Sonar Members Club No.36

月別: 2015年12月

悪戦苦闘物語 (今月のテーマ 振り返り)

2015 DEC 30 21:21:47 pm by 西 牟呂雄

見るのもいやな食べ物
 子供の頃、本当に幼い頃の記憶だが、蟹の缶詰を見た。缶詰には横一杯に八本の足を広げた蟹があった。一目見た時からなんて薄気味悪い生き物なんだと怖くなった。そしてそのオレンジ色への恐怖感が刷り込まれ、その色合い(以前も書いたが私は色覚異常だが)のモノが食べられなくなった。蟹・海老・人参、従って天丼と蟹玉もだめ、人参はかろうじてカレーで克服した。海老のおかげで似たような食感の物も好きではない。これは大変に不幸なことではないだろうか。
 同じような視覚によるショックで明太子も長いこと食べられなかった。

二度と思い出したくない記憶
 この年になればそれなりにマズかったことはいくつもあるが、実に苦々しいことはやはり人を裏切った経験だろう。何度かある。原因は今から考えると私の説明不足と曖昧な態度だったと考える。相手も相手だったのだが、ここでクドクド述べるのは本意ではない。
 しかしながら少なからず恨みも買っただろうし、未だに僕のことを許せない奴はいるに違いない。だけどこっちだって今度会ったらただじゃおかないからな、とだけ言っておこう。嫌いな人間が増えるたびに人から嫌われていると思うようにしている。オマエだ!おまえの事だ。
 えっ?お前もだ?すいません。
 そう言えば最近人見知りがひどい。

死にかけたと思った時
 バイクで事故っている。しばらく気絶していたが蘇生して、その時は『シマッタ』と思っただけだった。だが後日現場に行きマシンの残骸を引き上げさせられたので(廃車処理するにも捨てて置けない)覗き込んで改めてゾッとした。浅い谷底なのだが大きな石が転がっていて、将に危機一髪だったのだ。
 その直後、てっきり胃痙攣を起こしたと思い金曜の晩から月曜の朝まで苦しみ抜いた。水一杯飲んでも戻してしまう。ただお風呂に入っていると痛みが和らいだので入っては戻した。結局急性膵炎というアル中にでもならなければ滅多に発病しない病気で入院。医者からは『もう一生酒は飲めない。』と言われた。当然無視して今日に至っている。
 これに近い症状を怖いことに東南アジアで発症したことがある。ご承知の通り東南アジアのトイレ事情はひどいもので、戻すたびに『この汚い所で死ぬのはイヤだ』と心から思った。30分おきに吐いてしまうので鼻の粘膜が破れサーッと鮮血が流れた。ついに胃が破裂して吐血したかとビビッた。当時マレー・エリアからの帰国便は真夜中離陸が多く、ズーッと苦しみながら乗った。喉が渇いて堪らず、コーラをもらってトイレでうがいをすると少し楽になる。明け方、成田に着く頃に回復しCAさんにお湯を貰ったら飲めた。これで生きて帰れると本当に涙ぐんだ。

近づくのもいやな場所
 これはやはり記憶からくる刷り込みだろう。大概大恥をさらした恥ずかしい思い出とセットになっている場合が多い。私の場合はまず交番、そして職員室。どちらも胸が悪くなるほどのイヤな思い出が詰まっている。すべて自分が原因だが、満座の中で私が怒られ、マヌケな言い訳をしてドツボに嵌まり最後は俯いて黙ってしまう、オー恥ずかしい。そして最後は悲しくもなった。
 もう一つ、地下鉄〇〇〇線の✖✖✖✖駅。
 駅の伝言板、と言っても携帯ですむ今の人は分からないか。待ち合わせなどで都合が悪くなると『先に行きます』とか『もう帰ります』等と書き込む黒板が設置されていたのだ(今もあるかな)。そして当時✖✖✖✖駅の伝言板にはしばしば『國◎参上』と記されていた。これは硬派の気概と無類のケンカ強さで都下にその名を轟かす◎◎館高校のアニさんが『ここはオレ達のナワバリだ。そこらのチンピラでかい面するな』の警告サインとして知られ、都内の主要ターミナルでも良く見られた。その実力はずば抜けており、辛うじて対抗し得るのは民族教育一本槍の△△高校生だけと言われていた。それをこんな相手もいないヤワな駅で何をいきがってるんだ、とばかりに僕はその伝言の横にバカとかアホと書き込んでおちょくって遊んだ。
 それがある午後の授業をサボッた帰りに駅で例の書き込みがあったので、ワハハとばかり”國◎”のところに✖を付け、さて何と書こうかなと佇んだところ、只ならぬ気配を感じて振り返った。そこにはガッチリとオール・バックに頭をキメた黒い蛇腹の制服が二人・・・・。後は言いたくない。以後卒業まで通学経路を変えた。

いつまでも続くような冗談のような暮らし
 オレがまだ若かった頃。突如カミさんがケッタイな病気になり長期入院治療となった。ガキはまだ中学生であちこちの助けを受けながら二人でナントカ暮らした。朝はお茶漬けばかり、夜は外食、ついにネタがなくなって六本木の飲み屋に連れて行ったこともあった。あれは教育環境として大変よろしくなかったと反省している。コッチはすぐにデキあがってしまい、まるでガキの方が保護者のようだった(店の人の談)。
 ウチの中はグチャグチャ。キッチン・テーブルは簡易卓球台になり洗濯物はウチの中に干しっぱなし。あまりにオレが酒ばかり飲むものだからガキは酒瓶を隠し、それを見付けられたら飲んでいいというルールまでできた。大体二人とも金銭感覚が無く(ガキはしょうがないが)気が付けば全て飲み食いに費やしてしまい床屋にも行けなくなった。
 一応分担を決めて掃除はするのだが、お互いの手抜きがミエミエでまるでゴミ箱をひっくり返したような暮らし。
 ある晩酔っ払って帰ってみるとガキの部屋からジャラジャラ音がする。中学生が麻雀をやっているのだ。しかももう夜中だ。幸い住んでいた所はワン・フロア・マンションだったので近所からはクレームが来ないが、うるさくて眠れない。よっぽど『うるさいから雀荘に行け』と言いそうになったが、奴等が中学生なのに気が付いて止めた。
 このマヌケな暮らしは三ヶ月続き、更にもう一度やることになる。

気が狂いそうな夜
 中学半ばから4~5年、創造的な考えを巡らせることができなく、何もかもがうまくいかなくなっていた。昼間はギャアギャアはしゃぎまわりバカ騒ぎに明け暮れたが、寝る前に時々『うわぁー!』と叫びたくなる衝動にかられるともう眠れなかった。翌日学校に行くとその反動で授業中に寝てばかりいた。即ち心の病でも何でもない訳だ。おかしなもので大音量で大好きなローリング・ストーンズを聞くと眠れる。それ以外目を閉じようがラジオを聞こうが、タマに勉強しようが眠れない。あれは一体どういう精神状態だったのか。何をやる気にもなれない。何事にも夢中になれない。もしかしたら、こういう精神状態で朝になったら人は発狂してしまうのかと本気で怖かった。
 うつ病とは違う。人とは平気で話せたし、割りに親切だった。
 硬派を気取ってみて訳も分からず右傾化してしまい、ついでにテレビで見たキャロルにイカれてリーゼントにしたらチンピラに殴られた(上記、地下鉄〇〇〇線の✖✖✖✖駅)。
 時を経、酒の味を覚えてから開放された。従って今でも禁酒するといつまたそうなってしまうのか恐怖する。
 途中体調の都合で連続して飲めない時期には薬を処方してもらって(上記入院時)眠れたが。
 あの時期は一体何だったのだろう。ひょっとして当時は狂っていたのだろうか。

 しかし良く無事に還暦を乗り越えた。これからも油断せずにまじめにやろうっと。

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年末 酔夢譚

2015 DEC 29 2:02:49 am by 西 牟呂雄

 忘年会を精力的にこなしている。バカの一つ覚えのようにビールをガブ飲みしてから焼酎のロックをガンガンやる。が、先日SMCメンバーのハリーさんに連れて行ってもらった都内某所はなかなか味があった。

アルミの急須

アルミの急須

 店主のこだわりらしい。生は置かずに瓶のビールでコップも小さい。狭いお店なのだが6時前にもう一杯で、それから帰るまでズッと満席だった。それも一人で入ってくるオヤジが圧倒的に多く、みんな相席で静かに飲んでいた。
 焼酎もお湯割りしか出さない。暖めた徳利に焼酎が、そしてご覧のチープ感溢れる急須にお湯が入っていて、お猪口にチョビッと焼酎を注ぎお湯割りにする。必然的にチビチビとしか飲めないところが実に良かった。

 さて次は九州まで足を延ばし盟友中島兄を訪ねた。
 因みに僕は九州に行くのに新幹線を使う。それはスモーキング・ゾーンがあり、缶ビールも車内販売されるからだ。従って失礼ながら中島さんにお目にかかった時点で大分酩酊してはいた。
 そして順調に焼酎を空け水炊きをつつき、昨シーズンのホークスVSファイターズの死闘を振り返り互いの健闘をたたえ合った。
 しかしやはりハイライトはSMCメンバーが観戦した対オリックス戦。金子復活のはずがホークスの殺し屋『柳田』にブチ壊されたあの試合だ。同行した中村兄の呆然とした写真が残っている。

 翌日移動してもう一度気合を入れて忘年会へ。そういえば去年もこのパターンで別府酒池地獄に沈んだ。結論から言えば今年はもっとヒドイことになった。近隣の某温泉(恐くて名前を書けない)までわざわざ行き、今時昭和丸出しのドンチャン騒ぎに。しかもカラオケという迷惑なもののお陰で年甲斐もなく暴れた(歌った)。更にここだけの話、オッサン達がプロレスごっこに興じるのは滅多に見られるもんじゃない。IMG_0176

 そうなる前にゆっくり浸かったこの温めの露天風呂は気持よかった。一人で入っていると手足が小さく痙攣するようで物凄く気持ちがいい。
 そこで思ったのだが、人間いや生き物というものは何と緻密にできているのだろう。何億年もかけてモノを考えられるように進化して今日に至り、ニュートリノだの何だのまで熱心に研究する。一方宗教・神学も深くスピリチュアルな領域にまで深め、全く偉大な造形物と言わざるを得ない。
 それがプロレスごっこに枕投げでは・・・。

 この温泉は明治の元勲である品川弥二郎を祀った品川神社の跡らしい。それがどうしたと言われても困るが、この曲ならご存知のはず。

宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの  錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレトンヤレナ

 幕末の東征軍がはるばる東海道を攻め上って来た時に行軍で歌われた『トンヤレ節』である。脱衣所にあった説明書きによれば、この日本初の軍歌の作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎とか。本当だろうか。
 
 結局何もしていないくせに都合10回近く忘年会をやってしまった。少なからずアチコチにトラブルを持ち込んだ報告が上がり出した。年末年始は少し休もうっと。
 
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早咲き日本一の桜

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶー翻訳の味ー

2015 DEC 25 8:08:04 am by 西 牟呂雄

 鉄血宰相ビスマルクの言葉として有名だ。原文の直訳は『愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。』となっているそうだ。因みに通常使われているのは英語版『Fools say they learn from experience; I prefer to learn from the experience of others.』の訳なのだが、別段”ヒストリー”の単語が入っていない。こういうのは誤訳というより『超』訳とでもいうべきか。
 翻って提題の名言も『他人の経験』とやってしまうと味も素っ気もなくなる。『歴史』とすれば何やら地政学を彷彿させて暗示的だ。
 例えば昨今の中東の奇怪さは、宗教・民族が複雑に絡み合いおまけに大国の思惑が露骨に出る。偉大な宗教を輩出させたエリアでもあり、しばしば大帝国を創り上げる。ゾロアスター教を信仰していたペルシャはアケメネス朝からササン朝までマケドニアには負けたもののその後ローマと対峙する。イスラム化してからはサラセン帝国として唐とも戦争する。その後十字軍と戦うセルジュク朝になってオスマン・トルコで今世紀に至る。帝国主義の戦争を経て、ヨーロッパの大国がメチャクチャな国境を引いたのが今日の混乱の基であることが良く分かる、『歴史に学ぶ』べし。

『余の辞書に不可能の文字はない』有名なナポレオンの言葉だが、原文は『Impossible, n’est pas français.』である。インポッシブルはフランス語でも同じ綴りなのでややこしいが、直訳してしまうと「不可能、それはフランス(語)(的)ではない」となってしまってつまらない。これにも『余の辞書』といった言葉などはない。
 しかし、自信過剰気味のナポレオンは普段から盛んにこういった事を喋った形跡があって「不可能と言う文字は愚か者の辞書にのみ存在する」と言ったとも。あれこれ似たようなセリフをまとめてこの訳になったらしい。要するに部下から『できません!』と報告を受けるのが大嫌いだったものと思われる。
 ピラミッドの前で『兵士諸君、四千年の時が諸君を見下ろしている』とも言った。ただ、四千年は原文では四十世紀となっている、どうでもいいか。

『このまま行こうか、返ろうか』何のことだか分かるまい。しかしこれ、皆さんご存知の有名なハムレットの台詞と言ったら気が付くだろうか。無論、原文は例の『To be, or not to be? That is the question.』。昨年ブログ仲間の早野さんが出た斬新な演出(ロシア人の演出家)の時の訳だ。実際にはセリフは長い独白の一部で、普通はここの部分はたっぷり”間”を取る。しかしその舞台ではサラッとやっていて新鮮だった。
『国民政権、それも国民による国民のための』これはどうか。ハイ、ゲティスバーク演説。  
『ダイスを転がせ』『君さえも』これらはもっと造ったがネタバレだから止めた。シェークスピアのジュリアス・シーザーの・・・。

 11月29日の日経文化欄(最後のページ)に翻訳家の柴田元幸氏が『行司差し違い』と題して誤訳とも何ともつかないコトバの妙について書いている。翻訳者の解釈・個性が出ていいそうだ。
 先日、この人が字幕を担当した『ソウル・ライター』という写真家のドキュメンタリー映画を見た。『魂の書き手』ではなく人の名前だ。イギリス人が監督した作品。ここだけの話面白かった。
 ユダヤ系アメリカ人なのだが、凄い名前だ。ライターは『Liter』だったけど。本人はジイ様で既に故人だが撮影時は80歳位らしい。2年程かけたドキュメンタリーで、いつも同じようなシャツを着て部屋の中でもマフラーをしている。写真家としてのこの人を知らないが、ものすごく散らかったニューヨークの部屋でゆっくりと暮らしていた。時々怒ったり笑ったり。字幕を書くのは字数制限があって難しそうなのは見ていて分かったが、抑制の利いた翻訳だと思った。

 訳語も書き手の状況、読み手の感性にもっともフィットしたものが残っていくのだろう。

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ノー・ウーマン  ノー・クライ (No Woman, No Cry)

雨ニモマケズ

喜寿庵の冬支度

2015 DEC 22 3:03:42 am by 西 牟呂雄

ハマユウの冬籠り

ハマユウの冬籠り

南国の 風恋しいか 
ハマユウは
寒さしのげよ
 枯れ葉を寄せる

 ハマユウ(浜木綿)、別名ハマオモト(浜万年青)とも言う。庭の手作り花壇にあるのだが、九州南部や房総といった亜熱帯性の浜に見られる多年草だ。南国の植物なので山の冬はこたえるだろうと冬支度をさせた。しかもこのハマユウは奄美大島産なのだ。なぜか、話はこうだ。
 奄美大島から一人の青年が小学校の教員になるべく、北富士総合大学にやって来る。彼の村の教員がいなくなりそうだったので、費用を村で負担する村費留学によりはるばる山国で勉強に励んだ。その人を私の祖母が何くれとなく面倒を見てやり、お礼に時々庭を掃いたり草取りをしてくれていた。使命感の強い人で必死に勉強していたそうだ。里帰りは多大な出費となるため、夏休みに帰郷することもなく、避暑に来た私なんかともと遊んでくれたりもした。
 卒業後帰島し、晴れて先生になった彼が『お世話になりました』という礼状と共に送ってくれた球根が根付いて、以来冬を越す事50数回。祖母の思い出と共に元気に生えている。青年の名は椎木さんといった。

冬枯れの木

冬枯れの木

 去年は県自体が3日程陸の孤島化する大雪に見舞われた。がしかし今年はもう一つ心配事がある。しばしば目撃された猿の一家だ。5匹も屋根で遊んでいたのが確認されている。冬枯れの中ウロウロされたらどうするか。餌付けも考えたが調子に乗られてもチト困る。何しろ相手は野生だ。先日睨み合いになった時に良く言い聞かせたが、不思議にも説教している間中ジッと目をあわせていたくせに『分かったのかよ』と言った途端に谷を降りて行った。暫く現れていないが、食料が不足すれば凶暴になるかもしれない。せめて番犬代わりにでもなるのなら可愛がり様もあるし、喜寿庵にいる時はいつも一人だから遊んでやってもいいが、飛び掛られたら始末に悪いかも知れず、護身にも気を遣う。そこで万が一に備えて武装した。昔サバイバル・ゲームで使った自慢のエア・ガンを持ち込んで照準を調整した。まぁ役にたたないだろうが。

エア・ガン

エア・ガン

 収穫に失敗した大根は野生化計画に則って、冬篭りのためにネイチャー・ファームを掘り起こす際に一部残した。

 冬枯れに 
  一株だけで
 淋しかろ
 春まで育て 
 残り大根 

 西側の山合の切れ込みは、丁度冬至の日に夕日が落ちるポイントがある。爺様がこよなく愛した光景が、今年もまぶしい。

和の心 (山梨の記録的大雪) 

突然の大雪で遭難か


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秋・喜寿庵10月の花

にっ似ている

2015 DEC 19 13:13:07 pm by 西 牟呂雄

 フトした切っ掛けで気が付いた。yjimageXQ491WLN

 この人は60年代にマイルス・デイビスのバンドに在籍して大活躍したピアニストだと言えばお分かりか。グラミー賞各部門をなんども受賞している『ウォーターメロンマン』。何故か電子工学の博士号も取っている。

 お次はこの人。yjimage[6]

 私と同年でアカデミー賞主演男優賞を受賞(シドニー・ボワチエに続いて黒人男性では二人目)した。彼は苦労人で様々な仕事につきながらニューヨーク州フォーダム大学ジャーナリズム学部を卒業し、俳優の道に進んだ。
 あまりメジャーではないが『タイタンズを忘れない』『ソルジャー・ストーリー』等は大好きな作品で今でも時々DVDを借りる。
 彼の出世作は黒人解放運動の闘士『マルコムX』のマルコム役を演じたのが大きかった。

 そのマルコムX(改名前マルコム・リトル)の珍しいカラー写真はこうだ。yjimage55LOEGNO

 ネブラスカ州のオマハで生まれた。彼の父親はKKKにより撲殺され、母親は精神病院入り。ニューヨークのハーレムでギャングになった挙句に窃盗罪で懲役という凄まじい人生だった。
 獄中でブラック・ムスリム運動に改宗した後、独学で知識と教養を身に付ける。出所後は過激な主張のネーション・オブ・イスラム教団に属した。この人の影響でヘビー級チャンピョンだったカシアス・クレイがモハメド・アリと改名したことは有名。
 しかしその後教団と袂を分かち、教団から狙われる。そして遂に1965年に暗殺されてしまうが、当時からFBIやCIAの関与が噂された。『Black is beautiful』は彼の言葉だ。

 僕はこの3人が良く似ていると昔から思っていたが読者の皆さんはどうであろう。
 見分けがつかない?そうでしょう。実は一人目がデンゼル・ワシントン、次がマルコムX、最後がハービーハンコックなのだ。えっ最初から分かっていた?失礼しました。yjimage[1] (2)

 それではおまけにもう一人。3歳からはピアノを習い始め、ジュリアード音楽院を卒業。その後俳優に転向しレイ・チャールズの伝記映画でアフリカ系アメリカ人俳優としては3人目のアカデミー主演男優賞を受賞したジェイミー・フォックス。似ているでしょう。彼らはその昔は同じルーツだったのかもしれない。さぞ誇り高き部族だったろう。

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日本の仮面は楽し

幕末の八郎

2015 DEC 17 6:06:24 am by 西 牟呂雄

 越前福井藩は幕末四賢侯の一人と謳われてた松平春嶽公が最後の藩主だ。この人は御三卿田安家の八男で越前松平家に養子に入った。幕閣でもあったし徳川慶喜とは従兄弟に当たり、立場上公武合体派だった。激動の時代故に毀誉褒貶はあるものの、まあ会津みたいにやられることもなく維新後も大蔵卿などを歴任する。
 その春嶽公の元で福井藩の財政改革を見事に仕切り、維新後も金融財政政策に関わった由利公正という逸材がいる。五箇条の御誓文の原文作成に参画している。坂本龍馬の船中八策が元になったと言われているが、由利公正は龍馬と大変に親しかった。
 ところで由利公正は維新後の名乗りで、以前は三岡八郎だった。”八郎”だから藩主と同じ八男坊かと思ったら何と長男だった。

伊庭八郎と言われている写真

伊庭八郎と言われている写真

 同じようなケースが幕末の剣豪伊庭八郎。御徒町の剣術道場「練武館」を営む心形刀流宗家伊庭家の嫡男として生まれたが”八郎”である。大変なイケメンだったようで、腕の方も『伊庭の小天狗』の異名を取ったほどの使い手、さぞモテたことだろう。
 この”小天狗”という言い方は同時代の士学館(鏡新明智流。桃井春蔵)にいた上田馬之助という(プロレスラーじゃない)剣豪も『桃井の小天狗』と言われていたようで、どうも大変な称号らしい。他にご存じ北辰一刀流の玄武館にも千葉周作の次男、栄次郎が『千葉の小天狗』と言われた。もう一つ練兵館(神道無念流。斎藤弥九郎。ここで桂小五郎が塾頭をしていた)を加えて江戸の三大道場、あるいは練武館を入れて四大道場と言う。
 さて、心形刀流の得意手は『突き』。八郎もこの両手を一杯に張り出した飛燕の突きの名人だった。ところが幕府軍遊撃隊として戦闘中に左手首を斬られる。その後函館の榎本軍に合流する船中で、このままでは骨が飛び出してしまうと医者に言われ自ら肘から先を切断、以後隻腕となる。両手を使っての突きはできなくなるが、函館遊撃隊隊長として奮戦するも被弾。最期はモルヒネを飲んで自殺した。

怪人 清河八郎

怪人 清河八郎

 末広がりで縁起がいいのか、自ら進んで八郎に改名した人もいる。新撰組を作った男、庄内藩士清河八郎だ。剣は北辰一刀流免許皆伝、学問は江戸昌平黌に学ぶ秀才、将に文武両道の一種の怪人である。尊皇攘夷の志士として虎尾の会を結成するが、メンバーが凄い。旗本直参山岡鉄太郎、薩摩藩士益満休之助等15名。この益満は後に江戸を混乱に陥れるために市中を引っ掻き回し、皮肉なことにこれの鎮圧に当たったのが江戸の新撰組、即ち庄内藩預かりの新徴組だった。新徴組が勢い込んで薩摩藩邸を焼討した時に捕まった危険人物。後に西郷率いる東征軍が江戸に迫った時に、山岡鉄舟が下交渉に西郷を訪ねた時に連れて行った。
 清河は京都まで浪士を連れて行った後、突然『将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒のためだ』と宣言し近藤一派と袂を分かち、江戸に帰ったところを暗殺される。残ったのが新撰組だ。

 話は変わるが、さる忘年会の席で僕の目の前にサイトウゲンジさんなる人物が座った。私の古い友人で、若い頃は大変なイケメン。今でも白髪鮮やかな貫禄充分のオッサンである。実は物凄い秀才だったことも確認されている上に性格も穏やか。私のマヌケな酒にも文句一つ言うことなく付き合ってくれる貴重な友人と言えよう。山形は庄内の出身で最上川下りの話を聞いた。
 何故その話になるかと言うと、清河八郎が改名する前の名前は『斎藤元司』と言うのだ。実家は庄内地方の造酒屋で大金持ち。目の前のサイトウゲンジさんも何やら物腰はやんごとない。そして遂に白状した。
「その斎藤はウチの隣だ。」
 要するに清河八郎の親戚というか末裔というかその筋の人なのだ。
 酒癖の悪い私はうっかり口が滑って北辰一刀流でバッサリやられてはかなわないと深く反省した。往時茫々、世が世ならば一刀両断にされていただろう。

 他に彰義隊の副頭取の天野八郎というのがいる。旗本を自称しているが実際はあやしい。群馬県のあたりの名主の次男坊なのだが町火消の養子になって江戸に来る頃離縁、その時旗本に化けたのではないか。直新陰流の剣術を学んでいた。
 ちなみに彰義隊の頭取は渋沢成一郎といって大実業家渋沢栄一の従兄弟である。
 黒門の戦闘になった時に後ろに誰もついて来ず「徳川氏の柔、ここに極まれり」と嘆いた事になっているが、この点筆者は少々疑っている。負けて市中に潜伏していたところを捕縛されて獄死。

 どうもあんまり縁起がいい名前とは言えないかもしれない。

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七条油小路

そうせい侯  雑感

六方詞(ろっぽうことば)

2015 DEC 14 21:21:49 pm by 西 牟呂雄

 

弁慶の飛び六方

弁慶の飛び六方

 
 歌舞伎『弁慶の飛び六方』は大きく足を上げてスキップのようにダッタダッタダッタと踏み拍手喝采を浴びる見せ場です。ところでなぜ”六方”と言うのでしょうか、真っ直ぐに花道を引くのに。
 同じようなネーミングに『六方詞(ろっぽうことば)』というのがあります。江戸初期に市中を練り歩いては因縁を付けたり暴れまわった旗本奴が好んで使った言葉で「かたじけない」を「かっちけねえ」とか言う関東訛りですね。
 これは今でも下町言葉に残っていて、私なんかも『まっすぐ』を『まっつぐ』と訛ります。『真っ直ぐ行ってくんない』が『マッツグイッチクンネェ(ネェが下がる)』と言う感じで直りません。
 当時の江戸は京阪に比べれば文化的には遥かに及ばず、人だけが武士も浪人も商人も職人もウジャウジャと溢れかえる、活気だけが横溢する街だったでしょう。そんな所にゃ必ず仇花のようなイカレポンチが横行するに決まってます。
 旗本奴の有名な時世が残っています。
 
落とすなら 地獄の釜を 突ん抜いて 阿呆羅刹に 損をさすべい 水野十郎左衛門

わんざくれ 踏んぞるべいか 今日ばかり 翌日は烏が 掻ッ咬じるべい 山中源左衛門 

 「べい!」が効いてますね。

水野十郎左衛門

水野十郎左衛門

 いずれも悪さが過ぎて斬首される時に詠んだ句ですが、いかにもヤクザもんらしい破れかぶれ振りがでています。”わんざくれ”は”どうでもいい”くらいの意味。”掻ッ咬じるべい(かっかじるべい)”とは胸のすくような語感でしょう?この山中源左衛門は四谷の真法寺で切腹したのですが、真法寺はいまでも残っていて、僕は子供の頃に隠れんぼをしたりして遊んだことがあります(墓石に登ったり卒塔婆でチャンバラもしました、ごめんなさい)。

水野十郎左衛門

幡随院長兵衛

 マズいことにこいつ等は直参旗本で家柄はいい。徒党を組んではそれぞれ「大小神祇組」(だいしょうじんぎぐみ)「鉄砲組」「笊籬組」(ざるぐみ)「鶺鴒組」(せきれいぐみ)「吉屋組」「唐犬組」(とうけんぐみ)と名乗ります。このうち唐犬組は旗本ではなく町奴の唐犬権兵衛が親玉で、水野に殺された幡随院長兵衛の系列。まるで今で言うチーマーというか族と言うか。これが全部でで六つで「六方組」と呼んだようです。歌舞伎狂言の白柄の刀、白革の袴、白馬に乗った「白柄組」(しらつかぐみ)は水野の大小神祇組がモデルと言われています。この一味には現役の大名加賀爪直澄(武蔵国高坂藩主)なんかも混じっています。この人将軍家光の下で小姓を務めたり大番頭になったり、しまいには寺社奉行にまで上り詰めました(最後にチョンボして改易、あたりまえか)。
 ”六方”という言い方はここから発祥し、傾奇者・歌舞伎者・婆娑羅者を指す意味になり、それが歌舞伎に残ったものと考えています。どなたか本当かどうか教えていただけませんか。

江戸っ子に伝わる都市伝説


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一昨年には (今月のテーマ 振り返り)

2015 DEC 11 7:07:06 am by 西 牟呂雄

 『振り返り』で過去のブログを見ていたら、2013年にはこんなことを書いて遊んでます。日付に注目。

2015年からの憂鬱 Ⅰ

2015年からの憂鬱 Ⅱ

2015年からの憂鬱 Ⅲ

2015年からの憂鬱 エピローグ

 実際には2015年の夏、上海の株価がガクンと来てヒヤリとしましたが、中国も踏みとどまっています。しかし任期僅かのオバマ大統領が『航海の自由作戦』を始めてしまい、ASEAN会合でもG20でも習近平のひどい仏頂面が目立ちました。G20の方はテロの後だったので各国首脳も話すどころじゃなかったかも知れませんが。それにしても大国のトップたる者、あんなに不貞腐れた顔で壇上に立つもんじゃないと思うのですが。
 そして3年前よりも遥かに悲惨な形でテロが横行するようになりました。EUが揺らいでいます。
 作家の佐藤優さんが積極的に発言している『新帝国の時代』に突入しているかのようです。日本も安保関連法案を成立させましたが、治安に関しては未だ未整備の部分があるでしょう。特に対工作員関連のスパイ防止法は常に問題にされつつ何故か反対に合います。国家が機能しなくなって全く統制が効かなくなればシリアみたいになるに決まっています。ああなっても地続きの国境がない日本は難民になることもできません。管理されるのはあまり良い気持ちでないのは当然ですがある程度は仕方が無い。
 中国は統制を強めています。年間数万件あった暴動のニュースはさっぱり報道されなくなっていますが、私のインテリジェンスでは減っているという話はありません。経済は現実に破綻しているでしょう。政府が必死に取り繕いの金を掻き集め(AIIB等)来年は表向き現状の状態を維持するはずです。しかし7%成長と言っていた頃も実態は3~4%だと噂されていました。そんな所かと思います。
 しかし中国にとってISのテロは遠い中東のことではありません(日本も名指しされていますが)。キルギス・タジク・アフガンは国境を接していてあのあたりの出入国管理は実に甘い。イスラム過激派が逆輸入され(事実ウィグル族がISの戦闘員になっている)パリやイスタンブールでやったようにドカンドカンと始めたら大変なことになるでしょう。治安というものは金のかかるものなのです。中国では今ですら防衛費を上回っているのです。
 どうやらそれなりの中産階級が形成され、ニセモノにあきたらなくなった消費者は日本での爆買いをするのですが、2~3億人の農民工という漂流組は不満が高まっている事でしょう。
 爆買いが出来る層は、どうやら中国で買うと同じブランドでもあまりに贋物が混じっている事に気づいています。更には輸入した場合には関税・流通時の消費税(付加価値税)が掛かって値段は高くなってしまいます。一人当たり数万円の安い旅費で日本にやって来て、化粧品をガンガン買って使い切れずに闇に流せば元が取れるどころじゃない。当分続くでしょう。さすがに一部の輸入関税を下げ、カードの海外使用の上限を設けるようです。キャピタル・フライトの防止ですね。
 しかし一方で『一帯一路』と称して防衛費を増大させ、治安にも多大なコストを掛け続けることは強い経済基盤がなければなりません。南シナ海の埋め立てにしてもタダではできません。
 そこで気になるのは3兆5千億ドルと言われる外貨準備高は本当に米国債といった流動性の高い資産なんでしょうね、という疑問です。これが南シナ海の埋め立てやらアフリカのリスクの高い資源開発になってしまっていたとすれば。そしてアフリカ現地のテロ横行により治安悪化で全てがダメになったら。『航行の自由作戦』で埋め立てた所が無価値になってしまったら・・・。
 この文脈でAIIBの設立などを見るとあまり筋がよろしくないように見えるのですが。

 昨年の初め(約2年前)にこうも書いています。中国はどこへ行くか (5本の柱) 実際昨今の中国は、さながら幾つかの勢力により国内を植民地化して統治している(農民工や少数民族を)と考えると分かりやすい。

 ロシアも腰を上げてISを空爆したからには、相当注意をしておかないと危ないでしょう。モスクワもチェチェン人のテロを經驗していますからガンガン締め上げるでしょうが、こちらの経済も一段と悪い。資源安・ルーブル安・経済制裁の三重苦です。
 更にマズいことに、天然ガスのパイプ・ラインをトルコ経由ギリシャ・ヨーロッパと引く計画が撃墜騒ぎでパァになるでしょう。ロシアがクリミアを押さえた時点で、アッ危ない、近づきすぎる、と思ったのですがこうなってしまった。このあたりで両国は何度も戦っています。
 ロシアが苦境に立てば、伝統的に中国との結びつきを志向します。現に経済制裁後にはいくつかの協定が結ばれました。そして苦境に立つ両国が最もカモにし易いのは他でもない我が国なのです。

 難しい2016年の舵取り。安部総理お願いしますよ。

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Yokohama Yankee 邦題『横浜ヤンキー』

2015 DEC 8 3:03:43 am by 西 牟呂雄

 題名を『横浜の不良』と読んではいけない。明治時代に来日し、五代に渡り日本で生きて来たドイツ系のヘルム家の話だ。著者は四代目に当たる在米のジャーナリスト、レスリー・ヘルム氏。
 氏は日本で生まれ、高校までを横浜インターナショナル・スクールで学び、UCバークレーとコロンビアでアジア研究、ジャーナリズムを専攻した。ビジネス・ウィーク、LAタイムズの記者となり、特派員として合計8年を日本で暮らした経験を持つ。現在はアメリカ国籍で、二人の日本人を養子にした。
 仏墺戦争に従軍経験のある曾祖父ユリウスが来日し、廃藩置県以前に最も早くから洋式歩兵システムを取り入れた紀州藩で訓練を施す。しかし廃藩置県後の武装解除により、当時ヨーロッパ人の多かった横浜に移り事業を起こす。以来ヘルム一族は横浜を中心に根を張る。氏は1955年生まれ、何と私と一つ違いである。元町ですれ違ったかも知れないのだ。
 初代ユリウスは日本人を娶り、従って氏にも日本人の血が流れていることになる。この本には外見が白人ながら日本語も操る作者のアイデンティティーをめぐる葛藤が記されている。
 そういえば私も 異邦人のあれこれ などの経験で、この筆者の心境が多少分かった。ここで言うソフト差別のようなことは散々受けた事だろう。

 ところで『ヘルム』という名前には私の最も古い記憶が刻まれている。
 幼い私は母親に連れられてヨコハマに行き、生まれて初めて白人を見て驚く。そこには小さい子が乳母車のようなチェアに座ってオモチャで遊んでいた。私はそのオモチャで遊びたくなりその子から取り上げようとしたが、拒否されて大泣きする。それを見たかわいい少し年上の女の子が何かを日本語で喋ったので驚いた覚えがある。幼いながらも白人が別の言葉で喋ることは分かっていたようだ。ガレージにフォルクスワーゲンがあったこともはっきり記憶している。
 この記憶は長く眠っており、後年にあれは何だったかのと母親に聞いた。返ってきたのは『あれは横浜のヘルム財閥のヘルムさんの家よ。ミセス・ヘルムにはすごく良くして貰ったのよ。良く覚えてたわね。』だった。
 ミセス・ヘルムはエルベ川の東、イースト・プロイセンのユンカー(貴族領主)の出身で、私の母とは互いに外国語である英語・フランス語で会話したそうだ。ご一家はその後ニュージーランドに引っ越していったと聞いた。
 懐かしさと、もしかしたら私がオモチャを取り上げようとしたのが著者ではないのかと気になってしょうがない。しかし著作を読む限りでは著者には姉はいない様だった。それでも横浜のヘルムさんであることは間違いない。どうしても確かめたくなり、誠に滅多にしないことであるがおおよそ以下のようなメールを編集部に送った。

Dear Mr Helm,
I’m Ken Nishimuro, Japanese.
I noticed your book “Yokohama Yankee”,and now reading.
Because I slightly remember Helm House in Yokohama.
I was born in 1954.
I’m not sure why, but my deceased mother was a friend of Mrs.Helm.
Her name was Atsuko Hiraga.
When I was a little boy, Mama took me to Helm House.
There was a baby, looks like same aged.
I tried to play his toy, but he kept it, so I cried!
At That time Mrs. Helm said “Ken cyan, spoiled boy!”
Also I remember a pretty girl who spoke very beautiful Japanese, may be his elder sister.
Oh yes I watched Volkswagen at the garage.It was my first time to see such a beetle.
If possible, I would like to talk with you someday.
Regards,
Ken Nishimuro

 すると信じられない事に、翌日私のアドレスに本人から返事が来た。

Hi Ken,
It was great to hear from you and to learn of your memories. I am copying Marion, who lives in New Zealand. I think the pretty girl you refer to must be Marion or her older sister.

 マリオンさんはきっと著者のハトコ(従兄弟の子供同士)くらいなのだろうか。実はヘルム家と関わりのあった頃の母には、戦後の大混乱期もあって写真一枚残っていない。ミセス・ヘルムとは何の話を何語で会話したのか興味は尽きない。
 チャンスがあったら著者ヘルム氏と会って話がしてみたいものだ。

ハマのマイクと呼ばれた男

贋作 ジェットストリーム (横浜編)


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たまには と しょっちゅう の間

2015 DEC 5 22:22:10 pm by 西 牟呂雄

 仲間と『しょっちゅう』飲みに行く、とは毎月行くくらいの頻度だろうか。
 ヒラの独身時代はそれこそ週に2~3回、同じような面子で同じ店に繰り出して同じ冗談ではしゃいだ。最も愛好されたのは当時流行った『スネーク・マン・ショウ』のモノマネ、更にヤザワ語の会話にも勤しんだ。実に下らない時間で、あのようなことに稼ぎの大半を費やしたことは恥ずべき行為だったと思っている。当時もウスウス感づいてはいた。
 しかし『来る日も来る日も』はしょっちゅうとは言わんな。

 先日来、カンレキでもあるし『たまには』飲みに行くか、と会ってみたら15年振りの奴がいた。そして来し方を開示すると以外に近い業界やエリアでニアミスしていたらしい。世間は狭いもんでつくづく犯罪を犯していなくて良かった。実は今年はそんなことが重なった。
 それはともかく『たまには』ならば半年、いや一年以上の間が空くのだろう。してみると『たまには』と『連日』の間の広いゾーンが『しょっちゅう』ということだろうか。

 そう言えばワン・シーズンしかできないスポーツ、スキーなんかは1~3月にしかできないが年に2回もやれば『しょっちゅう』の範囲では。ゴルフは年間50回とかやった人を知っているが、3月に一回しかやらない人は『たまには』やるという程度か。

 それで、なんでこの『しょっちゅう』と『たまに』の差が気になるのかというと、巨人の若手の野球賭博問題がきっかけだ。
 大体、芸能人とか相撲取りや野球選手がバクチくらいやって何が悪い。青少年に与える影響だぁ?プロになるくらいの奴はそもそも不良だらけじゃないか。バクチ漬けになって身を持ち崩すのは自分が悪いのであって、当人が責めを負う事で十分だろう。何も社会的制裁を加える必要など感じない。代表辞任なんていうのがオトナの対応なのだろうか。
 アッ麻薬と八百長は一発アウトです。
 この線引きが『しょっちゅう』と『たまには』のニュアンスかと思われる。この世にバクチを打ったことのない人間はいない(少なくともワシは会ったことない)。巨人の3投手は八百長をしたわけじゃない。黒い霧事件とは本質が違っている。ただし、手繰っていったら反社会勢力だったらシャレにはならないけれど・・。
 ズブズブに『しょっちゅう』やっては負け倒して払わなけりゃまずいが『たまには』の程度だったら、許されはしないだろうが罰金くらいで済んだかも知れない。
 そもそもプロになるということ事態、一般とはかけ離れたマレビト、即ち超人だ。一般のファンは人間離れしたパフォーマンスに憧れるのであって素行が悪かろうが頭が足りなかろうが一向に構わないと思うのだ。
 だから『たまには』バクチを打ってもバレた時は頭でも掻いて『いやー、ものすげー負けなんすよー。やったけどもうコリゴリっす。』とでもやればお咎め無しにならないか。・・ならないな・・・。やっぱりバクチはやめましょう、なんちゃって。

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