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三島由紀夫の幻影 Ⅱ

2019 MAR 1 7:07:22 am by 西 牟呂雄

『「今夢を見ていた。又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で」
 本多はきっと清顕の夢が我家の庭をさすろうていて、侯爵家の広大な庭の一角の九段の滝を思い描いているにちがいないと考えた』
『正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った』
『医師が着いたのはすでにジン・ジャンが最後の痙攣を起こし息絶えたあとであった』
『記憶もなければ何もないところへ自分はきてしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている』
 三島由紀夫の遺作である豊穣の海の『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の結びの文章である。
 僕はこの長編小説のうち第二巻『奔馬』を中3で読んで感心し、一巻目の『春の雪』に戻って何とつまらないと勝手に飽きた。生まれ変わりの話であることは事前に知っていたが、一巻目には不遜にも陳腐な話だと感想を抱いて『暁の寺』には進まなかった。
 ところが高一の秋に三島が例の事件で切腹してしまい、あわてて『暁の寺』を読んだのだが、正直うんざりさせられた。まぁ、ガキだったせいもあって唯識論の長い部分は面倒になり、後半の本多がジン・ジャンに執心するところや覗きの場面にも不快感しか感じなかった。
 その時点で『天人五衰』は単行本化されておらず、それどころか連載の脱稿は自決当日である。三島らしい演出だとも言われる所以である。
 刊行されたので読むには読んだが、透が贋物である事を覚り自殺に失敗して盲人となる辺りで一旦挫折。ニ十歳で死なずに絹江と結婚する薄気味悪さにギブ・アップ、最後だけ読んで一応読了したことにしたが、率直に言って「いくら天才作家でもふざけるんじゃない。本多の見苦しい姿は将来の作家の姿を投影でもしたのか。初めから存在しない嘘っ八を並べて(それも何年もかけて)読者を欺いたつもりなのか。さらには綾倉聡子は本多よりも2歳年上だから単に耄碌してボケ枯淡の境地に行ったのか」などと思ったものだった。
 何しろ三島は死んでしまったから新たな言葉は永久に出てこない。その後の僕は三島から離れ、たまに偶然という感じで名前をみつけると、ブログに印象を書き付けたりしている。不真面目な読者だった。

三島由紀夫の幻影

 しかし敢えて最後の文章を並べてみたが、前二巻に比べて後二巻は実に冴えない印象と言っては言い過ぎだろうか。無論僕の好みとは関係なく全体を通じての文章の美しさと格調高さは保たれている。
 昨年、大澤真幸の『三島由紀夫 ふたつの謎』が新書で出た。パラパラと目を通して直ぐにハッとさせられた。
 三島の創作ノート段階では『天人五衰』の終わり方が違っていた。
「本多死なんとして解脱に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ」
 とあったのだ、と。この少年こそが清顕と同じ黒子を持つ生まれ変わりだ、と。ところが執筆中に非常な精神的変化が起きて、全く別の絶望的な終わり方になったのだと綿密に検証している(しかし、いくら何でもこの創作ノートの終わり方はなかろう、これではピーター・パンのラストではないか)。
 もう一つ、豊饒の海は昭和40年から連載が開始されているが、三島が積極的に天皇論を論じるようになったのとほぼ同時期であること、これも今まで気が付かなかった点だ。有名な『文化概念としての天皇』と、誰が見ても当たり前な事である『人間である天皇』という矛盾した概念がせめぎあい、三島の天皇観は実に歪んでいく。45歳の自決でいつまでも若々しい印象を放っているが、満年齢は昭和の年と同じで20才の時には焼け跡だらけの東京で途方に暮れる学生だったのだ。天皇に対し、2.26の将校や特攻隊員の言葉を借りてまで、呪詛に近い怨念を書き連ねたりもした。
 同時期に、豊穣の海も輪廻転生と唯識論の概念の中を彷徨っていく感じがシンクロしていると言えなくも無い。  
 しかもこの間、結成した楯の会の運営と訓練に相当の密度で時間と金を費やし(最後は年間2500万円かかった)その中の人間関係でも苦闘を続けている。左派街頭闘争の激しさから、本気で治安出動の可能性を感じていたためだ。よせばいいのに一部自衛隊関係者とは訓練や会合を通じてそれなりの連携があったことも明らかになっている。
 しかし機動隊により国際反戦デー闘争、佐藤訪米阻止闘争が完全に鎮圧されたために楯の会の内部が急進化する。出番を失い、そして事件の半年前から計画を練ることになってしまうのだが、この間も『天人五衰』の執筆は続く。
 著者は更に初期の作品、金閣寺や花盛りの森・仮面の告白等との比較において様々な考察を加え三島の筆先に迫っていくのだが、詳しくは本書を読んで頂くしかない。
 作品の結末の圧倒的な虚無から逃避するために、単なる自決ではなく自らの思想と心中したということなのか。
 ところで、あんまり早熟な読書をして、つまらないなどと分かったつもりになっていることは恥ずかしいことのようだ。
 これは面倒がらずに全編読み直しをするしかあるまい、ライフワークか。

 それでは万が一にもあの市ヶ谷で『三島先生の仰る通りだ』の声が自衛官から澎湃と上がったならばどう落とし前をつけるつもりだったのだろうか。
 

 追記:
『やあ、あなたとはいつも太陽の下で会う』
 三島に決行当日に檄文と手紙を託された徳岡孝夫の記述に出てくる三島の肉声だ。三島が取材のためにタイに赴いた時に知り合い、その後東京で三島邸を訪ねたときの言葉だと徳岡が書いている。
 僕は、三島はしばしばこういった芝居がかった台詞を、実は周到に用意して使ったのだという仮設を見立てている。2・26の磯部が憑依した、とかもそういう類なのではないか。 そして、自害した後もそういう仕掛けを埋め込んでいないだろうか。昨年、潮騒の取材で訪れた神島で船舶通過報を発していた人に出した手紙が発見されたのも、案外三島自身が仕組んだように思える。
 すると2020年は没後50年目に当たるので、何かの発見、或いは誰かの暴露があるのかと期待してしまう。

 もう一つ、三島は泳げたのだろうか。海はしばしば作品に登場するが、常に穏やかで豊かで、あまりに明るすぎる。作品も『豊穣の海』だ。
 このあたり、僕なぞは実際に長い航海をしているので、あの一見静かな波の上がどんなに厳しいか、熱いか、はたまた寒いかが骨身に染みている。あれ程石原慎太郎なんかと親しく交流していてもヨットには乗らなかったと思われる。石原の記述にも出ない(他の有名人は時々登場しても)。 ごく初期の短編である『岬にての物語』に子供の筆者が泳ぎを覚えなかったという話が出て来る。
 三島の運動神経の鈍さは有名だったから、ひょっとして泳げなかったのではないかと推察する所以である。ご教示頂けるならぜひ確認したい。

 最後に、筋肉増強剤を使用していないか。あの当時はまだ問題化していなかっただろうが、副作用としての精神的高揚感は見てとれないのか。
 三島の高い精神性からみてもやったとは思えないが、見る見るうちに筋肉がついたというのは本来の運動神経からいってやや違和感がある。
 写真集の話が持ち込まれた時に『半年ほど体を練ってから』と返事をした上で結局受けているが、その間・・・。

昭和45年11月25日

昭和45年11月25日 (その後)

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