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隼は征く 雲の果て 

2016 MAY 13 22:22:32 pm by 西牟呂 憲

 「エンジンの音 轟々と 隼は征く 雲の果て――」の歌で知られる加藤隼戦闘隊は南方戦線で最後まで活躍した陸軍飛行第64戦隊のことである。そしてその愛機の正式名称は『中島 キ43 一式戦闘機』、隼である。海軍びいきの筆者ではあるが、ゼロ戦について書いておきながら(ゼロ戦と秋水)隼にもコメントしなければ名機・名パイロットに申し訳ない。

隼の雄姿

隼の雄姿

 西はインド(カルカッタ)、南はオーストラリア(ダーウィン)、東はソロモン諸島、北は千島列島まで大活躍した。特にビルマ、中国の戦線では大戦末期まで互角の結果を残したことはあまり人口に膾炙しないのではないだろうか。新鋭スピットファイアやハリケーン、P-38・P-47・P-51に対して、軽快な運動性能で内側に回り込んでは仕留めた。特に戦闘フラップ”使用したときの旋回能力はきわめて高く、中島飛行機の設計陣でこのフラップ開発にロケット工学の権威、糸川英夫が携わっていたことは知る人ぞ知る。ゼロ戦が皇紀二千六百年にデビューして零式とされたのに対し二千六百一年に量産されたので一式という名称になる。後継機も開発されたのだが、量産性・稼働率が際立って高かった。
 米・英空軍はこの隼部隊を「ブラックドラゴン」と呼んで恐れた。

 武装は12.7mm機関砲でゼロ戦の20mmより小型ではあったが、陸軍は防弾装備の重要性を認識しており防弾鋼板を装備した。このため技術交流やラバウルで実際に乗ってみた海軍のパイロットからは『狭い・乗りにくい』といった感想を持たれたようだが、対B-29戦績では良く弾幕をしのぎ防御の弱いゼロ戦と比較しても互角以上であった。

 加藤隊長は無論名パイロットだが、もう一人「ニューギニアは南郷で保つ」と謳われた第59戦隊飛行隊長・南郷茂男中佐を上げておきたい。この人は学習院から陸軍航空士官学校に進んだ。
 大東亜戦争開戦後すぐにジャワに進出していた同戦隊に着任する。
 明朗快活、竹を割ったような性格の快男子で上下問わず同僚に愛された人物だったが、1944年には戦死してしまう。
 実はこの人の実兄、南郷茂章(みちふみ)もエース・パイロットでこちらは海軍。学習院の旧制高等科から兵学校入りをし少尉時代は艦上勤務だった。その後霞ヶ浦海軍航空隊で源田実に鍛えられ飛行機乗りとなる。支那事変が始まっており大陸に派遣され撃墜王の名を欲しいままにするも、惜しい事にこの頃はまだゼロ戦がなく、海軍九六式艦上戦闘機だった。撃墜した敵機と衝突して戦死。
 他にも「白色電光戦闘穴吹」と呼ばれた(どういう意味か不明だが)トップ・エース穴吹智曹長、と数え上げたらキリがない。yjimage[5]

 しかし、戦争は悲惨なものであることも語らねばなるまい。この写真は有名な知覧の特攻隊である。250kg爆弾を抱え離陸する第二十振武隊の穴沢利夫少尉である。そしてこの愛機こそ一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲。特攻はゼロ戦ばかりではない。知覧は陸軍航空隊の基地なのだ。知覧高等女学校生徒が桜の小枝を振っているということは敗戦の四ヶ月前だ。
 穴沢少尉は婚約者がいて、その物語は既に取り上げられている。
 昭和二十年の女学生は三回忌を済ませた亡母の同世代でもある。
 幼年学校、陸士予科、航空士官学校全て恩賜で卒業した若杉是俊大尉が殉義隊としてミンドロ島沖に特攻したのもまた隼であった。

 誠に蛇足ながら筆者は一度かの地を訪れ、平和祈願とともにあのような悲惨な戦争なきことの誓いを新たにして来た。

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Categories:遠い光景

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