静けさの中から (9) 解説書付き
2018 MAY 15 22:22:57 pm by 西村 淳
☘(スーザン):朝食のトーストを焼いていたら、ラジオからバッハの「マタイ受難曲」が流れて生きた。美しいありあ「成し遂げられた」である。十字架にかけられたイエスが最後に口にしたと伝えられる言葉だ。
一緒に聴いていたボブが、このテーマは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタOp.110の緩徐楽章に出てくるテーマと同じだという。わたしはこれまでOp.110を何度も演奏してきたけれど、この曲がマタイ受難曲のこのフレーズを引用していたとは全く知らなかった。Op.110の緩徐楽章では、ベートーヴェンはかの有名な「嘆きの歌」(悲歌)を展開する。ここで「マタイ」のアリアを使ったのは明らかに意識的なことであったろう。
それを今まで知らなかったとは。そのことは素直に恥じている。けれでもこの事実を知ったことによってベートーヴェンのOp110に対する畏敬の念がさらに別次元に達するように増したかというと、そうではなかった。ベートーヴェンが最終楽章の終わりでこの嘆きの歌にたどり着くまでの流れ、、全体の構成の中での位置づけ、意気消沈しきったリズムの開始。そこから主題が展開していくありさま、旋律の断片、そして再び沈み込む・・このすべてが、彼が訴えたかった意味を明快に伝えているからである。
これはベートーヴェンが、自らの作品そのもので全てを語りつくしたことを説明しているわけで、最高の賞賛に値する。それにくらべてこれまで何度、この曲にはこのような意味があり、何某を引用していますと飾り立てられたことか・・まるで実態よりも素晴らしいものに仕立て上げようとするように。
?(私):ベートーヴェンのOp.110のソナタは私も大切にしている曲。でも目からうろこの落ちるような話!知らなかったなあ。
でもこの意見には迷いがありました。やはり作品の背景とか、作曲動機とかそういったことを知らなければ曲を理解できないのではないかという懸念。とはいっても書かれた音符そのものが語る、語らせるわけで、それ以上のものはないという考え。知らないよりも知ったほうがいい、というのはこの場合は当てはまらない。知ったからといって、表現が変わるなんてことは本当にないか?いくつかの項目をあげると
フレージングが変わるか? → Maybe so
テンポが変わるか? → Supposed to
歌詞の理解が変わるか? → Maybe
それを表現できるか? → Maybe not
リズムが変わるか → No!
ボウイングは変わるか? → Probably No
これだと実際に演奏に出てしまう可能性もある・・しかも無知よりはいいはず・・むぅ・・・・。
スーザンのは正論だし、私もマタイのFinished !については知らなかった。でも迷える老羊はこんな結論になってしまいました。
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東 賢太郎
5/16/2018 | 6:46 PM Permalink
「知ったからといって、表現が変わるなんてことは本当にないか?」
難しいところですね。和歌の修辞法に本歌取りがありますが、本歌を知っていることが前提ですから、音楽で表現が変わることはあっても聴いている方が「本歌」を知らなければ変わる意味も薄れます。知っているのに気がつかない聴衆のためにわかるように弾いてあげるということは、そこまでサービスすることが作曲家の意図に添うかどうか、結局はそこに尽きるかもしれません。昨年のハイドン98番は初演時のロンドンの聴衆は本歌を絶対に知らなかったですから、後世の我々が気がつくことを確信して本歌取りをしたと想像できます。モーツァルトが未来に高い評価を得るという予見、ダイイングメッセージに近いアイデア、時間・歴史感覚・・・ハイドンの高い知性に感嘆するのみです。
西村 淳
5/16/2018 | 9:27 PM Permalink
ハイドンはある意味で曲者ですね。あっけらかんとしたショスタコーヴィチのあれやこれやの引用をとは似て非なるものでしょう。
そのアイデアをレクチャーとして演奏前に披露する、なんてことも東さんにやっていただきましたが、確かに聴くほうにとっては理解の一助となっているようです。でもそれは固定概念を植え付ける危険も隣り合わせですね。
東 賢太郎
5/18/2018 | 2:27 PM Permalink
同感です。レクチャーという重い名目の設定で学問的裏付けなきことを話すという行為はやりながら不条理に感じました。私見という設定であるブログという場にとどめます。
西村 淳
5/18/2018 | 7:27 PM Permalink
「音学」とするなら少々不条理もあるかもしれませんが、「音楽」とするなら、東学説をとても面白がってくれた人たちもいました。なかなか学者さんにはできないことですね。
東 賢太郎
5/18/2018 | 9:33 PM Permalink
学説でなく楽説で失礼しました。またとない貴重な場を感謝いたします。