私の平成
2019 MAY 17 7:07:01 am by 西 牟呂雄
昭和64年。昭和天皇崩御に際して自粛となった晩に、私は試みに盛り場の様子を車で巡回した。新宿も渋谷も確かに真っ暗だった。派手なネオンは消されており『街は悲しみに』沈んでいたように見えなくもない。車は少なく、しかし人通りは多かった。
そして歌舞伎町をすり抜けようとした時、異様な物音に気が付いた。パチンコである。ギラギラ・ネオンは落とされていたものの、店の中ではジャラジャラと励んでいたのだ。
渋谷の道玄坂では渋滞した。その時に隣の車がジェームス・ブラウンを大音量でかけてユッサユッサとリズムを取っていた。ギアをドライブにいれてプレーキをポンピングさせている、早速真似してみた。
私の平成はこうして始まった。天安門事件があり、竹下内閣が潰れ、宇野総理が辞任して海部内閣になった年である。
元号があるのは世界でただ1国、日本だけだ。色々と解釈はあるだろうが、日本人はこれによって時を支配する超自然的な力を感じるのではないだろうか。
バブルの最後あたりを、六本木のビルの名前が刻々と変わることで実感した。
私はメーカーの末端管理職だったが、少しのタイムラグを経て風に晒された。その過程は既に詳述されている。当時、財テクといった言葉も使われ、製造業といえどもバブルに踊った。弾けてからは多角化とグローバル化で乗り切ろうとどこも同じことを始める。当時の製造業のグローバル化とは、優れて東南アジアに製造拠点を移す事だった。いわゆる”軽い”工程を移管するのだが、最も流行ったのはシンガポール・マレーシアで、SQ便に乗れば必ずと言っていいほど同業他社の知り合いに会った。甚だしきは日本語のカラオケに全く不自由を感じないで過ごせるようになっていった。
その動きは紆余曲折を経て、10年後には中国に変わり、私達は地図を眺めながら、Vターン効果などと言っていた。中国の辺鄙な(といっても大都市だが)ところで日本人単身赴任者千人につきワン・ブロックの割合で日本式カラオケ屋が密集する、というのが実感だ。おまけに日本でリストラを繰り返すため、流れた技術者がノウハウをペラペラ喋っているのは何度も見た。
一方バブルの後遺症は10年でカタがつくはずもなく、企業の大型合併が進む。おそらく当初はどの金融機関も不良債権全体を見積もる事ができずに、10年後には増えていた。そして国際会計基準というアメリカン・スタンダードが進み、良く言えば経営効率が良くなったことになっている。それはそれで良いのだが、経営に落ち着きがなくなったと言えなくも無い。
なんとか不良債権が言われなくなったのは次のリーマン・ショックで麻生内閣が潰れ、その後に小泉内閣が熱狂的な人気で誕生した更に後だったと記憶する。
私はその間、シリコン・バレーと東南アジアを根無し草的にウロウロして過ごした。その結果、多角化の勢いでスピン・オフをし、その勢いが止まらずに色々あって九州に流れた。
平成最後の10年は、かつての我々以上の勢いの中国勢の台頭を目の当たりにしていながらなす術がなかったかの感、無きにしも非ず。黒田総裁の異次元緩和で足元は好景気だということになっているが、日本の製造業の収益力は世界の中で(トヨタを除いて)確実に落ちてきた。逆に言えば緩和がなければとんでもないことになったはずだ。復活安倍内閣の直前は1$=80円である。
更には目下の稼ぎ頭は金融ではなく、ネット関連である。それも世界中で、である。
そして私のフィールドはアメリカ・東南アジアからロシア・インドに変わって令和に至る。
いつの時代でもそうだが、平成も生々しい災害・事件はあった。神戸の地震は丁度マニラに飛んだ日で、着いてBS・NHKの中継を見た。
地下鉄サリン事件の時は富士山の麓のスキー場にいて、今から考えるとそのすぐ近くにサティアンがあったのだ。
サカキバラセイトは本まで執筆し、今も社会生活をしている。
9・11では知り合いが何人もニューヨークにいてハラハラした。帰宅するとテレビに釘付けになり、2機目か3機目か忘れたが、突っ込んだのをナマで見る。
中越地震において原発は安全に運転を止め、私はその技術レベルの高さに関心したが、東日本大震災の福島は・・、このときは東京にいなかった。
私はどうも大惨事には合わないようになっているのか、と被災者に申し訳なく思った。津波の惨状に呆然としたが、事態が深刻だったという情報が把握できたのは2日程してからではなかったか。当初の犠牲者は数百人としか伝わらず、いかなる機関も全貌が分からなかったのである。
どの災害でも私ごときができることはなく、僅かに水素爆発した後の計画停電への協力ぐらいだった。ところが打ちひしがれ、不自由な暮らしを強いられる被災者の方々が、天皇陛下の慰問を境にガラッと癒される、それを見る色々と気を揉んでいる国民全体がホッとするのを見た。まさにその瞬間・瞬間に平成が(私には)刷り込まれた。
平成が始まって暫くして宮澤内閣を最後に自民党の単独政権が成り立たなくなったが、合従連合が繰り返されるのを眺めながら「日本が政治的に安定するのは2010年頃ではないだろうか」と言ったことがある。それは別に自民党単独政権に戻るという意味ではなく、保守・革新といった単純な対立構造のイデオロギー的神学論争などにエネルギーをすり減らさない世の中になっていくと考えたのだ。
だが、投票行動は全くアテにならない。チルドレンだのガールズだのが大量当選するのは健全だと思えない。
小泉総理は靖国に参拝したりして、一見ゴリゴリの保守に思われたがそうではない。歴史小説は好きなようだが伝統と言ったものに対しては破壊的だ。そしてその後、民主党政権が成立して予言は当たったと喜んだのだが、結果はご案内の通り。野田総理を高く評価していたが、分裂体質を孕む民主党体制がどうしようもなかった。
その後が現安倍政権だ。小泉~安倍の清和会の系列はタカ派と言われるが、私には現実的な対応に見える。隣国の無理難題を無視するところが誠に結構(ただし清和会には福田康夫もいる)。
一世一元であると、現代人は多くても3つの元号しか生きられない。従って昭和生まれの我々は令和の次はない。もっと言えば昭和に青春を浪費した世代はオジサン・オバサンとして平成を迎え、おじいさん・おばあさんになって令和を過ごす。
平成の初めには移動電話や電子メールだったのがスマホになる。元々機械・システムに弱いオジサンはその時代の変化に最後尾からノコノコ付いて行った。
平成で冷戦を制したアメリカの一人勝ちが始まった。30年後の今なら分かるが、要はカネの問題だったのだ。アメリカのカネに負けてソ連は無くなった。
アメリカは日本にもイチャモンをつけていたが(細川内閣に、とか)、お次はGDPで日本の倍になったチャイナが目障りだ、潰せ。最終的にアメリカにマネーが還流するインペリアル・マネー・サイクル(私の造語)に触るな。
きっとそのうちGAFAも気に入らなくなる、それがトランプなのではないか。そのトランプが令和最初の国賓として来日する。
私の平成はいつも切羽詰っていた。酔っ払っていた。出たとこ勝負ばかりだった。目まぐるしかった。途方に暮れていた。幸い病気には罹らなかった。大怪我もしなかった。笑った。ブログを書き始めた。スノボができるようになった。
大切な出会いもあったが、多くのことを捨ててきた。今や新しい出会いなど必要はないと考えるに至っている。
令和天皇は私よりもお若い。昭和9年から昭和35年の生まれは、自分よりお若い陛下を初めて見るわけだが、即位後の天皇皇后両陛下の表情は充分に安心感を与えてくれた。皇后陛下も回復され、令和流を作っていかれるに違いない。
この30年という平成を通じて、音楽の趣味・読書傾向変わらず。何とか令和を迎えられた。平成は30年もあったのだが、マッやっとこさっとこ生きてきたわけだ。
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Categories:遠い光景
西室 建
5/28/2019 | Permalink
宮中晩餐会に令和流を見た思いだ。
天皇陛下の自然体。実にトランプ大統領を前に威厳すら感じた。
そして溌剌とされる皇后陛下のお姿に目を見張った。誠に皇室はありがたく、日本外交の強力なソフト・パワーとなるであろう。
我々保守派にとって、まさに希望のエンプレス・スマイルだった。