島津征伐
2017 FEB 27 19:19:27 pm by 西 牟呂雄
総勢20万ともいわれる大軍勢を率いて九州に上陸した秀吉軍は、精強を持って九州統一の意気盛んだった島津勢を次々に攻略する。いかに勇猛果敢な薩摩隼人と雖も多勢に無勢、歴戦の戦上手の秀吉軍は大友・龍造寺といった田舎大名とはわけが違う。肥後口・日向口から攻め立てるとさすがに総大将島津義久も降伏・和議の腹を固めざるを得なかった。
しかし、頭の痛いことが二つあった。一つは剛直を持って聞こえた実弟の歳久である。秀吉が九州に赴くと聞いて合議の中、全体が秀吉何するものぞと沸き立つようになった時に唯一人秀吉恐るべしと和議を唱えていた。義久にはその意見具申を一蹴した負い目があった。
もう一人やっかいなのは、薩摩・大隅統一に抜群の功績を残した島津一門の庶流、新納(にいろ)武蔵野守忠元。胸に届くほどの美髯を垂らして奮戦し、今回も長宗我部勢を打ち破る働きをした猛将である。
歳久は『だからあれ程やめろと申し上げた。そもそも和議にはその時勢というものが有り申す。旗色が悪くなったから降伏するでは後世憂いを残す事必定』と言い放てば、忠元は更に吼える。『オイ達ァまだ負けちょいもはん。これッしきのこっで和議とは薩摩ン武士の意気地はどこい捨てもした』と。
しかし義久は薩摩人の気質を知り抜いている。突貫突撃では無類の強さを発揮するが、一端引き始めると誠に粘りのない。もはや止め時なのである。義久は剃髪した。
新納武蔵守忠元、鬼武蔵とも親指武蔵とも言われている。数を勘定する際に一つ目は親指を折ることから、武功第一を称える故についた通り名である。
いよいよ義久の次弟義弘まで和議を結ぶに当たり忠元も覚悟を決め、降伏の儀式に秀吉に謁見することとなった。
剃髪し居並ぶ諸将の中を進み、深く頭を下げた。小柄であった為一層小さく見えたが、ただならぬ殺気を発していた。人たらしとも言われる秀吉はおもむろに尋ねる。
「よう参られた、武蔵守。まだワシと戦うつもりか」
さすがにいきなりの言葉に周囲は息を飲んだ。
「如何に逆らいましょうや。しかし我が主人義久の命あればいかにも」
「あっぱれじゃ。音に聞こえた薩摩武士。どうか、我が配下にて10万石とらせるとしたらいかに」
「主人義久からであればありがたし。愚直者にて二君にまみえず。義久もまた秀吉様の主従の約を交わしておりもす」
一同このやりとりに唖然としたが、秀吉が笑みを浮かべると座はなごやかになった。
儀式の酒宴が張られ、秀吉は上機嫌で一献をつかわすと、忠元は長く伸ばした白髭を左手で持ち上げて飲み干す。
細川幽斎はかねてより忠元が和歌の道に通じている事を知っていた為、その姿にこう声をかけた。
「鼻の下にて鈴虫ぞなく」
受けた大杯を飲み干した忠元は、暫く視線を落としていたがグッと細川幽斎を見据えると通る声で上の句を発した。
「上髭をちんちろりんとひねりあげ」
一同呆気にとられて一瞬静寂に包まれた。そこに遠慮のない大笑いが聞こえた、秀吉が笑い転げているのだ。それをきっかけにその場の全員がドッと湧いたのにつられ、忠元もまた渋面を初めて崩しニコリとして見せたのだった。
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Categories:列伝
トム 市原
2/28/2017 | Permalink
あっぱれ、10万石を使わす、良きに計らえーーーとは行かないか。
小生の先祖は故愚兄の調査に依れば明智光秀の一族だったらしいです。本能寺以後追われ、三浦一族を頼った後に船で対岸の下総へ行き、市原姓を名乗ったそうです。
市原姓は皆 明智一族の「桔梗紋」です。
父が生前「市原は年百石の侍だった」と言ってました。子供心に「へー、立派だったんだね~」
葬式の時に市原村から父の兄が来てその話しをすると「ばか言え、年百石は傘張り大名といってな、傘張りでもしなければ食えなかった最低だったのだぞ」
母方は山梨の武田家の末裔で祖母は「世が世なら武田家の姫様じゃ」
お袋は幼い頃悪いことをすると板の間に座らせられて「其処へ治れ、仕置きをしてくれる」といって鉢巻きをした祖母になぎなたで尻を叩かれたそうです。
姉はかわいがって貰いましたが、小生達 男の孫はくじら尺でひっぱたかれてばかり居て笑顔を見た事は有りませんでした。
居間に祖母がいると、そーと抜けていくと「だれじゃ~?足を洗ったか?」もう夢中で厠に駆け込みました。
怖い人でした。
西室 建
3/2/2017 | Permalink
百石取りならばそこそこです。
武田ですか・・・。父方はコテンパンにやられて逃げ回り、母方に至っては信玄公の初陣で討ち取られています、トホホ。