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2月26日に考えた事

2016 MAR 4 2:02:19 am by 西室 建

 これを書き出したのは奇しくも2月26日。ある思いつきで『侍従長』という職業を調べていた。しかし大変な事件の起きた日だったのに気が付いた。2・26事件である。
 クーデター騒ぎの功罪とその影響については既に優れた研究がなされているので、ここでは触れない。無論怪しからんことに決まっている。
 この時、安藤大尉指揮下の部隊に急襲され複数の銃弾を浴びながらも生き延びたのが、終戦時の総理大臣となる鈴木貫太郎侍従長であった。当時の侍従長公邸は三番町で(現在は紀尾井町)安藤隊はそこから皇居に直行していない。半蔵門がすぐだと言うのに霞が関・赤坂・永田町あたりを固めた。
 余談であるが、本来警視庁を制圧した部隊と先に宮城警護の交代に行った中橋中尉の部隊が合同で皇居を占領する計画があったが、中橋大尉が大高少尉とのに拳銃を突き付け合いに挫けてダメだった。
 銃弾を受けた鈴木侍従長のたか夫人が夜明け前に昭和天皇に直接電話したところで勝負あった。たか夫人は皇孫御養育掛として少年時代の昭和天皇を存じ上げていたのだった。
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入江侍従長

入江侍従長

 侍従長を撃たれた昭和天皇は26日の夜明け前に既に大激怒され、腰の引ける本庄繁侍従武官長を叱りつけ以後一度もブレなかった。あの緊迫感の中、誠に見事な大局観であろう。クーデターの方はそのお怒りに押されるように、関係ない人間が皇居に出入りしたり陸軍中枢との交渉に失敗する等緻密な計画もクソもなくなり投降する。
 死刑になった北一輝が残した辞世が『若殿に 兜取られて 負け戦』。血気の将校団に毅然と対峙したのは陛下その人だったということである。
 この間のお姿をつぶさに見ていたのが当時はヒラ侍従だった後の侍従長入江相政である。母親は大正天皇の生母柳原二位の局の姪だから昭和天皇と「はとこ」だか「スジいとこ」になる。さらに炭鉱王伊藤伝衛門と金爵結婚して後に離婚する歌人、柳原白蓮の甥。おまけに父親も東宮侍従長というサラブレッドだ。
 そう言えばどことなく影武者のように似ている顔の主従が、絶妙の距離感で寄り添っている光景をテレビでよく見た。
 運が悪いと言うか2・26当日の当直侍従だったため、事件解決まで軍装を脱がなかった昭和天皇と連日籠城する。
 更に終戦時には近衛師団一部のクーデター騒ぎにも遭遇している。電話線が切断され、皇宮警察は武装解除。そして玉音盤の捜索と殺気立った雰囲気の中、金庫にしまったのは入江相政の後に侍従長となる若き徳川義寛侍従だった。名前の通り尾張徳川家の出身。
 こういう修羅場をくぐった主従には特別の絆というか、距離感があったものと思われる。
 佐々淳之氏は昭和天皇御巡幸の警備をした際、天皇陛下が少しよろけたように見え、後ろに付いていた県知事だか誰かがお支えしようと寄るのを入江侍従長にピシリと叩かれた所を見ている。
 また昭和天皇が居眠りをされかけるとお座りになっている椅子を蹴るようなこともあったそうだ。無論やんごとなくコツッとされたのだろうが。
 朝から晩まで陛下に寄り添っていなければならないのは大変な仕事に見えるが、ご本人はいたってユーモリストで教養高い紳士だった。テレビの座談会に出ていたから、それぐらいの時間はあったとみえる。けっこうベランメイな口調で喋っていたと記憶する。
 さすがに砕けた感じではないが上質のエッセイも書いている。上質というのはギリギリのところで政治に関する話や皇室の話題は避けているのが巧みだということだ。
 僕の母親の義母、まぁお婆ちゃんなのだが実家は牛込余丁町だ。近所に学習院に通う若き紅顔の美少年がいて、それがあの侍従長だったという話は直に聞いたことがある。

 入江相政氏がお亡くなりになった報に接した天皇陛下は、椅子に掛けて外をみながら振り向かず「そうか」とのみ漏らされたらしい。一視同仁。
 最側近の訃報にも格別に嘆いたり悲しんだりしない帝王の心得と身だしなみに私は勝手に感動する。今上陛下の戦争犠牲者や被災者への心遣いに通じるものだろう。

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Categories:遠い光景

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