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痛快 脱藩大名  Ⅱ

2019 NOV 2 0:00:30 am by 西 牟呂雄

 江戸に送られた後、忠崇は唐津藩預かりで謹慎の後、特赦を受けた。しかしながら脱藩による改易処分(大名の改易処分は歴史上最後)を受けたためにまさに無一文で全てを失った。
 原部建之助もまた江戸での周旋に失敗し、失意のうちに旧居に戻って無聊を囲っていると、近隣の百姓である石渡金四郎が通りがかりにいきなり土下座した。
『原部様』
『おう、そちは』
『へえ、請西の百姓、金四郎でございます』
『む、息災か。御維新以来我が藩は改易扱いで苦労をかけておる。その方等はどうじゃ』
『いや。それが、一つお聞きください』
『いかがした』
『へえ、実は、手前共の離れにお林様が寓居されておりまして』
『ほーう、・・・なに!殿がだと。バカなことをを申すな』
『それがまことにございます』
『東京の忠弘様の所におられるのではないのか』
『突然お見えになられて、開墾する、と言い出されたのでとにかく家の離れにご案内致しました。そこでお過ごしで』
『しかし何をしておいでだ。殿に百姓ができるのか』
『とても見ちゃいられませんや。お手伝いします、と申し上げても「その方等に迷惑をかけとうない」と取り合ってもらえません。そりゃ土台無理ですよ。何も採れないからあれじゃ冬は越せません』
『何と・・・。お助けしなければ』
『お助けって、まさか一緒になって百姓をやるのは是非お止めくださいよ。私等やりづらくってかないませんや。しかも百姓の合間に何のつもりか竹竿を振り回していらっしゃいますが、近所のガキ共が面白がって真似すんですよ。お林様はたいそうお喜びで、ウチのガキを筆頭に大勢集めて一緒にやりだしたんです。こないだなんざその竹の先に鎌を括りつけてました』

宝蔵院流槍

『それは宝蔵院流の槍だ。殿はその槍の達人だ』
『えっ、ありゃ武道ですか。益々冗談じゃない。そんなもんに夢中になられてうちのガキが戦に取られたらどうしてくれるんですか』
 慌てた原部は八方手を尽くして東京府の下級役人の職を探しだし、渋る忠崇をとにかく説得した。
 ところが明治8年に東京府権知事として楠本正隆が赴任して来る。楠本は大村藩士で、後に衆議院議長・男爵にまで上り詰める切れ者だ。当時は大久保利通の腹心であった。改革派として辣腕を振るうのだが、その強引さに反発し10等級も下の忠崇は楠本と衝突して辞職する。
 周りは慌てるが、忠崇は意気軒昂であり「これからは商(あきない)も分からなければ」と何故か函館に渡り、仲栄助商店で番頭となってみせた。律儀に務めるが、仲商店は破産、忠崇も再び一文無しになる。
 しばらく神奈川県座間で水上山龍源寺に住み込んだ後、次は大坂において西区の書記に奉職した。
 このドタバタの間、華族制度が施行され旧大名は尊王・佐幕の別なくことごとく爵位を与えられる。旧勢力の懐柔が目的で、武士を潰す際の数々の内乱を二度と起こさないための方策だった。
 ところが、維新のドン詰まりの脱藩で、新政府によって改易された林家は全国でただ一藩爵位が与えられなかった。林家そのものは士族として甥に当たる忠弘が継いでいた。
 忠崇は転々としながらも嘆くでなく、後悔の念を表すでもなく、慎ましくはあるがその時その時の境遇において花鳥風月を楽しみつつ暮らした。

 明治26年にもなって原部等の奔走・嘆願で、林家当主の忠弘は華族になる。そして忠崇もまた復籍し、宮内省東宮職庶務課に勤めたり日光東照宮の神職となったりして昭和16年まで生きた。
 死に当たって辞世は、と尋ねられると「明治元年にやっている」とだけ答えた。それは仙台で降伏したときのものらしい。
『真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ』
 切腹の覚悟を持っての辞世であろう。
 墓所は港区愛宕の青松寺だが、実はこのお寺は禅宗の名刹で、忠臣蔵の赤穂浅野家の菩提寺でもある。世間を憚って浅野家の墓所は現在でも空きにされている。赤穂浪士は初め青松寺に来たが、難を怖れた寺が入れなかったため泉岳寺に行ったのが実態なのだった。
 その浅野本家筋にあたる旧広島藩主・浅野長勲が昭和12年に没したが、それにより忠崇が元大名のただ一人の生き残りとなった。
 当時の新聞は最後の大名として幾つかのインタヴュー記事を載せた。本人の言葉が残っている。
「いや浮世は夢の様なものです。私共若気の至りでやつた事も今考へて見ると夢です」
 若き日の前代未聞の藩主の脱藩についても。
「武士道、武士道と言って鍛へられた私です。そして300年俸禄を食(は)んでいる。どうも将軍の取り扱いが腑に落ちなかった。徳川には親藩・譜代もかなりある。私が蹶起(けっき)すれば応ずる者があると思ったのが私の間違いの元です。世の中を知らなかったのです」
 志叶わず敗北したこと。
「私は私の考えで行動したいと思い、そして降参しました。降参すれば斬罪になると言ふ事は覚悟して居りましたが、自殺する気にはなれませんでした。自殺すれば誰も私の心事を弁解して呉れる人はないと覚悟して、泰然として東京に送られたのであります」
 赤心誰ぞ知るや。新体制はかくの如く清々しい武士を役立てることは出来なかったが、しかし仕掛けた側も同じように多くの血が流れなければ革命はできるものではないのだ。
 令和の平和な時代に、内なる錬磨が必要とされる所以である。

おしまい

痛快 脱藩大名  Ⅰ

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