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カテゴリー: ______C.P.E.バッハ

ハイドン 弦楽四重奏曲第35番ヘ短調 作品20-5

2025 JAN 27 3:03:31 am by 東 賢太郎

ハイドン(1732 – 1809)が「シュトルム・ウント・ドラング」的な特徴をそなえた楽曲を1768年~1773年(36~41才)頃に多作したことを前稿に書きました。シュテファン教会合唱団で歌っていた少年時代にC.P.E.バッハの楽譜を研究した成果です。ハイドンの現存する最初期の曲は、変声期で合唱団を解雇された1750年(18才)ごろ書いた『ミサ・ブレヴィス ヘ長調(Hob. XXII:1)』です。

この頃から作曲を始めて認められ、1757年(25才)ごろボヘミアのカール・モルツィン伯爵の宮廷楽長の職に就きプロの作曲家となります。ここで約15曲の交響曲を含む作曲をし、1761年(29才)にハンガリー有数の大貴族、エステルハージ家の副楽長のポストを得て、1766年(34才)には楽長に昇進。これこそがハイドンのみならず音楽史にとって最大級の僥倖でした。曲作りの過程で音響の「実験」「冒険」をできるマイ・オーケストラを持っていた恵まれた作曲家は他にいません。そうしてかねてよりのC.P.E.バッハの楽譜研究を2年あまり重ねたことを自身で「私を知る人は誰でも、私がエマヌエル・バッハに多大な借りがあること、彼を理解し熱心に研究したことに気づくに違いない」と述べ、1768年(36才)ごろ「いわゆるシュトルム・ウント・ドラング期」に突入するのです。

その最大の成果のひとつが1772年に作曲した6曲の「太陽四重奏曲」作品20です。特筆すべきことはその第1番変ホ長調をベートーベンが筆写し、ブラームスが全曲の楽譜を所有していたことでしょう。この執着はハイドンがC.P.E.バッハから吸収したエッセンスが「太陽四重奏曲」にあるという関心に発していたのではと思うからです。ふたりのC.P.E.バッハへの評価は以下の史実で伺えます。ベートーベンは「私は彼のクラヴィーア曲を少数しか保有していないが、その幾つかはすべての真の芸術家に高度な歓びを与えるだけでなく研究対象にもなる」(ブライトコプフ&ヘルテル社への手紙)と称え、ブラームスは師匠のシューマンが「大バッハに著しく劣る」と無視したのに対し、高く評価して一部を校訂までしたことです。

ベートーベンが筆写した「太陽四重奏曲」第1番変ホ長調です。

ベートーベンがC.P.E.バッハから受け継ぐものがあると感じさせる例もひとつ。鍵盤ソナタH283、自由幻想曲、ロンド(1785年) – ハ短調の鍵盤のためのロンド(Wq 59:4)です。

ベートーベンはピアノ・ソナタ第1番へ短調(1795年)をこう始めます。

このソナタはいみじくもハイドンに捧げられています。師の向こうにC.P.E.バッハが透かし彫りのように浮かんでいる、そう聞こえてなりません。

Gottfried Freiherr van Swieten

プロテスタントのC.P.E.バッハをカソリックのウィーンに紹介したのはモーツァルトの庇護者でもあったゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵です。ハイドンがC.P.E.バッハのクラヴィーア教則本『正しいクラヴィーア奏法への試論』を学んだのがスヴィーテンの影響かどうかはわかりませんが、同書第一部発刊時(1753年)に彼はウィーンにおり、21才のハイドンは作曲の勉強中でした。ずっと後年のことですが「天地創造」「四季」の創作に関わり、ハイドンの遺産の中には大バッハの「ロ短調ミサ曲」と「平均律クラヴィーア曲集第二集」の筆写楽譜があったことからスヴィーテンとの深い交友があったことは事実です。

ではモーツァルトはどうでしょう?彼はリアルに太陽四重奏曲から学習しています。6曲から成る「ウィーン四重奏曲」(K.168~173)がその成果です。その経緯に関し多くの学者が与える評価が2つあります。①C.P.E.バッハを消化吸収した40才のハイドンの円熟と「とんがった」技法、➁それをウィーンで目の当たりにして父とのイタリア楽旅で得た自信を粉々にされた17才の当惑です。①の形容こそが再三僕が辟易している「シュトルム・ウント・ドラング」であり、➁からウィーン四重奏曲は過渡期の作品と結論を導き出すのです。しかし、K.626まで知った我々の耳にそうきこえるのは当たり前でしょう。ウィーン四重奏曲は喩えるなら高校生の大谷翔平の投球です。彼が甲子園に出て当惑した云々は本質に関係ない大衆向け解説であって、スカウトの目で彼の球質を観ることでいろいろな物事が見えてきます。例えば第1番(弦楽四重奏曲第8番ヘ長調K.168)のスコアなど驚嘆以外の何物でもありませんし、それを当時のウィーン人がアプリシエートしたとは思えない暗澹たる気持ちも入り混じります。お聴きください。

第2楽章の主題はハイドンの太陽四重奏曲の第6曲、弦楽四重奏曲第35番ヘ短調の第4楽章からの引用でしょう。

これを作曲することになる3度目のウィーン旅行は、父子が宮廷楽長ガスマンが病気で倒れたと知ってチャンスだと出向いたものでした。ウィーン四重奏曲を息子の尻を叩いて書かせマリア・テレジア皇太后に拝謁までしましたが、その御仁こそがアンチの胴元だったのだから仕官できるはずないのです。この夜の女王みたいに恐ろし気な女性と小物役人以外の何物でもないザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド。ふたりの権力者の壁に人生を阻まれたモーツァルトは気の毒でしかありません。しかしそれも犯人を知って推理小説を読むようなもの。「馬鹿どもはまあどこでだって物分かりがよくはありません!」と妻に手紙を書いたレオポルド氏に共感しますが、しかし、この曲集、当時のウィーンでは馬耳東風だったろうなあという虚無感を僕は禁じえません。後世のモーツァルト学者、文筆家のほとんどがミラノ楽旅で学んだイタリア式四重奏曲との断層を論じます。それは正しい。しかし決定的に間違いであるのは、これを「ウィーン四重奏曲」と安直に呼ぶあんまりインテリジェントでない土壌のうえで論評していることです。モーツァルトを圧倒し、狼狽させ、模倣・引用しようと奮い立たせたのはウイーン式でもウィーン四重奏でも何でもなく「ハイドン式」である。これが本稿を貫く僕の主張です。しかも、そのハイドンも、それを創造したのはウィーンではなくハンガリーなのです。エステルハージ家でC.P.E.バッハ研究から吸収した創造物をマイ・オーケストラで「冒険」「実験」できた。そんな理想郷のような工房を所有した大作曲家はハイドン以外にひとりもいません。だからハイドンのエステルハージ家の楽長就任を僕は「音楽史にとって最大級の僥倖でした」と書いたわけです。ここにおける我が結論は①いかに太陽四重奏曲が先進的だったか➁それに即座に反応・対応したモーツァルトのエンジニア能力がいかに図抜けていたかの2点。それだけです。

特に第13番ニ短調 K. 173は “短調” かつ “フーガ付き” というハイドンが売りにしようと目論んだ特徴をフル装備しており、第4楽章の半音階のフーガ主題はウェーベルンさながらで初めてのときは驚いたものです。21世紀の耳でそれですから当時の聴衆の度肝を抜いたはずですが春の祭典のような騒動にならず静かに無視。それがウィーンです。だから彼も感動を喚起しようと思って書いてない。あくまで高度な技術のデモで、それを評価できる人はウィーン中を探してもヨーゼフ・ハイドンしかいなかったことをわかっていたと思います。17才が40才を凌ぐとすれば円熟味のようなものではなく技術の切れ味しかないことを父子は理解していました。しかし息子はともかく父の政治的センスがなかったですね。人事は学歴やTOEICの点数だけでは決まらない、つまり作戦ミスなんですが、家の財政事情や揺るぎない向上心で一気にトップを狙い、失敗した。いいんじゃないですか、人生一度っきりだし。

後世のベートーベン、ブラームスがハイドンの太陽四重奏曲に関心を持ったのはなぜかという話に戻ると、C.P.E.バッハのエッセンスをハイドンが消化吸収し、それを自己同化することでさらに新しい音楽が創造できる可能性を17才のモーツァルトが証明したことが背景にあったのではないか。二人にとってモーツァルトは神ですから、神が崇めたものに神性を感じたかもしれませんが、決して骨董品を愛でる類いの関心ではなく「お前はハイドンのスコアに何を見出せるか」という、自分が計られるような関心(もしくは不安)があったと想像するのです。それなくしてベートーベンが筆写するとは思えません。その解答集がウィーン四重奏曲ですから彼らは当然こちらも微細に調べてます。特許を競うエンジニアとはそういうものだからです。モーツァルトの当惑を聞き取るのも一興かもしれませんが、彼はそういう関心のもたれ方にそぐわしい文学青年ではなく、文学青年を泣かせる名人の技術者であったということです。

弦楽四重奏曲第13番 ニ短調 K. 173(1773年)をお聴きください。

モーツァルトにこれを書く衝動を与えた作品は太陽四重奏曲(1772年)6曲のうちのどれでしょうか?第35番作品20-5ヘ短調と思います。何故なら、K. 173にとどまらず、これを研究した痕跡と思われるものが1782~1785年に作曲した「ハイドン・セット」に多く刻み込まれているからです。そしてこの曲を僕はハイドンの弦楽四重奏曲の最高傑作のひとつと考えております。お聴きください。

第35番作品20-5ヘ短調の痕跡を列挙しましょう。出だしからいきなり連想されるのは弦楽四重奏曲第15番ニ短調K.421(ハイドン・セット第2番)です。第2楽章メヌエット主題の結尾のバス、およびヘ長調のトリオ主題は同第19番ハ長調K.465「不協和音」(同第6番)の第3楽章メヌエットで(両者ともあまりの相似に驚きます)、K.421の第4楽章、最後から二番目の変奏(ニ長調)に第2楽章メヌエット主題の結尾が再び現れます。第3楽章冒頭はピアノ協奏曲第23番K.488 第2楽章冒頭のリズム(シチリアーノ)です。太陽四重奏曲で第35番作品20-5ヘ短調ほど引用された曲は他にありません。いかがでしょうか?痕跡はその作曲家について多くのことを教えてくれるのです。

Nancy Storace

ハイドンはウィーンの「フィガロハウス」でK.421、K.465を試演しています。添えられた手紙と共にモーツァルトの敬意と自負を知ったでしょう。キャリアの絶頂にあったモーツァルトですが、トルコ戦争で貴族がウィーン不在となって収入が激減します。別な大都市に活路を見出そうと考えるのは当然のことでしょう。そこにフィガロのスザンナ役の創唱歌手で懇意の英国人ナンシー・ストレースが「ロンドンにおいでよ!」と誘っていました。「OK!フィガロは自信あるよ。ピアノ協奏曲は3つ(第22,23,24番)ある、でもハイドンさんお得意の交響曲が足りないなあ。よし!」そこで、ハイドンセット作曲の経緯を思い出し、ハイドンに取り立ててもらおうと全身全霊をこめて書き上げたのが第39,40,41番の「三大交響曲」だった。これ以外に、彼にとって極めて異例である「誰の依頼もない力作」が3つセットで現れた理由をどなたか説明できるでしょうか?。調性は変ホ長調、ト短調、ハ長調でした。ハイドンセットのお手本になった太陽四重奏曲の第1,2,3番も変ホ長調、ハ長調、ト短調です。これが偶然でしょうか?

以下は東説です。証拠はないため推理です。

ハイドンはモーツァルトの意向を知っていました(別れの会食で他に何の話題があったでしょう?)。三大交響曲のうち41番ハ長調はクラリネットなしです。ハイドンも98番まで「クラぬき」で書いています。ザロモンのオケにはクラリネットがなかったのです。奏者はいましたが採用しませんでした。クラ入り交響曲はモーツァルトのトレードマークだからです。ところが、モーツァルトが亡くなると99番から「クラ入り」で作曲し始めるのです。偶然でしょうか?

作曲中だった98番第2楽章に英国国歌と41番第2楽章を引用したことはモーツァルトの訃報への弔意と思われます。問題はなぜ引用できたかです。スコアを持っていたからです。国内でさえ初演記録のない同曲です。演奏のあてのないロンドンで写譜される事態をモーツァルトが許容する理由はありません。ということはモーツァルトから全幅の信頼のもとに手渡されていたのです。ザロモンのオケで即演奏可能なスコアです、できれば演奏してほしいという含みでもって。この行為は6曲の弦楽四重奏曲を手紙を添えて献呈した1785年の「ハイドンセット」とまったく同じです。ハイドンがそれを演奏、紹介などで広めた形跡はありません。しかしモーツァルトは敬意を示した唯一の作曲家であるハイドンがメンターでいてくれることを死ぬまで疑いませんでした。

ハイドンはモーツァルトの1才年下の弟子イグナツ・プレイエルが1791年にロンドンでザロモンのライバル興行主に雇われ、人気を二分され、プレイエルはその成功でストラスブールにお城を買いました。もしモーツァルトが海を渡ってきたら?もし41番のスコアがザロモンの手に渡ったら?今回が最後の渡英と悟っている60才の老人が脅威を感じない方が不思議ではないでしょうか?プレイエルは後に自分の名を冠したピアノ製造会社創業者として著名になります。モーツァルトの41番は人類の宝として著名になります。そのスコアを見て怖れを懐かなかったという仮定ほど交響曲の父に対する愚弄はないというのが拙考です。

最後にハイドン弦楽四重奏曲第35番作品20-5ヘ短調のもうひとつの興味深い事実を記して本稿を閉じようと思います。同曲第4楽章フーガ主題はヘンデル「メサイア」25番「主の受けられた傷によって」の引用であることにお気づきでしょうか。メサイアは言うまでもなく、ダブリンで初演され英語で歌われる「英国音楽」です。英国に渡って名を成したドイツ人作曲家は3人います。ヘンデル、J.C.バッハ、ハイドンです。後の二人にモーツァルトは個人的に関わっており、4人目として名を連ねることに抵抗はなかったでしょう。私事ですが、僕は6年ロンドンに住んでクラシック愛好家の英国人先達たちから多くの教えを受けました。そのひとつが「モーツァルトはロンドンに来るべきだった」なのです。

モーツァルトにとってメサイアは特別な音楽でした。その25番を17才のモーツァルトが「ウィーン四重奏曲」の1番K.168に引用したビデオは既にお示ししましたが、それがハイドン作品からか直接メサイアからかは不明です。メサイアのドイツ初演は作品20-5作曲と同年の1772年ににハンブルグで行われています。スヴィーテンは1777年まで駐ベルリン大使で、スコアはC.P.E.バッハ経由でウィーンにあった可能性は否定できませんが、私見ではハイドン「太陽四重奏曲」第6曲からの引用と考えます。モーツァルトは英国滞在中にメサイアを知っており、ハイドンの引用に気づき、それを見抜いたアピールで引用した可能性もあると思います。

そのうえ、1789年3月にスヴィーテンの依頼でメサイアの独語による管弦楽改定版を作っており、この作業でメサイアはドイツ音楽にもなりました。25番は縁の深い旋律だったのです。そして、それが「レクイエム」のキリエになった。弟子による若干の補筆を伴うだけで、キリエはモーツァルトの真筆であることが判明しています。委嘱されたのは最後の年の夏ですが、オペラ『ティトの仁慈』『魔笛』の作曲がありとりかかったのは10月と推察されています。1か月後にあの世に行くと思っていなかった彼が何をもってメサイアを引用したのか。いろいろ思いは巡りますね。

ヘンデル「メサイア」25番

ハイドン弦楽四重奏曲第35番作品20-5ヘ短調第4楽章

モーツァルト「レクイエム」よりキリエ

 

ハイドンと『パルメニデスの有』

2025 JAN 20 16:16:20 pm by 東 賢太郎

ハイドンが40才で作曲した太陽四重奏曲Op.20を鑑賞したのは、2005年に買ったウルブリヒ弦楽四重奏団のCDで目覚めてからです。シューベルトやモーツァルトが亡くなった年をこえて完成されている作品にそうなってしまったのはなぜか。理由は3つあります。①ジャンルでカウントするので作品番号20が若書きに見えた➁曲名が意味不明(出版時の表紙に太陽の絵があっただけ)③シュトルム・ウント・ドラング期という解説が不勉強で意味不明。

ということで、要は「高級品」に見えず食わず嫌いしていたのです。そんな曲を長時間かけてきく意味を感じませんし、レコード屋でなけなしの金で何を買おうかとなって、並み居る高級品の中でそう思えない2枚組を選ぶことは50才になるまで一度もなかった、そういうことです。僕において高級とは希少性や値段の意味ではありません。英語ではluxury, premium, high-endなどですが、やっぱりどれでもない。高級の「級」は段階、「高」は比較で、それは受け取る人間が判定します。同じワインを飲んでどう思うかは十人十色で、皆さんが「赤い」と思っている色彩もそうであることがわかっています。つまり、判定している対象物は「あるがまま」で一個ですが、している人間が十人十色なのです。

Parmenidēs

この「ある」(有る)を突き詰めた思想家がパルメニデス(BC515/10〜450/45頃以降)です。大学で最も難解だった授業というと、哲学の井上忠先生による『パルメニデスの有』に関する講義をおいてありません。これが日本語と思えぬほどまったくわからない。ソクラテス以前の思想が理解できないショックは駒場のクラス全員が少なからず共有したのではないでしょうか。なんでこんなわけわからんものをと思いましたが、あれはたぶん思考訓練だったんですね。叙事詩の解釈が哲学になり、完全なものは球体をしているなんて宇宙的な命題が忽然と表明される。そういう講義は寝るんですが、先生の訥々とした話しでシュールな時間が流れ、打算なくそれに浸るのが教養だという贅沢感を噛みしめました。はっきりいって講義内容はほとんど理解しませんでしたが哲学は面白そうだという直感と、ギリシャ行きてえなあという夢が沸き起こりました。10年後に真夏のパルテノン神殿に立った時の心の底から噴き出す歓びは昨日のことのように覚えてます。

無知を悟り、これを端緒に哲学をかじり、「有るは認識」の理解に至ります。アリストテレスの『形而上学』につながること、言語が与える思考の呪縛は現代でも世界を支配しているという理解は生きる上で有益でした。感覚よりも理性(ロゴス)を優先する理性主義もロゴス=言語ですから明快に定義された言語によって進められるべきで、古代ギリシャの政治がそうだったし現代もディベートが基本でない国は西洋にありません。G7国だと自慢するならそれなしに民主主義などあり得ないわけで、言語で政策も語れない総理大臣が選ばれる日本とは何なのか、非常に示唆に富みます。ご興味ある方は先生の学位論文要旨をどうぞ。

http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=213152

ワインはパーカーの点数が高ければ誰にもおいしいわけではないです。十人十色では収拾がつかないので多数派がいいね!と言うと「おいしい」というタグを貼るのです。それが「級」で、いいね!が六人より七人が上、これが「高」です。両方合わさって「高級」。レコード屋でなけなしの金で買う最低基準より上のクオリティの音楽。これが僕の「高級な音楽」の定義で、太陽四重奏曲は3つの誤解で「不合格」にしたという失敗例をお示ししました。クラシックといってもベートーベンすらまったく感動できない作品はあるし、人間だから性の合わない作曲家もあるし、そういう曲を僕がブログに書く意味がありません。「名曲名盤おすすめ」みたいな本がありますが、本になるほどたくさんのおすすめ曲がある人は「合格点のバーが低い」わけで、クラシックという嗜好品でそれとなると太陽の絵で楽譜を買う人向けということになりましょう。

LP、CDの音源を所有する楽曲のカードは家に約300枚あります。感動できない作品、性の合わない作曲家の作品もあるとはいえpetrucci等で楽譜も調べて耳と目で楽曲をそこそこ記憶しております。ここまで行くと消費した時間もそれなりで、本業には微塵も関係ないのに人生をかけてしまったホビーでした。それでもブログに残したいのは旅行記のようなものだからです。面白いという方がおられればそれはそれですが99%は自己満足です。元気ならば半分の150曲ぐらい、深く書きたいのはもう半分の7~80曲程度でしょうか。僕はプラトンのイデア論の信奉者ですから感動の根源は100%楽曲にあると考える主義で、つまらない曲だって何度も聴けばわかるという経験論は否定します。パルメニデスの説くとおり「無が有ることはない」のです。

演奏なしでは楽曲は認識できませんが、ストヴィンスキーが述べたとおり「鐘は突けば鳴る」で、正確にリアライズすれば感動できるように楽曲はできています。だから演奏はよほど酷くなければ良し。毎日ピアノに向かってシューベルトとラヴェルを弾きますが、そんなレベルでも感動。そうなるように音を組成する作業がコンポジション(「一緒に置く」「組み立てる」が原意)で、どっちも指が感じる「いい所に音を置いてるなあ・・」という匠の技への感動なのです。あらゆる芸術家の中で作曲家と建築家はエンジニアであるというのが僕の持論です。エンジニアは理系です。モーツァルトはひらめき型の天才ではありますが、ベースとなった能力は卓越したエンジニア的学習能力で、3才で精巧な大型プラモデルの設計図を読み解いてあっという間に組み立ててしまう類いの神童であり、それが魔笛やレクイエムを生んだわけではありませんが、それがなければあの高みまでは至らなかったでしょう。「可愛らしいロココのモーツァルト」的な表現は僕からは千年たっても出ません。あっても一時の装いで彼の作曲の本質に些かの関係もありません。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732 – 1809)が18世紀後半にかけてシュトルム・ウント・ドラング期を生きた人であるのは事実です。絶対王政時代のバロック音楽(厳格なポリフォ二ー音楽)を脱した旋律+伴奏の「ギャラント様式」(ホモフォニー音楽)の装飾や走句を多用する明るく明快な音楽がフランスに現れますが、羽目をはずさない均整の取れた音楽であり、そうではなく、主観的、感情的スパイスを加えて気分の急激な変化や対立を盛り込もうという「多感様式」のホモフォニー音楽が北ドイツに現れます。これが同時期にドイツ文学に出現した概念を援用してシュトルム・ウント・ドラングとも呼ばれるものです。代表格とされる作曲家は大バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788、以下C.P.E.バッハ)です。ウィーン少年合唱団員だったハイドンは音楽理論と作曲の体系的な訓練を受けておらず独学でしたが、名著で知られるフックスの『グラドゥス・アド・パルナッスム』の対位法と、後に重要な影響を受けたと認めるC.P.E.バッハの作品を研究したことが知られています。

独学をベースに古典派を形成して弦楽四重奏、交響曲で「父」の称号が与えられるハイドンのエンジニアリング能力も驚くべきですが、「音楽家は自分自身が感動しなければ、他人を感動させることはできない」と主張したC.P.E.バッハの影響下でソナタに短調楽章やフーガを入れるなど「多感様式」の特徴を取り入れた音楽を書いたのも事実です。問題はそれを1770年代後半の文学運動に対する語に当てはめて呼ぶかどうか、それに何か看過できぬ理由や鑑賞への利益があるかどうかというだけです。C.P.E.バッハの影響はモーツァルトにもあることから、私見は否定的です。明白な痕跡として、1753年作曲の6つのクラヴィーア・ソナタより第6番ヘ短調(Wq.63-6)の第1楽章をお聴きください。

ピアノ協奏曲第20番K.466第2楽章で激しい短調になる中間部に現れる印象的な和声進行が聴きとれます。ソナタに短調楽章やフーガを入れるばかりかC.P.E.バッハを1785年に引用までしてるのですから、外形的には「モーツァルトはシュトルム・ウント・ドラングの作曲家だ」と主張しても誤りではないですが、少なくともそうレッテルを張る人を知りませんから同じ外形のハイドンだけにそう主張する根拠もありません。モーツァルトはハイドンを模したとされますが、K.466の例はハイドン経由でなくC.P.E.バッハの直輸入です。

二人は親子ほどの年齢差があるという反論がありそうですが、彼にはハイドンより13才年上の図抜けて有能な父親というマネージャーがいたため著名作曲家の楽譜へのアクセス環境は劣らず、息子の学習能力はこれまた図抜けていたのです(父子で当たり前のように交わしていた他人の楽譜の品評が書簡集で確認できます)。ハイドンは温和な性格でモーツァルトと友好関係にあったことは、一緒に四重奏を演奏し、その勧めでフリーメ―ソンに入るなどから事実でしょう。しかし弟子にしたイグナス・プレイエルほどのメンターシップを見せるまでではなく(そこはレオポルドへの配慮かもしれませんが)、仲は良くとも能力が拮抗したエンジニア同士ですから、テスラとエジソンではありませんが、二人はC.P.E.バッハの様式の導入においてライバル関係にもあったと考えるのは不自然でないでしょう。

ハイドンは1768年~1773年頃にシュトルム・ウント・ドラング期とされる特徴をそなえた楽曲を多作します(交響曲第26~65番、太陽四重奏曲を含む)。それが12~18才のモーツァルトの研究対象となったことは間違いありませんが、なぜハイドンが舵を切ったかは諸説あります。最も信頼できるのは1776年の自伝にある以下の言葉です。

私は(エステルハージ侯爵の)承認を得て、オーケストラの楽長として、実験を行うことができた。つまり、何が効果を高め、何がそれを弱めるかを観察し、それによって改良し、付け加え、削除し、冒険することができた。

この発言、とりわけ「実験」(Experimenten)という言葉ほど、彼が(作曲家がと言ってもいい)エンジニアで理系の資質の人であるという僕の主張を裏付けるものはありません。こういう人の行動や事跡をあらゆる文系的な要素だけを取り出して解釈するのは、はっきり書きますが間違いです(僕もそういう人間なので)。彼はウィーン合唱団時代からC.P.E.バッハを研究して影響があったことを認めていますが、自分はさらに冒険したのだ、世間から孤立した私には、自分を疑わせたり、困らせたりする人が近くにいなかったので、私はオリジナルになることを余儀なくされた、と断言している孤高の人なのです。その意味で、モーツァルトも同様です。唯一ちがうのは、彼は大バッハ、その息子たち、ヘンデル、ハイドン以外の作曲家は父も含めて歯牙にもかけずオリジナルになったことです。後世の学者を含めた普通の人が想像する世の中の風潮、他愛ない流行、良好とされる人間関係、思慕の念の如きものを僕は一切排除してザッハリヒに物を見ます。才能が才能を知る。「あるもの(有/在、ト・エオン)はあり、あらぬもの(非有/不在、ト・メー・エオン)はあらぬ」(パルメニデス)。

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