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万延元年 浪花(なにわ)の華

2014 OCT 7 22:22:30 pm by 西牟呂 憲

 摂関家19代豊臣秀慶は、自身の経営する『あけぼの新聞』に自説を発表した。「和のこころ 国体のあらまし」と題された衝撃の論文の概要は次の通りである。
 
 聖徳太子のお作りあそばした十七条憲法の一・四・十七条を残し、一条には『広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ』を付け加える。新たに『旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ』『智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ』の二条を加え、五条憲法として国際的に発表する。
 又、五奉行は代々世襲されてきたがこれを廃止し、全国の各邦(くに)から選ばれた代表による入れ札でこれを選出する。邦は古来からのものを踏襲し、それぞれ領主達が話し合いによって互選して代表を決める。一同に会したものを『評定』とする。
 物品の買い上げの一割を『公金』として徴収する、今までの各領主が年貢として納めさせていた米をはじめ五穀・味噌・醤油・酒、流通する物品について全てである。今まで豊臣家が負担してきた軍事費用はこの公金を当てる。その他公金の使い道は先に定めた評定によって定める。勘定方は大阪堂島で行われている借方・貸方表記で全国統一する。
 年に一度の大評定は各邦共通の『律令』を決めるものともする。
 豊臣家は評定の議長を務めるが、10年後には世襲を排し評定から議長を互選する。
 そして、対外的な国家元首は天皇家とする。
 
 この内容に世界は驚愕した。今日で言う民主主義と消費税の導入なのだ。日本では市民はこれを『それでも暮らし』と言い習わし、欧米に伝播しDemocracy の語源となった。豊臣側近、特に世襲五奉行家は勿論反対の姿勢を露わにしたが、秀慶は知ったこっちゃない。即座に上奏しビビる考明天皇に御聖断を取り付ける。

 秀慶の改革熱は止まるところを知らず、慶応年間には広大な関東地方の江戸湾一帯に製鉄・造船といった大工業圏を建設し出した。全て豊臣家の出資である。TOYOTOMIは一躍世界のブランドとなり、自帆俱艦隊と共に圧倒的な力を蓄積していった。
 しかし、この国家は不思議と大規模な陸上部隊を構築せず、軍人と言えば専ら自帆俱艦隊の海上軍のみを指した。長いこと内戦が無かったため警察力以上の戦力は必要とされず、貿易拠点としての台北、香港、呂宋、安南、新加坡(シンガポール)、蛇賀田羅(ジャガタラ)という都市拠点を持つに留まり、決して駐留先の内政には干渉しなかった。それらの拠点都市では日本語が流行り通貨も「両」「分」が普通に通用した。治安も衛生もいいために越境するものが後を絶たず、自帆俱艦隊が入港するたびに入隊希望者が殺到する有様だった。
 英国東インド会社とTOYOTOMIは提携関係を結び、後の日英同盟となる。
 
 これらの改革は年号が明治に変わる頃に本格的に軌道に乗り、大評定を大々的に開き世界に向けて『大日本帝国』の名乗りを上げた。欧米列強の帝国主義的拡大にある種の抑止力を発揮するためである。この時期日本と利害が対立する国は南下政策を進めるロシアと西進して太平洋に到達したアメリカであった。国家の効率を高め自慢の自帆俱艦隊を充実させる必要が生じた。
 五奉行は大蔵奉行・治安奉行・自帆俱奉行・外務奉行・科学奉行に再編され、奉行申し合わせにより『太政大連(だじょうおおむらじ)』を互選し、大阪出身で秀才の誉れ高い河内雄山を初代に選出した。これを期に豊臣家は摂政関白職を離れ、政治の表舞台からは遠ざかる。しかし大阪城外堀までの広大な私有地を保持する、日本一いや世界一の大金持ちであり続け、かろうじて比肩できるのはロスチャイルド家だけという噂だった。
 日本商人道は広く世界に喧伝され『ほどほどにしなはれ。』『損して得取れ。』といった言葉は翻訳され多くの人口に膾炙するようになる。『モウカリマッカ』『マイド』はアジアにおいてはそのまま日常の挨拶に使われた。

 時帆倶艦隊は七艦隊に増設された。
 大阪湾に第一、江戸湾に第二、以下鹿児島第三、香港第四、新加坡第五、ハワイ第六、サンフランシスコ第七という布陣である。このうちハワイはカメハメハ大王からの要望で、サンフランシスコは自国民(約10万人が入植していた)の保護の名目で派遣した。カリフォルニアは少し前メキシコからアメリカに割譲され、途端に金が発見されゴールド・ラッシュが始まっていたが、現地でゴールド・キングと呼ばれたのがジョン万次郎こと中濱萬次郎である。株式会社化されたTOYOTOMI/USAのアメリカ支配人である。金採掘は巨万の富を日本にもたらしたが、同時に白人たちとの小競り合いが絶えなくなり、止むを得ず艦隊を派遣することとなったのだ。しかし第七艦隊は都市部のみを防衛しているだけなので、金鉱を守るためには自帆俱陸戦隊を組織せざるを得ず、これは現地で募集した外人部隊を傭兵として雇い入れた。主にネイティヴ・アメリカンや奴隷脱走の黒人を高い給料で訓練して鉱山の守りに当たらせたため、小規模衝突は誠に頭の痛い問題であった。

 一方でロシアもしきりに黒竜江を越えてしきりに清を挑発する。ロシアの狙いは不凍港の確保だったので、アイグン条約・ネルチンスク条約等で清の足元を脅かした後、まず遼東半島を確保しようとした。圧倒的な日本の自帆倶艦隊との直接戦闘を避けるため、朝鮮半島には手を出さなかったからと言われている。
 そうこうしているうちに、明で農民の反乱をきっかけに大規模な内戦が始まり、あれよあれよという間に大陸は大混乱に陥った。
 時の皇帝であった星光帝は連戦連敗に驚き、香港の自帆倶第四艦隊に応援を求めて自身は南京から一歩も出ようとしない。これに先立ち第四艦隊も第七艦隊の外人部隊方式で陸戦外人部隊を編成していたため、日本政府は東郷隆盛を指揮官とする陸上部隊を広東州一帯の防御には当てた。しかし緊急に開催された大評定はそれ以上の侵攻を許さなかった。『そんなもんに巻き込まれて何の得があるのや』第四艦隊参謀部に入電した河内雄山の言葉とされる。
 ところがロシアはこの機を見逃さず、シベリア鉄道の完成と同時にバルチック艦隊を急遽極東に回航する動きに出た。日英同盟のインテリジェンスによって、日本に密かに伝えられた。
 大陸は風雲を告げる。ついに反乱軍は明の首都南京に雪崩れ込み星光帝はなんと日本に亡命しようとしたが、結果失敗して処刑されてしまう。反乱軍指導者だった洪秀全は『太平天国』を打ち立て自ら飛天大王と称するに至った。明は滅び去り、キリスト教を国是とする国家が出現した。泡を食ったのは国境を接する清である。最高権力者の西太后は宰相曽国藩と李鴻章に首都を新京から斉斉哈爾(チチハル)に遷都する様に命令を出した(実行はされず)。大騒ぎになったのは李氏朝鮮も同じで、こちらも権力者閔妃が露骨にロシア寄りの姿勢を打ち出し、国論は二つに割れた。
 どの国も日本がどちらを向くか、固唾を飲んで様子を見る。一人太政大連、河内はうそぶくのだった。
「さて、どないしまひょ。」
 
 バルチック艦隊は喜望峰を回り、インド洋を北東に進んでいる。時は刻々と迫っていた。

つづく

宝暦元年 難波(なにわ)の花

明治末年 浪速(なにわ)のハナ

昭和元年 ナニワの花盛り

平成28年 大阪オリンピック ナニワの狂い咲き 


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もしも江戸時代が続いていたら

Categories:浪速のハナ

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