を利用して文章力を蓄えたり論理的思考力がついたりなんていうことは、どんな努力をしようが起こるはずもない。その方法を発明する時間があるなら「記憶」に努めた方がよっぽど速いし効率も良いのである。

2年前に書いたこのブログ「  情報と諜報の区別を知らない日本人」は筆者の予想よりはるか多くの読者の目にふれたが、ことは日本人だけの問題ではない。諜報を作る回路を脳内に持たない人が増えるという趨勢を教育が止めることは無理と僕は推察しており、これは世界的な現象と考える。なぜならそれは教育内容の問題というよりもスマホというモバイルコンピューター普及の及ぼす生活環境の変質だからで、教える側の教師の脳まで浸食すると思われるからだ。

先日ソウルへ行ったが、隣国はIT文化受容において日本よりも先進国で、欧米IT企業がテストマーケティングする国の一つに入っている(上場が決まったおなじみのLINEのオリジンは韓国だ)。そこで驚いたのは地下鉄の車内広告が悉く消滅していることだ。以前は日本と同じだったのに、網棚の上も中吊り広告も、完全に消えてしまってつるんとしている。理由は簡単で、乗客は車中で皆がスマホばかり見ているから効果がないとして広告主がカネを払わなくなったからだ。

こういう現象が警告しているのは人間のスマホ化」だ。スマホは何も覚えてないし、何も考えない。創造も発明発見もしない。クラウドとのインターフェイスにすぎず、もらった情報を検索して処理するだけだ。その処理速度がスマホよりはるかに遅くて精度もプアだというのがスマホ人間である。情動(emotion)は減ることはない割にintelligenceは減っているから、インプットに対する感情的リアクションの振れ幅が増大する。切れやすかったり意味もなく高揚したり落ち込んだり、テロリストや極右、極左に扇動されるという人が増えるのだ。

僕はテレビはニュースと野球しか見ないが本や他人の書いたものも極めて限定的にしか読まない。 読書は他人の頭で考えてもらうのだから馬鹿になるだけだというショーペンハウエルに賛成だからだ。ただ彼ほど利口でない僕は読書が必要だ。ではどう限定しているかといえば、intelligenceの有無だ。自分の頭で導き出せない知恵を授けてくれるものを懸命に探しだし、真剣に読んでいる。最近はそれができることこそインテリジェンスと確信するに至っている。

 

テレビを消しなさい

 

 

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男の脳と女の脳

2015 DEC 22 0:00:36 am by 東 賢太郎

男という動物には生来に分類癖があるのであって、全部の男にあるとは思わないが、女にはあまり見られないからやっぱり男の属性の一部なのではないかと考えてしまう。何かを集めてしまう癖は、収集家、コレクターなどとお品良く呼ばれることもあるが、要は収集狂、マニア、オタクに他ならない。

収集というのは、実はまず分類がないといけない。トンボの標本を作ろうというのにオニヤンマとギンヤンマのちがいを正確に把握できていないということは、全くあり得ないことなのである。どんなに小さな差異でも見のがさず、それも個体差ではなく最大公約数として種としてちがうのだということでAがBと異なるトンボだと「分類」する。収集とはその結果を、トンボの遺体を箱の中にピンで差して留める行為にすぎない。それが人間であればこのようなことになるわけだ。

ロンドンの自然史博物館(Natural History Museum)は、その収集という行為の国家的集大成である。大英博物館(The British Museum )は他国からの略奪物、戦利品の壮大な展示館だが、ここでも分類という男性的ノウハウが存分に発揮されている。漢方薬は数千年にわたる人体実験に基づいた植物の生理学的効能の分類の集大成である。すべての科学(science)が分類、収集という脳細胞の働きを起因として発展してきたといって恐らく過言ではないだろう。分類は法則や理屈、理論の母である。

だから実験結果をごまかして自分の欲しい結論にジャンプしたり、コピペで論文査定をちょろまかして結果オーライを勝ち取ろうという精神は、「分類」の精神にのっけから根本原理もろとも抵触するのであり、その抵触を厭わず気持ちが悪いとも思わないというシンプルな事実ひとつをもってしても、それが詐欺的な行為か否かを論ずる以前に、サイエンスを語ったり研究したりするには最も不適格な脳細胞の持ち主であることを証明しているという確実無比な結論に至ることになるのである。

去年こういうブログを書いた。

クラシック徒然草-どうして女性のオーディオマニアがいないのか?-

書いたことをさらに進めると、女性には何であれ真の意味における収集狂がいないのではないかと思うようになった。リカちゃん人形を千体も集めて悦に入ってる女の子というのはちょっと不気味だが、いたとしても分類の結果というよりもキレい、カワイイの集大成ではないか。LPレコードやCDを1万枚も集めるのも不気味かもしれないが、僕はその1枚1枚がどう違っているかを明瞭な言語によって説明できるのだ。つまりそれは言語なきところに存立不可能である「分類」という行為から来ているのであって、たくさんあるのを眺めて言葉もなく悦に入る行為とは一線を画している。

mandara京都の東寺に弘法大師がしつらえた立体曼荼羅というのがある。仏像がたくさんあって、その数だけ有難味が増すという単純なものではなく配置が厳密に決まっている(右)。一体一体の役割が分類されている上に、空間配置として認識させる。ただ有難や有難やと拝むだけの脳細胞とは異なるものを空海は持っていた。せっかく嵯峨天皇に取入って気に入られ京都で重職についたのに、真言密教の宇宙の真理を悟り広めるために高野山の山奥に引っ越して引退してしまう。現世欲まるだしの恥ずかしい「コピペで論文査定をちょろまかして結果オーライを勝ち取ろうという精神」とは北極と南極、いや銀河系とアンドロメダ大星雲ほどちがう精神を見るのである。

先日ベトナムはハノイで訪ねたお寺でこういうものを見た。

vietnam

これが立体曼荼羅かどうかは知らないが配置に秩序があるそうだ。空海が行ったとは思わないので分類、空間配置という空海と共通した脳を持つ人による作業の結末なのだろう。この分類、空間配置こそ、大英博物館、自然史博物館を成さしめた脳細胞の働きに他ならない。

これが男性固有の分類脳という公約数の帰結だと書いたらセクハラで訴えられるのだろうか?女性読者には何卒お許しを願いたいが、このことは大作曲家や大数学者や大天文学者や大発明家や大哲学者に女性がいない(有意に少ない)ことと関係があるのかもしれない。精密な分類が得意でないのに数学や物理には強いという状況が想定しにくいことは感覚的にも理解しやすいのではないだろうか。

たとえば作曲というのは、12音音楽のセリー(順列なる数学的秩序が支配)という可能性を切り詰めた特殊な場合でさえも、2番目の音の選択肢は11個、3番目は10個ある。すなわち音の長さを度外視しても{12×11×10×・・・×2×1}個のサンプルを作り得て、その中から{(12×11×10×・・・×2×1)-1}個を捨て去る作業である。この作業は分類以外の何ものでもない。

「美しいメロディをつくる」とは女性的なイメージを伴うし、たしかにそこに繊細な感性は必要ではあるが、それ以前に音を分類して選び取る能力、つまり数学、物理のファンダメンタルでもある能力が必要だ。J.S.バッハの作曲にそれは顕著でありベートーベンやブラームスの主題労作の過程にも現れている。楽譜とはピッチを周波数変換することで数値のみで書くこともできる。絵画や小説とは異なり、理系的な要素を多分に含む。それを書くことも解析して読み取ることも男性の脳が得意とする領域の作業だ。

こうした作業が男の専有物であるかもしれないと考えるのは、能力においてどっちがまさるという次元の話とは全く無縁である。というのは、分類癖がないほうが望ましい作業というのが存在するからである。その最たるものが育児だ。子供は分類してはいけない。何人いても等しく愛情を注ぎ、序列はなく、夜中に泣きわめこうと何しようとそのことで遠ざけられたりはしない。

これを母性本能と呼ぶのは正鵠を得ており、その大家である男はいないか有意に少ないと思われる。本能(instinct)というからには動物にもあるのであり、動物の父親は母子と行動しない場合もあるから父性本能とはきいたことがないし、あったとしても人間特有の社会性から生まれていよう。一般化はしないが僕を含む一部の男は泣き叫ぶ赤子には無力であり、泣く子と地頭には・・・という諺を生む。分類したり理屈をこねたりしない女性の脳だけが子をやさしく包み込み、安心させなだめることができる。

そして我々男どもも、女性から生まれ、泣き叫んでも温かく包み込んでもらったのである。音楽を書くのは男でも、多くの男はそれを女のために書いている。

 

(追記、13 June17)

幼児の脳に、秩序はまだない(おそらく)。男は仕事で飲んだりしてふらふらになって帰宅して、家の中が無秩序でめちゃくちゃになっているのに耐えられない。たとえそれが幼い我が子の脳から出たものであっても。

幼児期に電車のおもちゃを部屋中に広げ、敷居をまたいで線路を台所や隣の部屋まで敷きつめるのが日課であった。お袋は「足の踏み場もないわね」といいつつ一度としてそれを咎めたことはなく、夕餉のころになると、「早く片付けなさい、そろそろ帰ってくるわよ」と親父の逆鱗にふれない目くばせをしていた。

思えばこういうことで、電車を微細に分類しつつもオタクに徹することなく、国境をまたいで世界に飛び出していく脳になった。長じて親父が怒った気持ちもわかるようになったが、守ってくれ、のびのびと好きなことをさせてくれたお袋の母性にかなうものはない。その作品が自分だと強く感じるようになった。

 

(こちらへどうぞ)

「女性はソクラテスより強いかもしれない」という一考察

 

 

 

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はやぶさ2号ミステリー再び

2015 DEC 3 21:21:23 pm by 東 賢太郎

忘れもしない去年のきょう12月3日、僕は屋久島にいました。そして偶然に目撃してしまったのがはやぶさ2号の打ち上げでした。

そうか、きのう2日は千年杉とご対面だった。それにひきかえ今年は余裕のないこと。仕事に追いまくられて頭がふらつくほどです。

でも企業経営者としては有難いことで、今年は事業はつきまくっていて大きく前進しました。屋久島でいろいろ不思議な思いをしたのがこの予兆だったかもしれません。ノイにそっくりな猫が出てきたり、イスラエル人の女性にユダヤの幸運のペンダントをもらったり、鹿児島空港で信じられないほど大きな虹を見たり。そして買ってきた千年杉の衝立は玄関にあって、毎日さわってから出社してます。絶大なご利益です。

はやぶさ2号はこんな写真を送って来たそうです。月と地球です。意外に月が近い。

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地球の画像で右がオーストリア、左の雲の部分がユーラシア大陸だから日本列島は中央やや左上です。2015年11月26日12時46分(日本時間)撮影ですから僕は大手町のみずほ銀行にいましたね、皆さんはどちらですか?

しかし、この宇宙スケールの巨人の眼で見てみると僕らなんて団子に生えたカビの胞子かゴルフボールにくっついたバイ菌みたいなもんです。人間は知性や科学があると思ってるが巨人界では あっそう てなもんかもしれませんね。逆にバイ菌に生まれてきたら、それはそれで意外に人生大変なのかもしれない。

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太陽を1周して戻ってきたはやぶさ2号は今日12月3日、スイングバイのため地球に3100キロまで近づきます。地球と火星の間で太陽を回る小惑星リュウグウに向かう軌道へかじを切るためで、速度も秒速30.3キロが31.9キロにアップするそうです。

 

そして、これがちょうど1年前の出来事です。

「はやぶさ2号」打ち上げを猫と見る

打ち上げが観られたのも、珍しく快晴だったのもラッキーでしたが、もっと気になるのはネコです。あれはいったい何だったんだろう??

 

(こちらからどうぞ)

屋久島探訪記(序)

 
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人生いちばんのひまつぶし(今月のテーマ 夏休み)

2015 JUL 11 2:02:32 am by 東 賢太郎

浪人の最後の夏休みに、とうとう勉強に辟易してしまった。現国、古文、漢文などチンプンカンプンでいくらやっても上達しない。あんなのは作題者の趣味の世界だと気持ちが下に見てしまっていて、そうすると正直なもんでいい点が返ってこない。であれば時間の無駄とばっさり捨てた。

しかし時間はたっぷりありすぎた。人生ひまつぶしとは思わなかったが成績は絶好調なのに来年3月まで入試はない。まだ7月かよ、早よやれよと気持ちは自分のふがいなさに怒っていた。だからひまつぶしといえば立派なひまつぶしであった。そこでアインシュタインの本を読みまくった。

なぜアインシュタインか?世の中で一番難しそうだ、それだけ。彼の数学言語は読めないから一般向けの解説書や科学雑誌にすぎないが。いわゆる「特殊」(光について)のほうは何となくわかった(三平方の定理ぐらいは)が光速度不変の原理はイメージがわかない。いわゆる「一般」(重力法則のほう)はほとんどがよくわからなかった。

中身はともかく彼は現在・過去・未来はないとしていて、たくさん棚があって自分が見ているところが今だと書いてあった気がする。これは相対性理論ではないが、自己流の解釈として考えたのは、「今」しか宇宙にはないということだった。100光年離れた星の今=「私(観測者)の今」であって100年後(光が来たとき)でない。でもその星の「今」を見ることも知ることもできない。

それは、そういうものを「在る」と呼ぶかどうかというだけの問題であって、未来(100年後)にしか見えないものを在る無いといってもわからないのだからどっちでもない。この在るかも無いかもが両立してる状態は「シュレディンガーの猫」(生きてるかも死んでるかも)みたいだと思い至った。

アインシュタインはそれを「神はサイコロを振らない」と批判したがそのボーアの量子力学は、測定されないと電子は存在しないという。そして科学と歴史の審判はアインシュタインの判定負け的な論調だ。なんじゃそりゃ、ということはやっぱり存在論じゃないか、哲学だろそれとちょっとその審判に不満だった。

「在るか無いかわからない状態」が在る、そして宇宙ごとそういう状態で在る。光を当てないと測定できない悲しく無能な人間だからそうなんであって、眼がない下等生物や地底で生きる細菌には宇宙が見えてる?そうなりそうな気がした。どう考えても変だ。

測定とか在ったとか無かったとかは脳が判定することだ。アインシュタインが棚に例えたのは脳ミソの部位のことか?そこに電気信号か何かがおきて、そこに「私」が鎮座して世の中を眺めてる。それが「今」か。昨日の記憶が詰まった部位にいる時は「過去」と呼ぶ。明日のデートはどこでと考える部位にいると「未来」と呼ぶ。

そんな脳の中だけのことだから現在・過去・未来なんてものは外部的に存在しない?同じように在る無いも脳の中の話だから存在しない?

脳の中?我々はシナプスの電気信号で考えたり測定したりてるみたいだから電子が動いてる。ところが測定されないとその大事な電子は存在しない(ホンマかよ、直感的に意味不明)。測定は目ん玉で普通やるから光による。その大事な光は光速で動いていようと速度は一定だ(ホンマかよ、直感的に意味不明)。電子と光、あるのかないのか、我々が測定している宇宙は本物なのか?

ということで、世の中のことがますますわけがわからなくなって、気がついたら夏休みが終わっていた。こんなことをやっていて成績は下がった。

 

 
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ビル・ゲイツの思い出

2015 APR 1 12:12:57 pm by 東 賢太郎

 

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くじら座タウ星という恒星がある。太陽から11.9光年の距離にあり、太陽と似た星である。右の星図の中央下から二番目がそれだ。この恒星にタウ星eという惑星があり、生命の存在する可能性があるとされる。エリダヌス座のイプシロン星という恒星にも同様にその可能性があるとされる。

 

この2つの比較的太陽系に近い星を対象として、1960年に天文学者フランク・ドレイクがアメリカ国立電波天文台の口径26mの電波望遠鏡で始めた地球外知的生命体探査の試みがオズマ計画(Project Ozma)である。これを契機としてSETI(Search for Extra-Terrestrial Intelligence)なる「宇宙人探しプロジェクト」が始まった。電波を受信して発信源を探すだけでなく、アクティブSETIといって地球から電波を発信して未知の生命体との交信を試みることも行われている。

これは政府予算が組まれたが現在は大半を民間の寄付でまかなっていると説明されている。さらに面白いのは、誰でも電波望遠鏡の観測データを自分のPCにダウンロードして分析する無料のプログラムを実行させることでSETI@homeというボランティア・コンピューティングプロジェクトに参加できる試みも行われいることだ。全世界で520万人以上が参加しており、これまでで最大の参加者数の分散コンピューティング・プロジェクトだが、この手法はマイニングといってビット・コインの第三者による保有証明にも応用されておりとても興味深い。

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米国人は地球外知性とのコミュニケーションのために人工言語を作ったり、地球上の自然音、言語、音楽、大統領メッセージを録音した金のレコード(左)をボイジャー探査機に積んだり、2008年2月4日にはNASA50周年記念として北極星へ向けてビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」を発信したりしている。

 

アインシュタインの一般相対性理論を発展させ、ブラックホールの特異点定理を発表した英国の理論物理学者スティーヴン・ウィリアム・ホーキング博士は銀河系に知的文明を持った惑星が200万個は存在するだろうと明言している。1961年にアメリカの天文学者のフランク・ドレイクがドレイクの方程式を示し、地球外文明の数の存在する可能性・確率を具体的に数値で論ずることを可能にし自然科学者らに大きな衝撃を与えた。それを解くと、我々の銀河系に存在する通信可能な地球外文明の数は10個である。

それに対し、wikipediaによると、我が国において独自のSETIのようなプロジェクトはないようで、ちなみに上述のくじら座タウ星を検索してみると、その星が「ミニスカ宇宙海賊」(笹本祐一のライトノベル)、「ズッコケ宇宙大旅行」(那須 正幹の児童文学)に出てくるぐらいのものだということがわかった。JAXA(宇宙航空研究開発機構)が北極星に向けて何か発信するなら坂本九の「上を向いて歩こう」かなと思うが、それは安倍さんついに気がふれたと格好の週刊誌、政局ネタになるだけだろう。

SETIプロジェクトは大方の日本人にとっては絵空事、夢物語、SF小説もどきというイメージではないか。皆さんが「宇宙人はいま~す」と真顔で言ってご覧になれば、99%の人の失笑を買うかこのヒト大丈夫かいなという眼で見られることに気づかれるだろう。それが日本だ。「宇宙人」はやめて「地球外知的生命体」(同じことだが)と言い直すと99%が70%ぐらいには減るだろうが、それは同感してくれたわけではなくもっともらしい言葉に思考停止しただけだ。

 

そう思っていたので、この記事を読んでさすがに欧米人は違うとうならされた。

地球外知的生命体探査計画に専門家らが警鐘 – AFPBB News

そんな馬鹿なことカネがもったいないからやめとけ、なんてみみっちい話ではない。危ないからやめろといっているのである。相手は獰猛なライオンかもしれないぞ、シマウマが自分で居場所を教えて食われたらどうするんだということだ。送っている電波の先に「誰か」がいることが前提になっている。

こういうことがホーキングのような大物理学者を交えて喧々諤々と議論されてしまうというニュースは、これまた宇宙人ネタとおんなじぐらいなんの波風も立てずに日本人の頭を通り過ぎるだろうが、実にショッキングなことだ。僕はそういうコミュニティの人々と日々世間話をしたいし、それが日本にないなら仕方ないからアメリカに移住したほうが老後は楽しいのかなとまじめに考える。

なぜくじら座タウ星が大事かというと、太陽はあと40-50億年で確実に死を迎えるからだ。地球は膨張した太陽に飲みこまれて跡形もなく消える。これは確実に起こる。だから「ノアの方舟」で人類は他の星に移住しなくては死滅するのである。日本人と欧米人の違いは「科学的かどうか」ではなく、そんな先のことは私は知らない関係ないと思うかどうかだろう。サイエンスというよりも宗教観のように思う。

星々の彼方に彼の御方がおられるはずだ

これは新興宗教の祈祷の文句ではない。ベートーベンの第9交響曲の歌詞の一節だ。これをドイツ人は Über Sternen muß er wohnen.  と歌い、日本人は イューベる シュテるネン ムス エる ヴォーネン と歌っている。このmuß(英語のmust)、「はずだ」というのがいい。日本と西洋の精神構造の決定的な違いを見事に教えてくれている一語だ。

50億年後の子孫の存亡をまじめに考え議論できるから、50億年前の太陽系の起源も137億年前の宇宙の創成も真面目に考えられるのだろうし、その逆も真なりだと思う。それは思考の基盤のようなものだ。物をきちんと考えるためには「基盤」がしっかりしてないと難しい。基盤はテニスコートと一緒で、どっちにも傾いていない、真っ平なものが望ましい。そうでなくては自由な発想、自在な着想、自然な論理の展開は妨げられるからだ。

その記事を読んで、ふと、1997年のダボス会議でビル・ゲイツが「21世紀の人間はどこの国に生まれ、どの大学で学んだかではなく、何を学んだかで生涯年収が決まるだろう」と言ったのを思い出した。もちろん、学ぶべきはITだという結論だ。「生きがい」とか「人生」とかアバウトな言葉を使わずにズバリ「生涯年収」というところがいいなと別なところに感心したこともふくめ、彼の淡々とした口調と物静かな物腰と合わせて、強い印象として残っている。

当時僕はそれをマイクロソフト社CEOの我田引水の議論と思って聞いていたように思う。企業経営者はそういうものだと偏見があったからだ。それこそ、僕が本稿で「頭の中のテニスコートが平らでなかった」という表現に置き換えていることだ。しかし、素直に客観的に、ビル・ゲイツがあのときに打ってきたボールをながめると、彼は18年前に今日の社会を正確に予見していたということだったと気づく。

彼の方は平らなテニスコートを頭の中に持っていたのだろう。それを使って彼の立場で見聞きする事物というボールの軌跡をじっと観察し、ああいう発言をした。そういうマインドの人でなければ、つまり単なる金儲けと欲得に目がくらんでいる人だったならば、あれだけの会社は創れていなかっただろう。

おそらく、僕を含めてほとんどのダボス会議参加者はゲイツの真意を見抜けなかったか、見抜いても心から信用はしていなかったように思う。そんな馬鹿なと思われるだろうが、1997年というと携帯電話がまだ珍しく、同じダボス会議の場でインテルの初代CEOアンドリュー・グローブが演壇でそれを取り出してストックホルムの支店長を不意打ちで呼び出して話をして見せ、満場からオーという感嘆の声が上がった時代だ。同年に初めて携帯電話と称したものがNTTから発売されたが、その重量は900gだった。グローブがかけたのも小型の箱のような不細工ででっかい物だった。

未来を予見し、社員にそれを語って納得させるのは経営者の最大の仕事だ。しかし、来年の話をしても鬼が笑うと教育されてしまう日本人は5年以上先の話はまじめに取り合わないし、10年以上になると宇宙人を信じます程度の話にしか聞かない。これは個人にも社会にも大きな損失であるし、政府の大本営発表にだまされやすい国民性をつくる。宇宙人がいるかいないかぐらいはきっと誰もが興味を持てる話だろう。ホーキングの本を読み、それを真に受けるのではなく批判精神を持って自分で考えてみるのはけっこう楽しい。

「宇宙への秘密の鍵」(ルーシー&スティーヴン・ホーキング)が小学生向けで誰でもわかる。

(こちらへどうぞ)

クラシック徒然草-ダボス会議とメニューイン-

天文学は清涼剤

ハワイ島 標高4200mの天文台にて

 

 

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脳は寝ない

2015 FEB 26 0:00:14 am by 東 賢太郎

NY在住のメンバー是枝理絵さんが来日されていてお会いしました。NYでお元気にご活躍のこと、とてもうれしく思いました。久しぶりにいろんなお話ができて楽しかったです。そこでたまたま受験勉強の話が出ました。

僕はそのころ毎日数学の問題をひとつ解いて寝るのが習慣でした。それも難問集や通信添削の手ごわいやつで、自分に課した制限時間は1時間。たいていは解けずに時間切れで寝ることになります。

ここまではいい。ここからが信じてもらえませんでした。

朝起きて、もう一度考えると、それがすっと解けることがあるんです。えーっ、うそでしょ?いえ、本当なんですよ。ただし、「解けていた」わけではなく、もう一回考えると、解けるんです。それも何回もあります。

それ以来僕は「脳は寝ない」と信じることになります。寝ているというのは意識の部分がオフになって飛んでるだけで、回路は作動しているんだと固く信じてます。いまでも、ビジネスのアイデアは目覚めてから30分以内に考えるようにしてます。そこが勝負タイムです。

5W1Hといいますが、僕は1Wだけの子でした。Why です。それ以外興味なし。その答えが見つからないと寝られない。だから星のことを考えていつも睡眠不足になってました。その癖があったので、寝る前1問は「寝られないかも」という恐怖がはじめはあって、1時間で解かなくちゃという絶好の訓練になったわけです。

ところが、時間切れで寝ても頭が勝手に考えてくれて、結局は解けて同じトレーニング効果がある、こりゃ楽でいいやということに気がついてしまった。寝ながら脳の筋トレです。そこから安心してよく眠れるようになってしまいましたが。

むかし睡眠学習というのが確かありました。寝ている間にテープで流して単語や年号などを記憶する。しかし「記憶」については僕は懐疑的で効果があるのは「回路」を使う作業です。だから英単語を覚えたりではなく、リスニングに耳を慣らして意味を理解するほうには使えるかもしれません。お試しになる価値はあるように思います。眠れないなら寝る前1時間きくというのはどうでしょう。

たとえば、これも昔、下宿でカセットをループで流しっぱなしで寝てしまって、そうしたら何回も無意識にきいた知らなかった交響曲をすぐ覚えたというのもあります。音楽も時間と共に進むので個々の音の記憶でなく回路なんだろうと思います。覚えたい難しい曲を1時間聞いてから寝る。いいと思いますよ。

最近は「寝る前ブログ書き」になっていて、これもなんかしらの解けない問題を残して寝ることになってます。ずっと日記を書いてきたので、それがブログになっただけですが。これがまた、その日に考えたり発見したことを文章にするので頭が整理できます。そこで睡眠となると回路の中でそれが朝には消化吸収されている感じです。

僕は見聞きしたこととか、今日はどうしたとかの事実を書くことはあまりないのは、そういうことにすると毎日書くほどのコンテンツはないからです。だから、考えたこと、つまり「回路」の言っていることをそのまま書き写しています。回路は毎日間断なくしゃべるので、毎日苦もなくブログが書けます。これは長年の習慣からそうなったと思います。

60歳になりましたが、ひょっとして脳はまだまだ進化するかもと思ってます。これは誰でもありえること。そう考えた方が夢があって楽しくありませんか?ただし、好きなことは早く覚えられるように脳は勝手にプライオリティーをつけますから、「脳は眠らない」とか「死ぬまで進化する」とか、本気で信じないと効果は薄いでしょう。信じる者は救われる、そういうことだと思っています。

 

(こちらへどうぞ)

記憶法と性格の関係

脳は疲れない

 

朝きこえてる音楽の謎

 

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僕のSTAP論文事件ブログについて

2014 DEC 21 15:15:59 pm by 東 賢太郎

僕のブログは開始2年3か月たった今現在のべ25万人ほどお読みいただき、ざっくり7割ぐらいが音楽記事の訪問者という感じである。正直のところ、自分がプロの部分よりアマの部分のほうが関心を持たれているのは、どうしても居心地が悪い。ブログ題材は死んでも残る自分の鏡と思っている。正確に写したい。歪んでいるかもしれない専門外の鏡によってではなく。

証券業務経験者のアングルからSTAP論文問題について3月に書いたらそのブログを2万8千人ぐらいが読んで下さった。僕は最大の証券会社でエクイティ業務に従事しファイナンス業務で役員という地位も報酬も得ていた者だ。だから世間的な定義上はプロということになるだろう。その眼で見てあのファイナンスはおかしいので書いた、だからたくさん読まれた。これは自分の鏡として納得がいく。

しかしあの記事は引用はされたが反論も反証もない。それは仕方ない。あの本文部分に反論するのは普通の証券会社員でも無理だ。マスコミも含めて部外者には本質的なところはピンとこないと思う。その特定の業務経験のある限られた人しか通じないニオイであって、プロなら反論より同感でしょという逆にあまりにあたりまえのことだ。

ところが引用といっても、法的、実務的な理解が浅いか根本的にカン違いの脈絡でがほとんどである。僕はSMCで身分も経歴も開示しているが、僕が誰かも正確にわかっていないような人が同じくわかっていない人向けに引用したってネットトレーダーのポジショントーク並みの軽さだ。

一部良心的と思われる方からもっと易しく書いてくれというコメントや質問をいただいたが、易しく書いてもさらにカン違いの引用が増えるだけで何か生産的なことが期待できると思わないという結論に経験的に至った。僕は大衆週刊誌の記者ではないからたくさん読んでもらう意味はない。あれを読んでわかってほしいのは、読んですぐにピンと来て責任ある行動をすべき立場にある人達だけである。

そもそも小保方さんが美人だとか詐欺師だとかいう類の下世話なことに僕は何の興味もない。科学者の良心、子供の教育、そして法の正義、そのいずれもに日本国民として深い衝撃を覚えたから書いただけだ。行為を注視、検証すべきなのであって、行為者が誰かはいささかも問題ではないし、問題にすべきでもない。小保方さんの人格攻撃などもってのほかである。

隣りの国のナッツリターン事件を冷静に見ていると法治国家の法の正義という大きな問題があぶりだされてくる。正義が国や部族によって変わるのは認めても、財閥わがまま姫への国民感情が法律論に及ぶなら法治国家という建前はぎりぎり帳尻を合わせたとしても、国際社会での理解という法律ではない国家の品格のような判断基準では陰ひなたで裁かれてしまうだろう。

STAP論文捏造事件、これは日本の頭脳クラスの自殺者まで出した事件(case)であり科学者の手をもはや離れている。「(科学なのだから)部外者には本質的なところはピンとこないと思う」というフェーズにはもうないし、あってはならない。

理研の幹部は国民に対して真摯に責任を持って事実を調査、報告すればいいのであって、下村文科大臣のいう次のステップに進める能力は彼らには誰も期待していないし彼らの責任領域でもない。税金で運営される機関なのだから、世界の常識として、次の国会で国民の前で議論されるべきである。

ブログに書いた通り、検証実験の不成功は初めから事件の本質にとって何の関係もない。小保方さんもそれで悩む必要はぜんぜんないということだ。

 

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「はやぶさ2号」打ち上げを猫と見る

2014 DEC 8 17:17:23 pm by 東 賢太郎

12月3日、平内海中温泉をあがって車で観測に絶好の場所と教えてもらった安房の高台にかけつけました。地元の方が2-30人ぐらい集まってきます。すいませんとそこの道路沿いに並ぶお家の庭に入れてもらってブルーの海を一望すると、なるほど種子島は目と鼻の先です。

おばあちゃんがあたりを仕切っていて「どうぞどうぞ、こっちのが良く見えます」と案内してくれました。

「どっから来ました?」「東京です」「ロケットはウチらなんどもこっから見てますよ。でも今日は雲もなくって、こんなの滅多ありゃしません。」

そこの地主はおばあちゃんではなく、若いご主人がいました。鹿児島出身で移住されたそうです。

「打ち上げ、13時22分だからあと5分ぐらいですね」

ご主人と話していると、むこうから猫がとことこやってきて石塀の上に寝そべりました。その顔を見て唖然です。

「ノイ、なんでお前ここにいるの?」

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ノイはウチの猫です。これです。

 

 

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目の前の猫はこれです。

 

 

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これがノイ。

 

 

 

 

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これが目の前の猫。

 

 

 

参りました。他猫の空似とは。それにしてもどうしてこんな絶妙のタイミングで出てくるんだろう?なにか判じ物を見せられている気分です。

「気をつけて下さい、ひっかきますよ」「いや平気です」

抱き上げるとノイそのものです。

「ひょっとして今年の4月生まれじゃないですか」「はい」

いや、あいつ、ロケット見に現れましたね。

はやぶさ2号の打ち上げはスペクタクルでしたが、僕はそれをノイ似の猫と一緒に眺めたのです。まずこれが打ち上げ直後です。真ん中のとんがった杉の直線上に噴煙が上がってます。

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少し上昇したところです。

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さらに上昇。ここからが速かった。

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こうなってあっという間に消え去りました。

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轟音はもの凄いのが2分後にきました。風圧を体ごと受け止めた感じです。帰還予定はたしか6年後でしたっけ、もう他人ごとには思えません。無事を祈っております。

以上、30分ぐらいのあっという間の出来事でしたがキツネにつままれた気分。あれはネコじゃなかったのかな?

 

「もののけ姫」を予習する

 

どうして猫が好きなの?

 

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クラシック徒然草-僕がクラシックが好きなわけ-

2014 NOV 2 16:16:27 pm by 東 賢太郎

 

私は物理学者になっていなかったら、音楽家になっていたことでしょう。私はよく音楽のように物事を考え、音楽のように白昼夢を見、音楽用語で人生を理解します。私は人生のほとんどの喜びを音楽から得ています。

アルベルト・アインシュタイン

 

先日の皆既月食の時、アマチュア天文好きはほとんどが「観測派」なので友達がおらず子供のころ寂しい思いをしたことを思い出しました。

僕は恒星にしか興味がありません。日食や月食はかくれんぼみたいなもので物理現象でないし、何がおきるか完全にわかっているのだからただのショーです。皆既日食の時はカラスが何をするかの方が気になっていましたし、どうしても赤色超巨星の変光や130億光年先の未知の星雲での出来事のデータの方が気になります。

こういう趣味は幼児のころからはっきりしていて、僕は2歳から無類の電車好きでしたが車輪と線路以外は一切興味がありませんでした。非常に変な子だったと思われます。もしも鉄道会社に入るなら社長でも運転手でもなく線路の補修工をやりたい。今でも彼らを見るとうらやましい気持ちがわきおこります。

恒星の物理現象の何が楽しいの?と聞かれても猫好きとおんなじで、好きだという事実が先に厳存するのであって考えても意味のないことです。実際にそれを見た者はないわけですから頭の中だけの世界ですがそれでもそこに浮かぶイメージは時としてどんな名画より美しいと思います。

音楽も同じことです。どうしてクラシックが好きかというのは、どうして恒星がどうして線路が好きかということと同質です。なぜこの曲はこんなにいいんだろう?これを解明することとシリウスの伴星の質量への関心とは同じであり、シリウスを夜空に見上げるのはその曲を聴くことと同じことです。

音楽は人為的な物理現象です。それを耳にして頭の中に何が浮かぼうと、快感、感情、風景、ポエム・・・なんであろうと勝手です。ただその段階ではもうそれは音ではなく、脳内の現象になっています。それを心象と呼べば、それは聴く人の脳の数だけあります。ある曲を聴いて万人が同じ心象を抱くとは限らないのです。

ラヴェルのボレロを聴くと僕は極めてメカニックなゼンマイ仕掛けの時計を思い浮かべます。ところがさる女性の方があれはセクシーよねとおっしゃって頭が凍りつきました。セクシー? 同じものを見聞きしてかように天と地の差が出る、これは音楽が多面体であって、見事にカットされたダイヤモンドのように見る角度でいろんな魅力があるということなのです。

10年ぐらい前に僕はボレロをシンセでMIDI録音しました。なんとなく時計のゼンマイをばらばらに分解してみたくなったのです。すると、そこには和声や対位法の秘技はちっともなくて、ひたすら単調な2つの旋律とリズムの繰り返し、それに楽器法の多様なスパイスがふりかかっていくだけという造りなことが現実として見えてきました。

つまり、部品にバラしてみるとどのひとつも珍しくもなく、楽器の面白い組合せの効果だってシンセで忠実に再現できてしまう。まるで精巧なプラモデルみたい。作りかけで内部が中空の戦艦大和を上から下から眺めてぞくぞくする、ああいう感じを味わいながら全曲を完成してみて、ああやっぱりこれはゼンマイ時計だったんだよかったと得心したのです。

ちなみにご存知の方も多いでしょう、ロンドンにドーヴァー・ソウル(シタビラメ)で有名なWheelersというレストランがあります。素材は同じヒラメのムニエルですがソースの違いでたしか10何種類ものメニューがあり、どれもうまい(お薦めです)。ボレロはあの舌平目を片っ端から10種類食べるのとおんなじだったんだということです。1種類のソースで10枚はとてもとても。ボレロはピアノリダクションしてもちっとも面白くない曲です。

しかし、そういうことをぶっ飛ばしてセクシーだとかいう人が現れる。「おおジュリエット!そなたの瞳は・・・・」みたいな宝塚風世界が見えてきて、そういうのは僕とは縁遠い世界なもんでもうアウトです。こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない。ここで、日食や月食が好きな子と遊べなくて寂しい思いをした子供時代に戻るのです。

たしかにラヴェルはゼンマイ時計を造ったのですが、もし彼がセクシーという評価を知ったらひょっとして喜んだんじゃないか、それこそ彼の思うつぼだったかもしれない。伝記を読んでいてそう思ったのも事実です。素晴らしい時計ですね、そんな評価は欲しくなかったかもしれない。そう感じてなにかまた寂しい気持ちになったりします。こういう人間は孤独なのです。

そこで後日、ブラームスの4番の交響曲の第1楽章、これも僕にとってはバラバラに分解したくなる対象なのですが、それをMIDI録音してみました。するとこっちはソースではなく食材そのものに多種多様なアミノ酸、タンパク質が含まれたものであることがわかってきました。彼の3度、6度音程がそれの重要要素で、12音の全部を基音とする長短調主和音が含有されていることも。

でもそれはらっきょうをむいたようなもので、何も出てこない。どうして僕が惹きつけられるのか、その効果をもたらす核心、根源は悔しいことに分解した部品は教えてくれないのです。原子論が脳を解明できないのはこういうものでしょうか。音楽としては全然似てませんが、結局これもボレロのセクシーと同様によくわかりませんでした。

そういう、いわば「形而上の何ものか」を名曲といわれるものは含んでいるようです。すると僕はそれを形而下におろして分解したくなる。いろんな人の演奏をいわば「聴感実験」としてきいてみたくなる。そうやってその曲を覚えこんでしまう。その積み重ねで僕は50年もクラシックにのめりこんできたようなのです。分解癖がうずかない曲はぜんぜん関心がない、どうもそういう事のようです。

ブログで譜面をお示ししたくなる部分、そここそ分解したい箇所であって、それこそが僕のブログの主題だからそうしないといけません。今はそういうものの合成効果を僕は好きで、それが感動をくれていると考えています。それは自分だけの心象かもしれないので普遍性があるかどうかは知りません。たぶんないでしょう。日食・月食派の方にはどうでもいいことでしょうが、物理現象派の方にはわかっていただける 一縷の望みをかけております。

僕はリストやマーラーやヴェルディやほとんどのショパンに興味がないことを明かしているので、いくらボロカスに書いても無視してください。所詮好き好きです。なぜといって分解したいところがないのです、一ヵ所も。だから楽譜を見たいとも思わない。おおジュリエット!も僕の音楽観にはいっさい出てきません。

音楽の教科書に載っていた曲はみな名曲だ、聴いてわかなければいけない、わからければあなたがおかしいのだなんていう呪縛はクソくらえなのです。僕は中学まで音楽の成績2の劣等生ですが、ピアノが弾けて笛がうまくて5だった人たちが今の僕よりストラヴィンスキーの音楽について理解していることはたぶんないでしょう。そういうことは育ちや教育や技術ではなく、すぐれて遺伝子のなせるわざと思います。

レコードの批評はくだらないので読みません。つまらない曲の演奏などどうあろうとつまらないわけで、そんな曲を批評できるほど真面目に聴いていること自体趣味が悪い。そういう人のおすすめに従ってみたいとは思わないです。良い曲はプロがちゃんと演奏すればよほどひどい解釈でないかぎり良いはずです。だからCD屋へ行って棚に並んでいる有名演奏家のものを買っておけば間違いはありません。

その曲の本質をより突いた演奏というのはたしかにあります。それは語られるべきですが、それもこれも、曲が良いという大前提があってこそです。必要なことは「良い曲」を探して、それを良く知ることなのです。そしてそれぞれの人によって持つ心象が違うのですから何が良い曲かもかわってきます。他人の評価やおすすめはそれはそれとして、とにかく自分の耳で聴いてみること。それしかございません。

僕はいい曲かどうかを分解したいかどうかで選んでおり、ある人はおおジュリエット!で選んでいる。どっちでもよい。そういう事だということを知ったうえで自分の「良い曲」のレパートリーを増やしていくこと、それを探し求めることこそクラシック音楽の森に足をふみ入れることです。その道を歩いてさえいれば、どんなにレパートリーがまだ少なくとも、「自分の趣味はクラシック音楽です」と堂々と語ることができる、僕はそう思います。

 

クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-

クラシック徒然草-ラヴェルと雪女 (ボレロ)-

 

 

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