ファイターズ事始め
2014 MAY 20 14:14:32 pm by 西 牟呂雄

自身のブログで明らかにされたが、中村兄は少年時代からブレーブスを熱狂的に応援していた。ただ『日本シリーズの常連』は正確な表現ではなく、『日本シリーズに出てきてはいつも巨人にコテンパンにやられていた』が正しい。名将西本監督が必死に采配を振るうが惨敗し、そのたびに氏は「ウォー!」とか「クソー!」とか叫ぶのだが、周りの大半の東京ボーイは誰も何故だか分からなかった。それは涙ぐましくも、一面微笑ましいヒトコマと言えよう。
そういうお前は何なんだというと、実は東映フライヤーズ、後には日拓ホーム・フライヤーズ、今日の日本ハム・ファイターズを応援した。何故か。当時のフランチャイズは後楽園球場で(巨人とのシェアリング)いつ行ってもガラガラだったからだ。僕の実家から水道橋は都電(当時路面電車があった!)でホイの距離で、外野スタンドなんぞガキの運動場と化していた。そういえば真剣にゲームを見てはいなかったが、土橋投手・張本外野手・大杉内野手の姿を思い出す。
強かったのはその前の駒沢球場時代で、速球投手尾崎行雄が活躍した期間じゃなかったか。こちらは記憶がない。
長じて学生時代に師と仰いだ計量経済学の泰斗が、日本ハムの故大沢啓二監督の義弟だった関係で、大量の内野席チケットが(タダとは言わないが)出回ったので、ゼミ生一同で応援に繰り出していた。この時点でも優勝は程遠い。
それがですぞ、かの江夏豊投手が『優勝請負人』の呼び声とともに広島からトレードされて来たら、本当に優勝してしまった。
ペナント終盤にクローザーとしてマウンドに上がり、ピンチをスイスイと締めた後のヒーロー・インタヴューが中継された。アナウンサーが「江夏さん、きょうは気合が入ってましたね。」とマヌケな事を聞いた時の返事
「あっこで気合入れんでどこで入れるゆうんや。そうでしょう。」
には痺れたなぁー。元々ファンだったが大好きになった(サシでつきあったら堪らんだろうが)。
その後北海道に行って、新庄が活躍し(この人はモノを考えてないらしい)ダルビッシュが打者をなで斬りにし(彼関西弁ですけどね)北海道の顔になったのは誠に喜ばしい・・・・。まァ僕のフライヤーズじゃないし。
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Categories:日本ハム ファイターズ

中島 龍之
5/21/2014 | Permalink
西室さんは東映フライヤーズですか。土橋、張本、大杉は、西鉄の稲尾、中西、豊田のようなものですね。あの頃の強者が懐かしいです。フライヤーズ時代はよく乱闘するチームのイメージです。山本八郎、白という捕手が記憶にあります。今は、ファイターズに名前も変わり、栗山監督ということもあって上品なチームになってますね。大谷は楽しみな存在ですが、チームとしては優勝にはちょっと戦力不足でしょうか。
西室 建
5/21/2014 | Permalink
中島さん、ライオンズはギリギリ「野武士」でしたが、フライヤーズはほとんど「ヤク×」でしたね。張本選手ははっきり言って守備は手抜きというか下手で(巨人に行くまでロクに練習すらしなかったのを江本に暴露されてます)アレッというポカをしてましたが、それを外野のファンがやじる。このヤジもここで書けないような下町の下ネタなのですが、張本も張本で
「オドレ等!次の打席でボール(ボ↓ルと発音した)スタンド打ち込んでブチ当てちゃるけんのう。」
等と言い返すのです。テレビ中継など絶対にない不人気チームですし、プロ野球ニュースもないから何でもありでした。『仁義なき戦い』まで広島弁はマイナーだったので、あれは新鮮だったと言うか何と言うか。