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情夫(いろ)に持つなら彰義隊

2021 JUL 4 0:00:00 am by 西 牟呂雄

 謹慎していた前将軍、徳川慶喜は水戸に去った。江戸城は主を失ったが、この時点では誰の物なのかははっきりしない。無血開城によって関東各地に散らばった旧幕臣の残存部隊は無傷であり、盛んに抵抗をしており、官軍はその追討に兵力を削かざるを得ない。従って江戸に残っているのはたったの3千程。大参謀西郷隆盛は江戸市中の治安を勝海舟に委ね、勝はその任に上野寛永寺にたむろしていた彰義隊をもって当たらせた。
 その彰義隊、無論徳川の正規兵でも何でもない。とにかく江戸に官軍が来て我が物顔に振舞うのが気に入らない不満分子の塊である。頭取からして一橋家の家臣に取り立てられた渋沢成一郎と、与力の養子となって旗本になった天野八郎。彼らが集まっては悲憤慷慨しているうちに出来上がった寄り合い所帯なのだ。
 ところが勢いに乗じてその数3千人にまで膨れ上がり、気炎を上げていた。
 勢いに乗じて官軍との徳川家処分について交渉していた策士勝海舟は次々に難題を突き付け西郷を翻弄し始めた。西郷は妥協を重ねるが、京都の新政府幹部はそれが気に入らない。西郷も板挟みになっていたのだった。
 そのころの江戸の世論は主に廓が発信元だ。花魁達はもちろん幕府びいきで、上京してきた官軍兵士なぞはその田舎者振りや傍若無人な振る舞いで嫌われる。一方彰義隊士は元々江戸っ子ばかりがにわかに景気づいたせいでやたらと金払いはいい。廓の人気はうなぎのぼりで『情夫(いろ)にもつなら彰義隊』と囃される始末。情夫(いろ)とは花魁の贔屓客のことである。当時の記録を読んでみると大人から子供まで、官軍とは異国の進駐軍を見るような感じで、一つには戦闘もなしにのさばっているのが気に入らない。
 ところが彰義隊内部では、直情径行の天野に対し元々一橋家の家臣だった渋沢はソリが合わなかった。渋沢にしてみれば主が恭順をしているのに足元で暴れるのはいささかの遠慮があり、戦闘はできれば避けたい。そこを天野から弱腰と罵られ遂に分裂してしまい、一派を率いて江戸市中から多摩の田無村に本陣を移した。
 彰義隊のいる寛永寺は、天海僧正が開山し広大な上野の一山が寺領である。歴代皇族の法親王を天台座主に戴いた。幕末の輪王寺宮公現法親王は 伏見宮邦家親王の庶子ながら、新政府からの京都への帰還の勧めを拒否。江戸に進駐してきた東征大総督である有栖川宮の呼び出しにも応ぜず、配下をして彰義隊の面倒を見させる有様はあたかも南北朝を彷彿させる気骨を持っていた。
 江戸は不穏な情勢に包まれる。官軍を白眼視する江戸っ子達、情勢次第で勝ち馬に乗りそうな面従腹背の幕臣および関東の親藩、田無から江戸を睨む渋沢成一朗の振武隊。
 官軍と彰義隊の小競り合いも多発するにいたり、ついに京都から三条実美が大村益次郎を伴って東上してきた。

「オイ!丈の字!丈太郎!」
「ヘーイ」
「マヌケな返事を寄越すな、このトウヘンボク」
「ヘイヘイ。何でス、親分」
「噂じゃ官軍がいよいよおっぱじめるらしい。寛永寺まで一っ走りして御用の向きを聞いてこい」
「えっ、とうとう始まるんですか戦が」
「おうよ。彰義隊の旦那衆が続々と集結してる。デケー面してやがるイモ侍に一泡吹かせてくんなさるんだ。この新門一家が指咥えて見てる訳にゃいかねー」
「わかりやした」
 新門辰五郎、浅草の火消し「を組」の頭でありながら慶喜の知遇を得て、娘を妾に差し出した大の官軍嫌いである。
「親分!でーへんだ。天野様の元にいったら戦はあしただそうです」
「あしたー!」
「へェ、鉄砲の弾除けに畳や俵をあるったけ持って来いっての仰せで」
「若ェ奴等を全員集めろ。そこいらの畳をひっぺがしてお山に登れ」
「合点だ」
「あっそれから「を組」は火消し装束だぞ」
「わっちらも戦すんですか」
「バカヤロー。戦がはじまりゃ火事になるに決まってんだろ。お山を灰にされたら江戸っ子の名折れだ」
「けど親分。親分はここにいなすってくだせいよ」
「何だと。テメー俺を年寄り扱いする気か」
「いやっ、だって古稀ですよ。万が一のことが起きんとも限らねえ」
「やかましい。さっさと纏を持ってきやがれ」
 通称「般若の丈太郎」は通り名の般若を背中に彫り込んだテキヤ上がりの道楽者だ。浅草の飾職人の息子だが放蕩が過ぎて勘当され、神農のシノギをしていたところ度胸っぷりを買われて辰五郎の用心棒のような「を組」の代貸し格に納まっていた。喧嘩の時も頼りになる腕利きだが普段は大酒を食らってばかりで何の役にも立たない。
 火消しは通常トップを『おかしら』『かしら』と呼ぶが、丈太郎はテキヤ時代の癖が抜けず『親分』と呼びならわしていた。
 総勢280人程の『を組』が勢揃いすると辰五郎が激を飛ばす。
「野郎共、明日は上野の山の大火事だぁ。新門一家が束んなって大伽藍を官軍からお守りするんで今夜から籠るぜ」
「おう!」
鳶口(とびぐち)・刺又(さすまた、指俣)・鋸は言うに及ばず、竜吐水(りゅうどすい)・独竜水(どくりゅうすい)・水鉄砲・玄蕃桶(げんばおけ、2人で担ぐ大桶)といったいわゆるポンプの類を担いでの行列はまるで百鬼夜行だが、広小路口からの参道では物見高い江戸っ子から、今までの鬱憤を晴らすように声がかかった。
「かしらー!頑張ってくんねぇー」
「丈の字ー、しゃかりきに行っといでー」
「丈太郎、頼んだぜ」
「般若の兄ィ」
 調子にのった丈太郎は手を振って応える。
「任しとけ。官軍なんざ屁の河童だ」
 辰五郎はいやな顔をした。
「丈太郎、ただの喧嘩ざたじゃねぇ。黙ってやがれ」
 すると同じように黒門を目指してくる武士の集団と出会った。こちらは50人程の小部隊だがやや速足で整然とやってきた。誰も口をきかない。先頭の者が掲げる旗には『會』の文字が見て取れた。
「親分、ありゃお武家さんですね」
「あの旗は会津だ。まだこの辺に残っておられたのか。はて、殿さまと一緒にみんな帰って行ったと聞いていたが」
 立場上、先を譲ると軽く目礼して黒門から入っていった。新門一家も後に続く。中腹の寒松院に陣取る頭取、天野八郎に挨拶をすると根本中堂のあたりに固まって朝を待った。

 翌朝午前7時。黒門正面の現在松坂屋のあるあたりに兵を進めた薩摩藩の前線指揮官、篠原国幹が「放てーッ」の命令を下した。一斉射撃が響き渡ると彰義隊も撃ち返し戦闘が始まった。丈太郎はつぶやいた。
「いよいよ始まりやがった」
 彰義隊は黒門の近くの小高い山王台(西郷隆盛の銅像のあるあたり)に四听(ポンド)山砲を2門据え付け、全面の薩摩藩兵に向けて猛烈な砲撃を加えた。轟音とともに前線が吹っ飛び煙が上がる。
「ざま-みやがれ。こいつぁー景気がいいや」
「丈の字!うるせい、少し黙ってろ」
「へい」
 うるさいも何も銃声と砲弾の炸裂音で会話なんぞ聞き取れない状況だ。
 薩摩軍の消耗は凄まじく次々に死傷者が運ばれる。すると他藩の動きが鈍った。薩摩軍と共に黒門攻略に当たった熊本藩が誤射してしまい薩軍に負傷者が出る。
 当時、脱走歩兵部隊は関東各地で暴れ回り、奥羽や越後の各戦線からもひっきりなしに援軍要請が来る中、官軍の中枢である薩摩兵は江戸に4個中隊(数百人)いたに過ぎない。西郷が事前に薩摩軍の配置を見て「薩摩兵を皆殺しになさるおつもりか」と立案者の大村益次郎を問い詰めると「そうです」と答えたという都市伝説すらある。
 また、背後の団子坂から谷中門に向った長州藩は、貸与された新式スペンサー銃の扱いに慣れておらず、すこぶる奮わない。
 ドカーンンンと重い大音響と同時に根本中堂が炎上した。
「オイッ、いってーどっから火が降って来たんだ」
「わかりやせんぜ。黒門は破られちゃいねえ」
「グズグズすんな!火消しの出番だ」
 そう言っている直後にまた数発が着弾して台地が震える。吉祥閣・文殊楼まで燃え上がった。
「親分、あっちだあっち、池の向こうの前田様のお屋敷からだ」
「バカ言え、あんなとっから届く大筒なんか・・・」
 ドカーン、今度はすぐ近くで炸裂した。
「さっさと龍土水をブチかけろ」
「かしらー、永吉がバラバラになっちまったー」
「ナニー」
 その時黒門の方を見やった丈太郎は抜刀した一団がこっちに向って来るのを視認した。昨日の会津藩の旗を掲げていた連中だ。その者たちは周りにいる彰義隊士に切りかかっているのだ。
「親分、マズい。寝返りだ寝返り。あいつら会津藩兵じゃねぇ。官軍だったんだ」
「冗談抜かせ」
「火消しどころじゃねえよ。こっちに切り込んできやがった」

 黒門の前衛の彰義隊が動揺しているのを見て取った篠原国幹が振り返って西郷に尋ねた。
「もう、よかごあんど」
「うん、もうよか」
 西郷は奇しくも後の生涯最後に言った言葉を発した。すると薩軍は一斉に抜刀し、独特の切っ先を高く上げるトンボの構えをすると、各々例の「チェストー」という声を上げて切り込んだ。内部をかく乱されていた彰義隊はもはや持ちこたえられず黒門を破られ、勝負がついた。
「親分、だめだ逃げましょう」「かしらー、もうだめだ」
「バカヤロウ、逃げるな!火を消すんだー」
「親分、分かったからこっちに」
 「を組」も四分五裂になり、丈太郎は子分共と喚く辰五郎を引っ担ぐように逃げた。彰義隊は総崩れになり、大村益次郎が作戦立案の際に玉砕覚悟の抵抗を避けるために手薄にしていた東側から根岸の方に落ちて行った。孫子の兵法で言う囲師必闕(いしひっけつ)の構えである。
 辰五郎一行がジタバタと走っていると寛永寺の僧侶が二人、やはり落ち延びているのに追いついた。通り過ぎようとして若い方の顔を見た途端、辰五郎は一行を制しひれ伏した。丈太郎以下も何事かと土下座する。辰五郎は絞り出すように言った。
「御前様。あっしらが不甲斐ないばかりに申し訳ございません」 
  輪王寺宮公現法親王が側近である執当役の覚王院義観を伴って落ちていくところだった。
  暫く見送った後で一息入れた辰五郎は呟いた。
「浅草にけえろう(帰ろう)」
「まだ官軍がいますぜ」
「考えてもみろ。おれっちゃー火消しだ。何も逃げ回るこたーねぇ」
「それもそうか」
「お山の火事を消そうとしただけじゃねーか。コソコソしなくていいんだ。第一逃げるってどこ逃げんだよ」
 ヨタヨタと歩いていると右手にまだ炎上している大伽藍が見える。
「これでお江戸もお終めーだな・・・・。隠居して上様のおわす水戸にでも行くか」
「親分、それじゃお江戸の火事は誰が仕切るんですかい」
「自分で火ィつけたんだ。あの西郷隆盛とかいうのがやるんじゃねえのか」
「あんなイモに務まるもんか、ベラボーめ」

 辰五郎が言った通り、明治とともに江戸という地名は無くなってしまうのである。
 辰五郎自身は慶喜の駿府への移封について行きその地で数年を過ごす。慶喜が水戸を出て、江戸から駿府に移動する際には既に旧幕臣の組織だった行動はできなくなっていた。それはあんまりだと辰五郎が音頭を取り江戸中の町火消が装備を纏って数千人の大名行列をしつらえ、出立した。町火消全組の纏が振り投げられたという。辰五郎は最後は東京に戻り明治8年に没。

 輪王寺宮公現法親王は、江戸市中を転々とした後、いかなる伝手を頼ったか品川沖に錨を下ろしていた榎本武揚の旧幕府艦隊と共に北上、会津入りする。奥羽列藩同盟の錦の御旗になる可能性があったが、利有らずして投降し京都で謹慎させられる。
 維新後には北白川宮能久親王となり、ドイツに留学し陸軍軍人の道を進む。最後は台湾でマラリアにかかり亡くなる。この宮様のお屋敷は赤坂プリンスの旧館で、現在同じ場所で整備され案内版には『朝鮮王族の、李王垠殿下の邸宅』と書かれていたがその前は北白川宮邸だった。筆者はそのまん前の中学に通っていたが、現在よりも道路側にあったことを記憶している。
 渋沢成一朗は上野のドンパチが始まったと聞いて参戦しようとしたが、戦闘がたったの一日で終わってしまったため多摩郡田無で地団駄を踏むことになる。その後残存部隊も合流したため、旧一橋領である埼玉の飯能で一戦交えるがあっけなく敗ける。その後、転々とし辛くもこれまた榎本艦隊に乗り込み、こちらは函館まで行く。従って輪王寺宮とも、土方俊三とも会っている。
 函館では再結成された彰義隊の隊長だったが、何故か降伏前に離脱して潜伏している所を捕まる。彰義隊の再分裂が原因らしい。その後、従妹の渋沢栄一の勧めで官吏になり財界でも活躍する。今放送中の大河ドラマ『晴天を衝く』の渋沢喜八である。
 最後に天野八郎であるが、一度は約百人程の彰義隊士とともに護国寺に集結するが、協議して解散、各々潜伏することにした。一部は渋沢に合流する。天野は隅田川沿いの炭屋に潜んでいる所を捕縛された(先に掴まった彰義隊士から密告されたという説がある)。そして小伝馬町の牢屋敷で獄死する(これも暗殺説がある)。
 猪突一本、直情径行の士だったのだが指導力や人望には欠けていたのかもしれない。

 彰義隊はその後タブー扱いされ取り上げられることも無くなったが、江戸っ子の口伝には長く残った。明治中期になってから、五世尾上菊五郎が新富座の演目に取り上げると大変な人気を呼び、陸軍少将に昇進していた北白川宮能久親王(輪王寺宮公現法親王)も軍服を脱いでお忍びで観劇している。
 筆者は神田淡路町の生まれだが、子供時代のチャンバラごっこのイイモノは彰義隊だった。ただしチビの筆者は「将棋隊」だと思っていた。
そして上述の、前の晩に会津の旗を掲げた一団の武士が裏切った、という話は淡路町から秋葉原・広小路辺りでは都市伝説になっていて、ガキを相手に講釈するヒマなオッサンは実在した。しかし、それを証明する文書にお名に罹ったことはない。上野が燃えると炎がアオい(グリーン)とも伝わっている。

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