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伊豆の下田に 本年初航海

2017 JAN 23 22:22:50 pm by 西 牟呂雄

 知り合いのヨットに乗せて貰って下田まで。沼津から熱海まで来ていた船が帰路下田で一泊するから付き合わないか、というのでイソイソと行ってきた。
 ベテラン・クルーが7人もいたのでゲストの僕は何もやらなくていい。それで寒いから焼酎のお湯割りをガバガバ飲んだところ、朝から酔っ払って途中からキャビンで熟睡してしまった。クルージングも何もない。風は前日の雪まがいの荒天が嘘のように晴れ上がって風もない。
 通常この航路は伊豆半島と大島の間で複雑な海流の流れが入り組み、また打ち付けた波の反射でやっかいな三角波が起きるのだがこの日は楽だった(といっても寝ていたのだが)。
 伊豆半島は地図上もギザギザだが、海の中もあまり陸の近くをいくわけにはいかない。伊東でかつて海底噴火があったこともある。従ってあのデカい大島の外側を回ってから利島の先をかわして下田を目指す。
 河口のハーバーに入港した時はまだ日が高かった。その日は銭湯(温泉)にジャブジャブ浸かって更に飲んだ。
 
 で、翌日はというと物凄い風でズーッと沖の方まで白波が立っていて、さすがのクルーも出港するかどうか迷っていたが結局行ってしまった。神子元島は船の難所で有名なのだが、まァ大丈夫だろう。
 考えてみれば下田は入港しても飲みに行くのとお風呂に行く以外上陸したことなんかなかったのでブラッと観光してみようか。
 下田は日米和親条約で函館と共に開港されたが、幕府が黒船にビビって江戸から遠いという理由だけで選ばれたのではない。江戸時代になって廻船輸送が上方から江戸に向かうようになると重要な港として発展した歴史があるのだ。地図を見てもらうとわかるが、遠州灘を突っ切って相模灘に入る丁度境目に当たるのが下田だ。当時の航海技術では遠州灘と風向きが変わるために一気に江戸湾まで向かうのは危険で、下田で風待ちをするのが普通だった。
 回船(定期船)が年貢米や特産品を運ぶようになると必ず下田の御番所の調べを受ける海の関所となり、入り鉄砲・出女を取り締るようになる。出船入船三千艘という賑わいを見せていた。その後御番所が浦賀に移され街は寂れて行くが風待ちの港湾機能は残っており(大島の波浮港は幕末まで港湾機能はない)即ちインフラがあったのだ。了仙寺

 さて、色々大変なことが起こり日米和親条約が結ばれた。了仙寺は条約締結の場となる。この頃は今日のように会議場のようなものはないから、大勢の人を収容できる場所はお寺しかないのだった。
 ペリー二度目の来日で下田にやって来ると下田条約の下アメリカ人は下田の街中を自由に歩きまわれるようになる。つまり初めてアメリカ人が一般の日本人と接触することになったのだ。
 ペリー艦隊はバラバラにやって来て一時函館の測量に入ったりしたので、平均25日最長70日間滞在した。デモンストレーションで上陸した時は大砲四門を揚陸し、将兵とともに軍楽隊まで上陸した。了仙寺境内で演奏をしたというのだが、何を奏でたのだろう。
 米水兵は魚を捕ったり餅つきをしたり、それなりに交流めいたものがあったことが伺える。こういうことに妙味を示すのはまず子供だったろう。
 御番所が浦賀に移って寂れたとはいえ船宿は少し残っていたが、黒船がいて日本の船は寄り付かない。船宿のお茶引きは米兵を引っ張り込んではカモにもしたらしい。通貨は何だったのか、両替機能が完備していなければ、本当に身ぐるみ剥いだのかもしれない。
 その半年後にはすぐさまプチャーチン率いるロシアも開港された下田に来るのだが、実にタイミング悪く安政東海地震が起きて下田は津波をかぶりロシア艦「ディアナ」号が沈没してしまう。半年後にはハリスがやって来て、アメリカ領事館が玉泉寺にできたことを考えると、アメリカにツキがあったのかとも思えてくる。
 ところで船を失ったプチャーチンは地元の船大工を指導し帆船「ヘダ号」を建造して帰国した。ヘダとは西伊豆の戸田のことだろうが、日本の造船技術は大した物である。
 そしてこの時点での国境は千島列島では択捉島と得撫島の間、樺太では国境を設けず日本人とアイヌ人の居住地は日本領とする。これは今後の北方領土交渉の参考になりそうだ、歴史に学びたい。kaigann

 歩き回るのは趣味じゃない。タクシーで『近くの砂浜があるところに行って下さい』と言ったらエッという顔をされたが、10分程走って広い海岸に連れて行ってくれた。
 親切な人で『30分位だったらまた来てあげるよ』とありがたい。
 去年13時間航海して行った神津島が見えたので撮ってみたが、良く写らない。
 きょうは特急踊り子で3時間で家に帰る・・・。

 ところで出港して沼津を目指すはずの船は、あまりの強風に難所の神子元島をかわすことが危険だと判断し、サッサと下田に帰ってきたそうである。

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