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鎌倉丸という船を知ってますか

 鎌倉丸は昭和5年の建造で『太平洋の女王』と言われた美しい客船です。元々は秩父丸という船名でしたが鎌倉丸に変更されました。
 私の祖父は処女航海から乗っていて、写真師をしていました。
 当時は政府関係者、皇族も皆これに乗ったものです。祖父の持っていたアルバムには当時の有名人達が載っていて、そのアルバムは現在行方不明ですが、多分最後の住居に有るのでは無いかと推測しています。
 他の船中記録写真は沢山あり、全て従兄弟達の許可を得て日本郵船博物館に寄贈しました。
 常々「いいかツトム(私の本名)。この笛はこれでどんな偉い人でもこちらを向かせたんだ、それくらい写真師は偉かったんだ」と銀の笛を見せてくれました。
 船では船長、一等船客、船医、写真師は毎晩フランス料理のフルコースを出さました。ところが秋田の田舎(大館)出身の祖父の口に合わず、ボーイに自分の船室へ持って行かせて全部鍋に入れ、火にかけ醤油をぶっ込んで食べたそうです。
 豪放磊落な人でしたが、真夏でも出かけるときは背広に中折れ帽子を被り出かけていました。
 鎌倉丸の前には郵船の色々な船に乗りました。
 樺太航路の時なぞはおもしろがってピストルを買い、酔っぱらって機関部と甲板部と撃ち合いになり、一人が耳を打ち抜かれて酔いが覚めたそうです。
 晩年(82歳)港町で3人のチンピラにからまれて、二人を海ににたたき込み、もう一人をたたきのめしている最中に警察が来ると、急におとなしくなり、警察も「こんな年寄りに出来るわけが無い」と不問にされたそうです。
 もう、ああいう明治男は居ないでしょうね。
 ところでその鎌倉丸は戦争になると軍用輸送船として運用されます。
 船が軍に徴収されると聞いて祖父は降りる決心をするのですが、友人の船医は「おまえと俺はこの船で一番長い乗船経歴を持って居る。おまえが降りるなら俺が記録を作るぞ」と言って残り、結局潜水艦に撃沈され亡くなられたそうです。

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    4 comments already | Leave your own comment

  1. 野村 和寿

    2/8/2017 | 3:50 PM Permalink

    トム 市原さま 奇遇にも、ぼくは、日本の船のことを調べるのも、趣味の大きなひとつでして、実は昨日も横浜港山下埠頭に係留されている氷川丸をみにいってきました。鎌倉丸(秩父丸)と氷川丸は兄弟船で、エンジンも同じデンマーク製のB&Wエンジンを搭載していますね。また、以前読んだ「日米捕虜交換船」という本に、アフリカの中立国ポルトガル領マルケスまでこの船が活躍したことがのっていました。横浜にある日本郵船の博物館は、いまでも、昔の立派な建物ですね。鎌倉丸のことは、ウィキペディアには「秩父丸」のところに載っていますね。船の写真師という職業があったというのはすごいですね。いろいろと教えてください。野村
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%B8%B8

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  2. 2/8/2017 | 6:49 PM Permalink

    野村さま
    当時は写真師と「師」がついて、誰でも撮れる時代ではなかったのですね。
    現代のデジタル時代から見ると隔世の差がありました。
    郵船には7人の写真師が居て、祖父が花形の「鎌倉丸」だったのです。
    郵船博物館には他の写真師の記録があったのですが祖父の記録だけが無かったそうで寄贈して大変喜ばれました。
    ほとんどが暗箱と言われる箱に全面にレンズ、後ろに乾板を入れる部分があって、レンズの蓋を開け、磨りガラス上でピントを合わせてからレンズの蓋をして乾板の曳蓋を抜き、発火装置の上に距離に応じてマグネシウムを載せます。
    これにはゼンマイでライターの石が付いて居てレンズの蓋を開けると同時に発火させます。発火が終わると素早く蓋をして、乾板の曳き蓋を降ろします。
    ご存じと思いますが、これら一連の動作やレンズの蓋を開けている感覚で露出が決まっていました。
    小生の父は米軍の写真店だったのでもう、フラッシュバルブの時代だったです。
    22歳で東京の大手の写真館に入ったときはレンズが自動になった以外は昔と同じで驚きました。
    ストロボが使われるようになってフラッシュバルブ時代も終焉を迎えました。
    ところがバルブの閃光時間は30分の1、ストロボは2千分の1でシャッターの設定を間違うと失敗する場合がありました。
    小生はダイビングでニコンのニコノスと言うカメラを使っていました。
    フラッシュバルブを網の袋に20コ位入れて水中で発火させました。
    やがてストロボが一般化され、アクリルでケースを自作し水中に持ち込みました。
    しかし、絶縁が悪かったらしく、シャッターを押すとリークして水中で痺れましたね。

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  3. 野村 和寿

    2/9/2017 | 5:19 AM Permalink

    トム市原さま 今度郵船博物館に出向いて、お祖父様のおとりになった写真を見てこようと思いました。乾板の写真は乾板自体が、フィルムと違って、なかなか劣化しにくいそうで、それで、江戸時代の写真とかが、残っていると聞いたことがあります。ぼくが小学校のときの、1960年代は、小学校の卒業写真にはマグネシウムが使われていて、写真をとるときに、ぼっといって光ったので驚いた覚えがあります。ぼくのレンズの修理をしてもらっているお店は、桑原カメラというのですが、昔、麹町のなんとかいうお店に奉公していて、その際に、土門拳や木村伊兵衛のカメラの手入れや、新聞社が報道でつかっていたベス単と呼ばれるカメラのメンテナンス、アサヒカメラで新製品を分解して分析するという企画の分解などをやっていたそうです。ぼくも編集者で、長い間、スタジオワークに同席させてもらっていましたが、フィルムカメラの時代は、カメラマンの工夫のうでのみせどころでしたね。ストロボを7台も交互に光らせるとか、モデルの後ろにゼラチンをはって、そこに、ストロボをあてて光らせるとか、みんなカメラマンは工夫をして写真をとっていたのを懐かしく思い出します。

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  4. 2/9/2017 | 6:27 AM Permalink

    野村さま
    その通りでフイルム時代はカメラマンは工夫の仕方が独自の方法があって、たとえば、アオリを使って前後全てのピントを合わせる、建物の上下を同じサイズにする、カラーではフイルターを選び情景をイメージ通りにする、などそれぞれ独自の工夫がありました。
    昔の「写真屋」はあらゆる分野の写真が撮れて一人前だったのですが、今ではカメラが全て自動でやってくれ、足りないところはパソコンで補うのが普通ですね。
    アメリカでコマーシャル写真をやっている人と話しているときに「グラスのビールを撮る時に我々は塩を少量入れて泡を出す」と言うと「こちらでは砂糖を使う
    」と言い、「日米の民族性の違いかな」と、笑いあった事が有りました。
    みなそれぞれの秘伝(?)があって本には専門家は肝心の所、自分の工夫は書かないのが普通でした。
    結局は皆同じ事やっていたのが後で判る始末でした。
    今でも暗室をお持ちですか? だったら楽しいでしょうね。

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