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カテゴリー: ______フランス音楽

ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

2015 NOV 13 1:01:21 am by 東 賢太郎

日本人は古来より月を見ています。暦は月齢だったしお月見をしたし。不思議なのは、江戸時代にいたるまで日本人は月を「何」だと思っていたかです。

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かぐや姫は月に帰るから作者は人が住める空の彼方の遠い場所という感覚はあったかもしれませんが、一般には月は毎日登ってくるもの、美しいもの、愛でるもの、詩的なもの(ポエム)として信仰や物語の対象ではあっても「物体」であると見たり考えたりした人はいなかったと思われます。

 

 

 

早くから月を物体と見た西洋とは受容のしかたが根本的に違います。

美しいもの⇒ポエム、という日本的な思考法(ステレオタイプな還元法)が西洋人に全くないわけではありませんが、彼らが五感で感知したものを認識し受容するプロセスというのは、

月はものである⇒もの⇒即物的な物体

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という回路がまずあって、地球と同じ球体と見立てて距離、大きさ、質量、軌道を計算し、なぜ落下してこないのかという謎を解きます。見かけの美醜はその回路とは別な経路で処理されて、ポエムになる場合もあるというものでしょう。僕が長年西洋に住み、西洋人とつきあったり著作物を読んだりして得た印象はそういうものです。

 

このことは音楽においても同様です。特にクラシック音楽を演奏、鑑賞する際に。それを僕はショパン演奏にいつも感じるのです。日本人ピアニストはショパン⇒ポエム、という回路で処理してないかという非常に深層心理的で根源的な問題です。

「雨だれ」「革命」「子犬」「別れ」「木枯らし」など、別に日本人が考えたわけではないがショパンがつけたわけでもない標題。月を見て「うさぎ」が頭に浮かんでくる思考回路にこうした標題が乗りやすいのは自明と思います。あの速いワルツを子犬を思い浮かべて弾くピアニストはいないでしょうが、潜在的に日本人の思考回路に潜む受容のくせというのは見えない所で演奏の骨格を決めてくるのではと僕は思っています。

あれは月を見て物体だとまず感じる西洋人が作った音楽なのです。ショパンに限らず作曲家がまず聴くのはピアノの即物的な音であって、それが物体としての月にあたります。それが聴き手にどう聞こえるか、美しいポエムとして受容されるかどうかということは彼にもはどうにもならない事後的、副次的なことで、まず物体として絶対の完成度があるかどうかこそ彼の関心事のはずです。

250px-Nagoyasyuちょっとややこしいですが、こういうのをsubstance(あるがままの物の実体、本質)と contingency(そこからの偶発的な派生事象)の関係と表現します。例えばニワトリは日本では「コケコッコー」と鳴きますが、アメリカでは「クック ア ドゥール ドゥ」、ドイツでは「キッキレキ」、フランスでは「コックェリコ」、インドでは「クックーローロー」です。近隣でも中国は「コーコーケー」など、韓国は「コッキョ クウクウ コーコ」だそうです。同じニワトリの声(substance)をきいてるのにcontingencyはこんなに違ってくるのです。

ショパンというニワトリがいざ鳴くぞという時にそれがコックェリコかキッキレキかは彼にとってはあずかり知らぬことで、ニワトリは*+@#%~~~としか鳴かないのです。

かように、21世紀の人がポエムを見出してくれたというのはショパンにとってはまったくの偶発事象でした。同時代人のシューマンが当時のドイツ人特有のロマン的、文学的コンテクストで自分を評価しているのを知って(それは非常に高評価でショパンにとって好意的なものであったにもかかわらず)、ショパンはそれを笑止であると唾棄していることからもそれが理解できます。彼に確固として「在った」のは、彼が鍵盤から選び取った音の組み合わせが即物的に彼を満足させたこと、それだけです。

僕がショパンを作曲家としては一目置くにしても演奏を聴くのが好きでない最大の理由は、contingencyを追っかけて(それしか見えてなくて、それがsubstanceだと思いこんでいて)、substanceが何だかわけのわからない演奏が横行しているからです。日本人のショパンの特徴はその一言に尽きます。

これをお聴き下さい。ダリウス・ミヨーの「男とその欲望」(L’homme et son désir, Op.48 )という作品で、知名度は大変に低いのですが大傑作であり僕は高く評価しているものです。ショパン⇒ポエムの方々はこの意味深なタイトルの音楽が何であり何を描こうとしているのか?と悩むことでしょう。 僕は初めてこれを聴いて音に衝撃を受けてしまい、題名など吹っ飛んでしまいました。

全ての演奏家の方に問いたいのですが、これがなぜ男とその欲望なのか?どうしてそれがこういう音になっているのか?一種の踏み絵のようなものかもしれません。

ストラヴィンスキーの「結婚」を想起させますが複調、ポリフォニーの重視など語法はまったく別物です。ミヨーはブラジル滞在経験があってそこでの印象を綴ったものとされますが、これが単なる風景画や絵日記でないことは明らかです。彼が綴ったものは即物的な音であり、トレードマークの複調の文法であり、断じてポエムではありません。音、語法が紡ぎ出すダイレクトな心象こそがこの曲のsubstanceであります。

そしてここからは僕の個人的領域に入ります。自分自身がリオデジャネイロで感じた心象風景にそのsubstanceが作用してある化学反応を起こし、僕だけの感興を生み出します。これがcontingencyです。いうまでもなくなんら普遍性のないプライベートなものであります。僕が演奏家としてそれを音にしたとしても、それはあまり人の心を打つものにはならないでしょう。赤の他人の記念写真やセックスを見たってそんなに面白いものでもないのです。

つまり、contingencyとは聴衆の占有物であって演奏家が依拠すべきよすがではありません。僕がショパンのバラードやマズルカを聴くのは、弾き手のパリやワルシャワで得た経験や知見や記念写真に関心を抱いたり真のショパン解釈をきかせてほしいからではありません。ショパンが書こうとピアノに向ったsubstanceを知りたいからです。そこに僕を感動させる根源があるのであり、それこそが普遍性、説得力のあるバラード、マズルカであることを、体験から知っているからです。そういう聴き手はそういう演奏を探しだし、吟味し、支持するのです。

演奏家がショパンにポエムを感じて何ら批判されるゆえんはないのですが、そのポエムがたまたまショパンも感じたものであって、したがって普遍性のある説得力を持つのだという蓋然性は、残念ながら甚だ低いものだろうというのが僕の持論です。外国人がどんなに感動と心を込めて弾いてみても、それはコケコッコーかもしれずクックリク~と聞こえているらしいポーランドの聴衆の心に響くかどうかは別な話なのです。韓国人、中国人がどうこの問題をクリアしてショパン・コンクールを制覇したのか、なぜ日本人にはできないのかはとても興味深いテーマであります。

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最後に余談ですが、この「男とその欲望」を書いたフランスの作曲家ダリウス・ミヨー(1892-1974)がバート・バカラックの先生なのです。非常に多様な様式を試みた多作家ですが、彼の和声感覚は独特で、複数の調性を並行させる複調による語法に真骨頂を見ます。交響曲第2番などこれに並ぶ傑作で彼の和声がオンリーワンである証明となっていますが、これも有名ではないのが不思議であります。

 

 

「雨にぬれても」のころ、まだ生きていたミヨーはそれを聴いてどう言ったんだろう?

「口笛で吹けるメロディを書いたからと言って、恥じる必要はまったくない」

「記憶に残るメロディをつくれる人間はめったにいない。そしてそれは本質的な才能なのだ」

若き生徒だったバカラックの演奏を聴いてそう言ったミヨーはその思いを新たにしたのではないでしょうか?

 

(こちらへどうぞ)

クラシック徒然草-ハヤシライス現象の日本-

ストラヴィンスキー バレエ・カンタータ 「結婚」

バート・バカラック「雨にぬれても」の魔力 

 

 

 

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イベール 交響組曲「寄港地」

2015 JUL 12 23:23:37 pm by 東 賢太郎

前回は地中海クルーズについて書きましたが、そうなるとどうしてもこの名曲にふれることになります。その名のとおり、「地中海めぐり編」に含めましょう。

______地中海めぐり編 (14)

220px-Jacques_Ibertフランスの作曲家ジャック・イベール(1890-1962)は生粋のパリジャンです。彼のお母さんはピアノをアントワーヌ・フランソワ・ マルモンテルという先生に習ったピアニストでした。マルモンテルの弟子にはビゼー、ドビッシー、マルグリット・ロンなどがいます。エマニュエル・デ・ファリャは彼女のいとことききましたが確認はできませんでした。

ローマ賞を受賞した折に「寄港地」を第1次大戦での海軍士官としての航海経験をもとにローマで書きました。1922年、32才の初期作品です。これがイベールの最高傑作とは思いませんが最高に著名な作であることは間違いないでしょう。フランス人が描いたイタリア、地中海、アフリカで、洗練された和声とオーケストレーションが光りますが、音画という性格はグローフェの「グランドキャニオン組曲」を連想しないでもありません。

  グローフェ グランド・キャニオン組曲

 

20世紀初頭のヨーロッパ人が渡ったシシリー島、アフリカ大陸(チュニジア)というアラブ、イスラム圏の空気と情景をドビッシーの和声と印象派の管弦楽法で描いたのがこの「寄港地」だといっていいと思います。ご当地のイタリア人がこういう曲を書かないのが不思議ですがイタリアは歌ですからね、和声で絵をかくという発想は希薄です。それができた人はレスピーギですが彼は古代ローマ賛美のほうにいってしまった。一方この曲のカバー地域はローマを出港すると寄港地は全部が旧敵のカルタゴです。交響組曲「カルタゴ」にしてぴったりなぐらいです。

イベールがそれを描くのに使った旋法はアルメニア人のハチャトリアンが使ったアラブ、イスラム風旋法に似てイラク、シリアあたり(メソポタミア)の黒っぽい雰囲気をもっており、和声はというと洗練の極致のドビッシー風です。このミスマッチが個性になるというのがインヴェンションであるという例は、ストラヴィンスキーが土俗的なロシア民話の世界にやはりドビッシーをもちこんだ「火の鳥」という前例があります。ただどちらも本家の模糊とした使い方ではなく色彩は明確ですが。

例えば第1曲「ローマ-パレルモ」でヴァイオリンが上昇音型で入ってくるところ(11小節目)は火の鳥の「子守唄」の弦の上昇音型の入りそっくりです。これはどちらも2度出てきますが、寄港地の2度目の和声変化はB♭6(b♭,d,f,g)⇒ B6/c#(g#c#d#f#b/c#)でありとてもドビッシー的といいますか、ドビッシーを消化吸収したストラヴィンスキー的であります。

難しく考える音楽ではなく、ひたすら音の絵葉書としてお聴きになればいい。僕はこれを大学時代にシャルル・ミュンシュのレコードで知って、エキゾティックな響きで描かれているパレルモやチュニスに行ってみたいと強く思うようになりました。あのクルーズに魅かれたのもそのせいです。パレルモ⇒チュニス⇒バルセロナと、以下のようなこの曲の航海行程と同じルートだったから一発で決定でした。

第1曲 「ローマ - パレルモ」

第2曲 「チュニス - ネフタ」

第3曲 「バレンシア」

そして実際にその地に立ってみて、この曲は良く書けてるなあと改めて惚れなおしたのです。第1曲、冒頭のフルートがひそやかに夏の夜のなま暖かさを暗示します。これはまぎれもなく夜ですね。オーボエがが入ってきてからむとアラブの妖しさを秘めた空気の香りまで漂ってきます。

第2曲のオーボエの歌はもう典型的なアラブ風イスラム風音階でコブラ使いの笛を思わせます。バックのリズムがなんとも妖しくいかがわしい。ネフタはチュニジア南方のイスラムの聖地でサハラ砂漠に近く、音楽はそのむんむんした空気をたたえています。こういう題材が銭湯のペンキ絵にならないのがフランス風の洗練されたやや辛口で甘くならない和声と精妙な管弦楽法によるものでしょう。第3曲はスペイン風のリズムがはじけ、シャブリエの狂詩曲「スペイン」、ファリャの「三角帽子」のような感じになり幕を閉じます。

おすすめの録音は3つあります。

 

ポール・パレー/ デトロイト交響楽団

zaP2_A4010622Wパレーはこの曲の初演者です。曲想のつかみかた、変幻自在の和声の感じかた、楽器の音色の活かしかた、木管の妖しいニュアンス、リズムの活気、合奏の見事さとからっとした地中海そのものの見通しの良さ等々、自身作曲家でもあるパレーがイベールの意図を感じ切って見事なオーケストラ・コントロールで聴かせてくれます。一家に一枚ものの決定盤といってさしつかえないでしょう。録音も一世を風靡したマーキュリーのリビング・プレゼンス(35mmマグネティックテープによる)による高解像度と生々しさを誇り、年代を感じさせません。

 

 レオポルド・ストコフスキー / フランス国立放送管弦楽団

MI0002865985パレー盤にせまる魅力があるのがこれです。上品で品格を失わないパレーに対して原色的なお楽しみムードに満ち満ちていることではこっちが上でしょう。パレルモのむんむんした夜の大気のにおいは温度まで感じます。チュニスの伴奏の妖しくてあぶない感じ!これで僕は太鼓を買いたくなってしまったのです。舞っている中東風の容貌の女たちが見えてきます。イベールは管楽器を好み、その扱いに非常なセンスを見せた作曲家ですが、ストコフスキーも管の色彩を見事に出せる名指揮者でした。彼のこういう曲はどうしてもイロモノというイメージがあり第1曲の弦のポルタメントもそうかと思っていましたが、イベールの自演盤もそうしており直伝のようです。

 

ジャン・マルティノン / フランス国立放送管弦楽団

TOCE-16232上記と同じオケですが録音が新しく、徹底してフランス音楽流儀でやったものとして名演です。乾いた空気を感じる見通しの良いアンサンブル、立体感のある音場は彼のドビッシー、ラヴェルの演奏そのままの雰囲気です。ストコフスキーのようなロマンや物語性はありませんが非常にクールでプロフェッショナルな読みであり、寄港地にはこういう側面の魅力があることを教えてくれます。マルティノンもパレーと同様に自身が作曲家であり、交響曲等を残しています。

(こちらもどうぞ)

 最高の夏だった地中海クルーズ(今月のテーマ 夏休み)

 

 

 

 

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クラシック徒然草-秋に聴きたいクラシック-

2014 OCT 5 12:12:43 pm by 東 賢太郎

以前、春はラヴェル、秋にはブラームスと書きました。音楽のイメージというのは人により様々ですから一概には言えませんが、清少納言の「春はあけぼの」流独断で行くなら僕の場合やっぱり 「秋はブラームス」 となるのです。

ブラームスが本格的に好きになったのは6年住んだロンドン時代です。留学以前、日本にいた頃、本当にわかっていたのは交響曲の1番とピアノ協奏曲の2番ぐらいで、あとはそこまでつかめていませんでした。ところが英国に行って、一日一日どんどん暗くなってくるあの秋を知ると、とにかくぴたっと合うんですね、ブラームスが・・・。それからもう一気でした。

いちばん聴いていたのが交響曲の4番で毎日のようにかけており、2歳の長女が覚えてしまって第1楽章をピアノで弾くときゃっきゃいって喜んでくれました。当時は休日の午後は「4番+ボルドーの赤+ブルースティルトン」というのが定番でありました。加えてパイプ、葉巻もありました。男の至福の時が約束されます、この組み合わせ。今はちなみに新潟県立大学の青木先生に送っていただいた「呼友」大吟醸になっていますが、これも合いますね、最高です。ブラームスは室内楽が名曲ぞろいで、どれも秋の夜長にぴったりです。これからぼちぼちご紹介して参ります。

クラシック徒然草-ブラームスを聴こう-

英国の大作曲家エドワード・エルガーを忘れるわけにはいきません。「威風堂々」や「愛の挨拶」しかご存じない方はチェロ協奏曲ホ短調作品85をぜひ聴いてみて下さい。ブラームスが書いてくれなかった溜飲を下げる名曲中の名曲です。エニグマ変奏曲、2曲の交響曲、ヴァイオリン協奏曲、ちょっと渋いですがこれも大人の男の音楽ですね。秋の昼下がり、こっちはハイランドのスコッチが合うんです。英国音楽はマイナーですが、それはそれで実に奥の深い広がりがあります。気候の近い北欧、それもシベリウスの世界に接近した辛口のものもあり、スコッチならブローラを思わせます。ブラームスに近いエルガーが最も渋くない方です。

シューマンにもチェロ協奏曲イ短調作品129があります。最晩年で精神を病んだ1850年の作曲であり生前に演奏されなかったと思われるため不完全な作品の印象を持たれますが、第3番のライン交響曲だって同じ50年の作なのです。僕はこれが大好きで、やっぱり10-11月になるとどうしても取り出す曲ですね。これはラインヘッセンのトロッケン・ベーレンアウスレーゼがぴったりです。

リヒャルト・ワーグナーにはジークフリート牧歌があります。これは妻コジマへのクリスマスプレゼントとして作曲され、ルツェルンのトリープシェンの自宅の階段で演奏されました。滋味あふれる名曲であります。スイス駐在時代にルツェルンは仕事や休暇で何回も訪れ、ワーグナーの家も行きましたし教会で後輩の結婚式の仲人をしたりもしました。秋の頃は湖に映える紅葉が絶景でこの曲を聴くとそれが目に浮かびます。これはスイスの名ワインであるデザレーでいきたいですね。

フランスではガブリエル・フォーレピアノ五重奏曲第2番ハ短調作品115でしょう。晩秋の午後の陽だまりの空気を思わせる第1楽章、枯葉が舞い散るような第2楽章、夢のなかで人生の秋を想うようなアンダンテ、北風が夢をさまし覚醒がおとずれる終楽章、何とも素晴らしい音楽です。これは辛口のバーガンディの白しかないですね。ドビッシーフルートとビオラとハープのためのソナタ、この幻想的な音楽にも僕は晩秋の夕暮れやおぼろ月夜を想います。これはきりっと冷えたシェリーなんか実によろしいですねえ。

どうしてなかなかヴィヴァルディの四季が出てこないの?忘れているわけではありませんが、あの「秋」は穀物を収穫する喜びの秋なんですね、だから春夏秋冬のなかでも音楽が飛び切り明るくてリズミックで元気が良い。僕の秋のイメージとは違うんです。いやいや、日本でも目黒のサンマや松茸狩りのニュースは元気でますし寿司ネタも充実しますしね、おかしくはないんですが、音楽が食べ物中心になってしまうというのがバラエティ番組みたいで・・・。

そう、こういうのが秋には望ましいというのが僕の感覚なんですね。ロシア人チャイコフスキーの「四季」から「10月」です。

しかし同じロシア人でもこういう人もいます。アレクサンダー・グラズノフの「四季」から「秋」です。これはヴィヴァルディ派ですね。この部分は有名なので聴いたことのある方も多いのでは。

けっきょく、人間にはいろいろあって、「いよいよ秋」と思うか「もう秋」と思うかですね。グラズノフをのぞけばやっぱり北緯の高い方の作曲家は「もう秋」派が多いように思うのです。

シューマンのライン、地中海音楽めぐりなどの稿にて音楽は気候風土を反映していると書きましたがここでもそれを感じます。ですから演奏する方もそれを感じながらやらなくてはいけない、これは絶対ですね。夏のノリでばりばり弾いたブラームスの弦楽五重奏曲なんて、どんなにうまかろうが聴く気にもなりません。

ドビッシーがフランス人しか弾けないかというと、そんなことはありません。国籍や育ちが問題なのではなく、演奏家の人となりがその曲のもっている「気質」(テンペラメント)に合うかどうかということ、それに尽きます。人間同士の相性が4大元素の配合具合によっているというあの感覚がまさにそれです。

フランス音楽が持っている気質に合うドイツ人演奏家が多いことは独仏文化圏を別個にイメージしている日本人にはわかりにくいのですが、気候風土のそう変わらないお隣の国ですから不思議でないというのはそこに住めばわかります。しかし白夜圏まで北上して英国や北欧の音楽となるとちょっと勝手が違う。シベリウスの音楽はまず英国ですんなりと評価されましたがドイツやイタリアでは時間がかかりました。

日本では札幌のオケがシベリウスを好んでやっている、あれは自然なことです。北欧と北海道は気候が共通するものがあるでしょうから理にかなってます。言語を介しない音楽では西洋人、東洋人のちがいよりその方が大きいですから、僕はシベリウスならナポリのサンタ・チェチーリア国立管弦楽団よりは札幌交響楽団で聴きたいですね。

九州のオケに出来ないということではありません。南の人でも北のテンペラメントの人はいます。合うか合わないかという「理」はあっても、どこの誰がそうかという理屈はありません。たとえば中井正子さんのラヴェルを聴いてみましたが、そんじょそこらのフランス人よりいいですね。クラシック音楽を聴く楽しみというのは実に奥が深いものです。

 

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ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14

2014 JUL 28 14:14:41 pm by 東 賢太郎

220px-Henrietta_Smithsonほれた女にふられるならまだいいが、無視されるのは堪え難いというのは男性諸氏は共感できるのではないか。まだ無名だった24歳のベルリオーズは、パリのオデオン座でイギリスから来たシェイクスピア劇団の舞台に接し、ハムレットのオフィーリアを演じたアイルランド人の女優、ハリエット・スミッソン(左)に夢中になってしまった。熱烈なラブレターを出すがしかし彼女は意に介さず、面会すらもできない。激しい嫉妬にさいなまれた彼はやがて彼女に憎しみを抱いてゆくことになる。

間もなく劇団はパリを去ってしまい、ハリエットをあきらめた彼はマリー・モークというピアニストと婚約した。ところが、踏んだりけったりとはこのことで、ローマ賞の栄冠に輝いてイタリア留学に行くとすぐに、モークの母から娘を別な男に嫁がせることにしたという手紙が届く。怒ったベルリオーズはパリに引き返し女中に変装してモーク母子を殺害して自殺しようと企んだ。婦人服一式、ピストル、自殺用の毒薬を買い馬車にまで乗ったのだから本気だった。幸いにして途中(ニース)で思いとどまったが彼は危ないところだった。

しかし、この事件の前に、彼はすでに殺人を犯し、自殺していた。

それは1830年にできたこの曲の中でのことである(幻想交響曲)。恋に深く絶望し阿片を吸った芸術家の物語だが、その芸術家は彼自身である。彼はおそらくハリエットを殺しており死刑になる。ギロチンで切られた彼の首がころがる。化け物になったハリエットが彼の葬儀に現れ奇っ怪な踊りをくりひろげる。これと同じことがモークの件で現実になる所だったわけだ。ベルリオーズが本当に阿片を吸ったかどうかはわからない。阿片は17世紀は医薬品とされ、19世紀にはイギリス、フランスなどで医薬用外で大流行し、詩人キーツのように常用した文化人がいた。ピストルと毒薬を買って殺人を企図したベルリオーズが服用したとしてもおかしくない。

そう思ってしまうほど幻想交響曲はぶっ飛んだ曲であり、「幻想」(fantastique、空想、夢幻)とはよく名づけたものだ。これが交響曲という古典的な入れ物に収まっていることが、かろうじてベートーベンの死後2年目にできた曲なのだと信じさせてくれる唯一の手掛かりだ。逆にその2年間にベルリオーズは入れ物以外をすべて粉々にぶち壊し、それでいてただ新奇なだけでなくスタンダードとして長く聴かれる曲に仕立て上げた。そういう音楽を探せと言われて、僕は幻想と春の祭典以外に思い浮かぶものはない。高校時代、この2つの音楽は寝ても覚めても頭の中で鳴りまくっていて受験会場で困った。

この曲のスコアを眺めることは喜びの宝庫である。これと春の祭典の相似は多い。第5楽章の冒頭の怪しげなムードは第2部の冒頭であり、お化けになったハリエットのEsクラリネットは第1部序奏で叫び声をあげる。練習番号68の後打ちの大太鼓のドスンドスンなどそのものだ。第4楽章のティンパニ・アンサンブル(最高音のファは祭典ではシに上がる)なくして祭典が書かれようか。第4楽章のファゴットソロ(同50)の最高音はラであり、これが祭典の冒頭ソロではレに上がる。第3楽章のコールアングレがそれに続くソロを思わせる。「賢者の行進」は「怒りの日と魔女のロンド」(同81)だ。第5楽章のスコアは一見して春の祭典と見まがうほどで僕にはわくわくの連続だ。

この交響曲の第1楽章と第3楽章は、まことにサイケデリックな音楽である。第1楽章「夢、情熱」の序奏部ハ短調の第1ヴァイオリンのパートをご覧いただきたい。弱音器をつけpからffへの大きな振幅のある、しかし4回もフェルマータで分断される主題は悩める若者の不安な声である。交響曲の開始としては異例であり、さらにベートーベンの第九のような自問自答が行われる。gensou1

感情が赤の部分へ向けてふくらんでfに登りつめると、チェロが5度で心臓の高鳴りのような音を入れる。そこで若者は同じ問いかけを2回する。青の部分、コントラバスがピッチカートでそれに答える。1度目はppでやさしく、2度目はfで決然と。まるでオペラであり、ワーグナーにこだまするものの萌芽を見る思いだ。

若者は納得し(弱音器を外す)、音楽は変イの音ただひとつになる。それがト音に自信こめたようにfで半音下がると、ハ長調でPiu mosso.となり若者は束の間の元気を取り戻す。この、まるで夢から覚めていきなり雑踏ではしゃいでいるような唐突で非現実的な場面転換、そこに至る2小節の混沌とした感じは、まったく筆者の主観であるが、レノン・マッカートニーがドラッグをやって書いた後期アルバムみたいだ。両者にそういう共通の遠因があったかどうかはともかく、常人の思いつく範疇をはるかに超え去ったぶっ飛んだ楽想である。

この後、弦による冒頭の不安な楽想と木管によるPiu mossoの楽想が混ざり、心臓高鳴りの動機で中断すると、再び第1ヴァイオリンと低弦の問答になる。ここでの木管の後打ちリズムはこの曲全体にわたって出現し、ざわざわした不安定な感情をあおる。やがて弦5部がそのリズムに引っぱられてシンコペートする。これが第2のサイケデリックな混沌だ。ここから長い長い低弦の変イ音にのっかって変ニ長調(4度上、明るい未来)になり、しばし夢の中に遊ぶ。フルート、クラリネットの和音にpppの第1ヴァイオリンとpのホルン・ソロがからむデリケートなこの部分の管弦楽法の斬新さはものすごい!これはリムスキー・コルサコフを経てストラヴィンスキーに遺伝し、火の鳥の、そして春の祭典のいくつかのページを強く連想させるものである。

この変イ音のバスが半音上がり、a、f、g、cというモーツァルトが偏愛した古典的進行を経てハ長調が用意される。ここからハリエットのイデー・フィックス(固定楽想)である第1主題がやっと出てきて提示部となる。つまりそこまでの色々は序奏部なのだ。この第1主題、フルートと第1ヴァイオリンが奏でるソードソーミミファーミミレードドーシである。山型をしている。ファが頂上だが、ミミファーと半音ずり上がる情熱と狂気の盛り上げは随所に出てくる。第2主題はフルートとクラリネットで出るがどこか影が薄い。しかしこの気分が第3楽章で支配的になる大事な主題だ。これはすぐに激した弦の上昇で断ち切られffのトゥッティを経て今度は深い谷型のパッセージが現れる。すべてが目まぐるしく、落ち着くという瞬間もない。ここからの数ページは、やはり感情が激して落ち着く間もないチャイコフスキーの悲愴の第1楽章展開部を想起させる。

展開部ではさらに凄いことが起こる。練習番号16からオーボエが主導する数ページの面妖な和声はまったく驚嘆すべきものだ。第381小節から記してみると、A、B♭m、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Csus4、C、Bsus4、B、B♭sus4、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Dm、D、D#m・・・・なんだこれは?何かが狂っている。和声の三半規管がふらふらになり、熱病みたいにうなされる。古典派ではまったくもってありえないコードプログレッションである。ベルリオーズは正式にピアノを習っておらず、彼の楽器はギターとフルートだった。この和声連結はピアノよりギター的だ。それが不自然でなく熱病になってしまう。チャイコフスキーは同じようなものを4番の第1楽章で「ピアノ的」に書いた。それをバーンスタインがyoung peoples’でピアノを弾いてやっている。

ところで、ハリエットは第4楽章でギロチンに首を乗せると幻影が脳裏に現れてあの世である終楽章でお化けになることになっているが、僕は異説を唱えたい。最初から殺されていて、全部がお化けだ。第1楽章の熱病部分に続くffのハリエット主題はG7が呼び覚ますが、そこでイヒヒヒヒと魔女の笑いが聞こえ終楽章の空飛ぶ妖怪の姿になっている。そこからもう一度ややしおらしくなって出てくるが、それに興奮して騒いだ彼の首がギロチンで落ちるピッチカートの予告だってもうここに聞こえているではないか。しかしそれはコーダの、この曲で初めてかつ唯一の讃美歌のような宗教的安らぎでいったん浄化される。だからとても印象に残るのだ。本当に天才的な曲だ!このC→Fm(Fではなく)→Cはワーグナーが長大な楽劇を閉じて聴衆の心に平安をもたらす常套手段となるが、ここにお手本があった。この第1楽章に勝るとも劣らないぶっ飛んだ第3楽章について書き出すとさすがに長くなる。別稿にしよう。

第2楽章「舞踏会」。ここの和声Am、F、D7、F#7、F#、Bm、G・・・も聞き手に胸騒ぎを引き起こす。スコアはハープ4台を要求しているが、この楽器が交響曲に登場してくるのがベートーベンをぶっ壊している。第3楽章のコールアングレ、終楽章の鐘、コルネット、オフィクレイドもそうだ。ティンパニ奏者は2人で4つを叩きコーダで2人のソロで合奏!になる。ラ♭、シ♭、ド、ファという不思議な和音を叩くがこのピッチがちゃんと聴こえた経験はない。同様に第4楽章の冒頭でコントラバスのピッチカートが4パートの分奏(!)でト短調の主和音を弾くが、これもピッチはわからない。これは春の祭典の最後のコントラバス(選ばれた乙女の死を示す暗号?)のレ・ミ・ラ・レ(dead!)の和音を思い出す。

この交響曲の初演指揮を委ねられたのはベルリオーズの友人であったフランソワ・アブネックであった。彼についてはこのブログに書いた。

ベートーベン第9初演の謎を解く

幻想交響曲はハリエットという女性への狂おしい思いが誘因となり、シュークスピアに触発されたものだが、音楽的には彼がパリで聴いたアブネック指揮のベートーベンの交響曲演奏に触発されたものである。ベートーベンの音楽が絶対音楽としてドイツロマン派の始祖となったことは言うまでもないが、もう一方で、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーを経て標題音楽にも子孫を脈々と残し、20世紀に至って春の祭典やトゥーランガリラ交響曲を産んだことは特筆したい。そのビッグバンの起点が交響曲第3番エロイカであり、そこから生まれたアダムとイヴ、5番と6番である。このことは僕の西洋音楽史観の基本であり、ご関心があれば3,5,6番それぞれのブログをお読み下さい(カテゴリー⇒クラシック音楽⇒ベートーベンと入れば出てきます)。

最後に一言。男にこういう奇跡をおこさせてしまう女性の力というものはすごい。我がことを考えても男は女に支配されているとつくづく思う。そういえばモーツァルトもアロイジア・ウェーバーにふられた。彼が本当にブレークするのはそれを乗り越えてからだ。彼はアロイジアの妹コンスタンツェを選んだ。姉の名はマニアしか知らないだろうが天才の妻になった妹は歴史の表舞台に名を残した。しかしベルリオーズの方は後日談がある。幻想の作曲から2年して再度パリを訪れたハリエットはローマ留学から帰ったベルリオーズ主催の演奏会に行く。そこで幻想交響曲を聞き、そのヒロインが自分であることに気づく。感動した彼女は結局ベルリオーズと結ばれた。彼女の方は大作曲家の妻という名声ばかりか、天下の名曲の主題として永遠に残った。

 

シャルル・ミュンシュ / パリ管弦楽団

406僕はEMIのスタジオ録音でこの曲を知ったしそれは嫌いではない。ただし彼の演奏はかなりデフォルメがあり細部はアバウト、良くいえば一筆書きの勢いを魅力とする。それが好きない人にはたまらないだろうということで、どうせならその最たるものでこれを挙げる。鐘の音がスタジオ盤と同じでどこか安心する。幻想のスコアを眺めていると、書かれた記号にどこまで真実があるのかどうもわからない。そのまま音化して非常につまらなくなったブーレーズ盤がそれを物語る。これがベストとは思わないが、面白く鳴らすしかないならこれもありということ。フルトヴェングラーの運命の幻想版という感じだ。EMI盤と両方そろえて悔いはないだろう。

 

ジェームズ・コンロン/  フランス国立管弦楽団

gensouこの曲はフランスのオケで聴きたいという気持ちがいつもある。マルティノンもいいが、これがなかなか美しい。LP(右、フランスErato盤)の音のみずみずしさは絶品で愛聴している。演奏もややソフトフォーカスでどぎつさがないのは好みである(音楽が充分にどぎついのだから)。パリのコンサートで普通にやっている演奏という日常感がたまらなくいい。料亭メシに飽きたらこのお茶漬けさらさらが恋しい。終楽章のハリエットですら妖怪ではなく人間の女性という感じだからこんなの幻想ではないという声もありそうだが。

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

4118SYQZ5PL__SL500_AA300_ロンドン時代にLPで聴き、まず第一に音が良いと思った。音質ではない。音の鳴らし具合である。この曲のハーモニーが尖ることなく「ちゃんと」鳴っている。だからモーツァルトやベートーベンみたいに音楽的に聞こえる。簡単なようだがこんな演奏はざらにはない。第2楽章にコルネットが入る改訂版をなぜ選んだかは不明だが、彼なりに彼の眼力でスコアを見据えていておざなりにスコアをなぞった演奏ではない。ご自身かなりぶっ飛んだ方であられたクレンペラーの波長が音楽と共振している。第4楽章の細部から入念に組み立ててリズムが浮わつかない凄味。終楽章もスコアのからくりを全部見通したうえで音自体に最大の効果をあげさせるアプローチである。こういうプロフェッショナルな指揮は心から敬意を覚える。

 

(補遺、2月29日)

ダニエル・バレンボイム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

51iMEuehZVLベルリン・イエス・キリスト教会の広大な空間を感じる音場で、オーケストラが残響と音のブレンドを自ら楽しむように気持ちよく弾き、良く鳴っていることに関して屈指の録音である。音を聞くだけでも最高の快感が得られる。第1楽章は提示部をくり返し、コーダは加速する。第2楽章はワルツらしくない。第3楽章の雷鳴は超弩級で、どうせ聴こえない音程より音量を採ったのか。第4楽章のティンパニの高いf がきれいに聞こえるのが心地よい。終楽章コーダは最も凄まじい演奏のひとつである。たしかBPOのCBSデビュー録音で、僕は89年にロンドンで中古で安いので買っただけだが、バレンボイムの振幅の大きい表現にBPOが自発性をもって乗っていて感銘を受けたのを昨日のように覚えている。ライブだったら打ちのめされたろう。彼はつまらない演奏も多いが、時にこういうことをやるから面白い。

 

(補遺、2018年8月25日)

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

第2楽章の快速で乾燥したアンサンブルはパレーの面目躍如。これだけ内声部が浮き彫りに聞こえるのも珍しい。第3楽章も室内楽で、田園交響曲の末裔の音を感知させる面白さだ。ティンパニの音程が最もよくわかる録音かもしれない。指揮台にマイクを置いたかのようなMercuryのアメリカンなHiFi概念は鑑賞の一形態を作った。終楽章の細密な音響は刺激的でさえある。パレーは木管による妖怪のグリッサンドをせず常時楷書的だが、それをせずともスコアは十分に妖怪的なのであり、僕は彼のザッハリッヒ(sachlich)な解釈の支持者だ。

 

 

クラシック徒然草―ミュンシュのシューマン1番―

 

 

 

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ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスの訃報

2014 JUN 13 1:01:05 am by 東 賢太郎

コリン・デービス、クラウディオ・アバド、ゲルト・アルブレヒト各氏と相次いで20世紀の巨匠が亡くなりましたが、今度はラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスさんの訃報をききました。

4氏ともライブを聴き楽しませていただいたのがついこの前のようで、時の流れは予期せぬ速さでどんどん大事なものを奪っていきます。若い頃、実演でフルトヴェングラーを聴いたワルターを聴いたという方がうらやましくて仕方ありませんでしたが、そろそろ自分がそういう年齢になってきているのかもしれません。

ブルゴスさんはまずフィラデルフィア管の定期に現れて84年の3月2日と9日とに聴きました。プログラムを見ると2日がストラヴィンスキーのプルチネルラ、ヒンデミットの弦楽器と金管のための協奏曲、ファリャの三角帽子であり9日がベートーベンの交響曲第4番、ドビッシーの夜想曲、アルベニスのイベリアから3つの小品だったようです。残念ながら記憶がありません。

2度目はロンドンで85、6年ごろと思いますが、ロンドン交響楽団を振った田園交響曲とシェラザードというプログラムでした。昔のことなのでそこまで覚えているのは少ないのですがなぜ記憶にあるかというと、性に合わない演奏でとても不快になり怒って帰ったからです。ホールはバービカンでどうもあそこの音は好きでないのも悪かったのですが、シェラザードはベンチマークであるアンセルメとあまりに異なり許容しがたかったように思います。

その初対面のトラウマから以後は遠ざかってしまい、3度目にきいたのは10年ほどたった96年のチューリッヒ・オペラハウスでのカルメンでした。この年はスイスでの日本企業による起債が活況で野村證券はスイスフラン建てワラント債や転換社債の引受主幹事を何本もやらせていただきました。調印式はチューリッヒで行うので社長様がお見えになり、当時スイス社長だった僕はホストとして昼には全引受業者20-30人を集合させて会社様と調印、夜にオペラをご一緒してディナー(だいたいがチーズフォンデュー)、翌日はユングフラウやピラトゥス観光へお連れするというのがお定まりのコースでした。

などと書くと優雅な稼業に聞こえますが、この年は起債数が記録的に多くて体の疲労度も記録的であり、40歳の若僧が野村代表として二回りほども年上の上場企業の社長様ご一行とべったり2、3日おつき合いするのですから気苦労も半端ではありませんでした。それが1年中、ピークの時期はほぼ毎週、時には同じ週に2件重なってやむなくディナーをハシゴしたこともあります。腹が目立って出てきたのはたぶんこの年からでした。

そういう年に、お客様をご案内して聴いたのがブルゴスさんのカルメンでした。2月10日のことです。接待ということもあったかもしれませんが、どういうことか歌手はみんな忘れてしまっていて、すごく有名な人だったでしょうがプログラムを探さないとわかりません。先に書いた理由からあまり期待してなかったのですが、予想に反してブルゴスの指揮は本当に見事で、僕はチューリッヒ時代の2年半にここで何度もオペラを観ましたが、サンティのボエーム、ウエザー・メストのバラの騎士とホフマン物語、そしてこのカルメンがトップ4でした。カルメンが誰か覚えていないのに公演の記憶はあるというのは、オケ・パートがあまりに素晴らしかったからで、以前書いたテノール不調だったのにオケで圧倒されたサンティのボエームと双璧でした。

帰国して一時、読響会員だったことがあるのですが、そのブルゴスさんの名前を見つけて一番の楽しみしていたところ代役になってしまいがっかりしました。これもよく覚えているのだから、4度あった機会の3回はどれもが印象にあるのです。今はあんまりカルメンの気分ではないのですが、週末にでも彼のパリ・オペラとやったレチタチーヴォ形式の名演CDを聴いてあの96年の感動を偲んでみようかなと思います。ご冥福をお祈りします。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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カントルーブ 「オーヴェルニュの歌」

2013 OCT 17 22:22:24 pm by 東 賢太郎

なごり惜しいのですがスペインを後にしましょう。今回からいよいよ南欧シリーズ<フランス編>に入ります。

ほとんどのクラシック好きの方は知っていて一般の方には知名度がほとんどない曲をご紹介します。「これmapが好きです」と言って嫌味にもならず、あっけっこう通だなと思われる曲です。パリから約400キロ離れたオーベルニュ地方(右)の首府はクレルモン・フェラン、周辺の重要都市はリオン、ヴィシーなどです。世界有数のタイヤメーカーであるミシュランの本社はここにあります。高原地帯で土着の文化が濃厚にあり、言葉もオック語という固有言語を持っています。スイスの山岳地帯でロマニッシュ語を話すサンモリッツあたりのイメージに近いでしょう。東京から400kmというと盛岡市、神戸市あたりですが、そこの住民が外国語をしゃべっているというのは想像がつきにくいですね。

この曲集はそのオック語で書かれています。ほとんどの人は(ひょっとしてパリッ子も)何を言っているかはわかりません。オーヴェルニュ地方に伝わる民謡をカントルーブが採譜してソプラノにオーケストラ伴奏をつけた曲なのでそうなっているのでしょう。この音楽はオーヴェルニュ地方の清涼な空気そのものであり、僕にとっては疲れた時の最高のいやし、精神の漢方薬でもあります。オーベルニュ地方の田園風景はこんなもののようです。

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初夏の陽だまりの中、この風景の中にいる気分になってください。そして、全身がリラックスしたら、これにのんびりと耳をかたむけてみて下さい。何も考えずに。

歌はフランスのソプラノ、ヴェロニク・ジャンスでした。ただただ美しいですね。今の2曲目が「バイレロ」(Bailero)といって、この全5集(27曲)からなる曲集の中でダントツに有名な曲ですので覚えておいてください。

次にそのバイレロをポルトガルのソプラノ、マリア・バヨで聴きましょう。

指揮者とオケが繊細ですね。声はジャンスよりコシがあり感情の起伏も大きいですが、とても曲想にマッチしていると思います。

バイレロの最後です。これを聴きください。

歌はイスラエルのネタニア・ダヴラツ。何という懐かしさ、純朴さでしょう。「うさぎ追いしかの山・・・」か新日本紀行か。オーケストラの木管の鄙びた味!あまりうまくないのに、そのほうがどこか良かったりする。民謡を完璧な合奏でやっても、大事な何かを失ってしまうのです。都会で疲れている僕たちに、それが人間らしいということだよといつも気づかせてくれます。

世界はオーヴェルニュといえばダヴラツ、ダヴラツといえばオーヴェルニュなのです。

ピエール・ド・ラ・ローシュ / スタジオ・オーケストラ   ネタニア・ダヴラツ(sop)

CDはこれです。僕の永遠の愛聴盤です。そして世界中のどこへ行っても名盤中の名盤と評価されているのです。言葉はいりません。41GYD8ABKRL._SL500_AA300_

 

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マスネ タイスの瞑想曲

2013 APR 23 10:10:50 am by 東 賢太郎

もし癒しの音楽をあげろと言われれば、まっさきにこれです。、ジュール・マスネのオペラ「タイス」(1894年初演)の第2幕第1場と第2場の間の間奏曲ですが、「タイスの瞑想曲」として有名です。オペラでは娼婦のタイスが修道士アナタエルによって悔悛するシーンの音楽です。

この曲、ヴァイオリンのほぼすべての音域で旋律が歌いこまれ、テンポやフレージングの間合いも自由度が高いので弾き手と楽器の個性がはっきり出ます。そして、けっして複雑な音はないのですが、弾き手の音楽性、感受性が問われ、ちょっとしたボウイング(弓使い)、ポルタメントの巧拙がものを言い、何より、ピッチ(音程)の取り方が死活問題になるという点で、良い演奏は大変少ないのです。

まずはこれをどうぞ。マイケル・レービン(1936-72)の演奏。

ほぼ完ぺきなヴァイオリン演奏ではないでしょうか。一音一音に魂がこもり、心の琴線に触れてくるようなぬくもりがあり、何より、音程の素晴らしさは感涙ものであります。

次はミッシャ・エルマン(1891-1967)エルマン・トーンと言われた美音です。ただただ美しい。

このボウイングとフレージングは大家の至芸です。それにしても、なんていい曲なんだろう! 興奮するしかありません。ぜんぜん癒しになりませんでした、あしからず。

 

(こちらもどうぞ)

ハチャトリアン ヴァイオリン協奏曲ニ短調

 

 

 

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