春の足音 (2月28日 追記)
2016 FEB 27 1:01:03 am by 西 牟呂雄
今年もドカ雪に見舞われたが、やっと溶けてくれるとこんな可愛らしい花が。
この黄色を見ていると食欲が湧くのは何故か。
桜や赤いバラをいくら見ても食べたくならないが、福寿草がおいしそうに感じる僕は変態だろうか。
ところが福寿草はゴボウのように深く根を張り、その根は強い毒性がある。下手にかじれば死に至ると言われる。おめでたい名前にしてはコワい。
風強く 雪まだ残る 山郷に
春呼び込むか 黄色い花は
そしてこの花、太陽が照っていると開き、夜になると閉じるという器用なところもある。
元日草(がんじつそう)とも呼ばれる。今年の旧暦正月は2月8日だったから、将に明けましておめでとうございます、と咲いた訳だ。
雪の下で鮮やかな花を咲かせるべくじっとしていた福寿草のいじらしさに、別に涙ぐんだりはしないが。せめて元気に育つよう土を寄せてやった。
かえって迷惑だったりシテ。
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中島さんの大宰府の梅で思い出して自宅の近くの梅の木訪ねて行ってみると、ワオ!
ただ本物はもっと白いような・・・。
怪僧列伝戦国・江戸編(今月のテーマ 列伝)
2016 FEB 23 22:22:10 pm by 西 牟呂雄
仏教伝来の後、ありがたき教えを広めたり新たな教義を打ち立てた名僧は数々おわす。お陰で我々の生活の隅々までに染み込むように御仏の御威光が満ちている事は喜ばしい。私事だが僕は下町の仏教系の幼稚園に通っていて、四月八日のお釈迦様の誕生日には花祭りと称して小さい仏像に甘茶をかけていた(神田明神下のその幼稚園は驚いた事に今日もまだ存続している)。
しかも日本史の節目節目に重大な役割を果たした坊さんは多い。
ずらりと並べると大変なことになってしまうので、戦国時代~江戸時代の有名所を何人か挙げてみたい。その頃は戦国大名の側近に怪しいのも含めて結構多士済々なのだ。
太原雪斎(たいげんせっさい)
今川義元の懐刀。甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、甲相駿三国同盟の締結に尽力した。元々大変な秀才の学僧だったが、請われて今川の参謀役となる。
時に一軍を率いて戦闘を指揮し、信長の父信秀の三河侵攻作戦を撃退もしている。織田の人質だった少年の徳川家康を取り返したことでも有名。
この縁で逆に今川に人質となった家康の、学問・軍学の師でもあったそうだ。
この人が死んで5年後が桶狭間だ。もう少し長生きされたら桶狭間がどうなったか分からないと考える人は多い。
顕如光佐(けんにょこうさ)
信長の宿敵。石山本願寺第十一世。何しろ戦国時代の重大な補助線である一向一揆の卸元だから、日本中で戦乱を起こした張本人。信長とは十年に渡って対峙した。
越前では1万2千人以上が討ち取られ、伊勢長島では2万人が焼殺されるなど、膨大な犠牲者を出したが屈せず石山合戦となる。
石山本願寺はテラではなく、濠・土塁で防御を固めた一大城砦都市である。50以上の支城を配し守りは固い。信長に制海権を握られた後も約1年半無補給で耐えられた。負けた後に出火するが二昼夜燃え続けたというから戦闘規模は大阪冬・夏の陣よりもデカかった。顕如の強烈なカリスマ性が偲ばれるが、その分さぞドロドロの戦いだったろう。
その後和睦し生き残り、秀吉の下摂津中島に天満本願寺を、後に京都の七条堀川に現在の西本願寺に教団をささやかに再興する。
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)
毛利家の外交を取り仕切った臨済宗の僧。渉外能力も高いが自ら一軍を率いて戦闘もやる。
ラッキーなことに羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた時に本能寺の変が起きた。秀吉が中国大返しのために和睦案を出し、恵瓊が対応した。その能力を買われて秀吉側近の豊臣大名にチャッカリなってみせた。これは恐らく毛利の反感をかなり掻き立てたのではないかと筆者は仮説を持っている。
関が原の際には毛利本隊は全然やる気が無く、毛利の両川(りょうせん)と言われた吉川・小早川は寝返りまでしたのに恵瓊には全く知らされていない。捕らえられ六条河原にて斬首されてしまった。
金地院崇伝(こんちいんすうでん)
室町幕府の名門一色(いっしき)家出身で、南禅寺の住職になった大秀才。その後請われて徳川家康に仕え、当初は朱印船貿易を行う外交を一手に捌いていた。それが鎖国に振れると伴天連追放之文を起草する。この辺節操がないとも言えるが事務能力の図抜けた高さが感じられる。寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度も全てこの人の手によるものだ。
例の方広寺の「国家安康」「君臣豊楽」にイチャモンを付けたのもこの人らしい、何か陰湿だ。
「黒衣の宰相」と称されたが、対立側からは「天魔外道」と嫌われた。要するにイヤなやつだったと思われる。
南光坊天海(なんこうぼうてんかい)
推定100才以上生きた怪人。太閤北条攻めの頃から突如家康の側近として姿を現したことから、光秀成りすまし説がある。比叡山延暦寺で信長の焼き討ちにあった。そのせいか家康政権の下で比叡山探題執行にもなっていた。
天海は古代中国の陰陽五行説を駆して江戸の町を設計した。鬼門鎮護に寛永寺を築き、裏鬼門にあたる増上寺を徳川家の菩提寺にする。天守閣は寛永寺・増上寺を結ぶ線と浅草寺と日枝神社を結ぶ線が交差する位置に決めた。何だか風水師か詐欺師の趣がある。
ハイライトは家康の神号について、突如あまり馴染みのない山王一実神道の「権現」とすると言い出して、「明神」と祭るつもりだった前出の崇伝と激しく対立する。『怪しげな風水師』VS『イヤな奴秀才』の対決になるが、結果はご承知の通り権現様になった。
驚くべき長寿で三代家光にまで仕えて百八才で死んだことになっているが煩悩の数の年で死んだとは益々アヤシい。
建僧都室西(たけるそうずしっさい)
正体不明の怪僧。研究者の間で最近にわかに名前が挙がった謎の人物。一説には妖術使いとも言われている。『小山田文書』『西願寺文書』等で名前が確認されたが、鎖国時代に呂宋・越南・暹羅(シャム)・満刺加(マラッカ)・咬吧(ジャガタラ)と東南アジアをウロウロしたと考えられている。近年現地での文書に「シー・スー・チェン」という名でたびたび登場する倭寇崩れと、西願寺文書の建僧都室西が同一人物だということが分かり、時代考証的に注目された。
ただこの人物は記録上では二百歳くらい生きた事になってしまい、学者間では『複数説』や『単なる嘘吐き説』の論争がある。或いはなにかの秘密結社で受け継がれた名前なのかもしれない。どこで没したかもわかっていない。
実際現代でも”建室西(たける・しっさい)”をさかさまにした名前でブログに嘘っ八を書き散らしている人物がいるらしい。
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架空ライヴ 矢沢永吉 VS 謎の大物 Ⅱ
2016 FEB 21 20:20:34 pm by 西 牟呂雄
武道館はエーチャンの登場前から既に熱狂していた。
30年前から通いつめているらしい貫禄のあるオヤジも大勢来て『エーチャン!エーチャン!』と声を涸らす。
照明スポットがステージの両側を照らし出した。いよいよイントロだ。
だが、多くの観客はリズムの取り方が違うことに気が付いた。スポットの先に見えたのは和太鼓なのだ。そう、エイト・ビートの裏打ちでなく、頭で拍子を取る『エンヤートット』のノリである。
いよいよエーチャンが登場すると観客はアッと驚き、すぐに大歓声を上げた。何と羽織袴で背中にE・YAZAWAの染め抜き。そして歌いだした時点で更にたまげる。
男は~ まつりを~ そうさ かついで生きて来た~
山の神 海の神 今年も 本当にありがとう~
演歌じゃないか。アレンジがまるで違ったので気付かなかったが、歌詞を聞いてブッ飛んだ。しかしすぐに観客は手拍子を取り大ノリ。ロックじゃ考えられない頭打ちの手拍子が広がった。
倅 その手が たからもの~
ワン・コーラスの後は、エーチャンのステージ独特のギターとの掛け合いだ。ギタリストがステージの前に出て来てエーチャンの隣りに立つ。兜こそ被っていないが武者装束の出で立ち。一体何物かと良く見ると。
あれは布袋だ!アクションたっぷりに布袋ワールドを紡ぎ出す。
二番が始まる前に照明がステージの上の上部に当てられた。何かがせり上がってくる。
何とバックスクリーンに映し出されて視認されたのは北島三郎!金をあしらった袴で、左右の紅白の蓮獅子を従えているではないか。サブチャン御大がマイクを取る。
男は~ まつりで~ そうさ 男をみがくんだ~
山の神 海の神 命を 本当にありがとう~
もう何がなんだか分からないうちに、エーチャン・サブチャンのダブル・ボーカルが決めた。
も~えろよ 涙と 汗こそ 男のロマン~
オレも ドンとまた 生きてやる
これが 日本の 祭り だよ~
観客はビッグ・ツーのトーンが被るのにも驚いてもいた。
ここで北島御大のMCとなった。エーチャンが姿を消す。
「あのよー、みんなありがとう!」
凄い盛り上がりに -サブチャン サブチャン サブチャン サブチャンー
御大も元々ガラは悪いからヤザワ語が良く似合う。
「あのよー、いや初めにエーチャンから丁寧なオファーが来たときゃ冗談かと思ったがよ。オレの目を見て『先生、本気でいきます』っつーんだよ。だからオレも言っちまった『よーし、そっちがエーチャンならオレもサブチャンだ。』ってな。」
突如布袋のギターが バトル・ウィズアウト・オナー・オア・ヒューマニティー を奏でる。その曲に合わせて御大が歌うのは
与作は 木 を 切る~
ヘイヘイホー ヘイヘイホー
サビの部分のコード変更も布袋は自由自在。武道館は『ウォ~!』という異様な歓声に溢れかえり、最後は物凄いチョーキングのギターがピタリとあって終わった。
『オッケー、セーンキュ・ソウ・マッチ、ビッグ・ボス・エンド・ホテー!』
エーチャンが登場してホーンが鳴り出す。御大と布袋は袖に下がっていった。
それからは例によってのバリバリ・ロックンロールと自らギターを奏でてのバラードを挟んでステージは進行する。
フィナーレのアイ・ラヴ・ユー・オーケーを終えた後も、観客はエーチャン・コールを続けて止まることを知らない。何故かその中に「サブチャン」も混じっていた。
アンコールにスポットを浴び、遂に布袋が出てギターを奏ではじめた。ドラムが来る、ベースが来る、ホーン・セクションが来る、コーラスが揃ったところで照明が落ちた。
『ルイジアナ(バーン)テネシー(バーン)』
トラベリング・バスだ、みんな一斉にタオルを投げ上げる。
二番まで歌い切って布袋が観客を乗せる。
その頃から後方の観客が異変に気づいたが、エーチャンは構わず呼びかけた。
「Hey !」
『(ヘイ!)』
「Hey・Hey!」
『(ヘイ・ヘイ!)』
「Hey・Hey!」
『(ヘイ・ヘイ!)』
「Hey・Hey・Hey!」
『(ヘイ・ヘイ・ヘイ!)』
「Hey・Hey・Hey・Hey!」『(ヘイ・ヘイ・ヘイ・ヘイ!)』「Hey・Hey・Hey・Hey!」『(ヘイ・ヘイ・ヘイ・ヘイ!)』
その日暮らしが どんなものなのか
分かっているのかい
この声は!観客席後方からクレーン型の移動ステージに乗って移動してくるサブチャン御大ではないか。
ルイジアナ モンタナ アラバマ 遥か南のキャロライナ
ルイジアナ シンシナ インディアナ きつい旅だぜニューオリンズ
ルイジアナ テネシー シカゴ 遥か ロスアンジェルスまで
一説によるとワン・ステージで御大のギャラは1,200万円だったという。
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十五代目の蹉跌(今月のテーマ 列伝)
2016 FEB 18 4:04:37 am by 西 牟呂雄
徳川将軍を記述していて気が付いたことがある。武家政権というのは十五代やると制度疲労が限界に達するようだ。
鎌倉幕府は源氏がすぐにコケてしまうが、皇族から将軍を連れてきては北条家が世襲で執権を継ぐ。これが十六代だ。しかし十五代北条貞顕の時には新田義貞が挙兵しているのでガタは来ている。
続く室町幕府はこれまた十五代足利義昭が織田信長に放り出されてオシマイ。この義昭のダメさ加減は散々ネタにされ小説になったりドラマになったりしているからご案内の通り。
戦後の自由民主党総裁の十五代目は宮沢喜一で、この時に選挙で負けて始めて野党に転落。その後自民党が単独で政権を取ることはなくなり、常に公明党その他と連立するようになった。どうも節目というか縁起が悪いのか。
アメリカ合衆国十五代大統領はジェームズ・ブキャナンという大して実績の無い人だが、この人の在任期間中(それも最後の最後)に南部諸州が連邦を離脱してアメリカ連合になってしまった。そして次にかのリンカーン大統領になった途端に南北戦争が始まった。
フランス・ブルボン王朝の第四代国王はあのルイ15世だ。15世ですぞ!ポンパドゥール夫人に入れあげ、戦争で負まくり新大陸の全ての権益を失い(ケベック、ルイジアナ、西インド諸島)ケチをつけ、孫夫婦(ルイ16世とマリー・アントアネット)が断頭台の露となった。
15代は苦労する。
そういうオマエの15代前はどうだったのかと言われると、これが父方も母方も実にどうってことのない輩だったようで、そういう意味では僕の代でオジャンになるようなものは持ち合わせてもいない。15代といえば450年くらい前だろうか。おそらく父方も母方も武田勢にケチョンケチョンにやられて追い回されたりペコペコしていた頃のはずだ(特に母方は信玄の初陣でやられる)。幸運なことに根絶やしにならなかったからワタシがいる訳だ。その時点で既に負け組ということだから気楽なもんだ。
畏れ多いことであるが天皇家第十五代は応神天皇。三韓征伐の神功皇后が帰って来た時に九州でお生まれになった。仁徳天皇陵についで二番目に大きい誉田御廟山古墳が御陵とされている。応神天皇は没後十代を経て突然光り輝く3歳の童子となって現れ八幡大神として祀られる、八幡様だ。
八幡総本社は大分の宇佐神宮で、ここは例の弓削道鏡が危うく天皇になってしまうところをギリギリの所でダメ出しをしてくれた霊験あらたかな神様。道鏡を皇位に就かせるか否かを和気清麻呂がノコノコ聞きに行くと身の丈9mというウルトラマンのような僧形の神様が現れてこれを一蹴してくれた。畏れ多いことである。
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病中の趣味、嘗めざるべからず
2016 FEB 15 0:00:18 am by 西 牟呂雄
珍しく高熱が出て臥せっていた。本当に『立って半畳・寝て一畳』を地でやっていると薄汚くなってかなわんですな。お風呂にも入れないし髭も剃らない。節々が痛くてボーッとしてしまう、眠れない。誰とも喋らない。
テレビなんて見るものがない。古い本を読みだす。これで3時間は潰せる。
仰向けに寝ても眠くない。あいつは今頃何をしているのかなぁ、と暫く会わない友達を思い出してみる。子供が結婚したとか言っていたが孫はできたのだろうか。そういえば別の奴はこの間バッタリ会って元気そうだった。不思議なもので連絡先はお互い伝えなかったな。
木星には四つ月があって最も内側にある月は42.5時間の公転だが、裏側に入って見えなくなる時間が地球と木星の接近した時より最も遠いときでは20分以上遅れることから、光に速度がありそれは秒速22万kmだとわかったんだって。
因みにあまりの飽きっぽさと集中力の持続欠如から1冊の本だけを読み続けるのは苦痛で 2~3冊を回し読みしている。歴史エッセイも覗いてみることに。”満洲”は土地の名前ではなく民族の名前で、州と書いてはいけない、と。『マンジュ』というサンスクリット語の漢訳だが、国名(清)から何からみんなサンズイが付いていなければならない、と。なぜならば大明帝国が火徳の王朝を自称したため、水でないと勝てないから。
2日目もズーッと同じ状態が続く。こう高い熱が続くとフラフラする。
JRの熊谷駅のひらがなが『くまがや』になっているが、次郎直実は『くまがいじろうなおざね』と習った。いつから『くまがや』にしてしまったのだろう。友人の熊谷もくまがいと呼んでいたが、地元の人はどうしているのか。
ヒマに任せてレイモンド・カーヴァーの原書を読むが、高名なアル中作家は酔っ払って書いたのか、全然面白くない。きっと知らない単語が多すぎて電子辞書ばかり使うせいだろう。日本語の小説も読まないのにバカな本を買ったもんだ。
代わりに『新しい高校化学の教科書』まで読んだ。こっちは以前から少しづつ少しづつ読んでいたが内容を全く覚えていないことに感動した。
眠れない。
3日目、体が痛い。骨が痛いのか全身痛い。
ついに医者に行く。インフルエンザではないのは既にわかっていたが、薬がなくなりそうなのだ。じっとしているのも疲れるものなのだ。ついでに散歩をしよう。
熱のせいで物凄く寒く感じるから、スキー・ウェアでトコトコ出かけると、さすがに”寒い”とも感じなかったが、病院でも道端でも多少奇異の目で見られた。
4日目
いよいよいけない。39度以上が続く。私はなにか悪いことをしたのだろうか。
友人が編集している文芸誌(季刊)が送られてきた。この人翻訳業界の大物で独特の凝った文章を書くんですな。
ところでまさかこのまま死にはしないだろうが、この熱の高さは何なんだ。
『眠れない』と訴えたらお医者様が睡眠導入剤をくれたが、これが高熱のせいか物凄く効く。呂律がまわらなくなって訳の分からんことを口走って寝た。
するとですな、変な夢をみるんですな、これが。昔喜寿庵のあたりは犬は放し飼いでリードなんか付けなかった。その頃いたペケという犬と川の中州をズーッと歩いていると、突然ペケは全力疾走で逃げてしまいいなくなった。『オーイ。ペケ!』と言いながら追いかけるがもう分からない。この川の中州は記憶のある桂川のものではないようだ。そして私は学齢ギリギリのガキらしい。こまったなぁ、と途方に暮れていると突然『ワン!』の声。何と私の身の丈程に巨大化したペケがいるではないか・・・・。怖い夢だった。
5日目
昨晩から猛烈に汗をかきだした。夜中に一度着替えるがグッショリしている。明け方横を向いて寝ていると胸を汗が伝っていくのが分かる、凄い。サウナにいるように滝のように流れる。また着替えたら熱が37度台に下がっていた。
立ち上がってみると、体が軽くなったような気がしたが、疲労感もまたあった。発熱はそれほど体力を奪うものなのか。
病中の趣味、嘗めざるべからず・・出典は忘れたが中国の古典だが、これはウソです。この熱では、例えば音楽なんか全然聞きたくない。
それに昔は38度くらいは平気で酒をガブ飲みし気合で直した、やっぱり還暦を過ぎたのだ。うーん。ムチャはできないなぁ。
何もやることがなくなったので、頭に来て深大寺の側にある天然黒湯に1時間浸かった。これで治ったなら高い薬代と医療費は何だったんだ。
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ルンバ君(仮称)
2016 FEB 13 14:14:40 pm by 西 牟呂雄
我が家に新しい家族がやってきた。自動走行掃除機『ルンバ』である。
使ってみると実に健気にアッチに行ったりコッチに来たりして一生懸命埃を吸ってくれる。少々の障害物は(さすがに段がついているのは無理だが)乗り越えてしまうのに感心した。
セッセと働いている姿に感動した僕は『ルンバ君(本当は違うのだが恥ずかしくて仮称とする)』と命名した。
ルンバ君は人の言う事は基本的に聞かないし言葉も分からない。アチコチに行くだけだ。しかしそう広くも無いスペースで物にぶつかると、暫くジタバタ考えて別の方向に移動し始めて結局何回も同一点を通過する。試しにコーヒーカップを載せてルンバ君に「コーヒーを持って来い」と呼びかけるとちゃんと来るではないか。
以前ヒト型ロボットを家族の一員のようにしている特集を見たが、その時はバカみたいだと思った。ところがルンバ君と暮らしていると何と似たようなことをしているではないか。神は細部に宿る。
因みに、室内犬をペットにしている知り合いによると別に生き物として認識してじゃれて遊ぶようなことはしないそうだ。セッセと掃除しているルンバを無視してガツガツとペット・フードを食べているらしい。犬の知的好奇心が希薄なのか、僕の情緒が犬以下なのか。猫はどう反応するのだろう。まぁ犬は嗅覚で”生き物”ではないと分かるのだろう。
その内オフィス・スペースの掃除などは全てこういったマシンがやることになるのか。現時点ではルンバ君は「物をどける」とかはできないが、近い将来は配線を巻き込むことも無く軽い静止物を弾き飛ばすこともなく、休日の間なんかに全てきれいに掃除をしてくれるかもしれない。いや、業務時間中も稼動して、かえって人間の方がルンバ君が寄って来るとじゃまにならないように『ごめんね。』とか言いながら避けることになるのではないかな。
こういう機械を擬人化して遊んで暮らせたら小倉の単身赴任時代はどんなに心慰められたことだろう。ルンバ君は絶対に逆らわない上に余計な理屈も言わないから、同居には最適だ。
そしてこういった擬人化の遊び心はエスカレートする。ルンバ君も顔がないのがかわいそうだと思い、試しに僕の写真のコピーを張り付けてみたが、同居人一同から「バカみたいだからやめろ。」と拒絶された。仕方なく適当なキャラクターを買って来て「これをルンバ君と呼べ。」と言い渡した。
これはキャラが可愛いので何とかなったが『ちょっとアブナイんじゃないのか。』と顔に書いてあった。
もし、スヌーピーとかを乗っけて遊び出したら・・。それは本当に終わりの始まりかもしれない。
昨日帰宅した際に『ただいま、ルンバ君』と声を掛けてしまった。コワい。
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徳川 奇人伝(今月のテーマ 列伝)
2016 FEB 12 1:01:49 am by 西 牟呂雄
徳川将軍十五代。紆余曲折を経ながらも、270年の平和のお蔭で江戸庶民は殆ど無税で暮らした。これは本当の話で、商家も職人も浪人も御維新まで税金を知らなかった。僕は下町で育ったから納税に対するチャランポランな気質を肌で知っている。さすがに今ではそんなことはないだろうが、母親が嫁いできた時点で舅・姑のあまりの無関心に『納税は国民の義務では』と苦言を呈したところバカ扱いされた、との伝説が残っている(本人から聞いた)。恐らく江戸に比べて武士の比率がはるかに低かった大阪はもっと面白い話があると思う。
一方、喜寿庵のある某県某所は天領で殿さまがいない。するとお裁き・徴税をするのは代官で、これは2~3年で次の任地に転勤してしまうサラリーマンのようなものだった。任地では大過なく過ごそうという官僚マインド丸出しで、下手に酷いことをして一揆でもやられれば経歴に傷がつくとばかり、あまりドラマに出て来るような悪代官は少ない。迎え入れる方も心得たもので、あのあたりの有力者はいきなり接待をしたりはしなかった。じっと見ていて今度のお代官様は『酒』『金』『女』のどれが好きかを見極め、相手の好みに付け込んでズブズブにしたと言われている。
「おぬしも好きじゃのう。」
「いえいえ、お代官様ほどでは。」
とやったに違いない。
しかし江戸時代もそれなりに長いから、殿様の中には多少ヤバいのはどうしても出る。ご存知の方も多いだろうが中には凄いのもいて感心する。隅々まで網羅できないので『徳川』を名乗る人だけでクレージーな人物を上げてみたい。
徳川忠長 駿河大納言
三代将軍家光公の実弟。春日の局が大騒ぎしなければ将軍になっていたかもしれない、聡明で眉目秀麗だった。家光が家督を相続した頃は駿河・東遠江・甲斐55万石と御三家に次ぐ大大名に。余談であるが、この際の家臣、甲州谷村代官を務めた鳥居土佐守成次は元慶應義塾塾長鳥居先生の御先祖。喜寿庵のあたりのことだ。『おぬしも好きじゃのう』をやってたクチらしい。
ところが実母お江のエコヒイキのせいか、将軍家光一派に疎まれる。忠長も忠長で将軍に対しエラソーに振舞って対立したのが命取りになって上野国高崎に飛ばされ自刃に追い込まれた。鳥居先生の先祖もついでに改易。
将軍家光のイビリも相当だと思われるが、憤懣やるかたなく狂って家臣を手打ちにしたり、殺生禁断の静岡浅間神社で猿狩りをしたのはマズかった。1240匹も猿狩りをするなどチョッとクレージー過ぎ。
徳川 光圀 第二代水戸藩主
ご存知、水戸の黄門様。だが「天下の副将軍」は当時の役職にも文献でも確認できないし、諸国漫遊はまるっきりの作り話。江戸詰めの頃は吉原通いはおろか、ヤクザそのもので本当に辻斬りをやったという噂さえある。
本人、十八才で改心したと言っているが怪しいもんだ。確かに有名な『大日本史』の編纂等、文化事業に取り組んで、そのお陰で水戸家は後の尊皇攘夷の卸元になった感はある。亡命儒学者の朱舜水を水戸に招聘したことも事実。
家臣にどこの誰かは知らないが黒人を召抱えたという話を覚えているが出典を思い出せない。ほんとうだろうか。
そして隠居後にやってしまう。小石川水戸藩邸での能舞興行の折に、光圀が自ら舞ったあとの楽屋で、気に入らない重臣の藤井紋太夫を突然刺し殺したという衝撃的な事件を起こしている。
後述『生類哀れみの』を無視して犬の毛皮を将軍綱吉に送りつけたとも。相当ヤバい人だった。
徳川綱吉 第五代征夷大将軍(犬公方)
『生類哀れみの』でイカレポンチの烙印を押されてしまったが。四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど文化保護者の面を持ち合わせている。しかし集められて講義を聞かされた方は大迷惑だったに違いない。
何にでも夢中になる人らしく、能には相当のめり込んでいる、多分女も。そして時々プッツンした。
在任期間中に松の廊下の刃傷沙汰が起きて、浅野内匠頭の単独切腹を即断して”片手落ち”といわれてしまう。その後『忠臣蔵』物語があんなにバカ受けするとは思っても見なかったろう。
位牌の高さから、身長124cmだったという説があってこれでは小学生くらいだ。元々江戸時代は日本人の身長が今より低かったのだが、そのせいかどうか極端に走る面が散見される。
それにしても『生類哀れみの』は20年以上も施行されたが天領以外では誰もまともに守らなかったようだ。たまたま目くじらを立てられて遠島・切腹になった気の毒な人もいるが、全部でも20件くらいらしい。野良犬を中野のあたりで何万匹も面倒見たのはやりすぎだが、ペット先進国だとシーシェパードあたりに教えたらどうかな。
徳川宗春 第七代尾張藩主
暴れん坊将軍吉宗が江戸で質素倹約の改革に勤しんでいたのを尻目に、名古屋では芝居小屋や遊郭をむしろ奨励して今で言う規制緩和をやっていた変わり者。服装はもっとヒドくて、歌舞伎・能の派手な衣装どころか朝鮮通信使の真似をして出歩く。白い牛に乗ってウロウロしたこともあった。ここまで来るともうイッテる。いっそ戦国時代にでも生まれた方が本人のためにも良かったろう。
よせばいいのに参勤交代でやってきた江戸でも、現在の防衛省市谷駐屯地にあった尾張藩上屋敷を新築お披露目で町民に開放するという、言ってみればドンチャン騒ぎをやってのけ将軍吉宗を激怒させる。しかし市谷上屋敷も外堀の外にあって見附の木戸門の外側だからそんなに町民がいたとも思えないが。江戸っ子の感覚で言えば”町”は飯田橋・本郷がギリギリ。
最後はお家がゴタゴタして蟄居謹慎(あたりまえだ)。
徳川家重 第九代征夷大将軍
偉大な親父、吉宗公の長男。
言語不明瞭。何を言っているのか分かったのは側近の大岡忠光のみで、本当は利口だったのかバカだったのか誰もしらない。元々虚弱だったのが酒色に溺れて益々悪くなった。又、この人も能を好んだ。
子供も二人いるのに”女性説”がある。吉宗が紀州家から将軍になれたのは他の御三家の候補者にはいない嫡男がいたからだ、と言われていた。逆に言えば娘だったのを嫡男だと偽ってしまえば将軍になれた。それで生涯”男”で押し通さざるを得ず、声を隠すためにレロレロの振りをしていたとか。確かに尋常でない頻尿で町方にも聞こえたくらいだ。更に増上寺の改修の際に歴代将軍遺骨の調査・撮影が行なわれたが、骨盤の写真が女性型だったことは本当。そして残された骨盤写真は家重だけは正面から撮影されなかったのも事実であるが。誰かが黙ってしまった。
徳川家定 第十三代征夷大将軍
個人的な仮説だが、この将軍のあたりで時代としての江戸時代は終わり。即ち鎖国はガタガタ、身分制度もグチャグチャとなり歴史で教える封建制度が終焉を迎える助走期間になる。
この大変な時に将軍になるのも気の毒みたいなものだ。病弱であり、人見知りであり、一説には脳性麻痺であったと言われている(しばしば癇を起こした)。ハリスを引見した時には『頭を反らし六方を踏んだ』そうである。つまりジタバタした(脳性麻痺の症状に酷似)。ハリスはビックリしたのか、或いは日本の高貴な人の習慣だと思ったのか。
上記九代将軍といい、要するに誰でも良かったというか。世間はそれどころではなくなっていくのに。
少し前の大河ドラマの”篤姫”で堺正人さんが、本当はウツケの振りをしていたという斬新な演技をしていたが、そりゃちょっと・・・。
番外編 徳川慶喜
ラスト・ショーグンは実に型破りではあった。何しろ頭は切れるし何でも上手い。そもそも『会議』という概念のあまりない時代に、一人で議題を発案し雄弁に語り反論も想定して自分で答えた御仁だ。その態度は帝の前でも変わらなく、スネるはオドすはやりたい放題。「良きにはからえ」と言ってる訳にもいかなくなったのだろうが、ショーグンとしては実に変わった存在ではある。
筆者は大政奉還の離れ業は起死回生の妙手だと高く評価する者であるが、如何せんその後の鳥羽・伏見のあまりの根性の無さは頂けない。尊王攘夷思想の本家のような水戸の出身だったので、賊軍になりたくないとの想いが強すぎた。
因みにこの方のお孫さんが海軍の宮様と言われた高松宮妃喜久子妃殿下だが、慶喜公の気質を良く受け継いでいるとのこと。妃殿下は聡明で粋な感じのお方だったと。
徳川様でザットこんなもんだから「松平」まで入れると相当凄いのがいそうだ。まっこんなもんでしょうか、上に変なのがいても何とかなるうちは『良い』統治システムだったのでは。
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早咲き日本一の桜
2016 FEB 10 21:21:15 pm by 西 牟呂雄
二月六日の午後、新年温泉・酒・麻雀・カラオケのデスマッチに行きまして。結果フラフラになってフト目に留まったのがこの桜です。関東地方は雪の予報さえ出ていましたが、この小さな花は何と健気なことでしょう。桜は一斉に咲くと豪華なものですが一輪一輪は可憐な花。
『早咲き日本一の桜』と案内に書いてありました。ケチを付ける訳ではありませんが、沖縄の緋寒桜(ヒカンザクラ)は咲いてませんでしたかねぇ。本土で、を付けた方が・・・。
これは河津桜でしょうが、一本で街中にポツンとしているところがカワイイ。
ところで私は麻雀をあまりやらなくなっていて、今回も『参加しない』と宣言していたにも係らずあの牌の並びに目を奪われてしまい、これをやらない訳にはいかなかった。初めは良かったのですが直ぐに・・・。
この合宿所は素泊まり料金だけで、カラオケもジャン卓もタダだから”やらなきゃ損だ”の意地汚さが丸出しになって、やれ風呂はドーシタの歌がコーシタのと大騒ぎになり、常に麻雀の面子は入れ代わり、ついに帰るまで一回も温泉に浸からなかった輩もいました(12人中2人も)。
因みにあまりに頻繁に入れ代わるので半荘での現金決済だからその度に札が飛び交うという下品な振る舞いで顰蹙も買っています。
メシだけは一緒に食べましたが、そこで驚くべき事実が判明しました。
平均年齢が65歳を軽く越えるメンバーで、殆どが既に癌をやっていたのです。3回もやった人までいました。誰も死なない・・・。やっていないのは僅かに3人。勢い物凄い会話が飛び交いました。
「なーにー。まだ癌もやってないの?」
「だーめだなー。癌にもなれないの?」
「そんなこっちゃ長生きできないよ。ホラ、もっとガバガバ飲んで。」
言われて小さくなっているのはワタシと不真面目を絵に描いたようなミスター・カンオケに無敵の麻雀大魔王(さっきタダのリーチを一発ツモドラ3にしてワタシを飛ばした)。いくら何でもこれ以上どうしろとおっしゃるの。
しかし、不死身の癌オヤジ達も悪運のバカ強さだけで生き延びたわけでもありません。何といっても検査精度の向上と手術の技術的進歩、医薬の発達に他ありません。
気楽にこんなことを言っているとバチが当たります、ありがたありがたや。
朝4時まで戦い続けたツワモノ4人。入れ替わる立ち代わりカラオケで12時解散4人。朝からガッチリ食べ再度カラオケ3人。朝飯後に即戦闘開始4人。昼まで死んで昼風呂でやっと生き返った者一人(ワタシ)。
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あやしうこそ物狂ほしけれ
2016 FEB 8 22:22:19 pm by 西 牟呂雄
春節。太陰暦の正月一日は今年は二月八日です。新暦正月はいつも通り喜寿庵にいました。毎年当たり前のようにスノボで初滑りをしたのですが、果たして何のために滑るのか一瞬迷った。上達する可能性はもうない、上達したところで”それがどうした”ですね。運動のためと言えなくもないが、疲れるとすぐやめてしまうから体力がつくまで行きませんね。爽快感はあるといえばありますが、スキーの直滑降ほどのスピードは出せません。第一この年でムチャをして骨折でもしたらバカ扱いされます。
いっそ朝から酒でも飲んでしまおうかとも考えましたが、お腹が空いたのでラーメンを食べるという安直な理由をひねり出しゲレンデに行ってつくづく年齢を感じたことは既にブログに書きました。することがないので余計なことをして、気が付きたくもないことを実感させられて、と。
2日・3日は箱根駅伝を肴にチビチビと酒を飲みウトウトしていました。それにしても彼らの体力と根性は素晴らしい。無論選手達も名誉に思い達成感を抱いたことでしょう。この20チーム200人は今この時点でスーパースター、優勝した10人はその名を刻まれます。しかし、更にオリンピックの長距離に出るような人は稀であり、殆どの選手を私達は1年後には忘れてしまいます(神野君は別)。実は某大学の駅伝部で(強豪校です)箱根の山下り(6区)を走ったことのある若い人を知っていました。その子は何かのケチがついて退学してしまい、会った時は陸上など見るのもいや状態で、色々あったのでしょう。自由になって最も好きだったものを失ったとも言えます。
以上のことはどうでもいい話ですが。
何もすることがなくなるとそれは不幸なのでしょうか。多くの人はそう思うかもしれません。しかし何かをやってさえいればそれで満足するものなのか。
何もしない暮らしこそ最高だとは思えないですか。喜寿庵ではいつも一人だから自由と言えば自由。即ち何もすることがありません。去年はヒマにまかせて野菜造りに挑戦してほとんど失敗しました。時間も労力も全くの無駄。せいぜい失敗作を造る自由を満喫した、くらいかなぁ。
ゴルフをやったりスノボに行くのも勝手に一人で行きます。それでいて深刻な孤独感に浸るとか、ひとりぼっちを実感するようなことはない、いや、何かに困ったときはあるな。生活はしていますから。
毎日毎日一人でやりたいことだけをやって暮らすというのは現実的ではないですね。恐らく時間が限られないと何でもかんでも後回しにして、後で大変な事になり七転八倒することになりそうです。
『つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ』という書き出しであまりにも有名な徒然草です。兼好法師は何もしないで「日ぐらし硯に向かいて」いたのでしょうか。勿論全部読んだ訳ではありませんが、知る限りではアチコチ出かけてはアレはダメとかコレは面白いとか言っています。また人の噂も大好きで、ネットも電話もない鎌倉時代にドコソコの誰は立派だとか、ナントカは大したことないと聞く、などと実名を書きつけています。比較的偉い人の悪口は書いていない。
十月を神無月(かみなづき)と言うけれど記したもと文(ふみ)はない、といったヒネた意見も載せています。信濃の元国司行長という人が平家物語の作者だとありますが、これには諸説あるようです。
それで思うに兼好法師、何もすることが無かったんじゃないですかねぇ、要するにヒマ。
どうも鎌倉時代は京都周辺には将軍の直接の圧力は感じられず、山城・摂津・河内の国は半独立圏の趣があって気楽そうです。
しかし時は流れ鎌倉末期から室町時代に移行する大混乱時代を迎えます。
兼好法師も晩年にかの悪名高い足利尊氏の右腕、高師直に接近したという説もあります。人妻に宛てる恋文を吉田兼好に書かせたことが太平記に出ていて、これが後に江戸歌舞伎の忠臣蔵のネタにされています。二人でどんな会話をしたのでしょう、何しろ希代のワルと隠遁者。噛み合ったのかお互いに利用したのか興味の尽きないところです。
『あやしうこそ物狂ほしけれ』は今の言葉で言えば『一日中ヒマすぎて、マジ頭にくるぜィ』くらいかもしれませんな。
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ノー・ウーマン ノー・クライ Joan Baez(ジョーン・バエズ)
2016 FEB 5 23:23:36 pm by 西 牟呂雄
レゲェの名曲、ボブ・マーリィとウェイラーズの ノー・ウーマン ノー・クライを検索していたら、往年のフォーク・シンガー(もう死語だが)ジョーン・バエズのライヴが出て来た。スペイン語のMCを喋っているのでメキシコかスペインでやったのか。お父さんがメキシコ系だったと記憶する。
60年代に公民権運動と反戦活動で注目を集めたスターだ。
ところで僕は2年前にこの歌の本歌取りで ノー・ウーマン ノー・クライ
というマヌケなブログを書いている。
そのノリでまたまた替え歌パロディーを思いついたのが『山がなけりゃ 登れない』だ。
No Moutain No Climb (ノー・マウンテン ノー・クライ)
ちょっと苦しいか。それでは『野生の馬に鞍』はどうだろう。
野 馬 の 鞍 (ノーウマー ノ クラ)
この歌のオリジナルは”No, Woman, Nuh cry.”という説がある ジャマイカは英連邦国で国語も英語であるが、歴史的にヨーロッパ言語のクレオール語が混じっていて一種の方言になっているらしい。『Nuh』は英語ではDon’t であると。するとやはり『ノー・ウーマン ノー・クライ』は「だめだ、女。泣くな、女」が正しい。
ジョーン・バエズは売れる前のボブ・ディランの紹介者で恋人でもあった。関係は解消されたが、透明感のある澄んだソプラノでディランの”I Shall Be Released”をカヴァーしているので載せようと検索した。確か下の現在の容姿でオバマ大統領とミシェル夫人の前で歌った動画があったのだが。
すると何とニーナ・シモンが出てきた。やはり60年代以降に活躍した黒人女性ヴォーカルで既に故人。ジュリアードで教育を受けたピアノ奏者で、この演奏も弾き語りではないか。
独特の声が男性ヴォーカルに聞こえる、こちらの方がレアなので貼っておきます。ブルース仕立てのアレンジが泣かせる。
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