静けさの中から (2) スフォルツァンドをめぐって
2017 AUG 5 20:20:17 pm by 西村 淳
☘(スーザン) スフォルツァンドをめぐって
『演奏会の日が迫り、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲ハ短調を練習している。・・(中略)・・
ゾルタン・セーカイ教授のレッスンでの一コマである。
楽譜にベートーヴェンの手でp(ピアノ。弱い音量で)の指示が書き込まれているパッセージで議論が始まった。問題は、このパッセージの全体にpと書かれているのと同時に、その中の特定の音にsf(スフォルツァンド。この音だけに突然アクセントを付けて)の指示があることだ。1小節から2小節おきにsf。一定の間隔で並んだsfの行きつく先は、f(フォルテ。強い音量で)。つまりpで始まりfに行きつくパッセージというわけだ。その間にクレッシェンド(だんだん強く)の指示はない。
議論の的になったのは、一連のsfがどのような意味か、である。弱いpからはじめて、sfを超えるたびに徐々に強くしていき、fに至るのか。それとも、sfのついている音だけ、それぞれ「突然強く」弾き、ほかの音は影響されずに弱いまま、fで突然全体を強くするのか?
私達トリオ三人も、リハーサルのときにこの部分には気づいていた。でもそれほど大事ととは思っていなかった。どちらの弾き方も突飛に聞こえないし、音楽的に無理なことと思えなかったからである。
でもセーカイ教授は違う。こういう問題を気楽に考えるなんてできないのである。』
?(私) 楽譜に書いてある通りに弾く、まずそれが大原則のクラシック音楽の演奏法ながら、上のような問題には頻繁にぶつかる。逆にそれはイマジネーションの泉でもある。楽譜は不完全なものだと言う。でも書きすぎている、書かれすぎている楽譜は窮屈で窒息しそうだ。
練習ではこういった問題が起きるたびに一緒にやる仲間たちと意思統一を行い、バラバラにならないように努めなければならない。どちらの可能性も否定できない場合にはリーダーがその方法を決める。こうしてライヴ・イマジンの演奏スタイルを統一している。さて・・そうは言っても統一は簡単ではなく、技術的な不足、裏付けのないフィーリング、弾きやすさ、そして【経験】で決めているところはやはり甘くなりがちで、妥協の産物となってしまう。かといってそれほど深い博識があるわけではないし。こうなるとやはり田崎先生の登場と相成るわけである。実際レッスンの前と後では全く違う音楽になっていることに驚く。
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東 賢太郎
8/7/2017 | 2:49 AM Permalink
僕にとって知っている曲を聴こうという最大の動機は「解釈」です。30分の曲でまったく同じ演奏というのは人間のすることですから絶対にないわけで、あらゆる表現要素で差が現れますが、技術的な制約で不可避に出てしまう差でない部分を「解釈」と呼ぶのが普通でしょう。
解釈に新味は必要ではなく、オーソドックスながら演奏家の主張が聞こえて感動する場合も、新奇で熟考はされていても小手先に感じるのもあります。オケは複雑ですが少人数のアンサンブルやソロだと僕は奏者の人間性が聞こえているように思います。録音が売られるレベルの演奏となると聞き手の好みではありますが、結果論的には自分と音楽性、たぶん性格や人間性が似た人の演奏を知らず知らず好んでいるようです。セーカイ教授の言われる問題を気楽に考える人とは絶対に気が合いませんから、いくら名手でも聴かないと思います。
西村 淳
8/7/2017 | 6:37 PM Permalink
「神は細部に宿る」というのはどんな場合にもあたりますね。なんか締まりのない演奏だなと思ったりするのは、こういうところをきっちり整理できているかどうかにかかるのでしょう。これは解釈でもあるし、たとえば縦線を合わせるという基本的なところにもあらわれます。
練習の時、指揮者のいない室内楽ではこういったことが頻繁にでてきます。ましてカルテットになると、同質の楽器が自分の他に3人もいるわけで大変です。
きっと、わからないだろう、わかるわけがない・・とんでもない!絶対にばれるからオソロシイものです。
セーカイ教授、バルトークの薫陶も受けたハンガリー・カルテットのファースト・ヴァイオリンでした。その割にはと言っては失礼ながら、あまり感動した記憶もないのですが。