Sonar Members Club No.36

月別: 2014年6月

僕の駆け出しヒラ時代

2014 JUN 26 12:12:23 pm by 西 牟呂雄

 僕は25歳で地方から東京に転勤して来た。現場は全国に散らばっており、品種は多岐に渡る。それぞれいろいろな工程を経て製造され、納期に特徴もある。そういった製品群の厖大な注文を、どこで、いつまでに、どれくらい生産するのかを一元的に管理する部署に配属されたのだ。先輩達は折り紙付きの優秀な精鋭ばかりで、上司は一選抜中の一選抜の怪物。着任した途端に圧倒された。当時はパワハラとか残業規制といった概念そのものが全く無く「時間がかかるのはお前が無能だからだ。」と言わんばかりの迫力で、しかも不思議なことに鬱病になった者など過去一人も出ていない驚くべき職場だった。特に四半期計画策定の時は、ほぼ全員が休日に出勤してきて更に徹夜することが常態化していた。
 ある日曜日!サボっていて月曜の会議資料が何も出来ていなかったので焦って朝から出勤した。着いてみるとある先輩がすでに来ていて、ガンガン仕事をしていた。その日はなぜかその先輩と僕だけだったのだが、口も利かずに一日中働いて夕方帰ろうとすると「オレも帰るから一緒に出よう」と言われた。そして会社を出た時の一言に気が遠くなりそうになった。
「うむ、三日振りに吸う外の空気はうまい」

 そのうちに解ってきたのだがこの職場、他部門からは社内三大タコ部屋と言われていた。会議なんかでは独特の用語とともに、考え方がどうだったかが非常に重要視されていて、議論ともなると極めて神学的な論争になる。ペイペイの納得感やら達成感なんかはどうでも良く、ただひたすらに忙殺された。
 更にまずいことに、タダでさえクソ忙しい上に全員が酒とバクチが大好きだったのだ。あんなにコキ使われていて時間が無かったはずなのに、どういうわけかメチャクチャに酒を飲んで酔っ払い、麻雀に入れ込んでいた。この結果ロクに恋もできずに、尚且つ経済的にも困窮し、大幅に結婚が遅れた。大きな声では言えないが、先輩幹部が先頭になって煽るものだから、ヒラが調子付くのも無理はない。
 暫くして後輩達が何人か配属されてくると、その”悪い”傾向に拍車がかかり、給料日のたびに大金が動いていた。ツケの払いと麻雀の負けを払うからだ。今から考えるとこの光景は実に『昭和』であって、今日の若いサラリーマンはぜんぜん違うだろう。本人も好んでやっていた訳でもなく、ああせざるを得なかったように思う。更にここだけの話だが、当時は組合員だったので本部から無利子の融資があったのだ、まぁ×十万円が上限だが。僕の仲間は全員上限一杯借りていた。。
 ある景気の悪かった時に残業規制が始まった。規制もクソも元々忙しすぎるのに麻痺していたから全員『それがどうした』状態だったのだが、問題は公平感。職場単位に割り当てられた残業時間を誰がどう取るのか。頭割りにする案は何故か却下され(会議までやった)紛糾した挙句に上司が下した結論は『麻雀の負けに準じて時間配分する』だった。驚くべきことだが、この非合理な提案に全員が心の底から『何という素晴らしい案だ』と賛成してしまった。忙しさと負けの恐怖感で正常な判断ができなかったのだ。
 その頃始めたゴルフはもっと強烈だ。右だ左だバンカーだパットだと様々なモノに金がかかっていて、18番ホールのグリーン上でのスリー・パットは高額になる始末。そして中にはスコアは120くらいのくせに確実に稼ぐ奇っ怪なプレイヤーがいて、とてもスポーツとは思えなかった。

 しかしそんな暮らしの中でもちゃんとエリートは育っていて、今でも付き合いがある先輩・同期・後輩。ある人は忙しい中にも拘わらず女にモテまくり、得意の英語を駆使しつつ、ガンガン仕事をしていた。そう言えばこの人は確か麻雀はやらなかった。こういう人を見てしまうと、僕程度の能力では余計なことは考えず能率とスピードだけに興味を集中させればそれなりにやって行けると悟った。
 かくして生活は荒れ放題に荒れ、遅くまで会社でドタバタしてから深夜の六本木で暴れ回り新宿のサウナで目覚めてから出勤するようなことまであった。しばしば一体何の為に働いているのか夜中に自問したが、答えが出たためしがない。それどころか盛者必衰の理を表すの伝え通り、メチャクチャ暮らしにピリオドを打つ時が刻々と迫っていたのだ。

 ある週末に二日酔いで水を飲んでも戻してしまい、激痛にのた打ち回っていた。これは酷い胃痙攣だろうと思ってジッと耐えていたのだが、週明けに病院送りにされた。急性すい臓炎!
 医者があきれかえって言う。
「まだ若いと言ったって、これでよく胃と肝臓が持ちこたえたもんですな。」
中年のアル中がたまになる病気だった。20代の発症例が極めて少ないそうで、毎日のように教授が学生・インターンを連れて回診に来て、どうしたらこんなに酷いことになるのかを解説していた。それは飲み過ぎなのだが。ベットの上で鼻から胃までチューヴを入れられ胃液を汲み上げられる人間サイフォン状態になって、これからどうしようか野菜造りでも仕事にするか、等と考えて落ち込んでいたら、見舞いに上司が来てくれた。僕は『こんなになるまでコキ使って済まなかった。』程度のことを言われたらどんな顔をしたらいいのか思いを巡らせたのだが・・・・。
「ワシ等が20年以上毎日飲んでも何とも無いのにだらしの無い奴だ。サッサと直して早く出て来い!お前がいないと退屈でしょうがない。じゃこれから飲みに行くから」
 これだけだった。
 普通はこの手の話は後に『あのときの試練があったから・・・。』と続く成功譚になるはずだが、僕の場合何にもならなかった。再発率の高さにビビッテいたのだが、元々の発症率が大変低く、退院してしばらくして又飲み出したからだ。バカは死ななきゃ直らない。

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ロシア残照 Ⅲ

2014 JUN 24 20:20:35 pm by 西 牟呂雄

 アレクサンドル・ボリシビッチ(ボリスの息子のアレクサンドルという言い方)が来日してロシア関連の打ち合わせを進めていたが、週末になんと奥さんもやってきて夫婦のアテンドをした。御夫人は初めての日本なので是非富士山が見たいと言うので、ウチの山荘喜寿庵にご招待した。ミセス・コテルニコフは50がらみで二人の娘さんに孫までいるのだが、この年齢にありがちなデブデブのバアさんではなくスラリとした美人で、そういうロシア女性を初めてみた。
 良く笑う人で、日本橋のホテルからピック・アップして首都高に乗った途端に「トウキョウーは映画の未来都市のようだ。」とはしゃぎだした。それはタダ同然の広い土地のエカテリンブルグと違い、道路網を張り巡らせるために上へ上へと積み重ねるように伸びていった結果なのだが、土地のバカ高さの実感がどうしても伝わらない。ロシアの街には高架の道路なぞ、まず無いのだ。
 ドライヴ1時間、喜寿庵の芝生の上でサンドイッチを食べた。しかしこのロシア人夫婦はあまり食べない。今まで出会ったロシア人は大体僕の3倍くらい物を食べて2倍くらいウオッカを飲む(女も)。平均寿命も男は60歳程度だが、これならこの二人は長生きできそうだ。
 庭を案内してやると、片隅の曽祖父の記念碑にあるレリーフを見て「レーニンに似ている。」と言い出した。そう言われればハゲ方が似ていなくも無いが、そんなに喜ばれても恐れ入るばかり。この話オチがあって部屋にはオヤジが孫二人と写っている写真が飾ってあり、それをみて「こっちの方は(オヤジを指して)マオにそっくりだ。」ときた。実際オヤジは(これもハゲ方を中心に)毛沢東に似ているとは何度も言われていた。そして「ガスパジン・ニシムロは革命家の血筋だ。」と笑っていた。あんまり嬉しくはないが。そして畳の上で寝転がって遊び、仏壇に線香を供えて感心し、民間外交にひとしきり花が咲いた、いい人たちなのだ。
 
 肝心の富士山はこの梅雨空で山肌が見えるが山頂には濃い傘雲がかかってしまった。河口湖のほとりに宿を取っていてそこまで連れて行くと、そこには恐ろしく頭の悪いフロント・マンがいた。帰りは二人だけで帰ると言うのでバスの乗り方・時間を聞くのだが、余計な説明に夢中になって喋っているうちに答えるのを忘れる。極めつけはカード決済は1万円以上はできないと言い出して、これには猛烈なクレームを付けた。
「あんたら世界文化遺産とか称しておいて、本当に外国からお客さんが押し寄せたらどうするつもりだ。バスしたててガイド付きの中国人ばかりじゃないんだぞ。オリンピックまでに悪評立ったら取り返しつかんぞ!」

 そうこうしているうちに夫婦ゲンカまで始まった。奥さんはこの後京都に行きたいといい、実際に予約も入れているのだが、アレクサンドルは富士山が見えるまでここに泊まり続けると言い張っているらしい。あまりの剣幕に関係ない僕が割って入り「富士山の神様はコノハナサクヤヒメ(ブロッサムズ・オブ・ザ・ツリーと訳したけど伝わったかどうか)というゴッデスで、今日はミセス・コテルニコフがあんまり綺麗だから隠れたんだと思う。」と言ったらこれは受けた。
 帰りには、明日の朝チョットだけでも山頂が見えることを祈らずにはいられなかった。

ロシア残照

ロシア残照 Ⅱ


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インドの貴婦人

2014 JUN 21 19:19:18 pm by 西 牟呂雄

 今から35年あまりの昔、僕の実家のマンションのゲスト・フロアにインド人の女性が2年程いたことがある。国立大学の客員教授で滞在していたのだ。当時で御年50位のまァオバチャンなんだが、法学博士という立派な方で、小柄なかなりの美人だった、独身。
 大変な生まれらしく料理はおろか身の回りのことが一切できなかったため、招聘元の先生に(同じマンションのこっちは文化人類学者)多少の英語を喋るウチの母親が何かと面倒を見てやってくれと頼まれ、頻繁にウチに来ていたようだ。僕はその頃地方に飛んでいたが、たまに実家に帰るとその博士はいつも来ていた。玄関を開けた途端に『あっ来てるな。』と分かる。何故かと言えばサンダルがあっちこっちに脱ぎ散らかしてあるからで、靴を揃える習慣が無い。正確に言えば自分で揃たことがなく、その役割のカーストが常にいたのだそうだ。召使ですな。曰く「私が揃えたらその人の仕事がなくなってしまう。」ウチにはそんな召使はいないけど、とにかく自分ではやらない。
 上位カーストのバラモン階級だが、その中もいくつにも分かれていて、確かマハラジャの次くらいのハイエストになるらしい。そこクラスになると人口大国インドでも人数は極少なく、結婚適齢期(インドの女性は16~18歳)に同等カーストに適当な相手がいなかったため学者になったと言っていた。
 現在の巨大資本による工業が発達する前のインド社会では、カーストそのものが仕事の資格のようなもので、ヒンドゥー教徒に関しては誰も文句も何もなかったようだ。どうしてもイヤという人は少数だが仏教徒(発祥の地ですぞ)やキリスト教徒(マザー・テレサがいたでしょう)になれば済んでしまうようなことを説明されたが本当だろうか。
 例えば財閥で有名なタタはペルシャ系でゾロアスター教だから昔から製鉄業に進出できた。商人はジャイナ教徒とか。ムスリムだって多い。タタのゾロアスター教は、まるで日本の天皇家のように男系相続しかできないため、前当主だったラタン・タタの後にはタタの苗字を名乗る後継者がいなくなっている。

 ところで例のインド女性はドイツで博士号を取った、なぜドイツかは聞かなかったが、ナントカ大学でしばらくそのまま教えていたそうだ。物凄いインテリで文化の吸収力も凄かった。ただ、ネイティヴのドゥラビダ語とドイツ語が混じったインディアンイングリッシュは聞き取りが難しく、何度も聞き直したが。面白いもんで母親とは十分にコミニュケートできていた。向こうは向こうで『息子さんのアメリカン・スラングはよく分からない。』と言ったとか。
 ウチの母親の運転で弥次喜多道中のような旅を楽しんでいた。しかし母親の方も十分に世間知らずだったので(しかも我儘で押しが強い)行った先ではさぞ大変なことが起こっていただろうと思う。もう一人はインド人で靴も揃えられないのだから。
 帰国に当たって更に驚かされたそうだ。あんなに長くいたのに大した物は何も無く、着るものとか身の回りの物を何故か10個くらいの紙袋に分けた荷造り。「インドでは空港や税関でよく物を盗られるので荷物は沢山分けておいた方が被害が少ない。」と言ったらしい。

 僕も最近インドに行くのだが、今頃どうされているだろう。ドクター・チャンドラー・ムダリアル、存命ならば80歳を超えているはず。お目にかかってみたいものだ。

インド人とドイツ人

インド高原までやってきた

インド高原までやってきた Ⅱ

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(200X年 男子中学編Ⅲ)

2014 JUN 18 20:20:53 pm by 西 牟呂雄

E中学は私立男子一貫校で、中学受験をするため、みんな小学校の5・6年生の時は塾通いをしてくる。そのせいかどうか、何だか話しをしてても面白くも何ともない。初めサッカー部に入ったが同学年の奴等となじめず、すぐ辞めてしまった。そんな訳で、仲間と言えば席が近かったというだけの安直な理由で、同じクラスの4人仲間という具合になった。そして不思議なことに2年も4人が同じクラスとなり、まあ腐れ縁なんだろう。
 英(はなぶさ)と出井、もう一人B・B(原部バラベと読む)というのがいる。
 E中・高は自由闊達がウリになっているが、僕に言わせれば、生徒と先生が馴れ合っているようなもんで、もともと好き勝手にやっている僕としてはこの1年何とも居心地の悪い思いだった。マア仲間が4人もいれば良しとするところか。こいつらはある意味話していて楽しい。
 しかしまぁその4人だって面白いことは面白いが、中身はバラバラだ。僕は自分で言うのはナンだが、みっともない服装が嫌いで中学生にしては凝るが、比較的おしゃれなのは出井くらい。英(はなぶさ)は全く気取らないで一年中ジーパンだし、B・Bに至っては支離滅裂だ。特に色の選び方がひどい。2年になってから、毎月髪の色を変えだしたのを見た時は、狂ったかと思った。
 ところで僕は、どういうわけか真面目な兄貴の影響で芥川・三島・春樹くらいは読むが、先日の現代文の授業で太宰の『走れメロス』の感想文を提出しろ、と来た。小学生じゃあるまいし、よりにもよって。それで登場人物のステレオ・タイプぶりをおちょくり倒し、太宰のテーマへのアプローチのあざとさを批判するような文章を提出したところ、何と放課後に来い教官室に来い、を食ってしまった。多少予想された説教であったが『こうひねくれた感想は奇をてらったつもりでも結局陳腐なものにしかならない。もっと中学生らしくあるべき友情の・・・・。』と説教されてマイッた。友情と言われても頭に浮かんだのはあの四人だし。と思いながら教室に帰ると、あいつ等が心配して待っていたので、念のためどんなことを書いたのか聞いた。
英「まァオレは『この王こそが最もメロスの帰りを待ち侘びていたに違いない。』とまとめた。」なかなかやるじゃないか。英は小説を好むけれど洋物中心で、不思議なことに1960年代のことにやたらと詳しい。黒人公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キング牧師がやったという有名(らしい)な長い演説を暗記していて、『アイ・ハヴ・ア・ドリーム』と抑揚たっぷりにスラスラ喋ったのでビックリした。ギターを弾きながら『花はどこへ行った』とか『サンフランシスコ・ベイ・ブルース』といったフォーク・ソングを歌って見せたりもする多才な奴だ。ビーチ・ボーイズという聞いたこともないバンドもこいつから教えてもらった、結構イケてる。
出井「オレとしては途中メロスが襲われるところが切ないが、体力の回復と共に気力が漲ってくるところが『命』の躍動だ、としておいた。」出井は古典趣味で、また熱中すると深読みのしすぎといった趣があってついていけなくなる。この前の日本史の授業中、平安時代の院政の発表をしたが『政治をすると言っても官位の人事をするだけで、この時代に民衆の幸福を考える皇族も貴族もいるわけないから、おべんちゃらか女や稚児さんの取りっこぐらいしか評価の基準はありません。そのスキをついて武士がですね・・・。』とやって教師を激怒させていた。
B・B「僕は『あんなに一日中走れないから、どうせならセリヌンチウスの方になる。』って書いたな。」バカ。マンガの読みすぎで人格の浅さが丸出しだ。

 男子校だから女の子に興味深々のやつらばかりのはずだが、あいつ等は口では『女日照りだ。』とか『彼女ほしい。』とか言うくせに、僕に言わせれば女に免疫がないとしか見えない。要はちょっとしたセンスの問題で、そういうことであればあるほどそのセンスの有る・無しは致命傷だ。奴らは永久にだめだろう。
 まあ、この手の遊び話は学園内では大したことにはならないし、いきおい外の世界で遊ぶとなるのだが、しかし残念ながらE中学のブランドネームが効いてしまって、そこでは僕がガキ扱いされてしまう。お坊ちゃん学校ということで、ドスが効かないことおびただしい。
 おまけにチーマーのアンちゃんになればなったで、これが又ケンカばかりしている本当のバカとか、恐ろしく話しが下品な奴とかは願い下げだから、何でも仲良くなりゃいいってもんじゃない。結局クラス仲間の4人組となってしまう。

 2004年恐ろしく暑かった夏が終わり、秋空の下運動会の準備が始まった。
 これが又煩わしいことこの上ない。とにかく男ばかりだ。華やかなアトラクションなんか全く無し。競技は高等部が棒倒しで中等部が騎馬戦だけ。そして、その合間にばかばかしかったり、卑猥極まりない応援合戦。それを中高一緒なもんだから、朝から夕方まで延々とやる。
 いっそさぼってやろうかと思っていた矢先にクラスの委員選考があった。応援とか何だかんだでクラスの半分くらいは委員をやることになるが、多少の例外を除いて自分で手を挙げる奴はいないから、やれアミダだジャンケンだとやっていたら僕が競技委員になってしまった。これは、いわばクラスの競技のマトメ役で、練習の段取りからチーム編成までやらなければならない、極めてウザイ。
 一月前から、体育は全部運動会の練習だ。といっても当日サボリを決めるつもりの奴から、まるっきりオマカセの奴、やたら張り切る奴、まとまりの悪いこと甚だしい。とにかくこんなガキの遊びみたいなもんに付き合うだけでもアホらしいのに、冗談じゃない。
 一回めの騎馬の組み合わせからしてモメた。僕達はちょうど4人で組んだが、一人足りないだのあいつとは組みたくないでスッタモンダ。やっと全てが編成されいよいよ立ち上がる時、我が騎馬は崩れた。僕が上に乗ったのだが、英が小柄なためバランスを崩し、走り出した途端に僕はもんどりうって落ちた。何たることだ!
「もうイヤんなった。」
「とにかくウチの騎馬だけでも何とかしよう。」
「うん。おれも思うんだけど上に乗せるのは英の方がいいと思う。」
「だけど、オレが上じゃあ組討になった時は戦力にならんぞ。」
「いや、まあ聞け。」
出井が言うには、実際に組討になった時は見たところ掴み合いになって、ほとんどが両方とも潰れている。それよりも機動力を出して、体当たりで相手の馬を倒した方が確立は高く、剣道でも体当たりは有効な技とされているそうだ。剣道部の出井が言うのだからそうなのかもしれない。急遽僕が前、右出井、左B・B、騎乗英に変えて御丁寧にも昼休みにまで練習した。
 ある日B・Bがノートを広げて真剣な声で言った。
「僕は艦隊運動の研究をしているけど、こんなこと考えたらどうかな。」
作戦要務令と書かれたノートには、『五輪陣形』とか、『錐揉陣形』という複雑な陣形にあいつが考えた空母機動部隊が配置されていた。それにしても空母『天狗』とかイージス『高天原』、潜水艦『酒呑童子』とはどういうセンスか。何のためにこんなことをしたのかは知らんが。
「こんなことできる訳ないだろ。」
「いや、使える。」
 発案者のB・Bは無視して、英、出井と検討した。
 結果、僕達の騎馬が先頭になって、全騎馬が楔形で突進するものと、二つの固まりになってび両側からV字型に挟み撃ちにするものが有効だということになった。
 体育の練習の時に、まず教室に集めて説明をすることにした。説明は出井。
「皆ちょっと聞いてくれ。」
 こんな時ガキみたいな奴らは単純に乗ってくるから扱いやすい。ヒネた小僧なんかがツベコベ言うと面倒だが、出井は他の3人より信頼が厚いのでこういう時うってつけだ。各騎馬の配置まで決めて、黒板に書き出した。この際楔形は『くさび』、V字型は『鶴翼』と命名された。早速練習するとこれがまた絶望的に動きが鈍い。ダメだ。紅白戦にもなりゃしない。もっぱらワーワー言いながら言ってみれば蛇行行進の稽古をしているようなもんだ。
 ところが面白いもんで、1週間もするとアラ不思議。慣れるに従ってみんなキビキビとかなり機動力がついてきた。しまいには上から英の号令の下、楔ー鶴翼ー楔といった複雑な動きまでこなせるようになった。ひょっとしたら。

 当日は良く晴れた運動会日和というやつだ。騎馬戦は中学学年ごとの5クラス総当り。なんとなく皆も張り切っている。いよいよ2年の出番だ。円陣を組んで僕がエールをかけた。
「いいかー。」「うおー!」「ぜーってーまけねー!」「ウオーッツ!」段々声もでかくなる。よーし。
 騎乗して、合図が鳴ると同時に英の号令がかかる。「くさびー!楔だ!」
 結果は正に鎧袖一触というやつだ。びっくりした相手をまるで踏み潰すみたいに追い散らして圧勝した。次ぎもその次ぎも圧勝。こうなりゃ全勝優勝だ。
「みんなー。彼女いるかー!」「いねー!」「彼女ほしいかー!」「ほしー!」「全勝して合コンだー!」「ウーオー!!」最後の声はとりわけでかかった。
 合図が鳴って得意の『くさび』にかかったところ、何と驚いたことに相手も同じような形をとるではないか!あわてた英が大声で号令している。
「くさびじゃなーい!カクヨクー、両側広がれー!両翼上がれー!。」
 相手も研究したのだろうか、それどころかこちらが体制を変えている間も「ウオーッ」の歓声とともに突っ込んでくる。先頭の馬はサッカー部の頃から僕と何かとソリの合わない飯田ではないか。
「オイ、椎野!飯田の狙いは初めからお前だけだ。潰されたらこっちは総崩れだぞ!」
「上等だ。前進するぞ!」
 中心の僕達が突撃したので、きれいに両翼に分かれかけた鶴翼がW字のようになったまま激突した。そのまま揉みあっていたが、向こうも引かない。足まで踏んできた。このやろーと反射的に首を振りながら、左目の上で飯田の鼻のあたりにバチーッと頭突きした。セコいケンカの時にやる手だ。
『ゴッツ!』と音がして「ウーッ。」と呻きながら飯田が膝を屈した。ざまーみろ。
 ところが、全体がメチャクチャな潰しあいになった時に、飯田が復活してきて鼻血で胸と顔を真っ赤にしながら、掴みかかってきた。
 「椎野ー、やりやがったな!」「やめろ!オレは両手塞がってんだ!」「知るか!きたないことしやがって。」飯田は僕に飛び掛ってきた。
 その時左側のB・Bが間に割り込むように入ってきて、飯田のわき腹をドスーと蹴り上げた。おかげで英は頭から落ちた。飯田も再び「ウーッ。」とうつぶせになってしまった。B・Bはそのままサッカーボールを蹴るようにキックしている。押し寄せてくる奴らを制して振り向いた。
「出井!B・Bを張り倒せ、飯田にケガさせるぞ!」
 出井は豹が飛び掛るみたいに素早くB・Bに飛びついて2人は転がった。
 ガキのケンカは双方の犠牲が同じになれば終わりだ。転がってるのが飯田とB・Bになって双方の睨み合いになった頃、やっと高等部の審判部員がフォイッスルを吹きながらやってきた。結果は没収試合。ヤレヤレ。

 ところがそれでは済まなかった。実行委員会審判部は聞き込みの結果、倒れてからのB・Bの蹴りを暴力行為として重く見て、休み明けのクラス討議にかける旨決定した。
 そして休み明けのホーム・ルームに高校生の応援団長、審判部長、競技委員長がやって来た。
 曰く、審判部としては、競技中のケガについては正々堂々としたものであれば不問に付すが、今回は、詳細に検討した結果見過ごす訳にはいかない、E学園の自治と自由を守るためにも、諸君の真剣な討議を踏まえ、我々は学生を処分することはできないので、職員会議にあげて検討してもらう、その際の処分には停学、退学もあり得る、云々、クドクドと喋った。何が自治と自由だ、たかが中学生のケンカぐらい裁けないで笑わせると思った。
 それがどうしたことか、クラスの反応が違う。坊ちゃん育ちの子供達は『処分』にビビッたか。椎野の頭突きはやりすぎだ、B・Bは協調性がない、せっかくの運動会がぶち壊しになった、どーした・こーした意見が出て、全体がB・B非難の論調に収斂していく。なんてこった。こういう奴らがそのうちエリートにでもなって、E学園の校風は素晴らしかった、などとぬかすのかと思うと、胸糞が更に悪くなった。スケープ・ゴートを見つけて後は知らん、の根性が見えるようだ。全くガキは始末に負えない。
 と、僕の後ろでガタッと音がしてB・Bが立ち上がった。不貞腐れている。
「オレもういいッス。皆で決めてくれ。」
と言うと、クラスを飛び出してしまった。イカン。英と目が会った。格別のニヤニヤ笑いだ。英は機嫌の悪い時にニヤノヤする癖があった。出井は怒りで真っ青というか、緑っぽくなってしまっている。まずい!
「ちょっと待てよ。オイ少し違うだろ。アクシデントとケンカだろ。先輩達も処分だ何だ言わんで下さい。この程度で処分にされるなら騎馬戦なんかやらずにカケッコでもやってて下さいよ。オイ、皆クラスで処分だなんて結論出すのやめろよ。」
同時に英と出井が席を立った。ヨーシ、こんな坊ちゃん学校でたかが小競り合いに一遍に4人も処分なんかできるもんか。そう思って胸を張って外に出た。

「B・Bはどこだ?」
「カバン持ってないから帰ってないよ。多分あそこだ。」
 出井が連れて来た所は、体育館の裏側だった。秋の日が眩しく差している塀の隅に黄色く染めた髪を鮮やかに反射させてB・Bがうずくまっていた。
 ハッとしたが、運動会のクラス・カラーは黄色だ。あいつまさか運動会の黄色に合わせるために春先から毎月髪を染め出していたのか?いや、そんな計画性の有る奴じゃない。
「あいつなんであんなとこにいるの?」
「さあ、前にアリの行列で遊んでた。」
「何だ、そりゃ。」
 それはともかく声をかけようとした矢先、「待て。」と英が止めた。
「今声かけるとアイツ引っ込みがつかなくなって口が滑るかもしれん。ありゃ悔し泣きだよ。」
「エッ。」
 全くガキは手がかかるが、まあいいか。
「夕刻のセリヌンチウスだな。」
「メロスは声をかけないのも情のウチ。」
「じゃ行くか。」「ああ。」「うん。」
 振り返って歩き出すと、真っ赤な秋の夕日で僕達3人のデコボコな長い影が伸びていた。

おしまい

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(200X年男子中学編)

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(200X年男子中学編Ⅱ)


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サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(200X年男子中学編Ⅱ)

2014 JUN 12 20:20:34 pm by 西 牟呂雄

  B・Bは不思議な奴だ。
  育ちの良いお坊ちゃんなんだが、何を考えているのかさっぱり分からない。一年生の時に席が隣だったので仲良くなったのだが、一年付き合って益々訳が分からなくなった。計画性といったものがまるで無くて、思いつきだけで生きているようだ。発想が自由なのは中学生らしくて構わないが、余程甘やかされたせいか常識に欠けている。まさか犯罪を犯すとは思えないが、突拍子もないことをしては本人は気付かずに周りが慌てることが何度かあった。
  二年生になった途端、髪をピンクに染めてきた。茶髪は何人もいるがさすがにピンクはあいつだけだ。更に連休明けには真っ赤になった。狂ったのかと思ったら六月には草色にした。どうしたことかと聞いてみると、一年間で十二色を達成するのだそうだ。
「7月からは夏休みだから黒くしてるけど、虹の七色とピンク、草色、後どうしたらいい?」
一体何のためにそんなことをしているのか分からない。
  そう言えば、去年は自分で仮想連合艦隊を仕立てて喜んでいた。こっそりノートを覗いたらB・Bが名付けたイージスやら空母の絵が書いてあって、イージス艦は『高天原』とか『岩戸』、空母は『天狗』『夜叉』だった。どういうセンスなんだ。
  僕らの通うE中学は男子中高一貫校だからクラブ活動は高校生と練習しているので、中学大会では結構強い。団体競技が苦手なので剣道部に入った。そこでもそこそこ仲間ができたが、たまたま二年でも又同じクラスになったので、友達といえばちょっと変だがB・Bと、やたら英語が好きな英(はなぶさ)、ちょっとヒネてる椎野の四人組か。
 ある日剣道部の練習を終えて、体育館から出て裏のほうに行ったらすみっこに奴がうずくまっている。こんな時間まで何をしているのか、と声をかけた。すると『アッ』とか言って慌てて立ち上がった。
「お前こんな所で何やってんだよ。」
「何でもない、何でもない。」
楊枝が地面にいっぱい刺してある。
「ナンだそれは。」
「何でもない、何でもない。」
地面を覗いて見ると、蟻の引越しの行列があって、それに沿ったように楊枝が何本も刺してある。それが幾筋もの線になって、奇妙な幾何学模様のようになっていた。どうもB・Bが蟻の邪魔をしてルートを変えさせるように楊枝を刺しているのだ。
「お前。いつからこんなことやってんだ?」
「いつって、うーんちょうど三日目かな。」
「・・・・。」
 又別の日。放課後、一人体育館で『突き』の練習をしていた。何故か両手を一杯に伸ばしてカウンター気味に決まる突きが好きで、中学剣道では禁じ手だから稽古の後に型の練習をしていたのだが、そこにひょっこりB・Bが顔を出した。
「出井。こういう型やってみてくれよ。」
 竹刀を手に取ると、半身でライフルで狙いをつけるような恰好で、竹刀の刃を外側に寝かせ右肘が高く上がるように構えた。やってみると微妙に窮屈だ。
「それで突いてみてくれ。」
というので、えいっ、と突いたが半身の分だけ剣先が伸びきらず、やはり両手を伸ばした方がいい。
「そんなのじゃだめだ。左足を踏み込んでヤッと突いたらすぐ引く。続けてヤッ、ヤッ、と3回踏み込まなきゃだめなんだ。」
「ヤッ、ヤッ、ヤッ!」「遅い!それにもっと踏み込む!」「ヤッヤッヤッ!」「遅い!もっとヤヤヤっと!」
「ちょっと待て。なんでオレがお前なんかに指導されなきゃなんないんだ。」
「ねえ、どんな感じ?人が切れそうかな。」
「・・・・鋸引いてるみたいで窮屈だな。」
「ふーん。そうか。だめかな。」
 何を考えているんだ。さっぱり解らない。ところが僕は凝り性なので、さっぱり解らないまま、時々思い出してはやってみた。
 合宿で師範の道場に泊まっていた時、朝練の素振りの後に思わず『ヤッヤッッヤッ』をやったら師範が目を丸くした。
「出井。今の型はどうした。」
「いや。何でもありません(B・Bみたいな喋り方だ)。」
「それは実践剣術だ。そんな練習をしても現代剣道では使い物にならん。試合では使えないから。第一君はまだ中学生だろう。型を崩すと太刀筋が悪くなる。誰に教えられた。」
「何でもありません、何でもありません。」
「フム。天然理心流だよ。」
「てんねんりしんりゅう、何ですかそれ。」
「新撰組の剣法だ。今のは沖田総司が得意にしていた、天然理心流の『突き』だ。」
周りがみんな驚いた。
 だが何でB・Bがそんなことを知っていたのだろう。それよりその後剣道部では『総司』と言われるようになってしまった。いい気分だ。
 夏の都大会が始まった。ウチの剣道部はOBの面倒見が異常に良く、試合にも大げさな応援が来て盛り上がる。部員も多いので、A、B2チームがエントリーしていて、僕はBチームの中堅だった。
 2回戦までは順調だったが、3回戦となるとBチームはかなり苦しい。先鋒、次鋒があっさり抜かれた。相手は僕よりでかい。3年生じゃないだろうか。蹲踞から竹刀を合わせると『チエーイ!』と物凄い気合を発している。この暑いのにうるさい、と思った瞬間『メーンン!』と飛び込んできて体当たりしてきた。この野郎、これが得意か。またやるぞ、来た!『メーン!』突っ込んでくるデカゴリラを竹刀も合わせず、右半身を開いてかわしたところ、僕の肩越しに首一つでかいそいつの面が振り向いた。僕も気合を発した。
「ヤッヤヤ!」
しまった。例の突きがカウンターで3発きれいに入っちまった。
「反則!」
 師範が鬼のような形相で僕を睨んでいた。E中Bチームの夏が終わった。

 夏休み明けに早速B・Bを捕まえた。
「おい、おまえが何で新撰組の剣法を知ってるんだ。」
「ん?何の話だ。」
「お前が教えたあの『突き』だよ。沖田総司の得意技だそうじゃないか。」
「そんな人知らないよ。あれはオレが考えた『飛龍剣』って言うワザだ。あれ役に立ったか?あともう一つは『蛟竜剣』って言うのも有るんだけど今度教えてやる。」
「・・・・。もういいよ。・・・・。」

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(200X年男子中学編)

 

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(200X年 男子中学編Ⅲ)

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出雲への誘惑Ⅱ 

2014 JUN 9 23:23:56 pm by 西 牟呂雄

 大国主命の一族のその後に思いを巡らせているとき、ハタと気が付いたことがある。
 松本清張の『砂の器』に出雲の亀嵩が出てくる。小説は東北訛を追いかけて行くと出雲に辿り着き、それが事件解明に繋がるという話だ。文脈では東北(恐らく日本海エリア)の方から出雲まで言葉が流れたというモチーフと記憶するが、これ逆じゃないか。
 日本海の海運は江戸期の北前船の物流のように極めて盛んで、東北から山陰を経由して関門を抜け、瀬戸内を通って大阪に至る。ここで様々な物(一番は米)の値段が決まってから「下り船」で大消費地の江戸へと向かう。無論復路もある訳で、帰り船は黒潮の分流に乗って能登くらいまではスイスイ行けたはずだ。
 「越」の国。古来より継体天皇が出てくる等、大国だったと思われるが越前・加賀・越中・越後と広すぎるのでパスすると、その先はまぁ東北となる。
 このルートで行くと出雲発祥の出雲弁が東北方言の一つのルーツと言うのもあまり無理筋ではないと考えた。大国主命が国を譲ってしまった後、その一門は天孫族の目をかすめて海路北を目指す。その一部が信濃に辿り着いて諏訪神社を造営し、別の一団は更に日本海沿いを進む。なかなかイケるのではないか。盛岡在住の作家高橋克彦氏によると、青森を中心に東北ではやたらと大国主命が祭られているそうで、見方を変えると一族は東北に逃げ込んだと考えられなくも無い。
 源義経の生存北上伝説が知られているように、政治的にマズくなると北に逃げ込むというのは、中央の統制が利きにくかったからだろう。そう思って平家と物部氏に狙いをつけてみたら、あった。確かそうなところをそれぞれ挙げておく。
 物部の方は秋田県に唐松(カラマツ)神社というのがあって、宮司は何と物部さんという。しかもそこの『物部文書』というのには、蘇我氏にやられたのでここまで逃げて来たのではなく、先祖神ニギハヤヒが鳥海山に降りたのが始まりで、その後スッタモンダの挙句に物部守屋の子供がこの地に戻って(逃げ帰って)落ち着いたのだ、と。この家系からは物部長穂工学博士や実弟の長鉾陸軍中将も出ていて本物だ。
 平家はと言えば能登の輪島に大納言時忠の子供、時国の血をひく時国家という家系が続いていて有名。こちらはかなりの信憑性がある。他にも落人伝説は東北全般にあるそうだ。
 蝦夷(えみし)という名称はアイヌ民族説もあるにはあるが、思うに”中央に従わない”あるいは”中央に背を向けた”人々の総称なのではないか。佐藤愛子さんの佐藤家はその中でも特に反抗的な荒蝦夷(あらえみし)の系統だと聞いたが、頷ける。或いは東夷の沙門を自称した今東光大僧正しかり。
 
 しかるに年代的に物部・平家よりも時代の下る出雲こそ、日本のルーツの一方の旗頭に相応しいのではないか。うーん、ロマンを感じるなぁ。

出雲への誘惑 

出雲への誘惑 Ⅲ 左白 ーさじろー 

出雲への誘惑 Ⅳ  トミという謎 

出雲への誘惑 Ⅴ オマケ 

 

出雲に初めて行きました

出雲に初めて行きました Ⅱ


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サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(200X年男子中学編)

2014 JUN 6 17:17:25 pm by 西 牟呂雄

 僕の苗字は「バラベ」というのだが、読みにくいのでみんなは「B・B」と呼ぶ。都内の中二だ。
 毎日遊ぶのが忙しい。ゲームの進化が早くて、ちょっと気を緩めると流行から遅れる。メールはひっきりなしに来る。パソコンもいじる、たまに勉強もする、クラブ活動もしている。夏はキャンプにも行ったし、冬はボードだなんだで一年中飛び回っている。一体僕は何なんだろうか。周りの同級生は天才からアホまで一通りいて、僕自身は天才でもアホでもなく、真面目でもないが、ドスの利いた不良じゃないあたりだろうと思っている。
 夢がないのかと言われれば無いようで、将来不安は無いのかと言われれば、あるような気もする。大体何か欲しいとか、何をどうしたいといった気分が沸いてこない。こんなチャランポランでいてはロクなもんにならんことくらいは分かっている。僕の身近に恰好の反面教師がいるからだ。
 それはウチのオヤジだ。
 僕は一人息子なので、チビの頃は大層甘やかされて育ったと聞いている。母さんがナントカいう難病とアレルギーで入退院を繰り返すので(今もだが)オヤジ本人の言によれば”必死”に可愛がったのだそうだ。実態は病身の母さんの手前一人でほっつき歩くのが具合が悪かったので、僕を連れてヨットだスキーだと繰り出し、色んなワルサを口止めするためビールを飲ませたりした。これを可愛がったと言うのだろうか。
 オヤジが一体何の仕事をしているのか未だに僕には良く分からない。朝は僕より遅く起きるし、月給をもらって来るので会社勤めなのは確かだ。スーツを着てると普通のサラリーマンに見えなくは無い。時々びっくりするような有名な会社の話しをしている。年中海外に行くが、行き先は決まってなくて『今は中国にいる』とか『ここはカナダだよーん』といったメールが来るだけ。この前は真夜中に電話があって、慌てた母さんが一緒に来いと言うからタクシーで最寄の駅まで行くと作業服を着て道端で寝転がっていた。その時はつくづくこうはなりたくない、と思ったもんだ。向こうも薄々そう思われていると知ってるらしい。一度あまりに勉強しない僕に真顔でした説教にあきれた。
「お前その調子だとオレみたいになるぞ。」
 
 2004年の7月は目が眩むほど晴れが続き、先が思いやられる夏だった。期末試験が終わり、あしたから休みの日、クラブ活動をして遅く帰ると、オヤジがヨットに乗りに行くところだった。何も予定が無いから、僕もついていくことにした。油壺に停泊する愛艇エスパーランサーに泊まる。
 ところでこのヨットも不思議な船で、いったい誰の持ち物なのかわからない。オヤジは『おれのもんだ』と言うのだが、いつも一緒に乗っているオッサン達もゲストを連れて来ると『オーナーは私で他の連中は皆クルーです。』と自慢しているのを何回も聞いた。オッサン達が何者なのかも良く知らない。しょっちゅう長い航海に出ていて、以前はこの人達のことを漁師だと思っていた。
 朝、キャビンで目が覚めると、寝る時はいなかった二人のオッサンが転がっていた。外に出るとデッキにはウイスキイの空瓶や空缶が散らばっていて、夜遅く来てから飲んだくれたのだろう。そうなると当分起きて来ないから、ヤレヤレと湾内を散歩した。油壺はフイヨルドのように曲がっていて、どんな時化の時もうねり一つ入らない良港だ。差し込んでくる朝日に山の緑がきらきらしている。入り江の水面は、外洋みたいにブルーじゃなく、周りの森を映してグリーンだが、目を凝らして一点を見ていると、ヒタヒタ満ちてくる潮の中に小さな魚影が分かる。ひと時もジッとすることなく動き回る。ボラだろうか、大き目の魚が泳ぎかかると、一斉に群れが弧を描いてさざ波が立つ。オッチョコチョイはジャンプする。汗ばむ程の夏の光の中、僕は何時間見ていても飽きないだろう。ボラ、カニ、小魚の群。アーア、こいつ等もヒマなんだろうなあ、と歩いていたらガサガサと小さい音がする。そっと林の中に入ると、何とセミがひっくり返って死にかけている。孵化に失敗したのか、羽がクチャクチャになって飛べないのだ。だけど何年も真っ暗な土の中にいたんだろう。やっと地上に出てきたのにうまく飛べずに死んでいくセミがかわいそうだと思った。暫く見ていたが、まだ足が動いている。死ぬところを見たくなくて、走って逃げた。
「オーイ、メシ食いに行くぞ。」
 やっと声がかかった。ボチボチ起きて来たんだ。メシといってもビールをガブ飲みするんだろうけど、湾内の定食屋に行った。
 
 出港してセールを上げる。風を一杯に孕んだ帆は生命の躍動感を感じさせる。波をかき分け、乗り上げながら進むワイルドな感覚は実に爽快だ。今日はやや凪の薄曇り。遮るものも無い風に、強い紫外線を浴びながらヒールした右舷から足をブラブラさせて三浦の陸地を見ていた。だけど僕は死んだ(だろう)セミのことが頭を離れなかった。あの森の中に一体、何億何兆の命があることなんだろう。
「よーし、タックしようか」
オッサンのうち舵を取っていた通称『キャプテン』から声がかかった。僕はジブセールのロープをほどいて合図を待つ。『セーノ』の声でリリースすると、大きく傾ぐ船の反対側に移動し、もう一本のロープを手繰りウインチを巻く。一番下っ端は忙しい。
 江ノ島までセーリングしてマリーナに入れた。このあたりは古いリゾート地だから、垢抜けない『おみやげ』やら『射的』だの『スマートボール』といった看板が並んでいる。
 ところが上陸したオヤジ達は『久しぶりだなー』と感動し、スマートボール屋に大挙してなだれ込んだ。これは白いビー玉をピンボールみたいに遊ぶ子供用のパチンコみたいなもんだ。何人もが並んで『ギャー』だの『やったー』だの言いながらはしゃいでいるのは不気味だが、ふと気が付くと一緒になって大騒ぎしている自分が情けない。何しろ子供は僕だけだから『いい年してみっともないだろ』くらいは言わないとならないんじゃなかろうか。散々騒いで又船に乗った。
 
 帰りの航海は珍しいほど静かで、鏡のような海をセールも上げずに帰港した。風も波もないヨットは渡し舟みたいなもんで、オヤジ達はすっかりやる気を失くし、舵を僕に任せて買い込んだビールを飲みだした。
「B・B、何だか元気ないな。」
 実は死んだセミのことをまだ考えていた。何年も土の中にいて、やっと羽ばたく段になったのに、運悪くグロい姿で死んでいった哀れなセミ。言うかどうか迷ったが、行き交う船も見当たらない退屈さから『実はねー』とその話をした。
「いや、そりゃそんな惨めなもんじゃない。何しろ生まれた時から土の中だから自分が惨めだなんて気付いてないんだ。」
「そうそう。結構蟻の巣を掘ったりミミズに出くわしたりして遊んでるわけよ。B・Bがゲーセンに行く感じだな。うん。」
「それがいい加減年寄りになって、ああ疲れた、とか言って出てくるんだろ。一週間で死んじゃうんだっけ。」
「しかも日が昇ると急にサカリがつくわけだ。生まれて初めて明るくなって『やりたい、やりたい』ってなるんだな、これが。」
「で、やったらオシマイ。ナンマンダー。」
「してみるとB・Bの見たやつは光にビックリしたギリギリのところで死んだんだ。」
「かえって良かったんじゃないか。雑念で頭が一杯になる前だからな。」
「うーん、うらやましい死に方だ。ワシ等はもう手遅れだからな。」
 これが分別のあるオトナが中学生にする話だろうか。哀れなセミの話がいつのまにかうらやましい死に方になってしまった。オッサン達に口を滑らせた僕がバカだった。今後この手の話をするのは金輪際やめだ。
 
 油壺に帰港すると、今日はこのハーバーのお祭りなので、知らないゲストの人達が一杯来ていた。バンドが入って飲むは踊るはでドンチャン騒ぎだ。オヤジ達がいつも演っている『サンフランシスコ・ベイ・ブルース』をみんなで歌っている。うるさくてキャビンでは寝られず、オヤジと二人、テントで寝た。といってもキャンプ場でも何でもない近所の公園だ。テント暮らしも嫌いではないが公園だとホームレスに思われるかな、と思いながら寝た。
 翌朝カッとする日の光で目が覚めて、モソモソしてたら珍しく先に起きていたオヤジが外から声をかけた。
「起きたか、これ見てみろ」
 這い出してみると、テントの端っこをジーッと見ている。視線の先をたどるとたくさんのセミの抜け殻がくっついていた。そうか、こいつら命を散らしに行ったんだな。
 二人で黙ったまま暫く抜け殻を見ていた。
つづく

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(200X年男子中学編Ⅱ)

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(200X年 男子中学編Ⅲ)


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出雲への誘惑 

2014 JUN 3 16:16:18 pm by 西 牟呂雄

 千家国麿さんと典子女王様の婚約について、俄かに出雲がクローズアップされた感がありますが、私も以前より強い思い入れがありました。

 特に私の興味は『大国主命』一族のその後であります。出雲大社は大国主命を「高く」奉っていることになっています。国津神から天津神への国譲りの神話ですね。高天原から色々と説得をするのですが(実は戦争?)首を立てに振らないために随分と時間をかけて工作します。結果として国は譲られ、お目付け役として以後連綿と天孫族『千家』の御子孫の方々が厚く守っておられる訳です。大国主命の系列はどこへ行ったのか。子息の一人は諏訪に行き諏訪大社の神氏になっていますね。後の諏訪氏で、武田信玄の後取り勝頼は、母親がこの家系ですから当初は諏訪(神)四郎を名乗っています。地方の諏訪神社系はこの国津神の系列でしょう。
 又、大国主命は素戔嗚尊(スサノオ)と出雲の櫛名田比売の子孫ですから天孫族と言えなくも無いのに国津神となるのは(何百年か経ってるのでしょうが)何故なのか、やはりこだわりたい所です。
 素戔嗚尊(スサノオ)が退治した八岐大蛇の方も、その一派はその後どうなったのか。
 たびたび表明していますが、私は環日本海経済圏に期待する者ですし、古代に於いても濃密な交流はあったのでは、と想像して楽しんでいます。

出雲への誘惑Ⅱ 

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出雲に初めて行きました

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春夏秋冬不思議譚(名前考)

2014 JUN 3 11:11:30 am by 西 牟呂雄

 僕の名前は建(ケン)という。普通ニンベンを付けた健の人が多いので、ヒトデナシ等という怪しからん輩もいるが。諸説あって、最も有力なのは届けを出すときにニンベンを”忘れた”という説だ。家は男は大体一文字の名前で、次男三男が生まれると下に数字をつける。だからオヤジの兄弟はヨーイチ・コージ・タイゾーといって1・2・3の順番が付いている。僕に弟がいればケンジくらいになっていたはずだ。
 ケンの名前は海外で通りがよく、テキサスの田舎でケン・ザ・ジェットと呼ばれたりもしていた。味をしめたので、息子にもその手の名前を付けて、更にもう一人息子ができれば2をつけてジョージ(丈二)にすればいい、その後は、イーサン(飯三)ジェシー(慈四)ヒューゴ(飛五)ロック(六)後が続かないが、九番目の息子はジャック、漢字は何を当てようか、『弱九』や『寂九』ではかわいそうだな、などと思ったものだった。
 しかし最近のキラキラ・ネームは面白いといえば面白いが、20年後に流行が変わっていたらどうするのか、人事ながら心配になるようなのも多い。赤ちゃんの時は何でもいいのだ。
 
 織田信長は今で言えばキラキラ・ネームを子供に付けていて、上から奇妙・茶筅・三七・次・大洞(おおほら)・小洞(こほら)・酌・人・良好・緑とくる。まあこの頃は元服時にちゃんとした名前を貰うからいいのだが、どんな顔をして「キミョー」とか「ツギー」「ヒトー」と呼んでいたのだろうか。大洞・小洞なんて、別々の女性が同じ頃に産んだんじゃないか。
 
 西郷隆盛は本当は隆永だったそうだ。本人は生涯自分のことは「吉之助」と言い習わしていたそうだが、明治の太政官布告によって名前を諱に統一する際、本人がいなかったので良く知る人が「隆盛だったはずだ。」としてしまったらしい。弟も諱を聞かれて「リューコー、デゴワス。」とやったら、薩摩弁が聞き取りにくかったので「ジュードー」と間違えられ『従道』にされてしまったそうだ。隆興だったんですな、本当は。してみると、名前なんかどう付けようが人として識別されていれば本人にとってはどうでもいいものだろうか。僕が明日から全く別の名前になるとしたら、変身願望が満たされるような錯覚がある。一方知らないところでミョーなニック・ネームで呼ばれているとすると、コード・ネームの付けられた大物スパイのような気がするかもしれない。

 過去様々な渾名で呼ばれたが、いくつか紹介したい。
「中央道の青い翼」僕がホーム・ロードにしていた中央高速で飛ばしてた頃についたあだ名、というのは嘘で二十歳の頃自称していた。
「ゲレンデの赤い流れ星」210cmもある型の古いスキーで直滑降だけを滑っていた頃の自称である。事情があって30前に取り消した。
「マレーの猫」東南アジアをウロウロしていた頃に部下がそう呼んでいたらしい。しばしば所在不明になったからだ。40代で卒業。
「大佐」これは無理筋だったが、フィリピンの現地工場の奴らにそう呼ばせていた。あいつらもふざけた連中だったからノリが良くて『サー、カーネル、サー。』等と返事をして遊んでいた。
「相模湾の白いイルカ」昔は色白でヨット仲間からバカにされてそう言われた。50代で日焼けが抜けなくなってお終い。
「提督」ある組織から足抜けした後、呼称を何と言うか尋ねられてとっさに口をついて出たのだが、ある筋から猛烈なクレームがついて立ち消えになった。

 ウーム、名前ねぇ。ペン・ネームでも考えようか・・・。

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