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ヴァインベルク覚書

2021 MAY 12 21:21:39 pm by 西村 淳

ヴァインベルクという作曲家については未だに日本では馴染みの薄いものだ。この20年ほどの間にすでに欧米ではヴァインベルク・ルネサンスが花開き、17曲ある弦楽四重奏曲のツィクルスがダネル四重奏団によって世界中の主要都市(台北でも!)で行われているしオペラ「パサジェルカ」は舞台上にアウシュヴィッツ収容所が出現することで話題になっている。(NHK・BSで放映されたようだが残念ながら見逃している)
国内では交響曲 第12番 作品114「ショスタコーヴィチの思い出に」を下野竜也指揮・NHK交響楽団が2019年に取り上げたものくらいしか見当たらない。世界の潮流をスルーしているのは我がニッポンくらいか。
そんなヴァインベルク・ルネッサンスを味わいたいとピアノ五重奏曲を6月5日(土)に豊洲文化センターで採り上げる。アマチュアの新交響楽団が芥川也寸志の指揮でショスタコーヴィチの第4交響曲を世界初演から25年(!)後、1986年に国内初演を行ったように、ピアノ五重奏曲ももしかするとアマチュアによる日本初演の栄誉が与えられるかもしれない。
ヴァインベルクについてはまだ書いたものが少なくD.Fanningの「Miecztslaw Weinberg: In Search of Freedom」が唯一のものである。唯、Amazonで70,000円以上もするのでちょっと躊躇してしまう。この他には断片的にショスタコーヴィチの関連図書やCDのライナーノーツ、ダネル四重奏団が来日した時のインタヴュー記事があるくらい。1980版のGROVEの音楽事典にも記載はない。
そうは言ってもコンサートのプログラムには何かを載せなければならないので、拾い読みしたものを整理しておくのも悪くないだろう。
ヴァインベルクが無名だった理由は、第二次大戦前、多くのユダヤ人音楽家が西に逃れたのに反しヴァインベルクは東へ向かったことで、ソヴィエトが解体する前の鉄のカーテンと冷戦による情報伝播の遮断が最大要因と見る。当時、東へ逃避したユダヤ人がどれくらいいたのかは不明ながら、少なくとも彼等にとってロシア支配地域は多くの同朋が住む場所だった。結果として身に危険が及ぶほどのことがあったにせよ、ソ連国内では多くの賞賛を得てしばしば演奏される作曲家の一人としてかなりの成功をおさめることができた。周囲にはコーガン、ロストロポーヴィチ、ギレリス、コンドラシン、ボロディン四重奏団などの超一流の音楽家がいたし、彼らが積極的にその作品を演奏し録音したことは西側に逃避した連中より音楽的にはよほど恵まれた環境だった。レコードは昔、神保町にあった新世界レコード社の棚で見かけたような気もする。そして何よりこの人にはショスタコーヴィチとの厚い友情がある。2台ピアノでよく遊び(ショスタコーヴィチの交響曲第10番は二人で演奏した録音もある)お互いに多くの音楽的な剽窃を楽しんでいるのである。
ミチェスワフの父シュムドはモルドバの首都キシナウでのポグロムにより父・祖父を失い彼が生まれる10年前にワルシャワにやって来てイーディッシュ劇場でのヴァイオリニスト、指揮者として生計を立てていた。当時300万人を超える欧州最大のユダヤ人口を抱えていたポーランドはワイマール文化の爛熟期においてその牽引をしていたに違いなく、クルト・ヴァイルのキャバレー・ソングなどはアメリカに持ち込まれボードビルやミュージカルとなって大衆化していった。
父の音楽活動はミチェスワフに最初の実践的な経験をだけでなく伝統的なユダヤ音楽を植え付けた。当時カロル・シマノフスキが指導していたワルシャワ音楽院での8年間は音楽理論のみならず、Tutcqynskiの下で示した際立ったピアノの腕はレオポルド・ゴドフスキ、イグナーツ・フリードマン、さらにイグナーツ・パデレフスキに続く輝かしい伝統に加わり、ヴィルティオーゾの道も拓けていた。
ところが第二次世界大戦の勃発は約束された未来を覆し、ヒトラーの機甲師団がポーランドを蹂躙する直前、ヴァインベルクは1939年にワルシャワを徒歩で発ち東に500km離れた白ロシア共和国のミンスクに逃避、さらに1941年6月、「独ソ不可侵条約」を破棄したドイツ軍がソ連になだれ込むと、モスクワ経由の列車で3200km離れたウズベキスタンのタシュケントに逃げ込んだ。タシュケントでは幸いオペラ劇場で職を見つけたが、シベリヤ抑留者が建設に参加させられたナヴォイ劇場はまだこの時には完成していない。その後、ショスタコーヴィチの援助により1943年からモスクワに在住し、1996年に亡くなる迄、この地に留まった。ショスタコーヴィチはヴァインベルクの才能を最大限の賛辞を惜しまず自分と同レベルの作曲家と認めていた。彼がモスクワに到着した時にはすでにショスタコーヴィチは作曲家としての名声を確立して第8交響曲にとりかかっており、1943年のピアノ五重奏曲はスターリン賞を受賞していた。
ヴァインベルク:『ショスタコーヴィチは新しい音楽を紹介し、12歳の年齢差とその名声に係わらず先生と生徒というよりは寧ろ平等に接してくれました。彼はモスクワの同じブロックにあるアパートに住んでいて、定期的に顔を合わせ互いの作品を2台ピアノのためにアレンジして演奏しました。』この言葉を裏付けるように、ショスタコーヴィチの交響曲第10番の二台ピアノ版の録音と、「アレクサンダー・ブロックの詩による7つのロマンス」Op.127を病気療養中の作曲者に乞われ初演、1967年10月23日モスクワ音楽院大ホールでのヴィシネフスカヤ(ソプラノ)、オイストラフ、ロストロポーヴィチとの共演も録音が遺されている。またショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第10番は茶目っ気たっぷりにその数を競い、ヴァインベルクの数字を追い越した記念として彼に献呈され、ほとんど笑ったところを見たことのないショスタコーヴィチの微笑ましい一面を伝える。
1948年のジダーノフ批判により作品のいくつかがショスタコーヴィチやプロコフィエフの同様、演奏禁止リストに載ったとき、作曲家同盟に属さず、フリーランスの作曲家として活動していた彼の経済状態は悪化する。イデオロギー、文化、科学の責任を持つジダーノフはコスモポリタニズムと形式主義の特徴を有し特にユダヤ人の芸術家や思想家によって作られ、西側の音楽的発展と関連した作品の消去を目的としたキャンペーンを開始した。それらに代わって、ジダーノフが望んだ作品は容易に大衆に溶け込み、ソヴィエトの栄光を輝かせる作品だったが、ヴァインベルクはその命令に従わなかったし、自身の音楽について以下のように発言している。
『多くの私の作品は戦争に関連しています。ただこれは私が選んだものではありません。それは私や家族の悲劇的な運命によって決められました。私たちの生きた世紀に人類に降りかかった恐怖について、戦争について書くというモラルの責務として考えています。』
同年、ショスタコーヴィチの交響曲第8番が批判された時、彼を擁護した義父・ミホエルスがKGBに暗殺された。1953年の初頭にはスターリンの反ユダヤ主義による医師団陰謀による破壊活動が流布され、ヴァインベルクは2月7日にとうとう逮捕されてしまう。ショスタコーヴィチは内務大臣ベリヤへ働きかけ、妻は自身の逮捕を予測し彼に子供の養育を託すメモを準備したがここで幸運が舞い込む。3月5日のスターリンの突然の死。捕らえられていた人々は解放され、逮捕前の名誉が回復された。
巨大な作品群はあらゆるジャンルに亘っている。全体像を知るためには多くの作品と接しなければならないが、ピアノ五重奏曲の他にはベートーヴェンと同じように、生涯にわたり書かれた17の弦楽四重奏曲から手始めに聴き始めている。
音楽の特徴として時々気味が悪いほどショスタコーヴィチに近いことが指摘されるが表現方法は驚くほど新鮮。稀に内容が人の受容を越えた感覚を持つこともある一方、ポーランド、モルドバなどの民謡を積極的に採り上げているが、この辺りの個人的見解はまだまだ書けるレベルにはないので別の機会に譲ろうと思う。
クローン病との長い闘いの後、ロシア正教に改宗し1996年に亡くなった。

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