暗譜について追記
2017 AUG 19 19:19:14 pm by 西村 淳
たまたま読んでいた「ショルティ自伝(草思社)木村博江訳」に暗譜のことが出てくる。この本はショルティが正直に、本音で語ってくれる、彼の音楽そのもののような感じだ。
暗譜の記述はショルティが1942年のジュネーヴ・コンクールで優勝した時のことに出てくる。このコンクールの第1回の優勝者はミケランジェリだ。課題曲はバッハのパルティータ・ハ短調、オトマール・シェックのトッカータ、シューマンのクライスレリアーナ、ドビュッシーの歓びの島、そしてもう一つはベートーヴェンのOp.110の変イ長調のソナタ。弾くだけでも気の遠くなるような難曲がずらりと並んでいる。
以下に本から引用するが、私が暗譜をしない、できないことへの正当化の根拠が出てくる。結末は本を読んでいただきたいが、譜面をおいて弾いていてさえ、書いてあることが目に入らなかったりすることはよくあること。目で覚えることの出来る人たちは、そうじゃないと言うのだろうか。こういったことは誰にでも起きることで、私だけが無能なわけではないはずと信じている。
『控室のピアノに向かい、指慣らしにベートーヴェンのソナタ終楽章のフーガを弾き始めた。3度目に主題が出てきた後、突然その先がわからなくなった。すべて頭に入っている自信があったので、楽譜は持参していなかった。どんなピアニストにも付きまとう悪夢が現実になったのだ。私はもう一度最初から今度は早目に弾きなおしたが、その箇所になると記憶が途切れた。まずいことに私はいつも曲を頭でではなく指でのみ記憶していた。-純粋に肉体的な筋肉の記憶である。これは最悪の方法だが、私はずっとその方法で暗譜していたのだ。その昔リストの弟子が自分は暗譜で弾けると自慢した時、リストは言ったという。「じゃあそこに座って、その楽譜を書いて見せてくれないか?」まさにその通りだ。一つの曲を記憶だけで、正確に書き写せたなら、そのときにこそ曲の細部まで確実に把握していると言えるだろう。・・・私は完全にパニックに陥った。』
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東 賢太郎
8/20/2017 | 12:43 AM Permalink
ショルティ自伝は出たころ読みました。20年ぐらい前ですか。たしか本番は逃げようとしたがつかまって、でも弾けて優勝したのでしたね。これはときに漢字を、しかも簡単なのを、あれっと忘れてしまい考えれば考えるほど出てこないのと同じなのでしょうか。その本だったと思いますが彼は確かザルツブルグでトスカニーニのコレペティトゥーアをして認められて魔笛のグロッケンを弾いたはずです。CDがあります。あんまりいい魔笛じゃないですが。
西村 淳
8/20/2017 | 7:38 AM Permalink
ショルティは「新世界から」から始まりました。それも数年前のことです。昔、レコード芸術誌などの評論でほとんど評価されないどころかこき下ろされていたのと、ウィーン・フィルと一緒に来日した時のぎくしゃくしたロボットみたいな指揮姿をみて、距離を置いていました。その後この自伝を手に取り、録音を集中的に聴くようになっていまでは大好きな演奏家の一人になりました。デッカ+シカゴ+ショルティだから出来たのかもしれません。DG+シカゴ+アバドあたりでは特別なものではなく、普通なものですね。ウィーン・フィルをあれだけドライブできる指揮者はほかにはいません。ところでトスカニーニのこの魔笛が残っているとは知りませんでした。探してみます。ありがとうございました。
東 賢太郎
8/20/2017 | 5:42 PM Permalink
Deccaのカルーショーがショルティを売り出そうとウィーンフィル(VPO)で「ワルキューレ」第3幕とアラベラをやって、ショルティがベートーベンSymをやりたがったので仕方なく3,5,7番を録音したのです(「レコードはまっすぐに」ジョン・カルーショー著)。VPOはフレーズ冒頭の和音を正確に揃えないほうが温かいと考え、ショルティはそれをみっともないと考え折り合わず、ショルティは「ウィーンでいちばん好きな道は空港にむかう道路だ」と言い、コンマスのウィリー・ボスコフスキーが「ショルティを絞め殺してやりたい」と言ったそうです。その3,5,7番は日本の批評家からボロカスだった記憶がありますが僕は好きですよ(特に3番は素晴らしい)。
西村 淳
8/20/2017 | 6:14 PM Permalink
5番のオリジナルLPの音は腰が抜けるほど凄いものです。
もちろん演奏も鬼気迫るものがあります。
おそらく同じ時期の3も7もそうなんだと思いますが、ウィーン・フィルをここまでドライブした人はこの人だけでしょう。曲の良さがはっきりわかります。出だしが合わないほうがいいとはよく言うよ、と感じますが、ザルツブルク音楽祭でのトスカニーニの魔笛はどちらが妥協をしたのでしょうか。トスカニーニ、まさかそんなことは許すわけがないと思うのですが。
東 賢太郎
8/20/2017 | 11:10 PM Permalink
VPO楽団長シュトラッサーの著書「栄光のウィーン・フィル」によると敬意を持って迎え、事前にどうすれば彼を怒らせないか予習したようです。トスカニーニは決して専制君主ではなく、古参のヴァイオリン奏者が逆にキレるとなだめたりしたそうで関係は悪くなく、VPOの側からリハーサルを延長してくれと頼んだりもしたそうです。そのくせ陰でトスカノーノーとあだ名をつけ、オーボエセクションはわざと慣れない奏者を第1に据えて、何小節目でトスカニーニが爆発するか賭けをしていたそうです(笑)。VPOはまじめ一点張りじゃないんです、なんとも老獪でしたたかな連中です。なんたってウィーン人ですから。
maeda
8/21/2017 | 9:42 AM Permalink
暗譜には大きく分けて3つの方法があります。フォトコピイング・メソード、音で覚える、体で覚えるというものですが、指揮者はフォトコピイングでしょう。画像は情報量が多いので、沢山の情報を扱うのには向いているはずですが、私も楽譜を書き出すほどに覚えるのは苦痛を感じます。ただ、誰でも、おそらく風景とか顔して楽譜をアバウトに記憶する、右の上の方が細かかったとか全体合奏だったとか、くらいは出来るのではないかと思います。そういうアバウトな情報でも、繰り返しが何回続くかとか、再現部に入るのか展開部に入るのかなどの大きな構造を暗譜するのには大いに役立ちます。このフォトコピイングと、音で覚える、体で覚えるという手段を総動員して、中程度の詳しさの情報は音で、細部の構造は体で覚えるようにすると、複雑な大曲でも何とか収納できるように思います。尤も私の場合は、きちんと覚えたのは1パートのみなので、偉そうなことは言えません。
西村 淳
8/21/2017 | 8:37 PM Permalink
maedaさま、ありがとうございます。暗譜の話でした。
指揮者がフォトコピーというのはなんとなく理解できるのですが、フォトコピーとその譜面が音として再生できるということは別のことですよね?
ただどうも、その音として頭の中で鳴る人がいるようなのです。コンサートに行く必要はないという・・。
maeda
8/23/2017 | 8:34 PM Permalink
別なんじゃないかと思います。フォトコピイングは、本当に写真のように画像として覚えて、演奏するときは頭の中で譜面をめくって読んでいる状態だと思います。音として鳴るというのは、暗譜でなくても手元に譜面があって見ながら音が鳴るというのと同じじゃないかと思います。
ところで、ナンシー関(故人、消しゴム版画作家)の記憶スケッチというシリーズがあって、ネットでも見られますが、身近な素材を記憶で描いて応募して傑作を集めたものですが、爆笑です。曖昧な画像記憶のオンパレードですが、では、自分がどれほど正確に描けるかは、例えば、世界地図とか日本地図とか、あるいは、普段自分が使っている持ち物とか車でも良いのですけれど、記憶で描いてみると、意外なほど抜けがあったりするものです。楽譜の記憶で抜けがあったらやはりダメですよね。
西村 淳
8/25/2017 | 5:15 AM Permalink
さっそくナンシー関の記憶スケッチを検索しました。たしかに人の記憶の不確かさを嗤えますが、もしこれがフォトコピーできる人だったら正確に書けるかな、とも。私だったらきっと無理。
表現する技量の問題も大きいかもしれませんね。楽譜のフォトコピー能力は演奏能力とまた別の才能なんでしょう、きっと。