Sonar Members Club No.36

日: 2016年2月12日

徳川 奇人伝(今月のテーマ 列伝)

2016 FEB 12 1:01:49 am by 西 牟呂雄

 徳川将軍十五代。紆余曲折を経ながらも、270年の平和のお蔭で江戸庶民は殆ど無税で暮らした。これは本当の話で、商家も職人も浪人も御維新まで税金を知らなかった。僕は下町で育ったから納税に対するチャランポランな気質を肌で知っている。さすがに今ではそんなことはないだろうが、母親が嫁いできた時点で舅・姑のあまりの無関心に『納税は国民の義務では』と苦言を呈したところバカ扱いされた、との伝説が残っている(本人から聞いた)。恐らく江戸に比べて武士の比率がはるかに低かった大阪はもっと面白い話があると思う。
 一方、喜寿庵のある某県某所は天領で殿さまがいない。するとお裁き・徴税をするのは代官で、これは2~3年で次の任地に転勤してしまうサラリーマンのようなものだった。任地では大過なく過ごそうという官僚マインド丸出しで、下手に酷いことをして一揆でもやられれば経歴に傷がつくとばかり、あまりドラマに出て来るような悪代官は少ない。迎え入れる方も心得たもので、あのあたりの有力者はいきなり接待をしたりはしなかった。じっと見ていて今度のお代官様は『酒』『金』『女』のどれが好きかを見極め、相手の好みに付け込んでズブズブにしたと言われている。
「おぬしも好きじゃのう。」
「いえいえ、お代官様ほどでは。」
 とやったに違いない。

 しかし江戸時代もそれなりに長いから、殿様の中には多少ヤバいのはどうしても出る。ご存知の方も多いだろうが中には凄いのもいて感心する。隅々まで網羅できないので『徳川』を名乗る人だけでクレージーな人物を上げてみたい。

徳川忠長 駿河大納言
 三代将軍家光公の実弟。春日の局が大騒ぎしなければ将軍になっていたかもしれない、聡明で眉目秀麗だった。家光が家督を相続した頃は駿河・東遠江・甲斐55万石と御三家に次ぐ大大名に。余談であるが、この際の家臣、甲州谷村代官を務めた鳥居土佐守成次は元慶應義塾塾長鳥居先生の御先祖。喜寿庵のあたりのことだ。『おぬしも好きじゃのう』をやってたクチらしい。
 ところが実母お江のエコヒイキのせいか、将軍家光一派に疎まれる。忠長も忠長で将軍に対しエラソーに振舞って対立したのが命取りになって上野国高崎に飛ばされ自刃に追い込まれた。鳥居先生の先祖もついでに改易。
 将軍家光のイビリも相当だと思われるが、憤懣やるかたなく狂って家臣を手打ちにしたり、殺生禁断の静岡浅間神社で猿狩りをしたのはマズかった。1240匹も猿狩りをするなどチョッとクレージー過ぎ。

徳川 光圀 第二代水戸藩主
 ご存知、水戸の黄門様。だが「天下の副将軍」は当時の役職にも文献でも確認できないし、諸国漫遊はまるっきりの作り話。江戸詰めの頃は吉原通いはおろか、ヤクザそのもので本当に辻斬りをやったという噂さえある。
 本人、十八才で改心したと言っているが怪しいもんだ。確かに有名な『大日本史』の編纂等、文化事業に取り組んで、そのお陰で水戸家は後の尊皇攘夷の卸元になった感はある。亡命儒学者の朱舜水を水戸に招聘したことも事実。
 家臣にどこの誰かは知らないが黒人を召抱えたという話を覚えているが出典を思い出せない。ほんとうだろうか。
 そして隠居後にやってしまう。小石川水戸藩邸での能舞興行の折に、光圀が自ら舞ったあとの楽屋で、気に入らない重臣の藤井紋太夫を突然刺し殺したという衝撃的な事件を起こしている。
 後述『生類哀れみの』を無視して犬の毛皮を将軍綱吉に送りつけたとも。相当ヤバい人だった。

徳川綱吉 第五代征夷大将軍(犬公方)
 『生類哀れみの』でイカレポンチの烙印を押されてしまったが。四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど文化保護者の面を持ち合わせている。しかし集められて講義を聞かされた方は大迷惑だったに違いない。
 何にでも夢中になる人らしく、能には相当のめり込んでいる、多分女も。そして時々プッツンした。
 在任期間中に松の廊下の刃傷沙汰が起きて、浅野内匠頭の単独切腹を即断して”片手落ち”といわれてしまう。その後『忠臣蔵』物語があんなにバカ受けするとは思っても見なかったろう。
 位牌の高さから、身長124cmだったという説があってこれでは小学生くらいだ。元々江戸時代は日本人の身長が今より低かったのだが、そのせいかどうか極端に走る面が散見される。
 それにしても『生類哀れみの』は20年以上も施行されたが天領以外では誰もまともに守らなかったようだ。たまたま目くじらを立てられて遠島・切腹になった気の毒な人もいるが、全部でも20件くらいらしい。野良犬を中野のあたりで何万匹も面倒見たのはやりすぎだが、ペット先進国だとシーシェパードあたりに教えたらどうかな。

徳川宗春 第七代尾張藩主
 暴れん坊将軍吉宗が江戸で質素倹約の改革に勤しんでいたのを尻目に、名古屋では芝居小屋や遊郭をむしろ奨励して今で言う規制緩和をやっていた変わり者。服装はもっとヒドくて、歌舞伎・能の派手な衣装どころか朝鮮通信使の真似をして出歩く。白い牛に乗ってウロウロしたこともあった。ここまで来るともうイッテる。いっそ戦国時代にでも生まれた方が本人のためにも良かったろう。
 よせばいいのに参勤交代でやってきた江戸でも、現在の防衛省市谷駐屯地にあった尾張藩上屋敷を新築お披露目で町民に開放するという、言ってみればドンチャン騒ぎをやってのけ将軍吉宗を激怒させる。しかし市谷上屋敷も外堀の外にあって見附の木戸門の外側だからそんなに町民がいたとも思えないが。江戸っ子の感覚で言えば”町”は飯田橋・本郷がギリギリ。
 最後はお家がゴタゴタして蟄居謹慎(あたりまえだ)。

徳川家重 なんかカワイイ

徳川家重 なんかカワイイ

徳川家重 第九代征夷大将軍
 偉大な親父、吉宗公の長男。
 言語不明瞭。何を言っているのか分かったのは側近の大岡忠光のみで、本当は利口だったのかバカだったのか誰もしらない。元々虚弱だったのが酒色に溺れて益々悪くなった。又、この人も能を好んだ。
 子供も二人いるのに”女性説”がある。吉宗が紀州家から将軍になれたのは他の御三家の候補者にはいない嫡男がいたからだ、と言われていた。逆に言えば娘だったのを嫡男だと偽ってしまえば将軍になれた。それで生涯”男”で押し通さざるを得ず、声を隠すためにレロレロの振りをしていたとか。確かに尋常でない頻尿で町方にも聞こえたくらいだ。更に増上寺の改修の際に歴代将軍遺骨の調査・撮影が行なわれたが、骨盤の写真が女性型だったことは本当。そして残された骨盤写真は家重だけは正面から撮影されなかったのも事実であるが。誰かが黙ってしまった。

徳川家定 第十三代征夷大将軍
 個人的な仮説だが、この将軍のあたりで時代としての江戸時代は終わり。即ち鎖国はガタガタ、身分制度もグチャグチャとなり歴史で教える封建制度が終焉を迎える助走期間になる。
 この大変な時に将軍になるのも気の毒みたいなものだ。病弱であり、人見知りであり、一説には脳性麻痺であったと言われている(しばしば癇を起こした)。ハリスを引見した時には『頭を反らし六方を踏んだ』そうである。つまりジタバタした(脳性麻痺の症状に酷似)。ハリスはビックリしたのか、或いは日本の高貴な人の習慣だと思ったのか。
 上記九代将軍といい、要するに誰でも良かったというか。世間はそれどころではなくなっていくのに。
 少し前の大河ドラマの”篤姫”で堺正人さんが、本当はウツケの振りをしていたという斬新な演技をしていたが、そりゃちょっと・・・。

番外編 徳川慶喜
 ラスト・ショーグンは実に型破りではあった。何しろ頭は切れるし何でも上手い。そもそも『会議』という概念のあまりない時代に、一人で議題を発案し雄弁に語り反論も想定して自分で答えた御仁だ。その態度は帝の前でも変わらなく、スネるはオドすはやりたい放題。「良きにはからえ」と言ってる訳にもいかなくなったのだろうが、ショーグンとしては実に変わった存在ではある。
 筆者は大政奉還の離れ業は起死回生の妙手だと高く評価する者であるが、如何せんその後の鳥羽・伏見のあまりの根性の無さは頂けない。尊王攘夷思想の本家のような水戸の出身だったので、賊軍になりたくないとの想いが強すぎた。
 因みにこの方のお孫さんが海軍の宮様と言われた高松宮妃喜久子妃殿下だが、慶喜公の気質を良く受け継いでいるとのこと。妃殿下は聡明で粋な感じのお方だったと。

 徳川様でザットこんなもんだから「松平」まで入れると相当凄いのがいそうだ。まっこんなもんでしょうか、上に変なのがいても何とかなるうちは『良い』統治システムだったのでは。

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