勇払にいた頃
2018 JUL 14 22:22:18 pm by 西村 淳
私にとって衝撃的なニュースが舞い込んだ。それは「地元に衝撃ひろがる 日本製紙勇払事業所の洋紙生産撤退」と題された日本製紙勇払工場が2020年をもって操業を完全に停止すると報じた苫小牧民報社からのものだった。80年にわたり苫小牧の紙パルプ産業の一翼として人々の生活を支えてきた工場の閉鎖は決して軽いものではない。
(苫小牧民報社;2018年5月29日付配信記事より)
オフィスでの紙使用量を考えると実感はないものの、ペーパーレスという言葉がいよいよ現実のものとなり、10年くらい前からアメリカでは新聞社がバタバタと倒産に追い込まれ業界そのものの崩壊が始まっていた。一方日本では緩やかな変化であったが、とうとうここにきてもう持ち堪えられなくなってしまったようだ。今や電車の中で新聞を読んでいる人にお目にかかることはほとんどない。
勇払は日本で初めて三角測量の基点となった地でもあり、苫小牧からの日高本線が王子軽便鉄道のころ、訪れた宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」のモデルとしたという説もある。
旧山陽国策パルプ工業(現日本製紙)という紙・パルプを生産する会社に就職し、転勤してきたのがこの地だ。1980年ころの勇払は周りには出光の製油所くらいしかなく、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」にあるヒースの茂れる最果ての地とイメージは重なる。常時風が強いため工場の煙突の煙は必ず横にたなびき、冬の厳しさは明治時代に屯田兵として入植した八王子千人隊の命をすべて奪った。海が荒れた翌日には海岸に北寄貝が打ち上げられ、荒涼感に拍車をかける。社宅の庭を放置していたら天然のイングリッシュガーデンになってしまいグリーンアスパラが自生していた。近くにあるウトナイ湖のバード・サンクチュアリあたりから飛来する鳥たちの餌付けはヒッチコックの「鳥」の一場面がリアルに再現した。満天の星空の下、こんな美しい星空をそれ以降見たこともなかったが、もう自然なんかいらない、もうたくさんだ、なんてどれほど思ったことだろう。
だが勇払には私の「生きる」ことへの原点を作ってくれた。それまで計測・制御という世界とはほとんど無縁だったが、配属された工場の「計装課」という部署で見よう見まねで必死になって身に着けたプラント制御の技術はその後の人生を支え続けている。とにかく生活の礎をここでの6年間で築いた。
工場の勤務は朝8時から夕方4時までであった。社宅からは10分もあれば職場に行けたし、さらに景気が悪くなって週休3日という時期があったりでとにかく自由になる時間がたっぷりと用意されていた。長い付き合いになるチェロを始められたのはこの有り余る時間のおかげといってもいい。当時札幌に居を構えていた小林道夫先生から紹介していただいた札幌交響楽団のチェロの先生のところへレッスンに毎週60kmの運転をして出かけた。それまでピアノを音楽の原点としていたが、就職してみると「転勤」という言葉が現実になりピアノを持って歩くことは現実的ではなく、チェロと共に歩む音楽事始めはここからだ。人はパンのみにて生きるにあらず。計測制御の技術が「生きる」ことを支え、それだけでは飢えてしまう魂を音楽がバックアップするという人生の基本構図がはっきりした。
勇払工場の閉鎖により一つの時代が幕を下ろす。それと同時にわが人生もそろそろこのあたりが黄昏などと言ってはいられない。音楽はまだこれからだ。
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西室 建
7/16/2018 | 4:27 PM Permalink
西村さん、
私もメーカー上がりですので、手掛けた事業所のみならずプロジェクトそのものが停止した経験があります。あのやるせない気持ちは良く分かります。
何年か経ったら訪ねるのも一興ですよ。
さびしさは勿論ですが、ジワッと納得感のような(うまく言えませんが)ものが広がります。
九州時代には炭鉱跡地を訪ね歩き、同じ様な感慨に浸ったことはを思い出します。
西村 淳
7/16/2018 | 5:18 PM Permalink
ああ、きっとそうなんでしょうね。いつか実現しなければなりません。
羽田から札幌へ飛ぶとき、北海道の海岸線、真下に見えるのが勇払工場です。今はいすゞ、トヨタ、JAPEXとか苫東開発で段々と様変わりしつつあるようです。
匿名
12/19/2018 | 9:02 PM Permalink
北海道地震を耳にし地図を広げ国策パルプ勇払工場は一体どうしたのか、大変気になりました。
この会社も変遷したのだと悟りました。
当時老生の研究所は三重県四日市市にありタービン油の研究をしていました。国策パルプ勇払工場のギヤード・タービンで使ってくれるかもと言う話が持ち上がり、勇払通いはもとより、九大工機械当時の平野先生へも通いました。かなり昔の事です。
国策パルプ勇払工場、今は懐かしいところになってしまったようです。
お元気にお過ごし下さるようお祈りします。
補:当所のタービン油は勇払でお使い頂き、投入にも立ち会いました。
西村 淳
12/21/2018 | 4:19 PM Permalink
大地震、まったく同じ想いを私も持っておりました。国策パルプはどうやら無事のようですが、なにせ設備が古いものも沢山あって保守は大変だったと想像します。ボイラー、タービン室の外カベには戦時中、米軍機の機銃掃射の穴が開いたままになっていましたから。何と国策パルプ時代に注入されたタービンオイルのお話が出てくるとは拙文を書いた甲斐があったというものです。皆が貧しくても明るく前を向いていた時代を偲びます。
西室 建
12/25/2018 | 8:58 PM Permalink
先日コメント頂いた方から再度補足がありましたので代わりに投稿します。
『補になりますが 当時(S.46頃) 名古屋千歳間 ANAは 春から秋までで冬季は飛行していませんでした。
4月に北海道を訪れますとまだ半分は街が眠っていました。
国策パルプの方は平野先生の 拡がりテスト合格を目安にしておられるという情報を頂き、九大と国策パルプを行き来しましたと言う訳です。
点々と転宅しましたが当時のANAの切符だけは未だに持っています。大笑いですね
では良いお年をお迎え下さい』
西村 淳
12/25/2018 | 9:06 PM Permalink
地の果てのようなローカルなところで繋がりになる、ってブログもいいものだな、って思いなおしました。
私にとっても遠くて近い場所がここ、勇払です。
工場がなくなる前にやはりこの地は一度訪問するべきでしょうね。
寒波きびしき年末年始になるとか。ご自愛ください。