録音ビジネス
2017 JUL 16 10:10:22 am by 西村 淳
ゲオルク・ショルティのCDを蒐集しはじめた。
ショルティの生きていた時代は録音の時代。語り尽くされた「ニーベルンクの指輪」に象徴されるようにアナログ録音の技術がその頂点となっていたのは1958年から65年。同じ1958年にウィーンフィルとのベートーヴェンの「運命」をDeccaのオリジナルLPで聴いた時、そこから飛び出し来る音の物凄さは心臓を鷲掴みされたようなものだった。演奏よりもそちらのほうに耳が行ってしまっていた。
最近のクラシックのCDでリリースされているものはライヴ録音がほとんど。お金もかけず、手間ひまかけずに製作コストを切り詰めて出されるものが多いが、コンサートそのものは一回性というものが基底にあって、それはその場に居合わせることを前提にしている。どれほど素晴らしいコンサートを録音したものであっても、奏者一人ひとりが全部100点をとれるわけがなく、当然傷もある。記録である。それを承知で買うことになるが商品としてはある意味では欠陥である。一方セッション録音というものはいつでも、どこでもそして誰でもが「繰り返し」きくことを目的としているので、何度も修復を重ね、極力「欠点」のない仕上がりにしようとしている。
ショルティはとても厳しい指導をし、要求をする指揮者だったようでミスは許されなかった。その姿勢は録音という現場ではより徹底されていたに違いないし、Deccaという稀有の録音スタッフとの共同作業はこのビジネスモデルの最高のものを送り出した。
最近入手したベートーヴェンの交響曲第4番、第5番(Decca 421 580-2)、では胸のすくような演奏を繰り広げる。演奏の中に引きずり込まれるような強引さを感じるが、前述のウィーンフィルとやった5番ほどのアグレッシブな感じは後退している。しかしこのシカゴ交響楽団とのまろやかな中にも各楽器の分離、鮮明さはどうだろう。ショルティの円熟だけではない、録音技術の円熟も加味されているのだ。
CDがなくなると言われ始めてから久しいが、実際にはCDがなくなるのではない。セッション録音という20世紀のビジネスモデルが失われたのだ。今や画像をプラスしたビジネスモデルの模索が始まっている。
デジタル・コンサートホールのようにYoutubeにアップされてもPCの小さなウィンドウから映し出されるものは箱庭的でチープだ。これからどうなっていくのかは誰も知らない。
20世紀に人生の大半を送った人間にはショルティの録音には痺れっぱなしだ。これでいい、これがいいのだ。
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東 賢太郎
7/16/2017 | 12:37 PM Permalink
西村さん、ご説ごもっともで賛同いたします。ショルティのエロイカをチューリヒで聴きましたが、2楽章の巨魁な表現は異次元のもので、一生忘れえない衝撃的な演奏でした。ああいう音をオーケストラから抉り出すということは彼の人物の問題であって、普通の人でないわけです。そういう人だからこそ出る音だと感じ入ったものです。
ではあれを録音できるかというと、CDにもなっている例をとりますと、C・クライバー/BPOのブラ4がありますが、あんな演奏がスタジオセッションでできるとは思いません。しかし一方で、それをCDで聴いてみて同じ感動を味わえたことは一度もありません。つまりライブ録音であれスタジオ録音であれ、家で味わえるものは限界があるという悲しい結論になってしまいます。
ライブの良さは演奏者にも聴衆にも一期一会である、つまり二度はないであろう奇跡的な演奏に立ち会った喜びという要素があります。それは「体験」ですから記録はできず、HiFi録音だろうと動画付きだろうと所詮は録音だから記録に過ぎません。その場にいないと仕方なく、そこで生起した雑音でも心のざわめきでも全部が音楽の要素なのだ。ジョン・ケージが「3分44秒」で語ったことであり、僕はこれに賛同します。
ところが先日読んだ「脳の中の能舞台」(多田 富雄・著)は「能舞台は頭の中で再現できる」という根本的な主張から劇としての能の特性を説いた名著で我が意を得たりの思いでした。それは僕が飛行機の中でスコアを見ながらブラ4を音なしで「聴いている」のと同じことです。演奏会場での体験が一切介在しない。音楽にもそういう聴き方があるということでしょう。
体験は捨象して音楽と向き合うこと。これには演奏家の信じる「イデア」を刻んだスタジオ録音が適しています。冒頭の録音の限界性を否定できる、むしろ録音にしかできない効用でしょう。ショルティの録音はそれを達成したメルクマールと思いますし美学の相違はあってもカラヤンの録音も同様でした。これが消滅しつつあるのは商売として成り立たないからで、どうしてかというと音楽と向き合う聴衆が減ってきたということでしょう。
西村 淳
7/16/2017 | 2:54 PM Permalink
東さん、コメントありがとうございます。
ライヴは演奏家にとって唯一の自己表現の場になってしまうかもしれません。そして唯一残されたお金を稼ぐ場に。
失われたビジネスモデルはアメリカのオケに軒並み赤字を強いているようにも思います。逆にショルティのいたころのシカゴは体操裕福だったに違いありませんね。また家にあるトスカニーニの「くるみ割り人形」、26Sなどという刻印があります。もうVictorは笑いが止まらなかったに違いありません。
作曲家はまだ出版という手段が残されているし、著作権にも守られていますが演奏家にはそれはありません。他人事ながらこれからどうやって食べていくんでしょう?
「脳の中の能舞台」はあとで読んでみますが、ブラ4を音なしで聴ける人はそうはいません。私の周りでそのような特殊能力を備えている人は東さんだけです。コンサートに足を運ぶ必要がなくなるし、それこそ演奏家が不要になってしまいます。
野村 和寿
7/18/2017 | 10:10 AM Permalink
もともとデッカはクナッパーツブッシュでリング全曲録音をめざし、とっかかりに1957年のワルキューレの1幕をステレオ録音しました。このことはプロデューサーのジョン・カルショーもふれています。ところが、クナは録音嫌いだったので、断念し、なんと3ヶ月もスケジュールがあいていた若きショルティにリングを託したと読みました。ショルティのリング録音のときのBBCのドキュメントはDVDで出ていますが、素晴らしいですね。
西村 淳
7/22/2017 | 1:17 PM Permalink
野村様、クナッパーツブッシュ!
この人のワーグナーのスケールの大きさ、抉りの深さは最高ですね。ほかの指揮者のものは消し飛んでしまいます。
もしリングが完成していたらそれこそ世界遺産だったのでしょうけれど、いわゆるDeccaSoundというものとはどこか相いれない音楽のようにも感じます。
DeccaSoundは1958年のショルティに始まり、そして1997年の彼の死をもって終焉を迎えるのでしょうか。私の人生はどっぷりとこの40年に浸かっていました。キングの音はいいなあ・・なんて。
野村 和寿
7/18/2017 | 1:54 PM Permalink
https://www.youtube.com/watch?v=nkOiKy6sXfM
ワーグナーのリング 神々の黄昏 ショルティのジークフリートの葬送行進曲の録音風景です。
maeda
7/19/2017 | 12:59 PM Permalink
野村さんがコメントされているように、クナはワルキューレの1幕だけになってしまいましたが、これは良い演奏ですね。音も良いし。
私は、このところ、絶滅しつつあるセッション録音に四苦八苦してきましたが、1年半の苦闘の結果をようやっと送り出しました。やってはみたものの、出来は、ほとんど継ぎはぎもしていないこともあり、傷だらけです。今までに録った無数のtakeをモザイクのようにつなげれば、もしかしたら、まあまあ聴ける代物になるかもしれません。これから提出先と詳細な打ち合わせをしなければいけないのが少々気が重いところ。それでも、ライヴとは比較にならない完成度を求められることはよく分かりました。また、1枚のCDを制作するのが、どれだけ割に合わない手間がかかる作業であるかも実感しています。人間は一度きりの演奏であれば、聴き飛ばしていることが多いのでしょうけれど、CDは何度も聴かれても大丈夫なレベルで、しかも2回聴かないと伝わらないような表現ではダメです。東さんにお世話になりましたジュピターのコンサートは、お陰様で好評でしたが、アマチュアの技量でもライヴなら音楽を伝えることは可能でありまして、よく考えてみると、大戦中・戦後はベルリンフィルも下手だったにもかかわらず、名演は沢山生まれています。バイロイトの第9も3楽章は悲惨です。伝説になってしまうとCDにもなりますが、普通はこのレベルではCDにはならないでしょうね。
東 賢太郎
7/20/2017 | 9:41 AM Permalink
前田さん、大丈夫、野村君の本にクリフォード・カーゾンがブラPC1のセッション録音で終楽章冒頭ソロを何度やっても間違える話がのってます。演奏会場でもシュナーベルはモーツァルトPC23を途中で忘れてやり直したとかストラヴィンスキーに至っては自作のPCの緩徐楽章の入りを忘れて指揮者が耳打ちして教えたとか、皆さん人間だから緊張するといろいろあります。
でも完璧なれどつまらない演奏というのも多々あって、曲が曲なら、例えばオケでいえばベト7を完璧にやられたらブラボーの一つも飛びますが田園はおそらくそうはいかないです。完璧といっても傷がないというだけで、それだけで充足できてしまうように(それはそれで巧妙な作曲法で)書かれた曲と、それだけでは済まない要素に重みがある曲ということでしょうか。
僕は後者の傾向の曲を多く愛するので、例えばラインとかブラームス4番ですね、趣味の合わない演奏を聴かされるぐらいなら自分の頭の中で再生する方がよっぽど感動します。何十年も辟易してきたんでそういう芸が身についてしまいました。ルービンシュタインは動機は違うのでしょうがブラームスの3番をそれで聴いていて、電話がかかってきて中断したら音楽は第3楽章に差し掛かっていたとどこかに書いてました。
西村さん、『脳の中の能舞台』がそのことを言ってるのかどうか、僕はついこの前に人生初めて能を観ただけの人間ですから僭越ですが、関心が出て本を漁ったらこれに当たりました。面白いですよ。クラシック音楽以外にそれやっても甲斐なしでしたが、それをしてる人がいるとすると能は楽しそうだなと。著者の多田富雄氏は東大医学部教授ながら能を自作したり小鼓もやるとあったのでお会いしてみたいなと調べたら残念ながら故人でした。
maeda
7/20/2017 | 10:17 AM Permalink
東さん、ありがとうございます。
提出先とSkypeで打ち合わせを終えました。
私の場合はほとんど切り貼りなしで、楽章毎に一か所間違えたら最初からやり直しをしており、商品になるには傷が多すぎるとがっかりしていたのですが、提出後に、3日間くらい集中的に作業して200-300テイクほど取るものだと聞いて、やり方に無理があったと理解しました。
かの国では、大学院生もCDを作っているよ、あなた方なら出来ると言われ、うまく乗せられている感じもしないでもありませんが、次をどうしようか考えないと。
西村 淳
7/22/2017 | 3:09 PM Permalink
前田さん
アマチュアではとても経験できないことをやってのけたことにブラーヴォです。おめでとうございます。
もう何十年も前の話になりますが、一度だけ録音の現場に立ち会ったことがあります。小林道夫先生に誘われて、オルガンとトランペット(田宮堅二さん)のための録音で場所は上野の石橋メモリアルホール、録音担当は斎藤宏嗣さん。セッションは2日間にわたって執り行われました。
200-300テイクにもなりませんでしたが、一楽章まるまるということはなく、途中でどのように録音されているかを確認するためにオルガンからモニタールームまで階段を走って上ったり下りたりしていた先生を思い出します。それは大変な運動量でした。
今思うと、この役割はエンジニアがやるべきだったのかもしれませんが、見ている、聴いているだけの私にとっても特別な経験でした。もちろん東芝EMIからレコードとして発売されました。
この時の先生の言葉で覚えているのは、一枚のレコードを作るんだったら最低3日はほしい、つぎはぎをやるんだったら、演奏家はスケールを弾いて渡せばいいんだ、なんてシニカルなことも。あまり録音がお好きではなかったのかもしれませんね。