Sonar Members Club No.36

月別: 2013年7月

小倉記 春風駘蕩編

2013 JUL 28 20:20:14 pm by 西 牟呂雄

 風、未だ冷たくも晴れ上がる。小倉に春がやっと来た。

 僕のいる工場に犬が住み着いている。聞くところではもう十年以上居るらしい。元々ノラだったのが行き場を失っていたところ、現場の連中がエサをやったりしていて、そのうち首輪もつけてもらい天下御免の工場犬になったそうだ。ここは相当な重量物を加工するので巨大な低床トレーラー等がバンバン行き交うのだが、巧みにそれらを交わしつつ、朝のラジオ体操の時には工員の間を監督しているつもりなのかノタノタ歩いている。生粋のノラらしく撫でられたりするのは苦手で尻尾もピンと巻いていることはない。一度何かに跳ねられて暫く行方不明になっていたそうだが野生の逞しさで見事復活して今日に至っている。

 でもって冒頭の春の話だがその犬、チビが何故か元気がない。雪のチラつく頃はギャンギャン吠えていたのだがおとなしい。側に行っても今までは「ヘンッ」とそっぽを向いていたくせにだらしなく見上げるだけで、大体日差しの当たらない所に寝そべっている。人が寒さに参っている時は張り切って、暖かくなってウキウキする人間を見ると「オレの役割は終わり」とでも思うのだろうか。それともそろそろ危ないのか。

 しかし工場敷地から一歩も出ようとしないのは、犬なりに安全の限界が分かるのか。よそで見知らぬ人に心無い仕打ちでも受けたのか、まさか三百人を超える工場の社員全ての顔を覚えているはずは無いと思うが、この「中」にいるうちは大丈夫と考えているのだろう。そして奴は「中」にいる限りは鎖に繋がれることもなく(チビは放し飼い!)自由なのだ。僕なぞ、二日酔の日には心の底からチビになりたい、と夢想した。外でどこまでも全力疾走できる自由と、構内でいくらでもグータラできる自由とどちらが居心地がいいのやら。まぁ、犬は二日酔にはならないのだが。

 ところで小倉で不思議なのは、あれだけ冬が寒く春だって早く来る訳でもないのに、桜の開花は東京より早い。気温も天気予報で見る限り小倉の方が寒いくらいなのにどうしたことか。玄界灘を渡る風で体感温度が違うだけかも知れないが、すると植物には体感温度が無いのか。それとも僅かながら緯度が違っていて、多少の日照時間がズレて桜は暖かいと思うのか、それではしかし毎年開花の時期が変わる説明がつかないし・・・、やめた。

 小倉城の城跡の桜を見てつくづく思ったのだが、桜は下から見上げるのが一番美しい。ズラリと並んで一斉に咲き群れるのを遠望するのもいやはや綺麗なのだが、あれは大勢で見る場合で一人でトコトコ楽しもうという時は下からボヤーッと見ていると一輪一輪がいかにも儚げでいとおしい。西行法師は下から見上げて『願わくば花の下にて春死なん』を詠んだと睨んでいる。

 そして花の下にて寒いながらもウジャウジャと酒を飲むのは東京も小倉も同じ。昼間からブルーシートで場所取りをし、ガンガンとライトアップして夜遅くまでドンチャン騒ぎをしている。実は九州も電力事情は深刻で、花見なんかは白昼お弁当を楽しむくらいがいいのでは。小倉にも震災瓦礫を受け入れるのに反対する団体があり、原発反対の運動もある。その人々とこの酔っ払いは、そもそも科学技術の進歩と社会の成熟が・・・・、これもやめた。

 今月は宇佐神宮に行ってみた。かの弓削道鏡の野望を和気清麻呂が阻止するのに一役買っているありがたい、いや日本史を塗り替えるギリギリで何とか戻した神様がおわす。

 因みに弓削道鏡なる坊さんは世情偉く評判はよろしくないが、位で言えば太政大臣禅師、その次に法王位、と聞きなれない役職で、日本史上誰もなったことの無い、即ち民間でもっとも出世した人だ。皇位をしくじった後も天皇存命中はずっと権力者で、歴史は容易に鵜呑みにはできないのじゃなかろうか。会ってみるとすごい人だったのでは。

 その宇佐神宮は、神宮というだけあってそこらの神社とは風格が違う。八幡様の総元締めで、その八幡様とはどうやら応神天皇のことだそうだ。であるが、僕は厳かなる神殿より案内のはじっこにあった大尾(おお)神社になぜか引かれた。神宮参拝の後にフラフラいってみると誰も面倒を見ていないらしい荒れた石段が山に向かっていて、登りだすとこれが険しい。そしてその石段が終わる頃に大きな石碑。『和気清麻呂公之碑 東郷平八郎』ってこれは大変な物ではないのか。しかし案内があるわけでもなく山道がさらに迂回して続く。行き交う人の気配もなく歩くと忽然と鳥居が現れシケた社があった。

 何やら大仏開眼の折に奈良に行っていた八幡様が帰って来られた時には15年位はこの場所におわし、和気清麻呂はここにやって来た、と。その後御神託により今の神宮の場所にうつられた、と。凄い由緒正しい場所ではないか。現在何とも手抜きなのも神様の思し召しか。

 その時代は神様も今より気楽にあっちに行ったり気が変わるとこっちがいいと駄々をこねていたのか、いい時代だったろう。

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小倉記 早春流浪編

小倉記 初夏孤影編

小倉記 盛夏慕情編

小倉記 秋・古代編

小倉記外伝 友よ何処に

あいや御同輩、いやさお若えの

2013 JUL 25 21:21:50 pm by 西 牟呂雄

 単身赴任をご存知か?SMCの多くの皆様はアカデミックなタイトルをお持ちだが、僕はメーカー育ちゆえ、些か下から目線で書いています。メーカーの場合、製造所というのは大抵辺鄙な所に工場が立地していて勤務地が変ると昔は家族で引っ越した。しかし最近はお父さんが一人でウロウロするケースが多く、むしろある年齢からは単身赴任が主流とも言える。僕自身は嘗て東南アジアを中心にそれこそ、明日はマニラか上海か、といった暮らしだったが、実は腰を落ち着けての単身赴任は未経験だった。

 曰く「羽を伸ばせる」「気楽な一人暮らし」「ひょっとしてアバンチュール」等の結果としてウソの声に騙されて、ついにこの年になって突然白羽の矢が当たり、九州は小倉に赴任したのだ。話は2011年の暮れに遡っての小倉日記である。まずは『厳冬・異郷編』。

 暮れの頃になると、小倉の空は二色刷になる。玄界灘を渡ってくる北西の風が八幡の皿倉山や小倉の安部山にぶつかって急上昇して分厚い雲になる。真っ黒で低い雲がちょうど空の半分を覆い、南側は青空というわけだ。

 僕は小倉駅の南口から歩いて15分の所に居を構えた。小倉は北九州市の中心、工業地帯の繁華街だが、街の表情を伝えるのは難しい。ちゃんとお城があり、市場があり、アーケードがあり、飲み屋があり、風俗もあるのだが・・・。無理に説明しようとすると。

 駅から歩いて帰るのに、駅前のデパートを過ぎ料理屋や店を抜け、雑居ビルにぎっしりクラブの入った繁華街を過ぎ、大通りを越えてホストクラブ、焼肉屋、フィリピンパブ、キャバクラの密集した路地をかわすとラブホテルの隣に殺風景なマンションがあって、そこが住処だ。想像つくだろうか。その先は住宅街だが油断するのはまだ早い。ドームがあって、野球場かと思っていたらそこは競輪場だった。因みにここは競輪発祥の地だそうだ。そしてその側には筑豊気質の武闘派で知られる、泣く子もだまるK会の事務所。モノレールがずーっと通っているが暫く行くと大学と競馬場。なかなかシュールな組み合わせだ。

 北口?こっちは駅の目の前に小倉製鉄所の高炉が見えて、集塵煙突が盛んに煙りを吐いており、さらに向こうに戸畑第四高炉が威容を覗かせる。今は合併して同じ会社。

 西に下って若戸大橋を越えるとそこは石炭積み出しで賑わった若松港。花と龍の世界を思わせる石炭ビルに極めつけは『ごんぞう小屋』!何というネーミングか。

 東に上れば、と言ってもすぐに門司で関門海峡になってしまい、九州の窓口だった頃の古い町並み。この頃では古ぼけたことをレトロと言うらしい。

 壇ノ浦は本当に狭く流れが川のように速い。本当に源平の大艦隊が決戦をしたのだろうか。実は小さい船でセコい戦をしたのが実態ではないか。不思議なことに下関の方は平家贔屓を公言していて、義経の八艘跳びも追い立てられて逃げ回ったと伝わっているらしい。

 ついでに門司という港は戦前の台湾・半島航路の玄関口でもあり、バナナのたたき売り発祥の地の碑があった。先程の競輪もそうだが、他にもアーケード発祥の地(銀天街と言っている)も小倉。しかし中にはパンチ・パーマ発祥の地、ともなるともう少し品があった方が・・・・。

 もっとビックリしたのは『無法松の碑』!こくらーうまれーのーげんかーいーそだち、の無法松は実在の人物ではないが、住んでるところのすぐ近所に見つけた。解説が書いてあり『このあたりは戦前多くの自由労働者、傀儡、酌婦などが居住し・・云々』とあり、我が身と照らし合わせてギョッとした。

 この街の出身者の典型的な一人が松本清張だろう。あの反骨の表情、ごつい口元、正に小倉人と言えよう。二色刷の厳しい寒空に鍛えられた賜物のような人物だ。苦労人であることが更にいい。

 しかしながら豊前の国は歴史上そう派手なスターはいない。礼法宗家小笠原氏の小倉城も、実は長州征伐の際には高杉晋作の部隊にあっさり負けて炎上している。新政府はその後陸軍の駐屯地にし、第十四聯隊を置いた。乃木大将も森鴎外も赴任していた部隊である。 関係ないが「またも負けたか八聯隊」は西南戦争時の大阪第八聯隊のことだが、司馬遼太郎の説ではその後に「それでは勲章九聯隊」と続くのが当時の小倉第九聯隊のことで、戦前を通じて精鋭部隊だったそうである。

 一般にこのあたりの人の根性の座り方は、明治以降、川筋気質と言われる荒々しい鍛えられ方をしていて凄まじく、前述K会にしても国家権力に一歩も引かない。来てすぐにそれらしい事件があり、それはそれで困ったものだが住民も住民でいたって冷静。しばらく住み着いたホテルのフロントに聞いたら 

「いやー、この頃では銃撃戦には滅多になりまっしぇん。」

と言われてしまった。

 ところでその単身赴任だが、当然掃除も洗濯も一人でやる。コツはゆっくりやることだと分った。掃除でも一日かけてやる。テレビを見ながら本を読みながら、だが。まァ時間潰しなんだろうが、とにかくやる。

 ついでに解説すると、僕は本も1冊だけを読むことができない。集中力が持続しないと言うか飽きっぽいと言うか、同じ文体を長く読み続けられない。3冊くらい並べてそれぞれを代わる代わる読みながら、同時に掃除機を掛け,洗濯機を廻し、テレビを見ながらコーヒーを飲んだり。これでは気が狂うかも知れないと怖くなった、が止められない。

 そこであまりの寒さにも頭に来て阿蘇に行ってみた。 普段は旅などしないが、気が狂うよりマシだろう。行ってみればこれが雄大な景色。うーん。

 地獄温泉という名前が気に入ってそこに泊まってみた。温泉というから賑やかなのかと思ったら宿は一軒だけで、築160年だそうだ。灰色の泥湯にビチャビチャ浸かって猪鍋を食べた。 するとその時隣の席に奥さんが日本人のイタリア人家族が総勢6人で鍋を囲んでいて、僕はシャッターを押してやったり静かに民間外交に努めた。ウノ・ドゥェ・トゥレだ。しばし歓談したのだが、まずいことにタンマリ日本酒をやってしまって何を喋ったのかどうしても思い出せない。それはいいのだが翌日に又、その一家と出会ってしまった時、その奥さん(名前も忘れた)が言うのだ。

「ずいぶんイタリア語がお上手ですね。」

ナニ!

早く暖かくなった小倉を知りたい。

 

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小倉記 さらば小倉・さらばエカテリンブルグ編

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