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河村尚子の快進撃は続く

2022 SEP 22 17:17:25 pm by 大武 和夫

今回の来日でも河村さんは大活躍。首都圏だけでも、8月24日のベーゼンドルファー東京ショールームでのミニコンサート(シューベルト)に始まり、朝日カルチャーセンターでの音楽学者堀朋平氏との対談によるシューベルトを巡るレクチャー、ヴァルチュハ/読響とのブラームスのピアノ協奏曲1番の2回の演奏、読響メンバーとの弦楽五重奏版(!)のシューマンのピアノ協奏曲の2度に亘る演奏、アフラック・クラシック・チャリティーコンサートにおける海老原光/東響とのシューマンのピアン協奏曲の後、紀尾井ホールでのリサイタル(シューベルト)、そしてコバケン/日フィルとのブラームスのピアノ協奏曲1番と大車輪でした。その間に山形でもリサイタル(シューベルト)を開いておられます。これらは、多岐に亘るイベントのように見えて、実はシューマンとブラームスに集中しておられ、びしっと一本筋が通っています。そして、9月19日の兵庫でのリサイタル(シューベルト)を終えて、ドイツに戻られました。台風が近づいている状況でのご帰国ですから気を揉みましたが、20日には無事にドイツに戻られた由で、ホッとしました。

シューベルトを巡るレクチャーは2回目ですが、実に興味深いお話に加えて、その場でD. 960の第2楽章を弾かれるというおまけ付き。何と贅沢であったことか。

そのシューベルトの演奏は、ベーゼンのショールームと紀尾井ホールとで2度聴いたD. 960も、紀尾井だけで聴いたD. 959も、驚きに満ちた演奏でした。

一言で言えば、どんな哀しみ、苦しみの中にあっても希望を失わず、常に命が躍動する音楽を書き続けた音楽家としてのシューベルトを描き切った演奏、というのが私の聴後感でした。

カルチャーセンターで河村さんは大略、シューベルト晩年の作品には、梅毒という業病に苦しむ中で罹患前の楽しい時間を回顧する喜ばしげな楽想と、直面する激しい痛み、苦しみ、そして哀しみに彩られた痛ましい楽想のめまぐるしい交代が特徴的だが、自分(河村さん)はシューベルトの本質はオプティミストだと感じる、というようなことを語っておられました。よく「絶望」という表現がシューベルト晩年の作品について用いられますが、絶望とは全ての希望が絶たれた救いの無い状態を指します。つまり、希望など持ちようも無い状態の表現です。そのような大方の視点に抗って、シューベルトの本質はオプティミストであると喝破した河村説(大げさかもしれませんが)に、私は驚くとともに深く共感しました。

例えばD. 944のハ長調大交響曲フィナーレ。一体本当の絶望から、あのように無限の喜びがこんこんと湧き出てくるものでしょうか。いや、絶望の淵にあってこそ救いを求めたくなるのだし、魂の喜びへの渇望が湧き出すのだ、という反論もあるでしょう。しかし、それは言葉の遊びだと私には思えます。そういう小賢しい理屈をこねくり回すぐらいであれば、河村さんに倣って、どんな時でもシューベルトは本質的にオプティミストであった、と言うことを選びたいと思います。

D. 960のフィナーレに込められた希望は、河村さんの演奏によって露わです。重苦しい情趣が支配的なソナタの中にあって終曲は少し軽すぎるのではないかと、以前の私はやや不満に思っていました。しかし、ホロヴィッツの再録を聴いたあたりから、いや、これこそシューベルトがこの曲を絶望の淵に沈めたくなかったことの証ではないかと思い始めていました。その私の漠然とした思いに形を与えてくれたのが、今回の河村さんの発言であり、実際の演奏でした。具体的には、付点音符と三連符の組み合わせ(言うまでもなく大ハ長調交響曲にも特徴的です)が、希望の象徴だというのが今回私が強く感じたことです。希望が、血肉をまとった魂を躍動させる、というような言い方をしてみたくなります。肉体を伴う魂が希望に鼓舞されて踊っている・・・。ここでも、河村さんならではの躍動するリズムが見事です。ちなみに河村さんは、カルチャーセンターで堀先生のご質問に対して、踊ることが好きですと答えておられました。さもありなんと膝を打ったのは私だけではないでしょう。(優れた音楽家と運動神経というテーマでも、いずれ書きたいと思っています。ピンポンの名手であったハイフェッツ、航空機パイロットでカーカーレーサーでもあったミケランジェリ等々。)

世間で決定的、歴史的名盤との評価が高いリヒテルのD. 960の商業録音(他にも彼の同曲のライブ音源は山ほどあります)に欠けているのは、この要素だと今になって思います。無論素晴らしい演奏ですし、「絶望」の深い淵からの叫び、うめきとして至高の表現だと思います。しかし、リヒテルの演奏で聴くと、そうであるが故に、いかにも終楽章の収まりが悪いと思えるのです。喜びに満ちた楽想と思える箇所も、絶望に塗りつぶされた全曲の中にあってはそのように表現することが許されない、とでも言うかのような弾きぶりです。一般に私はリヒテルに対して極めてアンビヴァレントなのですが、ここでも、ソ連という抑圧社会の中で生き抜いた天才芸術家の悲劇、ということを思わざるを得ません。つまりリヒテルの表現は、あの特殊な歴史社会的条件の下であの決断(亡命しないという決断)を行った天才芸術家に固有の表現であると。(あらゆる状況は歴史的産物であり、あらゆる表現は何かしらの決断の結果であるという茫漠とした一般論とは、全く次元の違う話です。)

シューマンについても書きたいことが沢山ありますが、今日はどうしても書きたいブラームスについて書きます。(後日続編としてシューマンについても書くことになりそうです。そのくらいシューマンにも大きな感動を与えられました。)

ブラームスの協奏曲1番。我が偏愛の曲です。2番も素敵ですが、どちらを選ぶかと言われたら、私は躊躇なく1番を採ります。私にとってこの曲の「肝」は、終楽章の最初のカデンツァの後まもなく始まる、上行・下行を繰り返す右手の雄大なスケールとそこに楔のように打ち込まれる左手のコントラスト、そして次第に高揚する音楽が遂にたどり着く二つ目のカデンツァ、この二箇所に尽きます。

二つ目のカデンツァはゲネレル・パウゼになだれ込むのですが、そのゲネラル・パウゼの直前には、ブラームスによってアッチェレランドの指定が与えられています。以前に東さんにそうお話したら、ブラームスにアッチェレランドは珍しいという指摘を受けました。ピアノ以外のレパートリーに関しては彼の博識の足許にも及ばない私は、そうですかとしか返事できなかったのですが、ブラームスのオーケストラ曲には確かに珍しいような気もします。これは、この曲が若書きで、「遅れてきた疾風怒濤」とも言うべき激情に彩られているからだろうと考えます。(聴き巧者である敬愛する友人S氏は「1楽章冒頭からして『クララ!』と叫んでいるみたいじゃないですか!」との卓見を披露してくれました。)いずれにしても、そのアッチェレランドが如何に難しいことか。ここではピアニストの全力量が試されます。

両手が単純な音形を繰り返すごく短い時間の中でアッチェレランドすることがどれほど難しいかは、実例を聴くとよく分かります。ここで討ち死にする例は枚挙に暇がありません。成功例としてホロヴィッツ(ワルターとの伝説的実演の方)、R.ゼルキン、シュナーベルと言った名前を私が挙げるだろうと予想された方は正解ですが、他には、カッチェン、アンスネス、ルプー、フレイレ、そして大好きなカペルを挙げたいと思います。アッチェレランドが始まる直前でテンポを揺らして(緩めて)おいてアッチェレランドに移行するというのはよく見られる解釈で、河村さんもそう弾いています。しかしその移行の自然さには息を吞みます。リズムの弾力性も他に類を見ません。(全曲を通して、音色とフレージングだけでなく、リズムについても固い表現と柔軟な表現、そしてその間に存在する無限のグラデーションを使い分けるのが河村流で、これはもう後天的な訓練ではどうにもならない生来の音楽的才能、本能によるものとしか言いようがありません。)その結果得られるアッチェレランドの圧倒的なことと言ったら! そしてそのアッチェレランドがゲネラル・パウゼに結実する音楽的必然性をこれほど明快に示す演奏も珍しい。

筆がホロヴィッツに及ぶと脱線してしまうのが悪癖であることは、皆さんもう覚悟しておられると思いますので、前段落での言及を受けて少しだけ脱線しますと、ホロヴィッツのワルターとの共演(1936年)はこのあたりの呼吸が実に見事で、河村さんと双璧と言いたくなります。もっともトスカニーニと組んだ実演(1935年)では、あまりにもトスカニーニが直線的に煽るものですから、テンポを揺らす余裕が奪われてしまい、アッチェレランドが驚異的であるのに殆ど印象に残らないという残念な結果に終わっています。今回の演奏のグランド・デザインを作ったのがコバケンさんなのか河村さんなのかは存じませんが、トスカニーニより遙かに遅い基本テンポにより、アッチェレランドとそこに至る高揚を一層強く印象付け、大きなカタルシスを聴衆に与えることに成功したと言えそうです。

ご存じの通り、曲はピアノ抜きのオケのトゥッティで終わりますが、そこでピアノがガツンと鳴らないところが如何にもブラームスらしくて素敵です。演奏によってはそのことを物足りなく感じさせるのですが、流石は河村さんとコバケンさん、そのような愚は犯さず、幸福な全き充足感のうちに曲は終結します。

河村さんの音楽の特質の一つとして、細部に工夫を懲らしつつも「木を見て森を見ない」ことが皆無であるという見通しの良さ、楽曲構造の把握の見事さが挙げられます。そのことに照らしますと、楽曲のごく一部に拘る上記のような印象批評こそ、実は河村さんの芸術の対極に位置するものと言えるかもしれません。本稿をお読みになったら(以前にブログを見ているとおっしゃっていました。)河村さんはきっと、大武さん、そういう聴き方はいけませんよ、とおっしゃるでしょう。でも、以前にも書いたように、これは万人に向けた「批評」ではなく、タイムカプセルとしての私的心覚えなのですから、それでも良いと私は割り切っています。河村さんの思いとかけ離れた聴き方をしてしまっている可能性が大であることを、読者の皆さんと他ならぬ河村さんにお詫びしておきます。

数段落上に、終楽章の二箇所が肝だと書きました。あまりに長くなりますので、そのうちのもう一つの箇所(右手の雄大なスケールの箇所)については、今回は触れないことにします。これまた心を沸き立たせ、終結に向けた高揚感をいやが上にも高めるする素晴らしい弾き振りだった、とだけ書いておきましょう。

よくリストのソナタはピアニストのあらゆる能力・資質を丸裸にする危険なレパートリーだと言いますが、それと同じくらい、いや場合によるとそれ以上に演奏者の全力量を白日の下に晒してしまうのが以上の二箇所だというのが私の持論です。その両者で聴き手の心を鷲掴みにし、音楽が要求する呼吸と拍動を聴き手に身体で感じさせ、夢中な状態の聴き手をコーダまでぐんぐんと引っ張って行く河村さんの力量には、脱帽の他ありません。

このブラームスを含む日フィルのコンサートの全体については、テレビマンユニオンの「Member’s TVU Channel」というサイトで配信が行われています。宣伝料をもらっているわけではありませんが、当日足を運ばれなかった方には(運ばれた方にも)是非とも視聴されるようお勧めします。有料(1000円)の価値は十分にあります。但し、スマホでは当日の感動のほんの一部しか味わえません。iPhoneですとAirPaly、Androidスマホの場合はそれに対応する機能/アプリ(そういう機能/アプリがある筈です)を利用して、テレビ等の大画面に映像を投影し、音はできればテレビ以外のスピーカで聴くという環境を整えることによって、当日の体験にかなり近い感動を味わうことが可能であることを申し添えます。

指揮のコバケンさんが、舞台の奥で河村さんのアンコール(ブラームスのOp 118-2のインテルメッツォ。配信で再度聴いても落涙してしまいます。)に聴き入り、曲の終結に向けて頭を垂れる姿がはっきりと映し出されています。最後に河村さんと一緒に再度ステージに登場したコバケンさんは、感動さめやらぬ聴衆の拍手を制してから、大略次のように話されました:「私たち [ ご自分とオケという意味でしょう ] は茫然と聴き入っておりました。彼女は、世界でただ一人という凄い存在になってくれると思います。皆さん、河村尚子をよろしくお願いします!」

心から出たコバケンさんの感動的なスピーチを聴きながら、私は心の中でこう独りごちていました:「ありがとうコバケンさん。でも、河村さんは既に世界で唯一の凄い存在になっていますよね!」と。

Categories:音楽

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