Sonar Members Club No.36

月別: 2014年8月

一人ぼっちの世界とライク・ア・ローリング・ストーン 

2014 AUG 31 12:12:46 pm by 西 牟呂雄

 全く物凄い邦題だ。どこにも「一人ぼっちの世界」という言葉が入っていないローリング・ストーンズの『Get off my cloud』。今回2014年の来日時でも一度オープニングで使っていたそうだが、いかにもストーンズらしいノリの曲だ。ステージからクネクネ踊るミック・ジャガーが観客を煽るように歌いかけるリフレインの所、
I said,
Hey! you! get off of my cloud
ヘイ ユー 行さらせ
Hey! you! get off of my cloud
ヘイ ユー 消えさらせ
Hey! you! get off of my cloud
ヘイ ユー どきさらせ
Don’t hang around
ウロウロ すんな
Cause two’s a crowd on my cloud, baby
邪魔なんじゃ ベイベェ

クリックして下さい。
これがどうして『一人ぼっちの世界』みたいな哀愁を帯びた題名に訳されたのか。ガキの分際でこれを聞いた僕は、多分女に振られて絶望的になった孤独なオニーチャンの歌なんだろうなと思った。しかし例によって歌詞の方は意味も何もない。
I live in an apartment
on the ninety-ninth floor of my block (わしゃノー、高層の部屋に一人住んどんじゃー)
And I sit at home
looking out the window       
Imagining the world has stopped   (時間が止まったように窓の外、見とった)
Then in flies a guy
whos all dressed up like a union jack  (突然 アホな恰好のバカが飛び込んで)
And says,
I’ve won five pounds
if I have his kind of detergent pack   (この粉5ポンドで買ってくれだと)

どうにもならない歌だが、どこでやっても客は大受けだ。この曲は1965年にリリースされた。

 ところが同じ年にボブ・ディランの『ライク・ア・ローリングストーン』というこれまた初期の名曲が出ている。正確にはこちらの方が二か月くらい先らしい。
 日本にはほぼ同時に入り、僕は『一人ぼっちの世界』の方を先に聞いていた。無論痺れる。その後『ライク・ア・・・』が耳に入るのだが、歌い方のガシャガシャ感と歌詞の字余り感がオーバー・ラップした。
 当時はディランはアコースティック一本とブルース・ハープだけでやっていたし、英語の意味も何も分からないもんだから、リフの所は『ローリング・ストーンズみたいに』と言っているのかと思った。

 実際、ストーンズがステージでこれをやっている映像があって、そのノリは素晴らしい。特に『How does it feel ?』とやるともうエグいの何の。
 更に、デイランとストーンズが一緒にやっている映像も残されている。どうもリオデジャネイロでのステージの
ようだ。このときもディランは全く表情を変えていない。ストーンズの方はミックやあの愛想の悪いキースまでニコニコしているのが映っているのに。

 クリックして見て下さい。
 聞いているうちに、この歌詞を『一人ぼっちの世界』に乗せて歌ってみたらどうだろうか、という発想が湧いた。

Once upon a time,You dressed so fine   
You threw the bums a dime In your prime Didn’t you ?   
People’d call, say”Beware doll, you’re bound to fall”   
You thought they were all kiddin’ you   
(原曲はここからコード進行が変わるが無視)
You used to laugh about
Everybody that was hangin’ out   
Now you don’t talk so loud. Now you don’t seem so proud   
About having to be scrounging For your next meal
(かなり早口になるがここまで4フレーズで歌ってリフに繋ぐ)   
リフレイン
How does it feel ?   (Hey You get off mu cloud)
How does it feel ?   (Hey You get off mu cloud)
To be without a home (Hey You get off mu cloud)
Like a complete unknown (Don’t hang around)
Like a rolling stone (Cause two’s a crowd on my cloud)

 自分でもやってみたが、相当早口になって噛んでしまうができないことはない。ストーンズのライブで『一人ぼっちの世界』のイントロが始まった途端、突如ギターを抱えたディランが現れ、『ライク・ア・・・』の歌詞で歌いだす。
二番からはミックが『一人ぼっち・・』を歌う。どうだろうか。スベったら世紀のマヌケだが。

ノーベル文学賞 ボブ・ディランは喜んでいるか

タイム・イズ・オン・マイ・サイド 歌詞取り

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
 をクリックして下さい。」

フィリピン侵攻作戦 下 

2014 AUG 27 12:12:55 pm by 西 牟呂雄

 マニラから南に下った所のバタンガス州、美しい湖のある所にご他聞に漏れずゴチャゴチャした町があり、ここの工業団地に工場を建てることにした。検討に費やした物凄い密度の会議で、最期に僕はキレた。
「採算についてはもうこれ以上は分析できません。しかしたとえ嵐に遭遇してもどこまでも海原を行ける航海の可能性を選びます。」
言った時には加山雄三の『海・その愛』が頭の中でガンガン鳴っていて自分の言葉に酔った(バカだったなあ)。
 エリアの契約、現地法人手続き、派遣人員人選、顧客説明、現地オペレーターのトレーニングと事務処理が続く。フィリピンから第一陣の研修生が日本にやってきた。全員初めての海外である。見るもの聞くもの珍しく、学習意欲の高い子達だ。日本のコンビニが楽しいらしく、仕出しのお弁当はすぐに飽きて自分達でオニギリ、から揚げ、、サンドイッチを買って喜んでいた。僕達がレクリエーションでやっていたバーベキューやキャンプには大はしゃぎで参加し『フィリピンに帰って工場でやってみたい』。そして休日には『ディズニーランド』と『アキハバラ』に行って見たいと言う。現地でも有名なブランドらしい。これは操業してから来た第3次研修グループまで皆同じだった。
 一方でフィリピンの方でも、工場建設を進める。レンタル工場の中に設備を搬入する。ガード・マンを手配する。現地の有力者とコネをつける。
 この際注意しなければならないのは、日本人の現地コンサルには相当ヤバいのがいるのでご用心。ある人間に相談したら、それから『傭兵を紹介する』とか『レストランに出資しないか』とか、更にはあからさまに『女を調達してやろう』などと言い出す。その辺りで切ったが。

 さて、準備が遅れつつも何とかスタートしてからは、この工場は驚異的に伸びた。数名の女の子のオペレーターと少数のスタッフに日本人二人。思えばかわいらしい南の前線基地のスタートだったので、僕達はここを『ラバウル』とコードネームで呼んだ。1年もすると品種も増やし、オペレータも倍々のペースで集まり、すっかり定着した。
 ところがやっぱりこの国、気を抜くわけにはいかないのだ。ある日同じ工業団地の敷地内にフィリピン空軍の練習機が落ちた。火災等の二次災害はなかったが心胆を寒からしめられた。プロペラのヘナチョコ機ではあったが。
 近隣の繁華街で怪しげな日本人が射殺される。
 ビビッた僕達はガード・マンにショット・ガンを持たせた。  
 
 ここはカトリックの国だからクリスマスが近づくと、どうやって楽しむかが職場の話題の中心になる。普段は福利厚生などにはコストをかけていないので、各スタッフは大はしゃぎで出し物を提案する。カラオケ大会に至ってはそれぞれ代表を選抜し、点数を付けて競う。派手な振りのダンスの練習も始まる。本番は近くのゴルフ場のレストランを借り切って、プロのバンドまで入ったドンチャン騒ぎだった。僕としてはタダでフィリピン・パブで遊んでいるような気がして楽しんだが・・・。
 自作の衣装を派手に着飾ったミスコン、各職場の代表によるプロはだしのカラオケ。バンドが始まる頃には全員立ち上がって踊り狂う。何故か僕は『カーネル(大佐)』と呼ばれていて、会場のアチコチから声が掛かりツーショットに収まったり握手をしたりして・・・・。通常一般のフィリピン人というのは我々程にはガブ飲みすることはない。しかし僕は悪しき日本人の酔っ払い丸出しになり、アッと気が付いたときはステージの上に立っているではないか。このバンド、見たところ若いメンバーなのに70年代の曲ばかりをやっている。特徴のあるギター・イントロにつられてマイクを握っていた(この間打ち合わせもナシ)。僕は普段は人前ではしゃぎまわったりは断じてしていない(と思う)が、この時は酒が十分に廻ってしまった。曲はワイルド・チェリーの『Play that’s Funky Music』だということは直ぐに分かった。
「Once I was a Boogie singer
Playing such a Rock’Roll band」
とやってしまい、社員のフィリピーノ・フィリピーナには大ウケした。
 が、このときの写メが後日さるところで公開されてしまい『あいつは工場を造ったと言っていたが、本当はマニラでクラブでもやってるんじゃないのか。』と少なからず問題になったと聞く。

 その日の帰り、焼けたコンクリートが涼しくなったようで、後から後からバカでかいフィリピンのガマガエルが這い出して来ていた。

フィリピン侵攻作戦 上 

僕の地球放浪記 Ⅰ

僕の地球放浪記 Ⅱ 


「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
 をクリックして下さい。」

僕の中国事始め

ヴェトナムに行ってきた

フィリピン侵攻作戦 上 

2014 AUG 22 10:10:22 am by 西 牟呂雄

 フィリピンには実際良く行った。一般の人のイメージはどんなものだろうか。せいぜいフィリピン・パブのかわいいお姉ちゃん程度か。ベニグノ・アキノ氏の暗殺やコラソン・アキノ大統領の熱狂的選挙もご存じない若い人も大勢いることだろう。
 勃興する東南アジアのスマートな国とも見えなくも無い。実際国民の大部分がカソリック教徒で英語も良く通じる。しかしそれには統計上現れない数千の諸島にいる多くのイスラム教徒は勘定に入っていないのではないだろうか。タガログ語には独自の文字はなく、ローマ字式の表記だ。統計は相当怪しいし、それどころか経済は慢性的に破綻している。まともな組織は陸軍くらいだが、これが又しょっちゅうクーデター騒ぎを起こす。治安レベルは最低に近く、犯罪組織も多い。マニラで一晩に何人が死んでいるか誰も分からないかも知れない。マカティ(中央ビジネス街)でもホールド・アップはある。いささか旧聞に属するが三井物産の若王子支店長の誘拐もあった。一応の銃規制はあるが、アメリカ式でその辺のガード・マンも携行しているのが不気味だ。僕もトレーニング・センターで何回か撃ったが、気軽さが返って怖い。一度セヴ島の空港のマニラ行き荷物検査で赤ちゃんを抱いたかわいらしいお母さんがハンドバックからゴトッという感じでピストルと携帯許可証を出した時は異様な光景にビビッたものだった。 
 日本人もしばしば殺される。殆どがヤバい人で、恐らくフィリピン姉ちゃんを日本に手引きしている自称『芸能ブローカー』が金でモメてやられる。
 アロヨ大統領の時にも首都のマカティーでやはりクーデター騒ぎが起きたが、軽く鎮圧された後に兵士達に与えられた罰が『腕立て伏せ30回』というユルさ。しかもマカオに在住していた日本人が殆ど気付かなかった程度の小競り合いというチンケさだった。
 東南アジアで勢いに乗った国の首都に、未だスラムが形成されているのはここぐらいじゃないだろうか。僕がウロチョロしていた頃は台北やクアラルンプールにもあったのだが今はもう無い
 一度APECの首脳会議をやっているときに滞在していたことがあるが、唯でさえ慢性的渋滞で困るのに、体裁のために(仕方ないが)メインストリートの片側を封鎖して首脳専用にした。するとやはり無理があって、普段30分の移動に3時間かかって都市機能が麻痺していた。余談だがこの時ある所にパスポートを忘れ、往復6時間もかかって死ぬ思いをした。

 ピナツボ火山が大爆発してタルラック地方が大被害を受けた後にその辺りを車で通ったことがある。この地は殆どが前述のアキノ家の私有地で、景色はいかにもコロニアルな農業地帯だった。驚くべきことにルソン島は十数家族によって私有されていて、スペイン時代の荘園制が残ったまま米西戦争勝者のアメリカに取って代わらる。スペイン人がいなくなった後は荘園管理者の華僑系が多くを支配する構造になってしまった。コラソン・アキノはコフアンコ財閥の娘だが、一目で中華系であることが分かる風貌だ。今は息子が大統領。
 街外れのタルラック川の恐ろしい光景は圧巻というか何といか、火山灰がドッと押し流されて橋は全て陥落し、月面のような無機質の砂漠と成り果てていた。ところが運転手はドンドン進んで行く。そして『物乞い』とでも言うべき被災民(かどうか分からないが。中には赤ん坊を抱いた子供までいた)が道案内をしていて、運転手やつられて僕までコインを投げてやる。すると幾筋にも分かれた浅瀬の通れるところに案内され、どの車もジャバジャバと川を渡ってしまった。その時はまるで戦場にいるような恐怖感、車の窓のすぐそこを川が流れているのだ。
 先日の地震・津波やしょっちゅう来る台風で、20世紀には世界で最も天災を受けた国らしい。日本も凄いから心から同情することができる。そういえば阪神大震災の時にマニラにいてリアルタイムで事情を知らなかったが、現地の報道が『センター・オブ・ジャパンが被害を受けた』と言うものだから、てっきり東京がやられたのかと思った。

 以前は懐かしいYS11がまだ飛んでいたこともあった。フィリピン国内線だが。リベットをたくさん打ってモンロー・ウォークのように飛行する名機だ。座席に『灰皿』と漢字で書いてあるままだったが『No Smoking』等とアナウンスをしていた。これでマニラから北に飛ぶこと1時間半(車で6時間)バギオという標高1,500m弱の高原都市があり、真夏にはマニラの政府がまるごと引っ越してくる避暑地だ。ここに大ユーザーの工場があったのでしばしば訪れていた。
 悲しい歴史だが、山下兵団が最期にギブアップとなった所で知られる。松の木がたくさんあって涼しげな街だった。フィリピン国軍の士官学校もここにある。一度行って見たが最期の激戦を物語る米軍兵士が大勢埋葬されて、小さく白い木の十字架がズラっと並んでいた。日本軍のものは、ない。
 巷間言われている山下財宝はこの辺で一部発見されたとも言う。しかし発見者が全部懐に入れてしまったので表沙汰にはならないんだとか。更にはかつての独裁者マルコス大統領がガメたという噂まである。
 米軍が避暑地に使っていたこともありキャンプ・ジョンヘイといった名前がついたリゾートがありゴルフ場も整備されていた。例のピナツボ火山の影響でクラーク空軍基地やスービック海軍基地がコスト高により閉鎖され、民間経営なっていたが、アメリカン・スタイルの快適なホテルで良くそこに泊まった。因みに米軍が縮小するに従って中国との領有権問題が顕著になったことは記憶しておいていいだろう。
 そしてここの言葉はマニラのタガログ語ではなくてイロカノ語。方言と言えばそうなんだろうが、マニラの人が道を尋ねて通じなかったことがある。そいつに言わせると日本語と英語くらい違うと言うのだが。

 一方南フィリピンは恐ろしく数が多い島嶼で構成されていて、ミンダナオあたりからモロ族といったイスラム独立派が蟠踞しておりテロが絶えない。アメリカも基地は縮小しつつ、しかし放っておく訳にも行かないので、軍事顧問団と称した部隊を派遣している。現在は衰退したようだがアブサヤフという過激派がいて、あのビン・ラディンから資金を受け取っていた。例の自爆テロの犯人が実行前にアブサヤフに潜伏していた、という話もあるにはあったが地元の連中は『相手にされるはずがない。』と何故か断言していたが。
 大体あんなに散らばっている島を全部管理して税金をちゃんと取っているとは思えなかった。

 ところで、旅の者は一週間くらいでメチャクチャ日本の味が恋しくなる。当時のインター・ナショナル・エアポートはニノイ・アキノ空港と言って今のよりも小振りだった。帰国のときにそこのレストランで『ラーメン』というメニューを見て(カタカナで書いてあった)思わず食べたのだが、その味は世界一マズかった(今は違う)。多くの旅人がガックリ来ていたものだった。  
 
 マニラ湾に面した繁華街の猥雑さと危険度には腰が引けたが、男も女も明るい気楽な奴等で僕は好きだった。そして熱い風に当たって血が上ったのか、勢いで工場建設を決定してしまった。今から四半世紀近く前の話だ。

この項つづく

僕の地球放浪記 Ⅰ

僕の地球放浪記 Ⅱ 

フィリピン侵攻作戦 下 


「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
 をクリックして下さい。」

僕の中国事始め

ヴェトナムに行ってきた

考えないヒント Ⅲ (動物編)

2014 AUG 17 11:11:18 am by 西 牟呂雄

 ちょっとした思い付きで『あ』から『わ』までやってみたが・・・・。

アリゲーター   モハメド・アリが履いた下駄
イーグルス    ワシ等
ウミドリ     膿んだ鳥・又は緑の鵜
エイ       ヤー
オットセイ    夫の姓(夫婦別姓反対論者のこと)
カモシカ     デモシカの従兄弟
キリン      麒麟(想像上の化け物 首は長くない)
クジラ      ゴジラの四番目の弟(5⇒9)
ケープペンギン  銀でできている『ケープ』社製のペン
コブラ      子供がぶら下がっている
サル       犬とも蟹とも中が悪い
シロウサギ    四郎という詐欺師
スマトラトラ   トラ・トラ・トラ
セイウチ     『家(ウチ)』と言え、の英語
ソウギョ     葬儀ョ
タヌキ      ヌキ(タを抜いた)
チワワ      千の輪
ツバメ      つば の付いた新型眼鏡
テン       10
トラウマ     黄色いシマウマ(想像上の動物)
ナメクジ     舐めたおみくじ
ニワトリ     二羽の鳥
ヌー       ぬう
ネズミ      寝た後        
ノミ       自模のみ
ハクチョウ    イロカノ語のくしゃみ
ヒヒ       二本の松明(火火)
フクロウ     不苦労(楽をすること)
ヘラジカ     奈良でヘラヘラしている鹿
ホタル      捨てるの名古屋弁
マングース    グースという男
ミミズク     9匹のミミズ
ムササビ     むさ苦しい錆び
メダカ      高目(イーハンアップ)
モモンガー    百頭の蛾(蛾は一匹じゃなくて一頭)
ヤマネコ     山根という人の子供
ユニコーン    一本のとうもろこし
ヨタカ      安い
ラクダ      裸の管
リス       スリの業界用語
ルリタテハ    ちょうちょ
レッサーパンダ  劣性遺伝子のパンダ
ロバ       老婆
ワニ       二輪車

 うーん、やらなければよかった。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
 をクリックして下さい。」

考えないヒント

考えないヒント Ⅱ

考えないヒント Ⅳ (良く分からないが)

考えないヒント Ⅴ (これは陰謀では)

僕の地球放浪記 Ⅱ 

2014 AUG 13 11:11:58 am by 西 牟呂雄

 ダラス往復2泊4日をやっていて気が付いた。これはC・Aのローテーションと同じなのだ。行ったときと帰るときに同じように挨拶していると、先方も顔なじみのように『おかえりなさい。お忙しいのですね。』等と声を掛けてくれる。これで何かが始まれば面白いのだが、そうはならなかった。まぁオチはあるが。

 地球は広い。地上を舐めるように移動すれば一生も二生もかかるだろうが、エアで飛び回れば営業しながら八泊十日で一周できる。本当だ。
 ヨーロッパの片隅にお客さんがいて、普段はメールでしかやり取りしない。しかしコンペティターが嗅ぎ付けて『最近注文がない、どっかのサプライヤーがウロチョロしてないか。』と気付けば勝負にならない。日系の進出を手掛かりに開拓した小さいお客さんに年に一度は顔を出して、価格交渉くらいはやる訳だ。しかし一回行って帰るだけでは経費倒れになるため、他の大手と一筆書きのようにすると何とかやり繰りできる。
 これを思いついた時は西回りでやった。当時喫煙できたエール・フランスでパリに行き、ダブリンからアメリカに飛んだ。あの頃はE-チケットではなかったから、ハード・ペーパーの分厚い束チケットだった。

 因みに僕は出張先で絶対に観光をしなかった。これは職務に忠実だったからではない。『せっかくここまで来たからチョットアレを。』とやると物凄く疲労するからで、従って客先以外は殆どホテルから外出しない。ダブリンの街がどうだったか、夕飯を食いにパブに行っただけだ。
 出国の手続きを終えると、いきなりアメリカの入国審査があるのに驚いた。本当に米国イミグレーションなのだ。察するにアイルランドは米国との人の往来が多いため、離陸前に手続きして国内便の駐機場に着けさせるのではないだろうか。
 それはともかく、何故か入国審査官は僕だけ『チョッと。』と言う感じで
列から外されオフィサー・クラスが寄ってきた。
「あなたは、何の仕事をしているのか。」
「いつもこんな短期間でこんな距離を移動するのか。」
「なぜ、ケース一つなのか。荷物は何も無いのか。」
と矢継ぎ早に質問の雨に不意を食らって動揺した。前ブログで明らかにしたが、メキシコでかっぱらいに合って以来アタッシュ・ケース一個だけで出張をこなしていた。これには色々とノウハウがあるのだがそれは又別途。
「世界中の友達を訪ねているので手ぶらで移動している。」
「この日までに日本に帰らなければならないのでこんなスケジュールになった。」
等とアタフタと答えたのだが、オフィサーは疑わしい目を向けたままでパスポートをコピーさせた。
 実はズッと後になって、マニラの出国の際に同じような目に合った。このときは首に巻いていた金のチェーンに弾丸のアクセサリーを着けていたのがまずかったようで、ネジを外して使い物にならないオモチャであることを示しても没収された。そして荷物を(といってもアタッシュ・ケース一個)全て開けさせられ、何と大田胃酸の缶(毎日飲むので一缶持って歩いている)まで中身をチェックした。例のクスリは”白い粉”だから見りゃ分かりそうなものだが、少量舐めて本当に胃の薬だとなってから、パスポートをコピーして開放された。ダブリンの時も国際テロリストにでも思われたのだろうか、まさか。

 この西回りというのは大陸間の移動が全部昼間のため、結果として非常に疲れた。それに懲りてもう一度やった時には東回りで行ったものだった。
 その出張の終わりはロンドンから成田で、これで帰れるとホッとしたのを妙に覚えている。そして食事の時に息を飲んだ。メニューを聞きに来た美人のパーサーはよく使っていたダラス便の時の人なのだ。しかしこっちは覚えていてもあちらにとっては所詮ワン・オブ・ゼム。
「ダラス便におられた方ですよね。」
と話すと実に怪訝そうにされた。
 後に教えてもらったが、そう言って寄ってくるストーカーが一杯いてC・Aの人は困っているのだそうだ。おかげで僕はロンドンー成田間ズーッと無視された。この場を借りて訴えたい。あれは偶然だったので断じてストーカーではないのですよ。

僕の地球放浪記 Ⅰ

フィリピン侵攻作戦 上 

フィリピン侵攻作戦 下 


「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
 をクリックして下さい。」

僕の地球放浪記 Ⅰ

2014 AUG 7 12:12:46 pm by 西 牟呂雄

 題名を見て『世界自分探しの旅』というような内容と思わないで欲しい。30代の終わり頃、現役サラリーマンとしての経験だ。
 当時の僕には哲学なんか無い(今もだが)。「能率」と「スピード」しか考えていなかったので、ソウル・台北・上海・香港・マニラ程度は日帰りの勢いだった。しかし日帰りはさすがに憚られた。しょっちゅう出張する為にやはり多少の格安チケットを探したのだが、往復手配の場合現地での滞在が24時間ないと割引が効かなかったからだ。それでも、物凄いマイレージの蓄積により常にクラス・アップしており、不思議な体験もした。風吹ジュンさんがズーッと10時間以上も隣に座っていた。こういうタレントさんは無用の会話を仕掛けられるのが嫌なのだろう、サングラスをかけっぱなしていたので、降りる寸前まで気が付かなかった。やけに派手ないでたちにC・Aに「あの人はテレビに出る人ですか?」等とマヌケな事を聞いたら教えてくれたっけ。
 
 メキシコ・アメリカ二泊四日というのを何回かやった。直接メキシコ・シティーに行くのはシアトル経由で12時間、機中で二回も二日酔いになって懲りた。体調も悪かったのだろう、メキシコに着いた途端に血を吐いてギョっとしたことがある。行き先は更にそこから車で4時間、もしくはプロペラ機で45分。安かったが(3千円くらい!)車は避けた。喋れる英語が『ワン・ツー・スリー・イエス・ノウ』だけの運転手と移動するのは極めて怖い、着くかどうか予想できなかったからだ。当時直行便のあったダラスに行き、メキシコにわたる。帰りにアメリカはテキサスかサンフランシスコの客先に寄って帰るのが多かった。
 何回目かは忘れたが、メキシコ・シティーでトランジットするため、チェックイン・カウンターに行った。周りにはほとんど人はおらず、荷物を足元に置いて座席を決めていた時のことだ。それではディパーチャーへと足元を見ると、ない!煙のように消えていた。
 同じようにキョトンとしているクラークを怒鳴りつけ、空港警備を呼び警察を呼べ!と喚き散らした。しかしどうも警備の態度が鈍い。今から考えるとこの程度の事件はしょっちゅう起きているのだろう、或いは一部は窃盗グループとグルになっているのか。挙句の果てに『英語の喋れる警察官は直ぐには来れない。』等と(英語で)抜かしやがった。こっちのフライト時間は迫って僕は焦る。幸いパスポート・カード・チケットは胸のポケットに入れて無事だったが。Recompenseという単語が出てこなかったので「ペイ・バック!」とにじり寄ると、別室につれて行かれた。少し偉そうなのが出てきたので「これは国際的な信用問題だ。今まで何回もメキシコに来ているが、もう二度と来ない!そのためにメキシコが被る損失をいくらだと思う。」といったハッタリをかけまくった。するとクレーム申請書のようなペーパーを出してきて、これに具体的な内容を書け、と言う。時間が無いから日本から出す(この時点でもう頭に血が上っていた)と席を立った。何も持っていない旅人はどうも目立ってしょうがない。こうなったら少しでもメキシコ国から取り返すつもりで、ラウンジでも機中でもサーヴィスのビールとテキーラをガブ飲みし、勿論ベロベロになった。
 結果ダラスで入国する時に、税関が『何で何も持っていないのか。』と不審そうな目で聞いてきた。無理も無い、酔っ払ってフラフラになった東洋人が手ぶらで入国するのだ。
『Good question! Please listen to me!』
から始まって、いかに酷い目に合ったかをまくし立てた。審査官は『こいつアホか。』という目つきで僕を追っ払った後、後ろの奴等に僕の口調を真似てバカにしていた。
 何しろ一銭も持っていないのだ。この恐怖感はなかなか味わえるものじゃない。どこか知っている日本人のいる所にたどり着かねば、と一路シリコンバレーを目指した。全てカード決済の効く交通手段でセミコン・ウェストという半導体関連の展示会場にたどり着いた。するとある商社の顔見知りがいたので、拝み倒して200$借りた。
 難行苦行はまだまだ続く。どうしても一泊しなければならなくなって、最寄のヒルトンに宿を取りチェック・インしようとした。僕の名前を見てフロントマンが不審そうな顔になる。
「ミスター・ニシムロはご夫妻でロイアル・スイートに泊まって既にチェックアウトされた。」
等と言うではないか。僕はニシムラと良く間違えられているので
「それはニシムラの間違いだ。私はニシム『ロ』だ。K・Nishimuro。」
と書いてやった。ところが、である。フロントマンは益々怪しむばかりで、押し問答の挙句にガードマンを呼んだ。ビビった僕は大慌てでパスポートを示し、フロントマンが覗いているディスプレイの画面を見た。そこには何故かT・Nishimuroという名前が表示されていた。要するにある人物の名前を騙ったホテルサギだと思われた様だった。その名前に思い当たる人物が、実はいる。ようやくチェックイン出来て東京に電話したら、その人物はやはりアメリカに出張していた。ふざけやがって。

 手ぶらでサンフランシスコから帰国したが、ラウンジで又知り合いに会ったので今度は円を借りた。ん?クレームはどうしたかって?実際の被害額の10倍位を弁償しろと書いて送ったら丁寧な返事が来て、一言で言えば『あなたのトラブルを参考にして空港のセキュリティ向上に努力します。どうもありがとうございました。』だけであった。

僕の地球放浪記 Ⅱ 

フィリピン侵攻作戦 上 

フィリピン侵攻作戦 下 


「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
 をクリックして下さい。」

真夏の油壺

2014 AUG 4 10:10:33 am by 西 牟呂雄

 『油壺』というのは正確には湾の名前。ここにもう30年以上通っている。古くからのヨット愛好家が多い油壺ヨット・クラブのホーム・ポートで、どの季節でも美しい入り江だが、やはり真夏は格別だ。先日ここの納涼大会が行われて、オヤジ・バンドが出たりハワイアン・ダンスのお姉さんが踊った。
 こういうときに舞台の方から『さあ、ご一緒にどうですか~。』等と声がかかっても、恥ずかしがってなかなか直ぐに上がる人はいないのだが、ここは違う。真っ黒に日焼けしたオヤジ共が我先にワーッと来てしまい、勝手なフリで踊り出して、フラのお姉さん達が引きつってしまった。一応笑顔を見せようとしていたが、恐怖感からかどうしても強張ってしまうのだ。念の為遠くからも見たが、やはり集団発狂した盆踊りにしか見えなかった。
2014080214510000出港を待つ 愛艇 『アル・カン・シェル』の雄姿

 湾の入り口までいってアンカーを打ち、ゆらりゆらり波に漂いながら日光浴や海水浴をしていると、何故か強い酒が飲みたくなる。しかし、海をなめると大変なことになることは皆知っているからがまんがまん。油壺湾の出口は地形も潮のながれも複雑で、一杯やってウトウトしながら浮き輪につかまって漂うと、どこへ流されるか分からない。

 確か麻生元総理の弟さんがヨット回航中に難破して亡くなったのもこの辺りじゃなかったか。

 石原慎太郎先生の『コンテッサ』も長いこと係留されていた。初期のヨットものエッセイに油壺の描写があり、あまり昔と変わっていないのが分かる。

 この湾の手前でよく勝手にテントを張ってキャンプしていたが、殆ど野生に近い放し飼いのニワトリと縄張り争いをしたことを思い出す。最近見ないがどうしたのだろう。
2014080214500000出撃準備の完了した油壺水軍の無敵艦隊

 さて我慢に我慢を重ねて上がってくれば、ご覧の酒池肉林バーベキューが待っている。海の幸、山の幸、生ビール、ウィスキィ、バーボン、焼酎。この内の高級焼酎の原酒をヘベレケに酔っ払ってラッパ飲みしてしまい、大顰蹙を買って怒られてしまった。その後意識を失っていたのだが、誰も探そうともしなかったことが翌日分かり、わが身の不徳の致すところ大である、とむしろ自慢した。すなわち『あいつはどうせ死なない』と思われているからだ。

2014080215100000見よ この肉塊を!

 「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
 をクリックして下さい。」   

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊