Sonar Members Club No.36

月別: 2014年7月

僕の野球地獄変

2014 JUL 30 20:20:27 pm by 西 牟呂雄

 SMCの野球観戦レベルは、やはり元高校球児の東 大兄の一連のブログのおかげで高い。しかし僕自身は野球をセッセとやったことはなく、テレビを熱心に見る方でもなかった。少年の頃に後楽園時代のファイターズを外野スタンドから応援したことがあるくらいだった。
 ところが一時期、試合の結果(結果のみですよ)に一喜一憂したことがある。正統なファンからはお叱りを受けるであろう理由からだ。

 僕は新入社員時代でバクチから卒業したと書いたが、古いメモを見て気が付いた。それは誤りで、もう少しかかった。話せば長い。
 ペイペイから末端管理職になった時は小さい所帯の長で、みんな仲が良くたまに飲みに行ったりしながらテキパキと営業をこなしていた。組織として実際は我々より偉い人の方が数が多いので、自分も「管理者」というよりはプレイヤーだった思いの方が強かったし、仕事はヒラよりもむしろ増えた。
 営業の人間の一人は、元々は技術屋が営業職になった実直な奴で、そしてオリックスの大変なファンだった。当時は某テレビ局が巨人戦をガンガン中継していたので、パ・リーグのほうは見向きもされないと言っては失礼だがマイナーな存在だ。僕は冒頭に紹介した成り行きで日ハムを応援していたので、彼と試合結果を見ては「勝った、負けた」と盛り上がった。この頃オリックスVS日ハムの試合に注目する人なんかいないので、何か秘密を共有するような楽しみがあった。
 暫くして盛り上がり過ぎてついに一試合ナンボの賭けが始まった。直接対決は毎日はない。プロ野球ニュースで力を込めて見ては多少の金額をやりとりするくらいでかわいいもんだった。
 すると、その彼が
「大阪支店には熱狂的な近鉄バッファローズのファンの Oというのがいます。」
と言ってきた。電話すると、早速オールスター後の後半戦から参入することになり、三つ巴になったのだ。俄然自分で戦っている気がして力が入り楽しいシーズンとなった。しかし優勝争いはいざ知らず、下位チームでの見入りはどんなもんかというと、一年も戦い続けて勝った方と負けたチームの差何千円にもならなかった(確か勝ったはずだ)。

 次の年は大阪の Oもやる気満々で初めから参加した。野茂がまだ近鉄で活躍していた頃である。日ハム対オリックスに限れば、大化けする前のイチローとダイエーからファイターズに来たアイアン・ホークこと下柳投手の対決(僕はこの下柳投手がその後も好きだったなァ)が話題になるくらい。他に「まいど!」とお立ち台に上がるガンちゃんこと岩本投手なんかもいたっけ。
 ところが面白いことに『それに入れて欲しい。』というバカな奴が出て来てダイエーだロッテだ西武だと6チーム総当りになってしまった。
 たまには西武球場や東京ドームに繰り出し奇怪なルールでも戦った。即ちゴルフの握りのように、三振・死四球・エラー等には罰金が科せられ、ホームラン・盗塁・ダブルプレーにはご祝儀が出る。その他忘れてしまったが様々な決め事が観戦のたびに加えられて、試合は負けても掛け金では稼げる、といったふざけた事も起きた。これは見るだけで疲れた。
 それで肝心の総当りの結果はというと、シーズンを通して総当りでやっても最終的には大きな金額は動かない。それは優勝が決まってしまうと優勝チームは日本シリーズ調整という手抜きを始め、他は年棒の帳尻合わせの個人記録のために有力選手が勝手なことをして、どの球団も勝ち負けを度外視するからだ。これは僕達のようにまだ戦っている者にとっては非常に迷惑だった。更にこういうのは中毒というか、エスカレートというか、最終戦の消化試合頃には連戦の賭け金に異常な高値がついたり、1点いくらのあからさまな賭博にまでなった(もう時効ですが)。

 だがこの戦い、猛烈な抗議を受けて翌年から一切できなくなる。さる女性社員が目を据えて怒った。『あたしはギャンブルが大嫌いなんです。毎日毎日職場で現金のやりとりしているのを見るのは耐えられません。訴えますよ。』
 いささか調子に乗りすぎたと反省した。不真面目な俄かファンなんて底の浅いもので野球への興味も薄くなった。
 しかもその後暫くサッカーでも何でも勝ち負けを賭けていないと全然見る気が涌かなくなって困った。一度だけ箱根駅伝の往路・復路・総合を当てるといった賭けに乗ったが、終わった後、心の底から選手に失礼だと思い二度とやっていない。

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悪戦苦闘物語 (今月のテーマ 振り返り)


 

僕の中国事始め

2014 JUL 28 23:23:51 pm by 西 牟呂雄

 Y2Kという言葉をご記憶か。西暦2000年に暦が変わると、それまでコンピューター上に入力されていたデータは西暦の下二桁(’99とか)だったので、年が変わった途端に’00’となった場合認識できなくなってシステムがダウンする、という心配を世界中がしていた。お上から「年が変わるときに飛行機で移動しているような旅行日程はできるだけ避けろ。」というお達しがあったくらいである。
 既に日本のバブルは弾けて久しい時期だったが、90年代に中国進出した連中は結構稼いだ所も実はあった。僕達もこれでは先が無さそうだ、更に国内の需要家がどんどん移転し出していく中で、遅ればせながら大陸進出を検討しなくてはとなる。さて場所はどうするか、東莞や上海の周辺は既に出尽されていた。外資導入のモデルは大都市近郊の農地をザーッと取り上げ、もとい整地して開発する。道路・電気・水にホテルといったインフラを整備して、モデル的なレンタル工場をいくつか並べて呼び込むといったスタイルがスタート。しかし簡単な話であるが、人気が出て進出企業が増えてくるとそこは中国、後発組はふっかけられることが多い。つくづく身に染みたのだがアノ国(人々)は取れる所からは搾り取るのが当たり前なのだ。90年代の先発組にもヒアリングしたのだが、笑うしかない話は山程聞いた。単独独資で進出できなかった頃は行政と合弁させられたりして苦労する、大企業に多かったケースがひどかった。トップが中国熱に浮かされていて強い指示が下ってしまうが、現地のフロントでは日本で考えているより交渉はタフで、板ばさみになることが多いと聞いた。一番手っ取り早いのは、トップが乗り込んで『ここまで言ってもまとまらないなら仕方が無い。もう帰ります。』とやると、相手もそれなりに譲歩するパターンだった。田中・大平の日中国交回復などはそのノリだったことが窺える。しかしごく一般の民間ではそこまでやるトップはまずいない。僕も『これで駄目なら席を蹴って帰ってきていいですか。』とやったが、返事は『そこをうまくやるのがお前の仕事だ。』と凄まれた。何回か訪問し、場所については北京・上海・東莞・大連といったあたりを微妙に避けて長江デルタの外れあたりに目を付けておいた。
 次はパートナー。僕がいまさら中国語をやっても手遅れだ。申し分ない日本語ができ、共産主義者でもなく、なおかつ反日感情が薄く、英語は分かる、と条件を挙げればキリがないが、驚いたことにグループ会社の片隅にそういう人材がいた。しかも女性だったので、ハニー・トラップの恐れも無い。早速条件を吊り上げてスカウトし、僕とコンビを組んだ。実は大変な人だったが。
 その頃長年一緒にやっている台湾勢が大陸進出のために購入てした工業区の視察にも行って椿事を目撃することになる。「ここがこれからの研究拠点になります。」と指差した先には掘立小屋が立てられていて、子供の下着が干してある。更になにか土を耕して変なものを収穫している形跡があって、案内の台湾人は怒りに震えていた。こっちは笑いに震えたのだが。

 文革で下放された世代は、約10年分の受験生が溜まってしまったが(日本に帰化して評論をしている石平さん等の世代)、コンビを組んだ女性はその環境の中で名門清華大学の工学部に合格。卒業後、日中友好の流れで〇〇国立大学の大学院に留学し、日本が気に入って就職までしてしまった。スパイじゃないかと思う程の美人だが独身で、工場の現場技術屋(アナログ系の電気技術者)で働くうちに、海外出張をする際の手続きの面倒さに嫌気がさして帰化してしまったという変わった人。出身は北京の盛り場、かの王府井(ワン・フー・チン)で東京で言えば銀座生まれなのだ。伝統的な北京の読書階級を老北京(ラォ・ベー・ジン)と言うが、まさにそれだ。都市戸籍と農民戸籍が分かれていることは日本でも常識化しているが、この人は田舎者のことをあからさまに『あの農民』という言い方をして徹底的にバカにしていた。共産党員でもなく謎めいた経歴だが、後にその理由が判明する。

 いくつかの候補地を訪ね歩き『いやならこのまま帰る。』のノリを押し通して、ある外資系の貸しビルの二階に決めた。下は金属加工会社でガリガリ騒音がしていた。チャチなクリーン・ルームを設置してまがりなりにも体裁が整った。そして日本から設備を入れる段になってもう一苦労する。現地の行政がスンナリ通してくれないのだ(普通のことらしい)。東京サイドは『何故だ。』『今になっておかしいじゃないか。』と言うばかりで大した対策が来るわけじゃない、頼りにはならなかった。半藤一利氏の『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』に詳しいが、現場に来ようともしない。指示は何とかしろ、これだけ。どうも昔からそうなんですな。若い頃から参謀的な仕事をしている人にありがちな傾向だ。そこでパートナーの彼女が絶大な能力を発揮した。『中国人に任せなさい。』『女が話した方がいいですよ。』『接待しましょう。』と、ありとあらゆる手練手管で通してしまった。終いにはほぼ不可能と思われた使用機械の第三国移転という離れ業までやりとげ、僕達を唖然とさせた。これには僕も一役買っていて、とにかく英語で喋ってくださいと言われ、それなりに丁寧な英語で説明した。彼女は隣りで僕の英語の10倍位の言葉を捲し立てる。どうも僕の説明なんか聞いていないのだ。想像するに、まともにやってもダメに決まっているから適当に英語を訳しているフリをしながら『どうしてダメなのよ。あたしは北京の××とも知り合いだからそれに言いつけてやる。』ということをがなり立てていたのではないか(実際北京にそういった知り合いが多かった)。不思議なことにいろんなことがナントカはなった。僕達は『歩く中華思想』と呼んでいたが、気に入らない従業員のリストラなんかは得意中の得意。実に頼りになった。
 
  トコトコ始めた工場だったが一年も経たずに、妙な値上げを要求されサッサと移転する。向こうがびっくりしていたが、引きずり込まれてなるものか、と気迫の拒否で同じ街の雑居ビルに移転。この時点では、勢いで進出したものの中小企業組を中心に聞くも涙語るも涙的な撤退の話が散見されていた。家賃の理不尽な値上げもその一例であるが、取り込まれてズブズブにむしられ帰るに帰れない、結果乗っ取られるような悲惨な話も無いではない。もっと借り手の方もタチの悪いのになると、本当に夜逃げをしてしまって家賃を踏み倒したケースも近くで起こった。
 そして官民問わず、何かと言えばたかりたがる拝金主義。脱税目的で現金を香港のダミー会社に支払いを要求するやら、ある女実業家は家賃をまける代わりに自分の商社を通じてモノを購買しろ、と迫る。この人のご主人は地元政府の外資誘致局長であった。これからの話は面白すぎて誇張されているのだろうが、その局長は汚職で逮捕されかけたものの、一転政治取引をし全てゲロッてこんどは取り締まる側になったというオチがついている。

 元々少数民族だった『元』でも『清』でもドップリ漬かっているうちに、なんとなくチャイナ化して漢字を使い、宦官にチヤホヤされているうちにおかしなことになって、最後は北に帰っていく。アメリカだって戦前から何かと手を突っ込んでみるが、結局儲けたという話はほとんど無い。グーグルの撤退が典型的だろう。散々アヘンを売りつけてトンズラした英国だけではないか、いい思いをしたのは。
 
 かの女性パートナーは実は、満族(女真)出身だったことが分かった。すると彼女の振る舞いは全て腑に落ちる。共産党は現在政権を握っているがその前は国民党でその又前はあたし達が・・。とはさすがに口に出さなかったが、あの上から目線の謎は案外そのあたりの気質が出たのじゃないかと思ったものだった。
 風光明媚な場所だったので気に入った工場だったが、建屋のオーナーは酔っ払っては運転しているベンツを道端で止めては道にゲロを戻すような人だった。あのオーナー、今どうしているかな。太田胃酸を分けてあげたよなぁ。

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出雲への誘惑 Ⅴ オマケ 

2014 JUL 26 0:00:47 am by 西 牟呂雄

 話は全く変わるが、日露戦争の第二艦隊旗艦は大日本帝国海軍装甲巡洋艦でその名も『出雲』である。上村中将指揮の元、ロシアのウラジオストック艦隊を追い掛け回して苦労していた。上村中将は猛烈な闘志を持った薩摩隼人で、たびたび濃霧によって敵艦隊を見失い「濃霧濃霧、さかさに読めば無能なり。」と謂われない罵倒までされた。その後は日本海海戦に出撃し、舵の故障を北進の転舵と誤認した三笠の命令を無視し「我ニ続ケ」と突撃したことで知られる。
 その後、第一次世界大戦時には遥か地中海のマルタ島にも出撃した。筆者はマルタ島には行った事があり、そこには派遣され雷撃を受けた駆逐艦「榊」の犠牲者の碑が立っていた。そして何と先の大戦末期、1945年の7月に呉軍港の空襲により転覆着底した。45年も現役であり続けた艦艇だった。

 伝統と言うか何と言うか、帝国海軍が消滅した遥か後の2013年にヘリコプター搭載型護衛艦として『いずも』が進水している。これはでかい。昨今集団的自衛権の議論がなされているが、この『いずも』は他所の国に攻撃になんか行きませんよ、皆さんご安心を。

出雲への誘惑 

出雲への誘惑Ⅱ 

出雲への誘惑 Ⅲ 左白 ーさじろー 

出雲への誘惑 Ⅳ  トミという謎 

出雲に初めて行きました

出雲に初めて行きました Ⅱ


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出雲への誘惑 Ⅳ  トミという謎 

2014 JUL 24 12:12:11 pm by 西 牟呂雄

 出雲関連に興味を持っていたら妙な記述に行き当たった。『富(トミ)』という家系が太古より続いていて、門外不出の口伝を伝えている、というのだ。この話、以前から気になっていた。出雲大社を司る千家・北島家は天孫族で、言ってみれば恭順を示した大国主命の一派が再び事を構えないようにお目付け役として神社を守っている立場、という話である。そして『富』家の伝承はその裏付で、尚且つアシナズチ・テナヅチ系も含めてオリジナル出雲の秘密の証拠となるのではないか、と興味が湧いた。
 このたびのお目出度い話(千家国麿氏と高円宮典子様の御婚約)で一気にメジャーになった現役の国造千家氏であるが、実は明治になって起きた祭神論争(天照大御神の伊勢神宮と大国主命の出雲大社の論争)では第八十代千家尊福(たかとみ)氏が『同格』を主張し大モメする。出雲大社としては筋を通したと言える。
 更にこの直接の系譜ではないが、アンチ伊勢神宮(=国家神道)の流れに大本教が出る。

 しかしながら当の『富』家の実在は確認できたが、やはり関係者の口は堅く公表されたことはない。かなり取材を受けて、先々代あたりの方が漏らした僅かなコメント・伝聞が残されるのみだ。それが大国主命の直系で、秘かに記紀神話とは別の神話を持っているらしい(例えば天照大御神は出てこない)というところまでしか追えない。どうもスサノオの系譜は出雲オリジナルだったものを、記紀編纂の際に組み込まれてしまった可能性があるのではないか。スサノオも高天原をおっ放り出された後、新羅あたりをウロついたことになっていて、出雲・半島あたりのエリアに縁が深い。そしてその子孫が大国主命だとなると腑に落ちるのでは。 
 これを元ネタに前回ブログ(出雲Ⅲ)で神話パクリ仮説を思いついたのだが。要は都合が悪いので、天照大神の弟だったことにしちゃったのでは・・・・。しかし戦後で良かった、不敬罪にされてしまう。
 残念ながらこれ以上は現地にでも行くしかあるまい。出雲大社のすぐ側に、その名も出雲井神社がある。確認できないがここが『富』家の信仰するクナト神を祀っているらしい。秋にでも行ってみよう。

出雲への誘惑 

出雲への誘惑Ⅱ 

出雲への誘惑 Ⅲ 左白 ーさじろー 

出雲への誘惑 Ⅴ オマケ 

出雲に初めて行きました

出雲に初めて行きました Ⅱ


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出雲への誘惑 Ⅲ 左白 ーさじろー 

2014 JUL 21 17:17:03 pm by 西 牟呂雄

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 この毛筆の手紙は、ある奥出雲のご高齢(93歳)の方から立派な直筆のお手紙をいただき、それがまさにその逆探知の手掛かりになるような内容であり、関係各所のご了解を頂き、現在のテーマである 出雲 の特集の一環として内容を紹介するお許しを得ました。
 話は、昔は寂しかった左白(さじろ、以下全て)に幹線道路が出来てそこを通った際、今は無き息子さん(気の毒にこの方は故人)の同級生の墓所を発見するところから始まります。

 ところで、出雲神話のもっとも古い部分は素戔嗚尊(以下スサノオ)の八岐大蛇退治ですが、オロチに娘を食われ続けていたのが誰かご存知ですか。ちゃんと名前があって足名椎命・手名椎命(以下アシナヅチ・テナヅチ)です。即ち先住の民というかオリジナル出雲人のはずです。
 手紙によると、その方は生前息子さんに『ウチはアシナヅチ・テナヅチの子孫だ。』と語っておられたそうです。私はこういった口伝・伝承の類が大好きで、且つある程度歴史を正しく伝えているものと考えています。
 何しろ記紀の記述にしてもはるか後の八世紀前半の成立であり、それ以前の文字による記述はありません(消失したものはあったとされているが)。しかも政治的にはいくつかの権力の変遷が起こっていたため、中国ほどではないにせよ葬りさられてしまった勢力はあっただろうと推測できます。何らかの憚りがあるので、口伝として子孫に伝わった話に真実が隠されてはいないでしょうか。

 伝説を伝える一族の名前が記されていました。今でも島根県にある苗字です。幹線道路が通る前は訪ねる人もないひっそりとした小山に、百基ほどもあろうかという程の墓碑が何列もならんでいたそうです。その本家は代々たたらを家業として長く栄えたとあります。左白を中心に斐伊川沿いにたたら製鉄遺跡が点在しており、古代より盛んだったことがわかります。そして斐伊川は典型的な天井川で、たびたび氾濫を起こしていました。この川の氾濫やたたら製鉄の際の鋼滓の湯道といったものが八岐大蛇(以下オロチ)伝説の元と考察されています。その怪物が土地の娘を食ってしまう、そこへスサノオが高天原から降りてきて、見るに見兼ねてオロチを退治する神話は良く知られたところです。
 調べてみると、その川沿いに多くの神社があり、古い伝承が残されていることが分かります。記述された一族が篤く祭ったのが伊賀武神社だということは、地元でも知る人は少ないようです。
 
 さて、オリジナル出雲人の系譜が現存するならば、果たしてオロチとは何でしょうか。他所からの侵略者に違いありません。スサノオが助けに来たのは天孫系の記紀によるので、これは後述しますがいかにもいいとこどりっぽい。ヒネクレ者のせいかもうちょっと別の解釈がしたいですね。
 お手紙には『オロチはオロチョンではないか。』という驚くべき地元の伝承も書かれていました。オロチョン・オロッコは北海道にも来ており、尚且つそのピュア・グループが昭和30年代まで釧路に残っておられたと記憶します。私は環日本海文化交流論者ですので、南下してきた一派がいたのではないか、と想像するとやたらと興奮するのですが。語呂もいい。
 出雲先住組(アシナヅチ・テナヅチ)← オロチョン・グループ(オロチ) ← 天孫系(スサノオ) という勢力の交代といった仮説は如何なものでしょうか。以前のブログでは逆に西から追っ払われた流れを考えて、物部・平家の北上を検証しましたが、これはその逆、侵略者南下仮説ですね。

 そしてここがこだわり所ですが、オロチVS先住出雲人といった抗争は確かにありスサノオという強者が活躍したのでしょうが、記紀成立の際に天孫族の英雄譚としてパクられたのでは、とまで仮説を飛躍させてみました。
 と言うのも、その子孫の大国主命は国を譲ってしまうからです。大国主命についてはこのお手紙とは別の話ですので次にしましょう。

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出雲への誘惑 

出雲への誘惑Ⅱ 

出雲への誘惑 Ⅳ  トミという謎 

出雲への誘惑 Ⅴ オマケ 

出雲に初めて行きました

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えらいこっちゃ Ⅲ

2014 JUL 17 22:22:52 pm by 西 牟呂雄

 先日都内某駅にて、人身事故を真近で見てしまった。音など聞こえず、急停車のブレーキ音とアラームのサイレンでそれと知れた。私から10mも離れていない所での出来事である。飛び込みかどうかは分からない。思わず助けなければと反射的に思い、そしてそれは無駄だと直ぐに分かった。激しく動く影が見えたのだ。詳述は控える。
 仮に何かの事故だとすれば、それは私と紙一重の所で起こった。そう気が付いて少し手が震えた。先日行ったインドでもあの交通事情から考えてヤバい瞬間はそれこそいくらでもあっただろうし、さすがに暫く避けているが行方不明になったマレーシア航空には何度も乗った。最後まで喫煙席があった数少ないエアだったからだ(他にはエール・フランス、アリタリア)。ベトナムでは乗ったバスがバイクをやってしまう寸前だった。
 むしろ、私達は等しくそういった危険に取り囲まれて暮らしていると言える。
 大好きなフット・ボール映画の『Any Given Sunday』でアル・パチーノがチームに激を飛ばすシーン。フット・ボールは目の前の1インチの争いだ。ほんの半秒遅くとも早くてもパスはキャッチできない。マージン・フォア・エラーは周りのいつ、とこにでもある。その1インチのために全てをかける、それがフット・ボールだ・・・・(別に野球でもいい)。
 確かにマージン・フォア・アクシデントはそこら中に転がっているに違いない(私の場合特に泥酔時等)。そしてその日は偶然にある人が巻きこまれ、私は辛くも無事だった。1インチではなく数mだが。

 今年は春先に母を送り、その後家人の従兄弟が亡くなっている。インドにいる時に今度は家人が母と同じ所を骨折し、その時点で息子はロンドンに出かけていて、地球中に家族がバラバラになっていた。帰国してドタバタしている最中に、新人の時の直属上司の訃報が入って通夜・葬儀に行った。年なのか集中的にそんなことが起きていると、悲しみの密度は下がらないが、葬式ズレするというかセレモニーに慣らされてしまい『死』の恐怖が薄れていく。本日は20年も会っていない遠縁の訃報まで届いた。
 上手く文章にできないが、臆病に生きていてもしょうがないという感覚が湧いてくる。どう考えても今までよりこれからの方が時間が少ない。念の為、犯罪に走ると言う訳では決してないが。
 もう一つ、これも表現が難しいのだが、匿名への希望が強くなった。尤もSMCは本名・顔写真原則なので、ブログを書いている限りはできない相談だが、死ぬ時くらいは誰にも知られずに葬式の心配もせずにひっそりと逝きたい、とでも言おうか。何しろ少なからず人の恨みも買っていることだろうし。

 しかし私の順番はあすでも明後日でもなさそうであり、当面ボチボチとやって行くのであるが、その結果がどうなるのか。
 最近作家の中村うさぎさんが臨死体験をして『一切書くことが無くなった』旨の文章を発表されていたが、どうもそういうものらしい。
 以前には私も記憶喪失のフリをしている内に本当にボケてしまったらどんなにいいか、既に相当の税金も払ったことだし(特に酒タバコで人の10倍は払っているはず)どこかの介護施設に保護されて、何も分からなくなってしまう権利があるような気が・・・・、しかしそれも迷惑か。

 まッしばらくトコトコ歩かざるを得ないか、1日1日積み重
ねて。少し元気になってきたし。

えらいこっちゃ

えらいこっちゃⅡ

えらいこっちゃ Ⅳ

菩提寺のニワトリ

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真夏のインド大陸 後編

2014 JUL 14 15:15:47 pm by 西 牟呂雄

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 インドから帰ると台風一過、あまりの蒸し暑さに『ああ、日本の夏だ。』と思ったが、実際日本の方が暑い。これって変じゃないですか。
 6時間の車移動中の奇観が上下の写真で、砂岩が積み重なったような光景が続きます。古い話で恐縮ですが映画『イージー・ライダー』のアリゾナの光景を思い出します。岩だらけなので、ロックンロール・マウンテンと名付けました。

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 こういうところには、例の牛だの山羊だのはいませんが、今度は猿が道を横切りました。車を寄せて外に下りても全然ビビらず、むしろ威嚇するようです。どうやらこいつらも神様の使いらしく、全く迫害されないためこのように威張りくさっているのです。

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 どうも、地位で言えば 牛>猿>人間>犬 くらいの順番でしょうか。

 インド人は笑わないと実に深刻な顔つきになり、おまけに相手が頷く時に首を振る癖があって、見た目にはあからさまに拒否しているように見えて困りました。

 ところで、ご承知の通り先日ドイツがワールドカップ準決勝に於いて、大本命ブラジルをコテンパンにやっつけて決勝進出を決めたばかり。
 あの真面目なドイツ人もこの話にはノルはず、今回合流出来なかった仲間のドイツ人に電話をした途端、
「コングラッチュレーション!!」
とやって盛り上げました。案の定ドイツは大騒ぎになっているらしく、その後の快勝を祈らずにはいられません。まさかサッカーの結果をインドから期待することになるとは思いませんでしたが。

 そして本日は3時に起きて必死に応援。結果は優勝ですから早速おめでとうのメールを打つことに。よかった。

真夏のインド大陸 前篇

小倉記 再会編

インド高原までやってきた


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真夏のインド大陸 前篇

2014 JUL 8 21:21:32 pm by 西 牟呂雄

 涼しい、ビックリです。インドの高地に降り立った途端に爽やかな冷気に包まれました。灼熱、とか熱波という言葉が良く似合うはずのインドでこの風。どうやら雨季なのでしょうが日本の日差しが刺すようになるこの季節に思わぬフェイントを食ったような気がしました。
 実はマヌケにもパソコンを忘れ、最近とみに著しいボケの進行にうんざりさせられたのですが(だから人のパソコンを借りて打っています)意外な過ごしやすさにホッとさせられました。インドでは最も暑いのは4月頃だそうです。夏休みも最も暑い時期の4月・5月なのだと聞きました。サマーという語感はやはり国によっては異なります(当たり前だったか)。
 今回はここから車で6時間、デカン高原奥地の現場まで足を伸ばしました。途中はたまーに村落がある以外は耕したかどうか良く分からない、畑のような原野のようなサバンナが続いて退屈しました。どこでも我が物顔に振舞う牛の群れは至るところに屯していて、都市部に近い所では一応家畜の風情でしたが人も住居もロクにない所ではまるで野良牛とでも言うのか・・。そのうち野良象でも歩いているかと期待したのですが、さすがにいません。そして一箇所、エアーズロックのような石の山。この周りは巨石を積み上げたような不気味な景色です。

 ところでやっと着いた所はいわゆる工業地帯で、たどり着いたのは夕方ですが巨大設備がシルエットになっているのを見ると、一瞬あまりの既視感にインドに居ることを忘れます。世界中、日本でも同じような設備が稼動しており、従ってコンペティターでもある訳です。産業のグローバル化は様々な矛盾を抱えながら今後はどうなって行くのか。いずれにせよ技術を持っている日本はキー・プレイヤーでありつづけるものと考えます。
 宿泊のホテルについた途端に思わぬ光景を見て、益々その感を強くしました。何とカンファレンスルームで麻雀に興じている日本人グループに出くわしたのです。日本語を喋っていたので中国人・韓国人じゃありません。いるんですな、昭和タイプのサラリーマン。
 そして更に驚いたのはホテル内のメニューにTonkatsuとかKaraageといった日本食があるのです。後に判明しましたが、ある長期滞在の日本人商社マンが、休みのヒマに任せてコック達にレシピ付で教えたのだそうです。これは評判が良かったらしく、オリジナルのコックは腕を買われて既に大都市に転職してしまいましたが、その後も受け継がれてやっています。近くに14~15世紀の世界遺産になっている宗教施設がありますが、そこまで来た日本人女性バック・パッカーが『こんなところにまで日本食が!』とツイートしたことが話題になったとか。どっこい日本のサラリーマンはやってますよ色々と、と自慢したいものです。

 さて翌日現場に入りました。時おりサーッと日が照るとさすがにムワッと暑いですね。
 僕達メーカー育ちはヘルメットを被ると本能的にピシッとして『良し、行くぞ。』となります。熱く、煩く、重い機械の側を通ると普段使ってもいない筋肉が締まるような気がします。現地のオペレーターと目が合うと、いようやっとるな、と声を掛けたくなるもんです。
 この工場は立上げの時にヨーロッパ系のエンジニアリング会社に相当ふんだくられて懲りたようです。あちらはスペックに書いてないことは知ったこっちゃない、と冷たい。そこで我々は丁寧に対応策まで協力しますよ、と説明するのですがそこは価格とかコネとか絡んで複雑になります。
 こういうヨーロッパ勢のやりかたは、政治的軍事的コストをかけないで絞りまくる帝国主義の匂いを感じますね。インドは地政学的に十分アジアの範疇です。韓国もゴリゴリ来ています。中国はインドとはうまくいっていません。
 日本がインドと組むのは、今でしょう、なんちゃって。安部総理は日印関係をかなり多角的に考えている気配がします。よし、ここでガンバレ日本、と工場の片隅で一人で力んでいました。

真夏のインド大陸 後編

インド人とドイツ人

インド高原までやってきた


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笑わないボブ・ディラン

2014 JUL 1 22:22:21 pm by 西 牟呂雄

 過日You・tubeを見ていて気が付いた。ライヴ・エイドのテーマ曲としてマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーが造った『We are the Woeld』のレコーディング・ドキュメンタリーなのだが、一流所満載でさぞ手間が掛かったろうと思われる光景が映し出されている。ハリウッドで収録された。
 その中で中心人物ハリーヴェラフォンテ(発起人の一人)の『バナナ・ボート』、例のデーオ、ディイェイェイオーを皆で歌ってふざけあっているシーンがある。プロデューサーのかのクインシー・ジョーンズまでがゲラゲラ笑っているが、大勢いる中で一人ニコリともしない男がいた。本名ロバート・ジマーマン、ボブ・デイランだ。そう言えば写真でもライヴでもこの人が笑っているのを見た記憶がない。
 不幸にして、ディランがフォーク系のプロテスト・ソング・シンガーで神様扱いされていた頃は、僕の方がローリング・ストーンズ一色だったからビートルズ同様リアル・タイムで味わってない。良く聞いたのはその後ザ・バンド(前はホークス)と組んだ当たりからだから、ギター一本のスタイルはもうやめていた。ジョージ・ハリスンのバングラディッシュ・コンサートに出てきて、実につまらなそうに歌う印象だった。そして本人プロテストシンガーと呼ばれるのに抵抗があったのだそうだ。ジョージとは親友のはずだからステージの上でももう少し楽しそうに歌えばいいものを。
 ユダヤ系なのだが、この業界はユダヤ系ばかりなのでディランがそのことで孤立するはずもない。事実同じ場所にポール・サイモンもいたが、こっちははしゃいでいた。ディランの中に、アフリカを救う、エイズを撲滅する、といったこの手の企画が偽善的に見えていたのがあるのではないか。ディランの音楽が最も先鋭的であり輝いていたのは1960年代から1970年代位で、それもミュージックよりも詩が個性的だった。一時はノーベル文学賞の候補にもなったと記憶している。
 撮られたのは1985年の初頭なのが象徴的で、以降輝き続けてはいるが突出した存在では無くなってくる。ネバー・エンデイング・ツアーとしてライヴは人気ではあるが、レジェンドに祭り上げられたと言ったら言い過ぎだろうか。
 実際にはかなり”クサ”とか”ヘロ”とか”コケ”を食いまくっていて、かなり声を荒らしている。全員でボーカルを回していくのだが、ディランはのどに負荷がかからない音域を、例の怒鳴りつけるロッド・ステュワートみたいな歌い方でガナる。ブルース・スプリングティーンも参加していて同じようなノリだ。
 仮にギター一本で、例のガシャガシャ奏法からニコリともせずにメロディー無視で怒鳴りだしたら(ステージならまだしも)それは変なおじさんではないだろうか。
 しかしディランは常に言っている。
「僕が変わったんじゃない。世間が変わったんだ。」
 確かに世界は変わっているが・・・。あれから20年も経ったし、そろそろ狂い咲いてニコニコするのでは、強烈なメッセージと共に。

 ところで、僕としてはミック・ジャガーも一緒に出てワン・コーラスソロを取って欲しかったのだが、こういうところに群れないのがストーンズの個性なのかも知れない。

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ボブ・ディラン&ザ・バンド

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