Sonar Members Club No.36

月別: 2013年8月

小倉記 早春流浪編

2013 AUG 30 9:09:41 am by 西 牟呂雄

 年が明けてこの方、ひどい風邪をひいてゴホゴホいっている。一人暮らしの風邪というのは実に直らないもんだ。インフルエンザでもないので、高熱をだすにも至らない。寝てばかり居ると実に寝汚いことになって鏡なんぞ見るのもいやになる。しかし良く考えて見ると今回の単身赴任まで一人暮らしを全くしていなかった。東京生まれなので親元から学校に通い、気楽な独身サラリーマン時代も両親存命、海外ではホテル暮らしで掃除も何もせず、だ。周りには、単身赴任10年目とか還暦まで独身といったツワモノが大勢いたのだから文句も言えまい。 ただそれならそれで、相応のリズム感が生活に出てくるはずだが、不思議なことに僕の場合少しもそうならない。一番の原因は酒の飲み過ぎで計画がオジャンになり、何をするにも出たとこ勝負になるからだ。もうそうもいってられないのだが。

 駅南口の旦過市場は正月には静まりかえっていて季節感があった。昔はコンビニも何も無いから、長持ちするお節料理を造り毎日毎日食べていた。一方隣のラブホは普通に流行っていて季節感はない。 ゴホゴホいいながら出勤してみれば、工場犬チビもケホケホいっていた。こいつも何とか年を越したかと思うと感慨深い。次の戌年まであと五年もあるから、それはさすがに無理だろうが。しかし犬には『死ぬ』という概念は備わっているだろうか。自分が消えてなくなり、意識の無いモノに朽ち果てるということはいくら利口ぶっても分らないだろう。人間はその辺の事柄を感じたあたりから業を背負ったのだな。

 温泉にでも浸かろうと、車で適当に南に向かってみた。九州は実に多くの温泉が湧いており、中には一軒宿で日帰りできるようなものも有るためドンドン行けば何かの案内に当たるだろうと安易に考えた。すると、というか怪しげな案内板が目について、何と『河内王』の墓。九州なのになぜ河内なのか。吸い寄せられるように行ってみると、フェンスに囲まれたこんもりしたミニ古墳に「宮内庁」の看板!これは皇族ということになる。案内によるとこの人はカワチオウでは無く「カワチノオオキミ」だそうで、河内の国とは何の関係もないがここで身罷ったそうだ。察するに太古の昔はカワチという音は地名とは別の意味があって(例えばカワイイとか)その名の皇族がここでバッタリいったのだろう。太宰府に行く途中だったらしい。

 道が細くなったり幹線道路に交わったりして山深くなっていった。十分に山の中だな、といったあたりで突然盆地が開けた。車も増えてほぅーっと思ったが車のナンバープレートに筑豊の文字。筑前の国と豊前の国の真ん中で筑豊、そうか、ここは旧産炭地なのか。地名は田川だった。田川の盆地まで車を進めると何やら物々しい煙突。行ってみるとこれが『石炭歴史記念館』だった。確かに当時にしてはバケモノのような煙突が立っていて、敷地内に当時の住居、機械類、ジオラマが展示してあるが、ひときわ目を引くのが『炭坑節発祥の地』という記念碑だ。それによると、一般に歌われている「三池炭坑の上に出た」は「伊田の炭坑の上に出た」が本当だが、田川伊田坑の方が先に閉山してしまったために後付けしたのだ、と書いてある。因みにどちらも三井のヤマだ。我国一大産業として傾斜生産の恩恵にあずかり戦後の一翼をになったものの、現在の風景は「ツワモノ共の夢の後」。石ころの山だったボタ山はその後道路の補修や埋め立てに使われ、残っているのには(3つ位見えた)木が生えて緑の山になっていた。

 しかしまぁ世界遺産か何かになった山本作兵衛の炭坑画にある通り、それこそ戦前のヤマの労働条件はひどいものだったようだ。その一方で大手では炭住と呼ばれる社宅はタダ。中央財閥系以外にはバケモノのような成金も多く、基幹産業であったことが偲ばれる。その名も高き伊藤伝右衛門の屋敷にも行ってみた。伊藤をご存知なくとも歌人柳原白蓮と金爵結婚をして、その後逃げられた人と言えば小説にもなったアレかとお分かりだろう。生涯文盲だった、とか上京した際に「タダイマチャクタン(着炭、石炭入荷の意)」と電報を打った、といった伝説がある。実際は衆議院議員にもなったりして単なる成金というだけじゃ無く、大物だったんではないか。そりゃ女癖なんかは相当に悪いんだろうが、白蓮が新聞紙上にぶちまけた絶縁状には邸宅内にもそれらしいのが居たことが綴られている。

 屋敷はなかなか凝った日本家屋で、玄関横の洋式応接間、いくつもの広い座敷、畳敷きの廊下、タイル張りのお風呂に九州初の水洗トイレ、と精一杯若い嫁さんを迎えようといった大らかな意思を感じた。廊下の突き当たりに階段があり、上ると一部屋の居室。その部屋で白蓮が日常を過ごしたそうだ。何だかそこだけ隔絶されているようで、『ここは私の領地。何人たりとも入るべからず。』という覚悟を感じさせる。僕が言うのも何だがイヤな女だったのではなかろうか。伝右衛門の方は、逃げられた後(宮崎滔天の息子龍介と駆け落ち)「全てを許す。」という声明を出していて、実は持て余していたに違いない。むしろ結婚自体も金欠貴族に頼まれて仕方なしだったんじゃないか、何しろ白蓮の歌は少々気持ち悪い。

 もう一つ。高倉健さんはこの辺の出身で、親父さんは炭坑の事務職だったらしい。地元の名門高校から明大に進み俳優になった、とのこと。道理でヤマの話が良く似合うわけだ。この日は特に名前は記さないが、シケた温泉の小汚い宿に駆け込んで素泊まりにしてもらい露天風呂に飛び込んだが、翌日風邪はもっとひどくなった。

 ひどくはなったが、根が貧乏性なもんで、折角ここまで来たのだから、と更に山中を分け入って、道の駅で一服しながら観光案内のパンフレットを見ると、『東洋のスイス』なるふざけた見出しがあった。アルプスの少女ハイジのコスプレかと疑ったがそうじゃなくて鯛尾金山跡!これは行かねば、とばかりに山また山を越えると中津江村と言う所に着いた。ご記憶だろうか、ワールドカップの開催時にカメルーンのチームが合宿していたあの村だ。そして鯛尾金山跡はそこにあった。

 どうやら明治時代に英国人が経営していた金山で、多くの外人が来ていたので『東洋のスイス』ということなんだが、いかにも苦しい。金を掘る山は堅い岩山で、やはり炭坑とは格が違う。機械化も早くから進んでいて、長い坑道が見学コースになっていた。古い写真には女性もたくさん写っており何だか明るい、掘っているモノも明るいからか。地下数百メートルの海面より深いところまで掘ったそうだ。そして掘り尽くしてイギリス人もいなくなり、観光に力を入れたりカメルーンを呼んだりして普通の田舎になった。下手に流行ったりするものは最後はみんな同じ道をたどって廃れるんだな、これが。

 ウーン、地道に目立たずやろう、と殊勝なことを考えながら坑道を後にすると、小さなせせらぎがあり、何とオタマジャクシがウジャウジャいた。春が近いな。

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小倉記 初夏孤影編

小倉記 秋・古代編

小倉記外伝 友よ何処に

小倉記 年末鹿児島編

2013 AUG 25 13:13:17 pm by 西 牟呂雄

さて、二度目の小倉の冬だが。一人暮らしの1DKは両隣もその隣も空き部屋で、帰って来るとドーーンと寒い。床・壁・天井と冷え切っていて暖房が効くのに時間がかかる。そういえば小倉でホームレスを見ないがみんな凍え死んだのじゃないだろうな。風も強いし。このアパートは単身赴任の巣みたいなところで、住んでいるのは僕のようなオヤジばかり、若い女性等は一度も見たことがない。一方で下宿みたいに賄いはついていて、朝食とか夕食の表に〇をつけておくとメシにだけはありつける。単身赴任産業が独自に進化したのだろう。

国境編で登場した例の腐れ縁がまたぞろ連絡をよこして鹿児島への旅を持ちかけてきた。あまりの寒さに逃げようと思っていたのであっさり乗ったが、内容は『石原慎太郎の作品のおかげでかの特攻隊の基地としては鹿児島の知覧ばかりが有名だが、あれは陸軍の基地だ。実際に飛び立ったのは海軍航空隊の鹿屋基地のほうが多いことはあまり知られていない。英霊の御霊に優劣・貴賤のあるはずもなく、そもそも帝国海軍は云々。』この辺で切っておかないと僕まで右翼かなにかに間違えられる。とにかくおっさん二人の旅に出た。

行ってみるとやはりというか北九州とはまるで違う、明るさが違う、空が違う。目の前が火山だ。桜島は普段は白い水蒸気を上げているが時々(1~2回/日)黒煙を噴き、これが噴火だそうだ(2013年8月に大きめの噴火があり、灰が降った)。

お定まりの観光コース、西郷先生が最後に立て籠もった城山の洞窟跡にも行ったがお土産屋で椿事が起こった。大きな写真に大勢の幕末の志士が写っていて、いちいち名前が貼ってある。それも有名処がテンコ盛で、やれ岩倉だ桂だ坂本だ、極めつけが写真が無いと言われている西郷隆盛!これはツウの間では有名なフルベッキ写真と言われているもので、真ん中にいる貴公子が後の明治天皇という俗説もあるいわく付きのニセモノ。この説はその人物が南朝の正当後継者で、後に本物の明治天皇とすり替わったとするトンデモ話だ。以前、鑑定団に持ち込んだ人もいて、一発アウトになったこともある。

「お客様、お客様」

突然呼ばれてギョッとして振り返ると、店の主と思しき婆さんが立っている。

「これが唯一と言われている正真正銘の西郷先生のお写真です、お客様。」

それから、西郷の肖像画はキョッソーネが弟の顔をモデルにして想像で画いた(これも有名な話だが)だの、色んな似顔絵の綴りを見せて、その一枚のオヤジの絵と件の西郷先生の写真は耳の形が同じだと警視庁の鑑識が太鼓判を押した、だのと続き終わらない。目は完全にイッってる。挙げ句の果てに、

「そのことが全部この本に書いてあります、お客様(とヒラ積みの本を渡す)。そこの洞窟、実はズーッとドコソコまでつながっていてそれは(息を吸い込んで)ウチしか知らないんです!お客様!」

あまりの剣幕に真っ当な反論でもしたら婆さんが怒りのあまり脳卒中でも起こすような恐怖感にかられまず僕が、次に日本史音痴の腐れ縁が、同じ本を買ってしまった。しかし後で読んでみてもそんなこととは何の関係もない田原坂の戦闘の話だった。「お前が騙されたからだ。」「お前は半分信じてた。」と罵り合ったのは言うまでも無い。こういうのは『お客様サギ』とでも言うのだろうか。観光される方は気を付けられたい。

更に驚いた事が起こった。島津家の磯庭園に行ってみたところ、入り口に見事な具足がしつらえてあり人だかりがしていた。僕はその人の輪の真ん中までシャシャリ出て行って見ると、それは島津ナントカの鎧甲だと〇に+の島津紋のジャンパーを着たオジサンが解説していた。暫くその人と「しかしこれは本物ですか。」「いいえレプリカで本物は宝物殿にあります。」などと話しているところに腐れ縁がいきなり割って入った。何事かとビックリしていると「〇川じゃないか。」「何だ、×村。」と旧交を温めるではないか。何と腐れ縁の元職場の同期入社だそうだ。それでは僕とも(会社は違うが)同じだからとたちまち意気投合した。その人は華麗な転進を遂げ、ご夫婦で鹿児島に移住、縁あって島津興業で悠然と余生を過ごしているのだそうだ。その後散々タダで色々案内してもらったが、腐れ縁の顔に「ウラヤマシイ」と書いてあった(無論僕の顔にもだろうが)。

その日は指宿まで行って砂湯というのに心地良く埋まってみた。ここも明るい。それも光だけの話ではなくて、空気が、だ。埋まりながら考えたのだが、何というか開放的なのだ。思うに、日本の端っこというつもりで旅に来ているが、来てみるとむしろここから先の海原の向こうに世界が開けている、といった気風を感じるのだ。南への海路。そういえば江戸時代は沖縄を虐めたり密貿易を盛んにやり、その前は南蛮貿易でうまいことやり、坊津(ボウノツ)からは倭寇をさんざん繰り出した。この坊津は遙か昔の遣唐使が船出したところでもある。むしろ、端っこではなく先端だと考えていたフシがある。

しかし、その先端の意味するとおり、前大戦では沖縄戦時点の最前線となってしまった訳で、知覧・鹿屋は特攻基地になってしまった。知覧の展示はさすがに堪える。この青年達の三倍も無駄な人生を過ごしたのは慚愧の念に耐えない。良く見ると死後階級が不揃いで、即ち体当たりに成功した者は二階級特進し、撃ち落とされてしまった者は一階級しか上がっていないのだ。僕はこのあたりが相当頭に来た。鹿屋に廻った時点では腐れ縁の興奮は頂点に達し、二人とも無口になった。およそ凡百の感想は記すべきではなく、しかし一度は思想信条に係わらず訪れるべきだろう。その後、熱心な反戦運動家になろうが極端な右翼になろうが、僕の知ったこっちゃない。航空ファンには一言。鹿屋の展示(実は海上自衛隊の現役基地でもある)にはかの名機と言われた二式大艇があった。

ジングルベルの鳴るころに小倉に帰ってきた途端、雪が降った。年末は決め事が多い。単身赴任の記述のくせにに仕事の内容が無いが、何も旅ばかりしている訳じゃないことは言うまでもない。
 

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小倉記 早春流浪編

小倉記 初夏孤影編

小倉記 秋・古代編

小倉記外伝 友よ何処に

小倉記 秋・古代編

2013 AUG 21 14:14:59 pm by 西 牟呂雄

 夏中瀕死の状態で日陰で昼寝ばかりしていた工場犬チビが、朝夕ノタノタ歩いている(2012年9月時点)。台風が来るのだ。

 その台風の中、人も出そうにないころを見計らって宗像大社にお参りに行った。今度は神宮ではないが大社だ!ここは天照大神と素戔嗚尊がケンカをした際に、天照大神の息、多分弟の暴れ振りにうんざりしたため息、から生まれた三人の娘さんが島伝いに祀られていて、上から沖の島、次が大島、末の妹が当社と遠い順になっている。これを結ぶと半島から一直線になることから半島南下論者には恰好のネタとなっているらしい。人文の古さはさすがだが、しかしどうであろう。実際に社から少し先の海を見ていると水平線の向こうからやってくるという実感よりも、もっと広々とした感慨にとらわれるのが自然だ。その沖の島は今でも立ち入り禁止で国宝級の勾玉がザクザク出ているそうだし、北九州の豊かな営みは連綿と続いていたに違いない。冒険心豊かな人間が行ったり来たりくらいが妥当なところだ。先日対馬で国境を見た者としては南下論はピンと来ない。言うところの騎馬民族征服説にしても、古代の船に馬をワンサカ乗せて遠征することは可能だったか。歴史上の騎馬民族の侵攻は刀尹の乱(女真、満州族の侵攻)と元寇だが、馬まで連れてはきていないようだし、そもそも根っからの騎馬民族であれば、いつ溺れるかも知れない海に漕ぎだそうと思うだろうか。ついでに言えば源義経が平泉で騎兵戦法を覚えたとされるが、侵攻してきた騎馬民族の文化(戦法)が九州にも都にも痕跡を残さず東国にのみ残ったと言えば無理があろう。やはり固有の文化としか思えない。

 閑話休題、台風の参拝というのも味があるというか、広い駐車場にチョコッと車が駐まっていて人なんかいない。ザーザー雨の降る中、鬱蒼とした森を行くと夜並みに暗い。そして小高い丘の上にたどりつくと祭壇のようなものがあり、立入禁止になっている。建物も何も無い。その場所が神様が降臨した、と解説にあり例大祭の写真には信者がその祭壇に向かって地べたに這いつくばっていた。我々の祖先は皆こうしていたのか、何となく覚えのあるようなデ・ジャ・ヴ感があり、こういうのを民族の記憶とでもいうのか、・・それとも年なのか。

 お参りした後に立て続けに台風がきて涼しくなった。九月の末が旧暦八月十五日なので、工場前の干潟にはポロロッカでも起こらないかと期待したがさすがに何もなかった。秋空がまぶしい。宗像大社で俄考古学者になったつもりの僕は吉野ヶ里遺跡にも行った。発見当初まるで邪馬台国が発掘されたような触れ込みだったが、行ってみればとても邪馬台国という感じではない。かなり深い環濠があって、水争いとか米の分捕り合いがあったことは確かだが、その環濠掘削の規模と発掘されたまま保存されている甕棺から推定される収容人員は一体何人だろうか。勉強不足だがまず百人程度のクニではなかろうか。役についている常駐兵力で、だ。この程度で守れた集落を大きいと見るか、この程度だから(僕は与しないが)騎馬民族に踏みつぶされたのか。当時の人口推計を試みてみたいが。

 ところできれいに整地された集落跡でふと考えたが、この時代の子供ははたして遊んだだろうか。学校も勉強も何もない上に、寿命だって30~40才程度だから15の年にはもう親になるのが当たり前で、長老だって今の僕より遙かに若い。物心ついたら兵役・農作業。この小さい世界で短い一生を終えるのに麗しい青春なんぞとは無縁な暮らしだったろう。もっとも僕自身は子供時代は怒られてばかりで、15のミギリにはチンピラ稼業に精を出しロクな思い出も無いんだが、それはさておき。豊かな文化的成熟とは子供が楽しく遊べる、という仮説はどうだろう。SMCの津坂氏のコラムに国別・年齢別の幸せ満足度があったが、どなたか国別・時代別の『子供ヒマ充足度』を計算していただけないか。僕のパラメーターを使えば引きこもり、ニートは『子供ヒマ充足度』100%になってしまい、現代日本のワカモノは十分幸せになってマズいのだ。一方いい年になってもアホなことに夢中になっている『オトナ非成熟度』というのも社会の豊かさに相関が認められ・・・・ん?ただ、足を引っ張っているだけにすぎないか。

 秋が深まるに連れて小倉の街が騒がしくなった。暴対法の引き締めにより「暴力団お断り」のステッカーを貼っている店に何人も犠牲者が出て、しかも一人も捕まらない。ついには今住み着いているアパートの側でも犠牲者が出た。ガサ入れをすればバズーカは出る手榴弾は出る、ここは日本のパレスチナか。福岡県警は他にも久留米と大牟田の抗争も抱えて手に負えなくなり、『岡山県警』とか『鹿児島県警』の応援が三人一組で盛り場をパトロールしている。ところがそのお陰で単なる酔っ払いにとっては普段は多少やばいエリアまで安全なことこの上ない。そのせいか飲みに行けばどこでもガンガンやっていて報道とはちがっているんだな、これが。「繁華街の客も不安を隠しきれない」という記事を書いた新聞記者は一体店の中まで取材したのか!まぁ、さすがの僕も東京にいた時のように路上で寝てしまうとか、ケンカ沙汰に巻き込まれないように気は使うんだが・・・・、年だし。

 ある朝、工場裏の川を覗いてみると、去年ここに流れ着いた時にいた水鳥の編隊がまた来ていることに気付いた。何という名前か知らないが汚い声で鳴いてエサを漁っていた。これから来る冬を過ごす準備か。営巣して雛を育てるのだろう。他に白い大型の渡り鳥も飛来して干潟がすっかり賑やかになった。賑やかというのも、もともとカラスがワンサカいてこいつ等はなかなか獰猛なのだ。引き潮の際にボヤボヤしていて洲に取り残された結構な大きさの魚がつつき殺されるのを見たが、あれが魚だからよかったもののそれこそ雛だったりしたら恐ろしい光景だったろう。別にカラスが悪い訳じゃないが、嫌われるように振る舞わざるを得ない性が悲しい。おまけに天敵がいないせいで増えすぎ、農作物に被害を出したとかで『駆除』、即ち撃ち殺される。人間にも良く居るではないか、居るだけで人に嫌われたりする奴が。オット自分のことだったりして。

 小倉も冬が近いのか、我等が工場犬チビは復活し、半年ぶりに走って見せた。犬が走るのは当たり前だがそこは人間だったら百才越えのチビである。まさか転びはしないだろうが、ノタノタながら前足を精一杯伸しての激走だ。まぁ10メートル位ではあるが。体操をしていた社員が微笑む。最近ついに頭を撫でることに成功した。それももうすぐ流れ着いてから1年という時間が過ぎたということか。単身赴任で元々軽薄な人格が少しは重厚になったかといえば、そんなことは全くない。景気は悪い。

        (本文は2012年の党首討論で解散が決まる前の時点です。)

 

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小倉記 早春流浪編

小倉記 初夏孤影編

小倉記 盛夏慕情編

小倉記外伝 友よ何処に

西伊豆航海

2013 AUG 16 15:15:32 pm by 西 牟呂雄

西伊豆は温泉で賑わう東伊豆とは全く違って鉄道もなく、嘗ては陸の孤島とまで言われるほどひなびた集落が点在する。その代わりと言ってはナンだが素晴らしい夕日のヴュー・ポイントがあり、海も美しい。

全長34フィートのクルーザーで三浦半島の油壺からはるばる航海して、田子湾に碇を入れた。田子は田子だが、かの『田子の浦うち出でて見ればま白にぞ』ではない。あくまで西伊豆のマイナーな田子である。しかし10メートル以上の深さの海底にアンカー(碇)が届くまではっきりと見える程に高い透明度があり、この海に飛び込めば身も心洗われるのではないかと思えるほどだった。

しかもこの海は豊かだ。シュノーケリングしてみると、湾内を泳ぐ魚群がワラワラと群れを成していて、浅瀬には熱帯魚のような鮮やかなブルーの小魚もいる。そしてそれらの食物連鎖を支えるプランクトンなのか虫なのか、一見埃が舞っているような濃密な世界が覗ける。

クルーザーは丸みを帯びた船体が優雅で、女性のボディーラインを思わせる。乗っているクルーは今回は6人。私以外はベテランのヨット乗りで、中には33日で太平洋を横断したつわものもいる。出港4日目で本日は途中の下田までの回航だ。ところが、今年の記録的暑さの元の太平洋高気圧がドカーンと居座っているので、海上はうねりも無いような無風。こうなるとエンジンを駆けての汽漕でまことにのんびりと行く。この『のんびり』がくせものなのだ。なにしろ物凄い日差しで日焼け止めをいくら塗りたくっても汗で流れてしまうから、本当にのんびりと日光浴などすれば火傷のように真っ赤に腫れ上がる。暑い暑いとクーラーで冷やしたビールの奪い合いが始まり、舵はオート・パイロットに任せ、時々蝉が飛ぶように海面に飛び出すトビウオを眺めながら南下した。

下田と言えばペリー艦隊が停泊した良港なのだが、このあたりは実はかなりの難所で表から見えない『根』という岩礁がいくつもあり、貨物船の座礁事故も時々ある。おまけに伊豆半島をかわす黒潮が早く、さすがにのんびりはできない。ついでに多くの人は大島は半島の先にあるようなつもりでいるが下田よりも北に位置し、そのおかげで反射の大波が複雑な潮をつくって、たまに巨大な三角波が立ったりするのだが、奇跡のような凪のおかげで難なく入港。下田の夏祭りを見に上陸した。

下田の祭りは三味線と笛が入るのが特徴、女性が三味線で太鼓と横笛が男衆。ツントンヒャラヒャラと聞こえるお囃子が鳴り終わると花火があがった。ところが私は昼から飲み続けた挙句に酔っ払い、上陸して入った天然温泉の銭湯のあまりの熱さに飛び上がり、その後の焼酎のガブ呑みで正気を失って、花火を最後までみることはできなかった。

翌朝5時の日の出に全クルーが叩き起こされ水を積み、メシを食べ、急ぎ出港した。下田ー油壺53マイル、約8時間の航海で帰港する予定だ。同じ計画なのか、近くに係留していたヨットも3艘ほど出て行く。この日も奇跡の凪が続いて海面は鏡のようだった。田子でお土産にもらった干物を焼いて昼メシにし、水平線を眺める。モヤがかかり陸地は見えない。何ともこのまま残りの人生の時間が全部流れてもいい、帰りたくない、と思った。クルーザーはアル・カン・シェル。どなたか乗船して見たい方、遠慮なく言ってください。油壺でお待ちします。

油壺では湾の入り口で赤トンボが迷い込んできた。

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小倉記 盛夏慕情編

2013 AUG 10 9:09:58 am by 西 牟呂雄

 ドドン(ドドン)ドドン(ドドン)いつまでも書いていてはキリがない。練習解禁日から二週間、小倉の夜を騒がせた祗園太鼓がクライマックスを迎える。
 午前中に各町内を出発した山車に太鼓をくくりつけ、ガキ・アンチャン・ネエチャン・オバサン・オッサンがこれを引く。山車はそう大きくも無くコロコロ進むがいずれも同じ節を歌う。「小倉名物太鼓の祗園。八坂祗園さんに皆参れ。小倉祗園さんはお城の中よ。赤い屋根から太鼓が響く。」とズーッと続く。

 良く見ると太鼓の両面では打ち方が違っていて、片側は『ドドン、ドドン』なのだが、反対側は進行方向に向かって背を向け後退りに歩きながら『ッドッドッドドン』と裏打ちにリズムを刻む。歩きながら腰で調子を取り舞うように進む。だから動いている間はゆっくりとしたスピードで、休憩に止まるとダーッと早打ちに変る。その拍子をとる指揮者の役割は『ジャンガラ』と呼ばれる小さなシンバルで、『シャシャン、シャシャン』と節を付ける。これは何となく半島から大陸の音色がする。

 住んでいるマンションの前から出る山車にくっついて行った。しかしそこは流れ者の悲しさで、入れて貰って引くわけにもいかず、又、この年ではアブナイおじさんに見られる恐れもあり、道の反対からおとなしく見物するしかない。そのまま小倉城内の八坂神社を目指すのだ。

 時々大通りのあっちとこっちで別の町内の山車とニアミスするが、互いのリズムのことなんか知ったこっちゃないとばかりにガンガンやるもんだから単なる騒音になる。長い山車になると前の方のお囃子と太鼓の音がずれていることもある。

 しかし年季の入った大人組の打ち手は、体を左右に揺らすように鮮やかに調子をとるのが粋で実にかっこいい。中には〇〇保育園などという山車もあり、さすがに打ち手は先生がやっていたが例のお囃子の声がかわいい。

 流れに沿ってお城に向かっていくと各町内から山車が集まって来るのだが、それとは別に愛好会なのかサークルなのか、揃いの法被にナントカ会とか無法松組といったおどろおどろしい染め抜きを着込んだ一団もいた。町内を引き廻るのが純粋なお祗園さんなのに対し、山車を引かずに太鼓を固定して打つ言わばプロで確かにうまい。打ち手の入れ替わりなど相当稽古していて、一糸乱れずヒラリと舞う。暫く見とれていたがこりゃ見世物というか、観客の目を気にしすぎる。そういうのが祭りのプロだとすると、まぁ流行り物なら廃れるのも早かろうが。

 そうこうしているうちに日も傾き、大手町の通りにズラリと山車が並んだ。するとマイクを使ってナントカ委員長やら市長が挨拶をし、一斉に打ち出し、が始まった。もんの凄い音量である。更に山車まで大通りを回り出すでは無いか!もうドドン(ドドン)もへったくれもない。

 ところがこの喧噪の中で気がつかなくてもいいことに気づいてしまった。

 博多の祗園山笠は全国ネットだが、百万都市とはいえ小倉祗園は知名度はイマイチ。しかしそれでも観光客らしい見物人はいる。この大勢の人が居る中で、一人ではしゃいでいるのは僕だけなのだ。ニコニコ山車を引いている人、地面に座って眺めている観光客、汗まみれで太鼓を打つ人、夜店で焼きそばを買う人、家族や仲間と連れ立ってそれぞれ祭りに参加しているのに、一人でウロついているオッサンはいない。

 あまりの喧噪にフッと耳が遠ざかる。そんなときに聞こえるのが天の声と思っている。満ち潮のヒタヒタと同じだ。ところがこの時何をトチ狂って脳内変換されたのか、聞こえてきたのは「ヨソモノ」の一言。見上げれば紫紺の夕空。すっかり童心に返ってフテくされた僕は群衆に向かって小声でつぶやいた。

「流れ者かよ。オレは。」

 旅にもならない隣町の下関まで車で一跨ぎ。竜宮城のモニュメントのような赤間神宮にお参りした。安徳天皇と平家一門の終演の地で、今も天皇陛下山口行幸の折には御参りされるこれまた由緒正しき神宮ですぞ。

 でもってここで話が飛んで、最近仕事で平(たいら)さんという人と知り合った。その平さん、出身地を聞くとポツリと「××島です。」鹿児島と沖縄の間である。ずいぶん離島なので軽く受け流したが、酒の席で再度話題になると目をギンギンに光らせて語った。

「ウチは壇ノ浦から落ち延びた平ノナントカ盛の直系です。」

するとこの見た目ただの酔っ払いは臣籍降下する前はやんごとない親王殿下、現皇室の男系DNA、Y1Aを継ぐお方ではないか。落人伝説とか北陸にある時国家といった有名どころは聞いたことがあるが、目の前で本物が酒を飲んでいるとは!

「九州平家会というのがあります。」

 おっさんの説では源氏は一端勝つには勝ったが、幕府を開いた途端に内輪モメを始めて直系はいなくなり、すぐに平家の血を引く北条に乗っ取られ、現在では源の名前を名乗る者も希である、らしい。一人四国出身の源さんという人を知っているが、確かに何の関係も無いドン百姓だと言っていた。 そこへ行くと我が平家は各地に平家会が健在で云々と続き、要するに最終的には平家の勝ちだと言いたいらしい。さすがにそのあたりになるとおっさんの熱意について行けなかったが、今から考えるとその一族は数百年間戦い続けたつもりになっていたのかも知れない。

 話を戻して下関。赤間神宮の隣は春帆楼という料亭で、ここは日清戦争後の馬関条約を締結した場所。我国からは伊藤博文、陸奥宗光、清国からはかの科挙の試験トップ合格の秀才、李鴻章が対峙した。この李鴻章の一族はその後の革命期を通じて大変な目に会い、殺されたのも大勢いるらしい。実は我がふるさととも言うべき六本木のさるピアノ・バーにシオン・リーという弾き語りの女の子(但しレズ)がいて仲良しだったが、それが李鴻章の曾孫の娘だったのだ。

 又、話が飛んだ。流れ者がふるさとを想うのは情感溢れるが飲み屋の友達では・・・。

 夏の盛り、工場犬チビはいよいよ元気なく日陰で真横になってゼイゼイ言っている。

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小倉記 早春流浪編

小倉記 春風駘蕩編

小倉記 梅雨国境編

小倉記 秋・古代編

小倉記外伝 友よ何処に

小倉記 梅雨国境編

2013 AUG 8 10:10:11 am by 西 牟呂雄

 今回は旅の話から。梅雨空をかいくぐって国境の島対馬に行った。

 ところで旅の話の前に、前回の『初夏孤影編』を偶然読んだ読者(仮にAとする)より、文章に「叙情が出ている。」なるメールをもらった。この読者Aは間違っても人を(特に僕を)誉める人格ではないのでどうやら文章がオッサンっぽくなっている、と言いたかったのだろう。小倉に一人で流れてきて早半年。夏至も過ぎたのだがこの短い期間に老け込んだと思われるのは癪にさわるんで叙情の出ない文体を心がける。

 でもって旅の話だが、一人連れがいた。無論女性ではない。こいつは小学校一年の時に僕の前に座って以来かれこれ半世紀に渡る古い馴染みだ。たまに会ってはお互いの古傷を暴露して罵りあう仲で、いわゆる腐れ縁という奴だ。気味の悪いことにお互いの家族構成が親戚の端っこに至るまで良く似ており、三等親以内の学歴がほぼ一緒。母親に至っては同じ女学校の先輩後輩というオマケまでついている。そうなるとさすがに趣味嗜好は別にして何となく考え方は似ており、長い間いつか聞いたような同じ口調の冗談でゲラゲラ笑う非常に下らないつきあいと言えよう。そしてこの腐れ縁、一種の幼児的硬骨漢とでも言うのか『国境』とか『防衛』とか更には『海軍』といった言葉にむやみに興奮する癖があり、僕が小倉にいることを嗅ぎつけて対馬の旅を持ちかけてきた。

 オッサン二人で福岡から空路乗り込み、まずは国境視察と称してレンタカーで島の北端に行った。ところがこの梅雨空にモヤッってしまって何も見えない。観光案内の人に聞くと冬場を中心に年間50日位しか見えないのだそうだ。それでは、というので天然記念物のツシマヤマネコと対州馬を見に行けば、ただのネコとポニーのような短足の馬だった。ヤマネコの方は捕獲禁止だからどこかの動物園で生まれたのが飼われていたが、野生そのもので全く人になつかない。島にはノラ猫もいるから交配してそのうち本当にタダの猫になりゃしないかと心配したが、全然そうはならないらしい。対州馬は野生はもういなくなっていて全て飼育されているから十分人懐こい。以前牧場の隣で半導体材料の工場をやっていたことがあるが、牛小屋に繋がれていたポニーと仲良くしていた。ちょうどそんな感じで撫でてやると嬉しそうにしていた。

 しかしそれでは我等が工場犬チビは野生なのか飼育されているのか。エサは貰うくせに愛想が悪い、とは飼われているヤマネコ並みではないのか。

 対馬は重要海峡にあるため、砲台跡といった戦争遺跡も残っていた。武装解除されているので巨大なコンクリートの掘り抜きが残っていたがさながら要塞だ。その他にも古いところでは白村江の大敗の後に唐・新羅連合軍に備えた金田城(かねたのき、と読む)遺跡、元寇上陸跡。元寇の方は元・高麗連合軍で、対馬や壱岐は根こそぎやられたようだ。こっちもその後倭寇でさんざん暴れているからやはり近いだけに色々あるんだろう。

 和多海(わだつみ)神社もなかなかのもので、入り江の奥にヒコホナントカの命やら龍宮伝説を伝える大石がゴンッといったふうに納まっている。鳥居は満潮時には浸ってしまうし、何やら三角の結界のように注連縄で囲まれた亀の甲羅のような石も不気味な霊力を感じさせる。日本神話がそこら中に転がっていてルーツを探るようだった。翌日は海路壱岐まで行ったが、そこにも天照大神の妹にあたる月読神社の本家があった。もっともトタン葺きの手抜き神社に成り果ててはいたが。

 対馬そのものは海にそそり立っているような島で、ちょうど梅雨時のこともあり周回道路は雲の中の趣で、視界はしばしば5m位。トンネルの中など暗くて怖い。ソロソロと徐行運転で、初めにいった北端とは別の展望エリアに行き着いた。するとぼやけた水平線の少し上に、見えた。韓国の稜線が。

 北方領土を見たことがあるがその時も腐れ縁が一緒で、隣で「不法占拠だ。」「日本国だ。」とギャアギャア騒いだのとあまりに近かったので臨場感がなく、今度こそ国内から視認した初めての異国なのだ。言葉も民族も違う土地である。その昔にあの稜線を見た者は、まず行ってみたい、と思ったことだろう。そう考えた僕の脳裏には色鮮やかなチマチョゴリが浮かんだ。

 小倉に帰ると祗園太鼓の練習が始まっていた。本番前に各町内で夜十時くらいまでやっている。太鼓を両面から交互に打つのが特徴で、最近の創作和太鼓のような派手さは微塵も無い。単調なリズムでドドン(ドドン)ドドン(ドドン)と続く。暑いので窓を開け放っておくと延々とこの音が聞こえてうるさいが、不思議なことにテレビをつけたり本を読んだり、さらに酔っ払って寝る時などは心地良くさえある。何やら心臓の鼓動を感じるような、人が歩くような、太古の生活のリズムを感じさせる。特にボーッとしていると、血が騒ぎ、これからケンカでもしに行くノリで軽く興奮してくる。フム、やはりまだ老け込んでないじゃないか。ドーダ!読者A!

 本番後、小倉は盛夏となる。

小倉記 年末鹿児島編
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小倉記 初夏孤影編

2013 AUG 5 10:10:43 am by 西 牟呂雄

 川が流れる。当たり前だ。しかし我が工場前の川は海から流れてくるのだ。この辺は曽根干潟といってカブト蟹の繁殖で有名な場所。おそらくは無粋な都市計画にのっとって広々とした河口に堤防を築き、下水処理場を造り、工業団地を造成し、自由気ままに蛇行していた川を閉じ込めたに違いない。ところが干潟から数キロ離れたこのあたりでも海抜がほとんどないことから、引き潮の時には水流は五分の一くらいに細って、浅くチョロチョロとした程度になる。半時ほどジッと見ていると、じわぁっと水が増えてくるようにさざ波が立ってヒタヒタと流れがさかのぼるのがわかる。川が逆流するのだ。この『ヒタヒタ』という表現は実にその通りで、見つめているとどこからか『ポッ』とか『コッ』とかいう音がする。ああいうのを天の声と言うのか、遠くを通る車の音は聞こえているのだから気のせいじゃない。僕は堤防の上からだが、その昔は人が干潟にズブズブ入り網でも投げたりしていたはずで(今でも天然鰻の仕掛けがある)、そのときはきっと「ヒ」「タ」「ヒ」「タ」と聞こえていたことだろう。日本語は豊だ。

 十分に潮が満ちると川は堤防から堤防まで拡がり、ボラが跳ねたりする。そして濁る。多分満ちて来るときは海水のほうが重いから川底の砂を掻き上げるように逆流するからではないか。堤防もナニも無いころは一面の湿地で水田耕作もできずに人も住んでいなかったろう。

 日本初で多分最後の工場犬チビはますます元気がない。少しは馴れたのかだいぶ近寄っても逃げたりはしなくなった。話しかけたりして繁々と顔を見ると物凄い年寄りなのが分った。遠目には犬にしては珍しい二重瞼のつぶらな目だと思っていたが、実は瞼の上の毛が抜けているだけだった。もう体も硬くて普通の犬がよくやる後ろ足で耳の裏や頭を掻く仕草はできず、顔を地面にこすりつけたりしている。その恰好がまた無様で、奴の苦しかった半生が偲ばれる。古い掃除のオバチャンの説では十八才くらいではないか、と驚くべき証言をした。メスだからバーサマという訳だ。世界記録じゃないだろうか。ディーゼルの排気ガスが行き交うトラックから吐き出され、特に栄養のいいエサでもなくこの長寿。更に自動工作機械が一日中動き、一舐めすればイチコロのメッキ液、高温の熱処理炉が稼働する工場の中には入ってこないところなぞわきまえたものである。どうやって学習したのだろう。

 今日は朝から雨が降っている。この時期のやわらかい雨はやさしい。道端の紫陽花が涼しげで、心なしか晴れた日より鮮やかに見える。こんな日の工場前の川の満潮時はうねりが入ってきて海の延長といった趣だ。

 雲も低く低く垂れ込めて霧も出る。冬場の二色刷りの空は厳しいが、今は何やらうら寂しい色合いなのだが、孤独な暮らしには良く似合っている。

 小倉はこれから梅雨に入る。

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