無駄の勧め (今月のテーマ 無為自然)
2016 JUL 9 0:00:18 am by 西 牟呂雄
思えば、ですな。随分と無駄なことをしてきたものです。
あっちへ行ったりこっちに来たり、役にも立たない事に夢中になり、こうしろと言われた事を面倒になって放り出し、時々不満を抱えたり、そのくせミョーに明るいまんまここまで歩いてきた感じ。
最近色んなことを思い出して、あの時こうしてたらどうなっただろう、などと考えてみるのですが。すると不思議な事に結果としては今と同じようなことにしかならないと簡単に結論が出ました。もっと言えば誰でもできることしかやっていないし、別の選択をしたとしても今日のこの状況と変わらない自分ができあがってしまう、これは確信です。大それたことをする訳でもなく、犯罪に走るハメにも陥らず、トコトコと道を歩いてきたような。まぁ曲りくねったりあちこち陥没したりしてましたが。
言い方を変えると図らずも一生懸命道をこしらえていたのでしょうか。道というものはやはりどこかに通じますよね。
これを上から俯瞰してみると形而上的な絶対的存在はやっぱり有るといった趣があります。調和とでも言いますか。大きな岩を避けて、流れの速い川に橋をかけ、山があったらジグザグにそれを越えて。それは無駄とはいえないと思います。
ここで更に飛躍すると自然界と人間界の接点、或いは両方を貫き通すモノの境目が『道を切り開く』ことにも通じますね。なんだか大げさですが、その境目に立ってグルリと周りを見回して人智を超えるものとは何だろうかと言えば、そりゃ人間の感覚では見えないし聞こえないし触れることもできないから「無」となりますな。そして振り返ると歩いてきた道がある、と。
ここのところが最近のテーマの「無為自然」と解釈してるんですがどんなものでしょうか。
去年から野菜造りに励んでみてつくづく分かった。プロ根性も無く手慰みに種を蒔いて水をやってもジャガイモは育つが大根と胡瓜は絶対に育たないのです。僕は一年を無駄にしたことになるし、今では野菜に失礼なことをしたと反省していますが。
野菜は既に人工的に改良されており、種子なんかはF1種子に遺伝子組み換えされているから『無為自然』は通用しないのでしょう。
現実の人間には実に御しがたい感情があってどうしようもないのですが、何とか折り合って安らかに過ごす、柔弱な態度で世に処していく、良いときも悪いときもいずれも私事は相対的なもので、執着から解放された安らかな境地が得たいものです。これが無駄の勧めです。
儒教の体系はその後朱子学や陽明学に受け継がれていきますが、老荘学徒の方も竹林の七賢と言った人材が出ます。又、王弼・何晏・郭象といった政治家が有名です。
ところがですね、この人達は実際に偉くなってしまうとどうもいかんのですよ。
王弼(おうひつ)は魏の時代の人。子供の頃から秀才で名高かったのですがチャラチャラしたキャラで、酒ばかり飲んでは音律に通じたりしてばかり。頭のいいことを鼻にかけるところがあって当時の知識人からは嫌われました。
何晏(かあん)も同時代の人ですが、これがまた手鏡に自分の顔を写しては喜んでいるようなナルシストの自信過剰。おまけに大変な女好き。
郭象(かくしょう)は西晋の時代に『荘子』に脚注を入れた学者です。大変に口が達者で『懸河の水があふれるがごとく』喋りまくったらしい。しかし史書には「郭象は軽薄な人間」と書かれてしまう。
これらの人々は”玄学の徒”と称されますが、いくら『無為自然』とはいえこれでは。儒家の言う”徳の無い”こと夥しい。
どうもこういった才人は「ただ内側から光っていればいい」といった境地には至らないもんなんですかねぇ。現実には今日のチャイニーズにそんな人物は皆無ですが。
どいつもこいつも参考になりません。テキストがないなら独自の境地を拓くしかないようです。一人で無駄を極めよう。
Categories:言葉
西室 建
7/6/2017 | Permalink
去年の今頃、こんなものを書いて”無駄なこと”を考察したことを思い出した。
そしてついに『無駄なこと』の極致に思い至った。
それはこの私が長編小説を書いてみることだ。
テーマ? そんなもん知らん。