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西洋音楽の受容について

2019 NOV 16 20:20:51 pm by 西村 淳

吉田秀和氏の「時の流れの中で」(中公文庫)を手に取った。今までこの人の文章は正直すぎて痛いところがあって多くを読んでいるわけではないが、日本人の西洋音楽受容のありかたについてと気になっていたことが書いてあった。ホロヴィッツのモスクワでのリサイタルDVDのことで、以下のような文章である。
「どうしてあんなに落ち着いて、ピアノをとっくりときいていて、しかも感激性を失わない聴衆が、あすこには大勢いるのだろう?いくらモスクワでも、何十年ぶりかのホロヴィッツのリサイタルだというので、センセーショナルな事件として受け取られたのだろうから、あの聴衆の中にもそういう異常な出来事に対する好奇心というか、やじうま根性で集まってきた人々がいなかったはずはない。だが、全体の雰囲気はとてもそんな上っ調子のものではなかった。・・とにかく、モスクワにはじっくり音楽を聴く聴衆の層が存在する」
ドイツでもポーランドでも留学したりそこに住んだことのある人であれば異口同音に「生活の中に身近なところに音楽がある」と言う。それは家庭であれ、教会であれ、路上であれ、生きることと表裏一体になったものとして存在することを実感するのだろう。
日本には音楽に限らず、人生そのもの愉しもうとする人がとても少ないのではないか。たとえばクラシック音楽の愛好者は全人口の1%だそうである。その1%の人たちの音楽の楽しみ方はこれだ。コンサートに行けばお行儀よく咳払い一つに気を遣い、ほんのわずかの物音に過剰な反応をして日ごろのストレスを発散するどころかストレスを溜め込んでしまう。ただこれとて恵まれた都会の住人たちの話。生演奏は田舎に住む人間にとっては人生とは無縁の物なのだから。一時期、この状況に騙された外来演奏家が日本の聴衆のレベルの高さを云々する話をよく耳にしたが、吉田氏の外国での体験にあるような反応は日本にはない。なんと哀しき精神構造か。
先生に言われたことを1mmも外れることなく徹底的にやり抜く態度はいわゆる芸事にあって芸術ではない。なぜなら芸術とは学ぶことではなく生きることそのものだから。ドビュッシーが言ってるではないか・音楽は人に教えられるものではありませんと。日本において音楽は芸術ではなく芸事であり、その精神がピアノやヴァイオリンの技術を磨くことに反映している。だから何某の門下いった派閥が派生し、外国でいくら素養を磨き、極意を習得しても帰国してからは○○大学の△△門下でない人には何一つとして仕事が回ってこないし、仮にそれの突破を図ったところで一時的なもので、ネグレクトされてしまう。無視されるということは村八分であり、相当にきつい。要は日本の家元制度の音楽シーンでは生きていけないということ。さらに加えて閉鎖社会の中での音楽家たちの社会的な地位は低い。
チェロの鈴木秀美さんの師匠でもある、井上頼豊さんの「井上頼豊 音楽・時代・ひと 」(外山雄三、林光(編集)音楽之友社刊 )という本に彼が戦後シベリアに抑留された時、ロシア人から「日本では音楽家も戦争に行くのか?我々の国では音楽家は戦争には行かないよ」と言われたことがショックだったと書いてあった。必ずしも現実はその通りではなかったにせよ、音楽、芸術を大切にしている社会とそうでない社会の違いがそこにある。最近はよくフラッシュ・モブという形態でクラシックの音楽家たちが外に出て行って皆を楽しませるような催しが世界各地で行われている。例えば最初はコントラバスが一人で何かのメロディーを弾き始め、徐々にほかの楽器が加わってみたいな、あれである。道行く人たちの小さな幸せを拾った喜び、柔らかな表情がとても良く、ああ、同じように音楽を感じ受け止め、楽しんでいる・・私と波長が一緒だ!みたいに。こんなのを観たり聴いたりしていると、昨今のこの閉塞した日本の社会から脱出して同じ呼吸をして価値観を共有する人たちのところに行ってしまいたい、などと感じてしまう。

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