プジョーを手に入れた
2015 JUL 30 19:19:13 pm by 西 牟呂雄
これぞスタンディング・ブルー・ライオンだ。プジョーのエンブレムである。
本当はあのハイドロ・サスペンションのシトロエンC-5を探していたのだが、ヒョンなことから中古のプジョーに一目惚れして手に入れた。乗り心地は悪くない。
いや、滑るような足回り、深々とした内装、アクセルの甘い踏み込み、申し分なし。
これでエグザンチアの時みたいに故障が多くなければいいのだが、アレはとにかく金はかかった。シトロエンは夏に弱い。寒冷地仕様だから、と言うムキもあるがドイツなどもっと寒いのにアウディはそんなにガタはこない。中古外車専業のディーラーのにいちゃんに『夏場に故障したら喜ぶくらいじゃないと一流のシトロエン乗りとは言えませんよ。』等と言われてその気になっていたのだ。
今のアウディは車重が約1.5トンもあってドアも重く、いかにも当たり負けしそうもないガッチリした硬い印象だった。おまけに速いことは速かったから気に入ってはいた。しかし年から考えて最後の愛車を10年乗るとすると代え時なのでシトロエンを探した。が、プジョー407のハンドルを握った段階でもう後に引けなくなった。F1だってプジョー・シトロエンで出てることだし(あんまり理屈になっていないが)。
フロントを開けてみると、エンジンのデカさを見て息を飲んだ。これが出足こそそう強烈なパワーではないが、高速安定性はいい。その上シート全体が深々としており目の高さが低い。これはひょっとしたらひょっとして新たな伝説の始まりかも知れない。かつては中央高速で「赤い流れ星(セリカ・ダブルX)」「紫紺の翼(シトロエン・エグザンチア)」「孤高の青騎士(アウディ)」等と呼ばれた私だ。
中央道のダンディ・ライオン になってみようか
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港の夏祭り
2015 JUL 28 7:07:48 am by 西 牟呂雄
今年もヨット・クラブの納涼祭りがありました。
右は続々出港を待つ油壷艦隊の雄姿です。
小学生の体験乗船で湾外を一巡り、波をかぶるたびに『キャアキャア』とはしゃぎます。初めて乗る小学二年生の子は『こわいよ。』と半ベソになってしまい、抱っこになってしまいました。空は夏丸出しの快晴。
この子達は事情があって親と一緒に暮らせないのでオトナとの会話に慣れていません。それでも後で一生懸命練習した踊りを披露してくれます。
港に帰ってくると各船ごとに「焼きそば」「カレーうどん」「トウモロコシ」「焼き鳥」といったお店が出て、バンドが演奏します。これが又40年以上前の曲ばかりやるゴキゲンなバンドで、大好きなCCRの「雨をみたかい」をレパートリーに入っているのがうれしい。
僕はカクテルの模擬店で「ウォッカベースのヤバいのくれ。」とか「テキーラ・サンライズもいいけどテキーラ・サンセットにして。」等と言って嫌われていました。
そうして子供達の可愛い踊り。中に一人口に指を咥えている子がいます。さっき船の上で半泣きだった子です。人前に出るのが恥ずかしいのか、チビで上手く踊れないのが恥ずかしいのか。僕達はカブリつきに行って手を振って目が合うとやっとニッコリしました。
こういう少年の孤独は身に染みて分かります。もっとも僕の場合は逆に出て悪ふざけに走り、返って目立って怒られたものですが。彼は最後には景品のシャボン玉セットを貰って嬉しそうに帰っていきました。
子供は無垢でいい、と言うでしょう。それを言いたがるのはスレたオトナで、子供は子供で色々考えて十分忙しく、無垢もクソもないのです。あれ、結構真剣なんですよ、忘れてませんか。少年よ、願わくば自由に生きよ。。
お待ちかねのフラ・ダンス・ショウ。ご覧のあでやかな皆さんがハワイアンに乗せて柔らかく舞います。これニコニコしながら踊るのが大事で、なかなか笑顔をつくるのは難しいそうです。確かに僕がやってみると変にヘラヘラしてしまってダメ。大体オジサンがニコニコ踊るというコンセプトに無理があるのですね。
ハワイアン・バンドのバンマスはANAのパイロットが本業のかっこいいオジサンでした。
一応夏休みのテーマのつもりで書きましたが、休みはあんまり関係のないオジサンがドンチャン騒ぎをしているだけで、春にも秋にも似たようなことはしていますから、バケーションでも何でもないですね。
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新撰組外伝 公家装束 Ⅱ
2015 JUL 26 8:08:04 am by 西 牟呂雄
夜半、島原に通じる道を影が落ちるほどの明るさで月が照らしていた。
一人の公家が早足で歩いていたが、人気のない辻で歩みを止めて後ろを振り返った。しばらく虚空を見つめていたが、体を反転させて両手をダラリと下げた。
「何用や、壬生狼やな。」
すると漆黒の闇の木陰から男がスッと出てきた。
「姉小路様。夜道は危のう御座いますよ。」
「沖田であろう。」
「良くご存知で。何のための夜道歩きで御座いますか。」
「ほほほほ。寝付ぬ故。」
「お遊びも過ぎますとお怪我ではすまなくなりますよ。」
「抜くが良い。来やれ、天然理心流の技の冴えを見せよ。」
と言い捨てると、白柄の太刀を鞘から抜き払った。
「これはこれは・・。」
総司もすらりと抜き正眼に構えた。
しばらく睨み合うと、姉小路の剣先がツツッと下がっていく。下段脇構えである。そのままスウッと前に進もうとした刹那、総司は太刀を立て八相に構え直した。姉小路の動きは止まる。両者の動きは竹刀剣道では使わない人切り剣術なのだ。
総司が『ハッ』と気合を発して切り掛かる、無論様子見である。姉小路はくるりと体をかわし、独楽のように一回転した。見たことも無い動きだ。
瞬時に姉小路が同じ下段脇構えから『イヤァーッ』と突きかける。総司は後ろに跳んで伸び切った剣先を見切る。
「臆するか。沖田総司。」
「フムッ!」
疾風の速さで小手を払うように剣先を振るったが、姉小路はまた独楽の回転で身をかわす。
両者は剣を合わせない。もし誰かが見ていたならば、月下の元、白刃が青白い光を放ちながら空を切り二人の男が舞っているようにしか見えなかっただろう。
姉小路は再び下段脇構えに入った。しばらく沈黙が続く。
「おじゃれ。沖田。」
誘っているのである。総司は黙って上段に振りかぶり、怪鳥の雄叫びを上げて切り込んだ。
「キィェーイ。」
姉小路はこれを受けずに身を縮めると、下から猪突の突きを出す。
「シャアアァ。」
これを辛くもかわすと総司は銃を構えたようにし、太刀の刃を外側に向けた独特の型で必殺三段突きを放った。
「ヤッヤッヤァー。」
飛燕の動きに総司は勢い余って前にのめり、二人の体が交錯した。姉小路のきらびやかに装飾された刀がガシャッと音を立てて落ちる。ついに一度も刃を合わせることなく勝負は決した。総司は懐中の紙で血を拭きパチリと鞘に戻して向き合った。
「姉小路様、お命に関わりはなけれど今後は剣を使うことはかないますまい。」
「壬生狼。鮮やか也。」
鮮血に利き腕が染まっている。
「剣はいずこで。」
「鞍馬山。」
「すると姉小路様はカラス天狗ですか。」
「ホホホ。」
「本当のお名前は聞かずにおきます。もう辻斬りはお止めください。」
総司はそれだけ言うと振り返りもせずに帰っていった。
余談であるが、翌日島原大門の前にカラスの死骸が落ちており、人々はこれを凶兆として恐れたと言う。
明治の高官、太政大臣贈正一位大勲位の岩倉具視は人前で決して肌を見せなかったと言う。
公家にしては度胸が据わっており、征韓論の時も圧倒的迫力の西郷隆盛に一歩も引かず対峙した。また、赤坂仮皇居前で不平士族の武市熊吉(高知県士族)に襲撃された際に、独楽のように身をかわして助かったことも史実である。
立憲問題時もゴネて辞表を提出したり病気と称して出仕を拒否したり、とやりたい放題だった。
その岩倉が肌を見せないのは右上腕部の肉が大きくえぐれていたからだ、という噂が当時囁かれたが、真実の程は伝わっていない。
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新撰組外伝 公家装束 Ⅰ
2015 JUL 25 6:06:25 am by 西 牟呂雄
「副長。又隊士がやられました。」
怒気を含んだ斎藤一が報告に来た。それを聞いた土方は『ケッ。』と舌打ちしながら立ち上がった。
「何番隊の野郎だ。」
「一番隊隊士。椎野剛之助です。」
「総司ー!何やってんだ。行くぞ。」
「あーハイハイ。」
「バカヤロー。ハイは一回でいい。」
「はーい。」
「縮めろ!」
「さ、行きましょう。椎野さんも気の毒に。」
土方にこんな口がきけるのは隊内でただ一人、沖田総司だけであった。黄昏時が過ぎた紫紺の空に月が輝いていた。場所は島原の先、屯所からは少し下った所との報告だった。
肩をいからせて進む土方の後ろを沖田・斎藤と監察の山崎進が付いていく。人通りは少ないというか誰ともすれ違わなかった。
壬生を下って島原まで当時は畑もあるような場所で、一同は提灯を持っていた。
「総司。椎野は何だ。女狂いか。」
「狂っちゃいませんがそこはそれ、誰だって行くでしょ。」
「お前は配下の隊士には好き勝手させてんのか。」
「やだなぁ。夕べはウチは非番ですよ。非番の時にどこにいるかはわからないでしょ。」
「・・・・。」
向こうから紫の公家装束の男が足元を男衆に照らさせながらスッと歩いてくる。この男、物凄く早足で提灯で足元を照らす者は小走りに走っていて、風のように一行とすれ違った。
土方は一瞥をくれた。真っ白に塗り眉を落とす公家化粧をグロテスクな物だとこの男は忌み嫌っていた。この若い公家は広い額、大きく切れ長の目、引き締まった口に紅をさし、いかつい顔だった。
「ごっさん(公家のこと)。御公家様。待たれよ。新撰組だ。」
「あい。」
「こんな時間にお一人か。その先で人が切られた。物騒ですよ。」
「おそろしき長(なが)刀(がたな)。壬生狼(みぶろ)か。」
「お名前は。」
「ホホッ。姉小路(あねのこうじ)綾麿。」
月に照らされた青い顔がうっすらとほほ笑むと踵を返して去って行った。
「なんだありゃ。薄気味悪りい。」
「歳さん。あいつ血の臭いがする。」
「血だぁ。」
「以前に人を切ったことがありますよ。ねぇ斎藤さん。」
「うむ。それに公家にしちゃやけに腰を落とした歩き方。剣を使うでしょう。」
「あんな女みたいなのがか。」
「土方さんは人切りばかり見てて遊郭にも足を運ばないからアノ手の殺気は分かんないんでしょう。」
「ウルセー!」
椎野の死体は綺麗なもので、胸の一突きで絶命していた。
「何流なんだ、この太刀筋は。」
「椎野の剣は刃こぼれしていますね。一か所だけですけど。これ陰流、いや新陰流じゃないかな。」
「だから一人でウロウロするなと言ったんだ。しょうがねぇ。」
「近藤さん。近頃隊士が切られる。この二月(ふたつき)で三人もやられた。」
「歳、たるんでるんじゃねえか。気組みが足らない奴に一人歩きさせるな。下手人は長州野郎か。」
「それが良く分からん。十津川だとか土佐だとか噂はあるんだが、さっぱり見えねえ。」
「切られるのは新撰組だけか。」
「そうなんだよ。佐々木さんの見廻組にも会津藩にもやられた奴はいねえ。」
「腕の立つやつに夜回りでもさせるべぇ。」
「沖田、永倉、斉藤あたりだな。」
「歳、お前もだ。」
「当たり前だよ。」
「おい、総司。何をゴロゴロしてるんだ。夜回りはいいのか。」
「歳さん、今晩は永倉さんが行きましたよ。」
「バカヤロー!副長と言え!」
「だけど毎晩行ってもしょうがないでしょう。いつも出るわけじゃないし。」
「だから毎晩行けと言ってるんだろうが。」
「副長。気が付いたんですけどね。切られるのはいつも一人。それも決まって晴れた戌の日の晩ですよ。」
「本当か。早く言え!」
「今気が付いたんですよ。」
「次の戌の日はいつだ。」
「あしたです。」
「よし。明晩一番隊を連れて巡察に出るぞ。」
「副長。ダメダメ。あいつは一人じゃないと出ませんよ。」
「アイツって誰だ。お前知ってんのか。」
「見当はつきますよ。あの若い公家、姉小路と言った。」
「バカ。見当違いも甚だしい。あんなのに新撰組が切られる訳がねぇ。」
「副長も都(みやこ)にうといな。ああいう筋の人達はねえ、そりゃ大体がナヨナヨして子供ができなかったり病気がちだったりしてますけど、血筋が絶えちゃマズいって本能が働いて何代かに一人くらい獣みたいなのが出るんですよ。」
「ゴタク並べてるんじゃねぇ。屋敷は調べたのか。御用改めで踏み込もう。」
「すぐそれだ。何の詮議だって踏み込むんですか。それに土方さんや近藤さんの剛剣じゃまともに立ち合わないでしょうね。」
「オレが敗けるとでも言うのか。」
「そうじゃないですよ。土方さんだったら向こうは抜かない。まさか公家さん相手にいきなり切り掛かるわけにもいかないでしょう。僕に任せておいて下さいよ。」
「勝手にしろ!」
つづく
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赤い借景を二枚
2015 JUL 22 21:21:36 pm by 西 牟呂雄
夏至から既に1月経ってしまうともう夕日の落ちる場所が変わってくる、或いは夜明けの時間がズレて来ます。みなさんお気づきでしょうか。
日本の場合梅雨が挟まってしまうので夏はこれからなのですが、僕はいつも「ああ、盛夏はもう過ぎてしまうな。」と意識します。そりゃあこれから暑くなるのですが。
珍しく散歩していて、思わずスマホに納めたのが右の一枚、そして素晴らしい色だったと友人が送ってくれたのが下の一枚です。
残念ながら腕が悪くて右の一枚は『赤』が出ませんでしたが、明るすぎたのでしょうか。見ていて吸い込まれてしまいそうな色合いだったのですが。遠景の町並みが切れ込むあたりは真っ赤だったのです(繰り返しで恐縮ですが私は色覚異常)。
上海を旅行した芥川龍之介が思い出についてインタヴューされた記事がありますが、彼はそこで『一番忘れるのは色です。』と答えています。しかし芥川ほどの人が、何かの印象を持った時点で目に焼き付いた色を忘れるはずはないでしょう。これは忘れるというより思わず筆をとって文章を書きつけるまでに彼の感性が発酵していなかったため、意識に残らなかったのではないか。あの鮮やかな文章が成立した時には実際とは別の色彩が施されてしまったに違いない。それを天才たる彼は『色を忘れる』と言った、というのが私の解釈です。得意の皮肉が脳裏に浮かんだ際の目に留まった物の実際の色を忘れるはずがないと思っています。
私は安易にスマホでパチリとやりましたが、その時ある事でムシャクシャしていた気分は覚えていて、その感覚がこの写真よりももっと硬質な赤と刷り込まれたか・・・。やはり天才には程遠い。
一方左の写真は堂々たる『赤』が映っています。どうです、この胸騒ぎがするような赤。
こちらは自分で見たわけではないので、勝手に『空が怒っている』でも『天が嘆いている』とでも言うことが可能です。色を見ながら印象を作り上げていくわけですね。
蛇足ながら、第三京浜を飛ばしてくる時にガンガンかけていた、舘ひろしがリード・ボーカルの『クールス』というバンドが歌った『紫のハイウェイ』という曲が重い浮かびました(恥ずかしいですが)。「背中に受ける、オレンジの輝き、黒いマシンに、命預けて、」という危ないロックンロールでしたけど。
ところで皆さん、この二枚。どちらかが夕焼けでどちらかが朝焼けです。お分かりになる方はコメントに書き込み下さい。正解の方には抽選で仮想通貨 100万ソナー・ダラーを贈呈しましょう。
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喜寿庵のバーベキュー
2015 JUL 20 21:21:57 pm by 西 牟呂雄
学生さんが大勢訪ねて来てくれて、庭でバーベキューをやりました。普通は炭を起こして火を煽いだりしなければならないのですが、ここではめんどくさいのでガスでガーッと焼いてしまいます。後片付けも楽ですし。
北富士総合大学(仮称)は学生数3000人の大学。初等教育がスタートで『市民と共に』発展したローカルな大学でしたが、昨今の国際化対応で中国・湖南師範大学(毛沢東の母校か?)と協定を締結したりカリフォルニア大学とも交換留学したりしています。
学生は概して真面目。地方都市で選抜試験が受けられるユニークな方法を取るため全国から学生が来ており、男女半々くらいの比率のようです。。
地域交流サークルを作っている子が中心になって、楽しそうに肉を焼いたり野菜を切ったりしていました。オジサンは無論ビール・ビール。
話している内に面白いアイデアが出ていました。
富士山が世界遺産に認定されてから富士山に最も近づける電車として山麓鉄道(仮名)は人気があり、喜寿庵の前でカメラを構える『撮り鉄』も多いのです。最近は乗客に外国人観光客が増加しているとか。富裕層は新宿あたりからツアーバスに乗って富士五湖・五合目まで行ってしまうが、そうでもないクラスの人達はこの電車でトコトコ観光に来るのですね。昔で言うバック・パッカーのようないでたちらしい。
そこで北富士総合大学の学生のサークル活動として、海外交流をしたいメンバーが、大月駅から富士山周辺のボランティア・ガイドを請け負って、場合によっては一晩泊めてやるようなことはできないか、と言う話になりました。
そうしょっちゅうやられても困るが、四年後の東京オリンピックがあるではないですか。ズッとオリンピックを観戦する富裕層は関係ない。好きな競技だけを応援した後、観光で世界遺産を見るような学生だけをターゲットにし、インターネットにでも載せておけばそれなりの数が集まるのではないでしょうか。オリンピックは終わればインバウンド効果も薄れる。即ちビジネスとして雇用することは出来ないわけですから、期間限定の学生ボランティアが望ましい、学生の海外交流にも効果がある、中国人留学生の協力も得られる、その場合二人位ならタダで喜寿庵を使ってもいい、とまで盛り上がったのは良かったのですが。
一人の学生がポツリと言った。
「オリンピックは8月ですよね。僕達夏休みでみんなウチに帰ってるんですよ。学生がいないんじゃないですか?」
ところで、喜寿庵付属ネイチャー・ファームのジャガイモがついに収穫の時を迎えて、無論バーベキューのポテト・フライにしました。
収穫に当たっては、一株づつ手で掘り出す!芋づる式という言葉がありますが、どうもあれは薩摩芋の方らしく、我がジャガイモは引き抜いた後軍手でゴソゴソ掘り当てないとちゃんと取れない宝探しのような作業です。しかも本当の無農薬の上、直近の長雨があまりよろしくなく一株当たり3~4個の低歩留り。到底損益分岐点を越えられるレベルではない、オッソロシク生産性の低い労働ではありました。
しかし向こう1年ジャガイモを買う必要がない位は採れたのです。
で、その味はというと、ウーン・・炒めたバターの味がしただけだったかな。
来年は倍の生産性と収穫量を目指すぞ!
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喜寿庵の夏休み
2015 JUL 18 0:00:36 am by 西 牟呂雄
梅雨が明けると夏休み。子供の頃の実感だった。
普段は下町の喧騒の中で過ごしていたから、小学校低学年はもっぱら喜寿庵に一ケ月くらい来ていた。
毎日毎朝起きると、その日に何をして遊ぶかは大問題だった。というのも周りには友達は誰もいない。母親と祖母と妹で過ごしていたからだ。当時は高度経済成長の真っ最中で土曜も出勤の世の中だから、オヤジが週末にチョイと顔を出すような余裕が無い。そもそも中央道も無かったのだ。そして祖母は『うるさいから。』等と言って沿線の仲良しの姉(大叔母にあたる)の所にしばしば泊まりに行って帰ってこなかった。夜なんかは暗くて怖かった記憶が微かにある。
芝生に寝転んでいると体中に蟻が這い上がってきたのが気持ち悪い。実は白状すると虫が怖かったのだが、やっと慣れた後には一匹の蟻を見つけてどこまで行くのかズーッと後を追ったりした。蟻の巣なんかは格好のオモチャで踏んづけて埋めてみたりして又巣を造るのを長いこと見ていた。蟻の行列なんかはどこからどこまで続くのかセッセとついていくのだが、大抵分からなかった。蟻を捕まえてアリジゴクの巣に入れてみたり。
捕虫網で蝉をつかまえるのもスリリングな遊びで、羽の透き通ったミンミンゼミは捕れず、アブラゼミばかりだった。虫籠に入れておくと一晩で死んでしまう。そして蝉になる前は何年も土の中にいることを聞かされて捕るのを止めたっけ。
桂川に降りていくと地元の子が結構泳ぎに来ていておにぎりを食べていた。今の僕を知る人は信じられないだろうが、自分からその中には入れない。まぁ子供の世界も閉鎖的なところもあるのだが、やや臆するところもあって、視界に入らないくらいまで上流に行ってからバシャバシャ泳いだ。川の水は冷たくて10分も浸かっていると唇が紫色になるくらい冷える。川原の大石は逆にカンカンに照らされて熱くなっているから、水から飛び出してしがみついたりしていた。この時の記憶に不思議と母親がいない。喜寿庵から水着で行ったことは覚えている。あんなチビを一人で川原で遊ばせて心配ではなかったのか。別の機会に溺れかけたことは書いた。
この風景を撮りながら今の子供は川でなくプールじゃないと泳がないなと思っていたら、中学生くらいの男の子達が7~8人川原に来て辺りをはばからずに裸になって今風の水着に着替え、そのままバチャバチャやりだした。こういうのもいるんだ、楽しそうだなぁ。
数学者の藤原正彦先生の著作で、数学や自然科学というのは幼少時の情緒が大切で、美しい自然に囲まれ清流のせせらぎが聞こえるような環境が望ましい、とある。それなりの情緒をたっぷり味わったはずだが、なぜかこのような人間ができあがったのかは謎としか言いようが無い。まあ、何事にも例外があり、このあたりから科学者がウジャウジャ出た、という話も聞いたことがない。
ところで、居る間中悩まされたのは蚊だ。特に足首とか手の指の間とか信じられない所まで刺された。引っ掻いているとプクンと膨れる。更に掻きむしると肌が剥けて瘡蓋になる。それをまた掻くと血が出て最後膿む。
僕も妹も母もよく刺されるのだが、不思議と祖母は見た限りでは殆ど刺されることは無く、蚊のヤツも新しいのが来ればそっちの方がオイシイと思うのか、と思ったものだ。
庭でやるので大きな打ち上げではなく、手に持つタイプ。もちろん線香花火も。一度地面に立てて着火させるヤツが耳の側をかすめて翌日までキーンといった耳鳴りがしていた。怖かった。
目も眩むような光や火薬の匂い、地面に置いてグリーンの火花が吹き上がるドラゴン、そして線香花火が大好きだった。そして花火をやっている間はその硝煙で蚊が来ない。
そういえば蚊帳を吊って寝ていた。
赤とんぼが飛ぶようになると山を下りて東京へ帰る。ようやく、近所の子供達とも顔見知りになれたのに、だ。
これが実に憂鬱な気分なのだ。今なら中央道で小一時間で帰れるのだが、随分と長い時間列車に揺られて帰京する。リュックサックを背負いくたびれ果てて御茶ノ水の駅を降りた時に『なんだ、まだこんなに暑いじゃないか。』と思ったもんだ。
そして遊びすぎなのか、毎年新学期が始まると熱を出し(仮病じゃない)目が結膜炎になって休んでしまっていた。
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話芸の間 圓楽と小遊三
2015 JUL 16 23:23:44 pm by 西 牟呂雄
チョイと一席聞いて来たんですがね。
いや時節柄、体調を崩した歌丸師匠が本日(7月11日)退院なさったそうで、よろしゅうございました。
何しろガリガリなところに持ってきて腰なんざ何度も手術なさってチタンが入ってたそうで、しかも長年座っての商売なんでそのチタンが曲がっちまったってんですからご苦労さんですよ。
高座で皆さん散々ネタにしてました。笑点は人気番組ですが、最初のレギュラーの唯一最後の生き残りだそうで、思えば長いお勤めですよ、これ。お酒は召し上がらないとか。
そして知りませんでしたが、歴代の大喜利の司会者ってのはみなさん下戸なんですって。初代はガキの頃みてました談志師匠。『何を飲みますか。』とか聞くと『テキーラくれ。』とか大声を出しますが口をつけるだけ。次の三波伸介さんも全然とか。先代圓楽師匠もダメで歌丸師匠です。
この番組は当初は談志師匠の毒が強すぎて、又メンバーも同世代のせいか火花が散るようなスレスレのネタが刺激的だったですな。歌丸師匠なんざどっちかって言いますと一服の清涼剤的な軽い扱いで、本人もヘラヘラ・キャラを積極的にやってました。
本日は三遊亭圓楽師匠が中を取りました。下町深川出身の若手ももう65歳!あちこちガタがきている話をネタにした後に古典『疝気(せんき)の虫』をやりました。
コレ、気の毒なので名前は控えますが寄席場では自然に前座と聞き比べることになります。前座も十分稽古して言いよどみもなく見事に話すのですが、圓楽師匠とは受けが全然違う。前座の方は受ないとやや焦り客をいじる。一生懸命やっているんですよ、でもその差は歴然。
『間』が取れないんですな。情けない表情を作るにも、最初からやるのではなくて間を取ってから次第に顔をつくる、とか。これはこれでキャリアが必要なんでしょう。度胸が据わる、とも言います。
さて、大トリは小遊三師匠。この人、よく出身地の山梨県大月をネタにしますね。実は喜寿庵は大月と富士山の途中にあって、その地縁でウチのオヤジとは顔見知りでして。『あ、こりゃ会長。』『ヨッ、噺家。』とかやってました。なぜ会長なのかは誰も知りませんでしたがね。
芸風は『荒物』。人情話をしみじみ語る方じゃなくてガサッと語る、昔で言えば林家三平とか月ノ家円鏡師匠の流れですね。
小遊三師匠も酒は相当なものらしく、ビールで始まり焼酎のお湯割りを飲みウィスキィをロックでやるらしい。何だかどこかで聞いたような。
この方トランペットもやっていて、オイランズ(花魁)という落語家ばかりのディキシー・ランド・ジャズ・バンドをやったりもします。
若い頃の噺はただワァワァやっていましたが、上手くなりましたね。
お題はマズいことに古典の『替り目』。酔っ払いの噺で泥酔したオヤジとカミサンの掛け合いが面白くてゲラゲラ笑っていたが・・・・、その・・・、我が身を振り返るとナンでして・・。
良く聞いているとこの噺、酔っ払いは喋りすぎるからドツボに嵌っていくんですな。
わかったぞ!泥酔したら余計なことを言わなければいいのだ!
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嗚呼 どうしたファイターズ!
2015 JUL 15 19:19:46 pm by 西 牟呂雄
再び決戦の日がやってきた。実力日本一、博多の鷹が北海道に現れた。しかし戦局ここに至りて無念ながら我が最大・最強の切り札の大谷を先発投入できない。だが、地元でそう簡単に白旗を揚げることなど当然無理な話である。
中島大兄言うところの『訳も分からず強い今年のホークス』は正直戦力に優る。栗山監督はどういう采配を振るうのか、どのタイミングで試合を捨てるのか、僕は固唾を呑んで臨んだ。
すると昨日はどうしたことか。2アウト満塁からアノ武田が中田・近藤と連続押し出しという信じられない展開。結局試合はこれで決まった。ヨシヨシ。
宮西が出てきた所で一瞬ヤバいという予感がしたが、珍しくホークス打線が低調で助かった。
本日については上沢では途中で捕まるだろうから、こっそり栗山監督に『中継ぎで3回大谷に投げさせろ。』と秘策を授けておいた(テレパシーで)。立ち上がりが必ずしも良くない大谷はリリーフには向かないと踏んだのだ。上沢の防御率は4点台だし。
で、初回に陽岱鋼の3塁打で2点を取ると、案の定次の回には李に一発喰らう。
5回には満塁のピンチまで行くが何とか凌ぐ。
その裏、バンデンハークを打ち込んで追加点(中田は併殺だったが)。
ヨシッ上沢よくやった。大谷だ!と普段の2倍の出力でテレパシー送ったが谷元だった、栗山監督も頑固だな。ここで軽く1点献上して同点。
敵は寺原を投入してくる、何と贅沢な層の厚さだ。こちらは鍵谷で内川・李と打たれて松田のホームランを呼び込んでしまった。万事休すだぁ。
その後はご承知の通り打線の爆発も無く、中島さんの言った通りに負けてしまった。
だが、我々の作戦はあくまでCS狙いなのは変わらない。オール・スター前の決戦で5分ならば良しとしよう。
しかし栗山監督もたまには僕の言うことを聞いて欲しいもんだ。
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心優しい主夫 スタン・ハンセン
2015 JUL 14 17:17:42 pm by 西 牟呂雄
ブル・ロープを振り回しながらテーマ曲に乗ってリングに突進。高々と腕をさし上げた先には人差し指と小指を立てたテキサス・ロングホーン。「ウィー!」の声で吼えれば観客は大喜びだ。
プロレスの名門の感があるウエスト・テキサス大学卒業で、フットボールのボルティモア・コルツやサンディエゴ・チャージャーズに入団する。フットボールでは芽が出なかったが、その後は中学の先生となっていたところテリー・ファンクに誘われてプロレス入りする。
僕が彼の名を知ったのは、ニューヨークで『マジソン・スクェア・ガーデンの帝王』と言われたブルーノ・サンマルチノの首をウェスタンラリアットで折ったというニュースだった。当時はラリアットのことを『投げ縄式首折固め』等と東京スポーツは書いていたが、どんな技かは分からなかった。
その年アメリカをウロついていたのだが、ニューヨークでは日本のスポーツ新聞のようなものに首を固定されたサンマルチノの写真が出ていたので思わず買った。入院して2ケ月の長期欠場となっていた。
事の真相は急角度のボディスラムで首をおかしくさせその後にラリアットを連発するというプロレス界の掟破りだったようだ。あんまり器用じゃないグリーン・ボーイのチョンボだったらしく、直ぐにニューヨークからは離れることになった。
その後、新日本に現れて日本でブレイクした後はご存じの大活躍、『不沈艦』と呼ばれた。このニックネームもイマイチなので、僕は密かに『モビィ・デイック』と言っていた、これいいでしょ。
ヒールだが凶器など使わないハンセンはブレイクし人気者になる。アンドレ・ザ・ジャイアントとの試合も組まれた。そして当時盛んに行われていた引き抜き合戦で、全日本の最強タッグ選手権に姿を現す。ブルーザー・ブロディ(キング・コング)ジミー・スヌーカ(褐色のアポロ)組のセコンドとして出てきた試合をテレビで見ているが、解説の故山田隆氏が『あれはハンセンですね。スタン・ハンセンですよ。』と言ったのでビックリした。相手はファンクス。
極度の遠視で、あのムチャな暴れぶりは目の前が良く見えないからだ、という説がある。
それにしても全盛時代のウエスタン・ラリアットは長州力や阿修羅・原がリング上で一回転してしまう破壊力があった。僕はビデオで何回も分析して、ロープから返ってくる相手の選手が何歩足を運ぶ時にヒットするかを数えたが、平均2歩未満だ。あれではやられる方はハンセンの腕がほとんど見えなかったと思う。
ジャイアント馬場とも非常にいい試合をしている。
そのハンセン、実は二度目の奥さんは日本人のユミ夫人だ。きっかけは友達に誘われたハンセンのサイン会へ行った時にハンセンが見初めたのだとか。まだ10代と子持ちバツイチの悪役。毎日の移動やアメリカとの往復の最中にどうやって口説いたか知らないが結婚にこぎつけ、お子さんも生まれた。前妻との間に長男長女、お二人にも次男次女。次男のシェーバー・ハンセンが野球選手でシアトル・マリナーズにドラフト6位指名されたが今でも活躍しているのだろうか。
そのハンセン家は現在ユミ夫人が心臓外科専門の看護師として働きスタンは主夫をやっているのだとか。あまりの激しいファイトで体はボロボロ、両肩、両膝は人工関節で満足に働けないのだ。そこで40歳を過ぎてから看護学校に通い資格を取ったユミ夫人は偉い。
ハンセンは炊事・洗濯に掃除までをこなし、料理の腕前はかなりのモノらしい(ただ、アメリカ人だから味はどうだか)。元来不器用だったハンセンがセッセと包丁を使っている所なんか微笑ましい。
夫人の影響もあるだろうが、大変な親日家。故ジャンボ鶴田とはデヴュー前のファンク道場でトレーニングした仲で、親友だった。
ジャイアント馬場の3回忌に来日しリングに上がって引退のテンカウントを聞いた。
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