喜寿庵の夏休み
2015 JUL 18 0:00:36 am by 西 牟呂雄
梅雨が明けると夏休み。子供の頃の実感だった。
普段は下町の喧騒の中で過ごしていたから、小学校低学年はもっぱら喜寿庵に一ケ月くらい来ていた。
毎日毎朝起きると、その日に何をして遊ぶかは大問題だった。というのも周りには友達は誰もいない。母親と祖母と妹で過ごしていたからだ。当時は高度経済成長の真っ最中で土曜も出勤の世の中だから、オヤジが週末にチョイと顔を出すような余裕が無い。そもそも中央道も無かったのだ。そして祖母は『うるさいから。』等と言って沿線の仲良しの姉(大叔母にあたる)の所にしばしば泊まりに行って帰ってこなかった。夜なんかは暗くて怖かった記憶が微かにある。
芝生に寝転んでいると体中に蟻が這い上がってきたのが気持ち悪い。実は白状すると虫が怖かったのだが、やっと慣れた後には一匹の蟻を見つけてどこまで行くのかズーッと後を追ったりした。蟻の巣なんかは格好のオモチャで踏んづけて埋めてみたりして又巣を造るのを長いこと見ていた。蟻の行列なんかはどこからどこまで続くのかセッセとついていくのだが、大抵分からなかった。蟻を捕まえてアリジゴクの巣に入れてみたり。
捕虫網で蝉をつかまえるのもスリリングな遊びで、羽の透き通ったミンミンゼミは捕れず、アブラゼミばかりだった。虫籠に入れておくと一晩で死んでしまう。そして蝉になる前は何年も土の中にいることを聞かされて捕るのを止めたっけ。
桂川に降りていくと地元の子が結構泳ぎに来ていておにぎりを食べていた。今の僕を知る人は信じられないだろうが、自分からその中には入れない。まぁ子供の世界も閉鎖的なところもあるのだが、やや臆するところもあって、視界に入らないくらいまで上流に行ってからバシャバシャ泳いだ。川の水は冷たくて10分も浸かっていると唇が紫色になるくらい冷える。川原の大石は逆にカンカンに照らされて熱くなっているから、水から飛び出してしがみついたりしていた。この時の記憶に不思議と母親がいない。喜寿庵から水着で行ったことは覚えている。あんなチビを一人で川原で遊ばせて心配ではなかったのか。別の機会に溺れかけたことは書いた。
この風景を撮りながら今の子供は川でなくプールじゃないと泳がないなと思っていたら、中学生くらいの男の子達が7~8人川原に来て辺りをはばからずに裸になって今風の水着に着替え、そのままバチャバチャやりだした。こういうのもいるんだ、楽しそうだなぁ。
数学者の藤原正彦先生の著作で、数学や自然科学というのは幼少時の情緒が大切で、美しい自然に囲まれ清流のせせらぎが聞こえるような環境が望ましい、とある。それなりの情緒をたっぷり味わったはずだが、なぜかこのような人間ができあがったのかは謎としか言いようが無い。まあ、何事にも例外があり、このあたりから科学者がウジャウジャ出た、という話も聞いたことがない。
ところで、居る間中悩まされたのは蚊だ。特に足首とか手の指の間とか信じられない所まで刺された。引っ掻いているとプクンと膨れる。更に掻きむしると肌が剥けて瘡蓋になる。それをまた掻くと血が出て最後膿む。
僕も妹も母もよく刺されるのだが、不思議と祖母は見た限りでは殆ど刺されることは無く、蚊のヤツも新しいのが来ればそっちの方がオイシイと思うのか、と思ったものだ。
庭でやるので大きな打ち上げではなく、手に持つタイプ。もちろん線香花火も。一度地面に立てて着火させるヤツが耳の側をかすめて翌日までキーンといった耳鳴りがしていた。怖かった。
目も眩むような光や火薬の匂い、地面に置いてグリーンの火花が吹き上がるドラゴン、そして線香花火が大好きだった。そして花火をやっている間はその硝煙で蚊が来ない。
そういえば蚊帳を吊って寝ていた。
赤とんぼが飛ぶようになると山を下りて東京へ帰る。ようやく、近所の子供達とも顔見知りになれたのに、だ。
これが実に憂鬱な気分なのだ。今なら中央道で小一時間で帰れるのだが、随分と長い時間列車に揺られて帰京する。リュックサックを背負いくたびれ果てて御茶ノ水の駅を降りた時に『なんだ、まだこんなに暑いじゃないか。』と思ったもんだ。
そして遊びすぎなのか、毎年新学期が始まると熱を出し(仮病じゃない)目が結膜炎になって休んでしまっていた。
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Categories:和の心 喜寿庵