日本の歴史に翻弄された音楽作品
2018 MAY 3 22:22:36 pm by 西村 淳
大日本帝国は皇紀2600年の記念行事の一つにその当時の大作曲家に作曲を依頼している。1940年、日米開戦の1年前のことである。リヒャルト・シュトラウスという大立者に依頼している事実を知った時、びっくりしてしまったが、その作品がこの人の管弦楽曲であるにも関わらず、録音はおろかほとんど演奏の機会すらなかったのには、二度びっくりだった。フジタ等の戦争画と同様、やはりその成立ちが大きな影を投げかけているのであろうか。ところがシュトラウス以外にも委嘱を受けた作曲家が何人かいたし、以下がそのその全容である。
・ ブリテン(イギリス) シンフォニア・ダ・レクイエム
・ ピツェッティ(イタリア) 交響曲 イ長調
・ リヒャルト・シュトラウス(ドイツ) 日本建国2600年祝典曲 Op.86
・ イベール(フランス) 祝典序曲
・ ヴェルシュ(ハンガリー) 交響曲
この中であまり馴染みのないのはピツェッティとヴェルシュ。一方、訳あり(どう言い訳しようと、レクイエムはないでしょう)で却下されてしまったブリテンとイベールはその後も演奏される機会に恵まれている。こうして見ると枢軸国側にあったシュトラウスやヴェルシュ、ピツェッティはろくな評価をもらっていない。うがった見方をすれば戦後処理がそのまま反映されているのではないだろうか。
「いや、つまらん作品なんだ所詮」、という意見もあるかもしれないが前述した通り演奏機会に恵まれず、判断のしようがないというのが実情だ。皇紀2600年オーケストラの録音で
イベールの作品は「あかとんぼ」の山田耕作が行っている。写真では10人のコントラバス奏者が写っており(公式には12人)160人ものマンモス・オーケストラはまるでシモン・ボリバル管弦楽団を思い起こし苦笑してしまった。
そんな折、ピツェッティとイベールの楽譜が手に入った。おそらく印刷製本されて作曲者のもとに届けられたものと同じものであろう。1940年発刊とある。
曲の内容と言うより日本人として歴史の中にあった西洋音楽との接点をこれらの楽譜感じることが出来る。見る、触れる・・それはモーツァルトの自筆譜ファクシミリを手にしたときの感覚と似ている。300万人の犠牲者を出した大きな戦争に突入する直前、平和を信じ、世界の仲間入りをしようと背伸びをしていた痛々しい時代を映す、滑稽にすら見える哀しい感覚。人によってはゴミ、ただ私にとっては心の拠り所の一つとして大切なものである。
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maeda
5/4/2018 | 8:59 PM Permalink
これはこれは。この辺りの話は、北テキサス大のジャクソン教授と情報交換した路線に近いです。要するに日本政府は、体制維持や国家称揚の宣伝のために権威ある作曲家に作品を委嘱した訳ですが、それに協力しようと考えるかどうかはそれぞれの作曲家自身の問題です。Rシュトラウスは、ナチ体制下でオーストリア併合時にウィーン祝典曲を作曲しウィーンフィルを指揮してヒトラーの凱旋を祝った人。当時のドイツを代表する作曲家で体制派の中核にいることによって音楽界を守ろうとしたと言えないこともありませんが、同じ時期に日本の音楽界を代表する似たような位置にいたのは山田耕作でしょう。彼も体制賛美の作品をいくつか残しており、例えば「大陸の黎明」(たいりくのしののめ)はCDにもなっていますが、これが全く面白くもない管弦楽曲で、苦労して入手しましたが聴いてがっかりでした。Rシュトラウスは戦前に芸大にも来ていますよね。残念ながらそのときの録音は残っていないようです。
東 賢太郎
5/8/2018 | 11:06 PM Permalink
ブリテンのレクイエムはたまたま米国で買ったプレヴィンのコープランドのLPに入っていて知りました。ブリテンともうひとりヴァイオリニストのミルシテインが日本嫌いだったようで、それが理由でこっちも嫌っていた時期がありました。R・シュトラウスはオーストリアでなくドイツですね。ワーグナーみたいな曲で歌劇『カプリッチョ』を書いたころの作品。海、桜、火山、侍、天皇、の標題があって、同盟国だから一応まじめに作ったようですね。
西村 淳
5/9/2018 | 5:08 AM Permalink
早速訂正させていただきました。Rシュトラウスは当時の政権に尻尾を振った人でしたが、政権なんか何でもよかったのでしょう。フルトヴェングラーにもその気配はありますね。かと言ってもトスカニーニが立派な人だとは思えません。生きるだけでも大変な時代だったわけですから。山田耕作もなんとなく影があります。
一方、ブリテンは中学生のころ「青少年のための管弦楽入門」なんてのを聴かされた以来のつきあいですが、もう一つ馴染めない。勉強するしかないならOp.1のシンフォニエッタに取り組もうかと考えています。
それにしても曲の出来ということからすると、この2600年の曲はどれも外れ感が強いですね。
東 賢太郎
5/9/2018 | 11:10 AM Permalink
行った事もなく愛着もない国の讃歌を書けと言われてもインスピレーション湧かないでしょうね。画家にとっての肖像画もそうでしょうが、それでも描けてしまうのが音楽との違いと思います。
maeda
5/9/2018 | 12:47 PM Permalink
作曲を委嘱した体制側は、作品の音楽としての価値を理解できたのか、は多少気になるところです。往々にして、体制は中身より権威を重視しますから、ショスタコも権力者が喜ぶような説明をしておけば音は本音を語れた。音では嘘は付けないので、どんなに壮大に書いても気乗りしなければ空虚になります。権威に頼る例は古今東西沢山ありますね。
西村 淳
5/9/2018 | 6:38 PM Permalink
体制は中身より権威を重視、まったくその通りで本質的なところが問題にされることがないようです。それは勉強不足であったりもするわけですが、システムの問題なんでしょうね。
それと当時欧州に暮らす人間にとってアジアの大半は植民地だったわけだし、たとえ植民地ではなくても空気は上下、そしてなんの罪悪感もなく差別もあったはず。そんな人たちに何かを委嘱したところで本気で取り組もうなどとは思わないでしょうね。おまけにお人よしたちはブリテンにお金まで支払ったそうです。武満徹がフランス革命200周年で委嘱作品を作ったのとは大違いでしょう。
maeda
5/13/2018 | 11:36 AM Permalink
もう蛇足なので、この辺で止めておきますが、体制が中身より権威を重視する理由は、中身では体制や権力の維持に役立たないからです。国民がよく分かっていて変な中身のものを賛美することが世論に響くようであれば、体制は無視する訳にはいかなくなります。どうせ分からないだろうと高を括られているし、作曲家からしてみれば、中身を良くするよりド派手にするとか発注者に合わせた作品になっておかしくないです。ブリテンはレクイエムなんて標題を付ける分、若かったしある意味正直だったのかもしれないと思います(個人的事情と言っているようですが)。
西村 淳
5/15/2018 | 10:07 PM Permalink
ブリテン、日本嫌いときいて、なんだかこちらも嫌いになってしまいました。なんでこんな奴に・・やたら難しい無伴奏チェロの作品を書いたり。やたらと上手なロストロ親父とのアルペジョーネ・ソナタのピアノパート。しばらくは見て見ぬふりをすることに。