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三島由紀夫の幻影 Ⅲ

2022 AUG 13 8:08:47 am by 西 牟呂雄

 17才で書いた「花ざかりの森」を国語教師の清水文雄に送り、清水が文芸雑誌『文藝文化』誌上に連載させたのが三島の実質的な文壇デヴューであることは広く知られている。それまでは学習院の校友誌である『輔仁会雑誌』に作品を発表したりしていた。
 『文藝文化』は蓮田善明、池田勉、栗山理一といった人々により運営されていた日本浪曼派系の雑誌で、その中心人物である蓮田善明が三島を激賞するとともに、三島に多大な影響を与えた。
 以前から気になっていたが、この蓮田の人生を検索して筆者は強い衝撃を受けた。
 蓮田は昭和13年、成城高等学校の教授に転任するが、以前からの同人誌仲間である、上記清水文雄が学習院中等科に転任したための後任で、それによって清水と三島の縁ができた。そしてその年に召集を受けて中支戦線に出征して負傷する。その後、昭和18年に再び召集を受け、陸軍中尉として南方戦線へ行く。この間に三島の作品と出会ったことになり、同人等の送別会には三島も出席した。
 ジャワ・スラバヤ等を転戦し、敗戦の時にはシンガポールにいた。聯隊本部は対岸のジョホール・バルの王宮に置かれていた。筆者が知る限り、このエリアは当初の英軍の降伏以降、抗日ゲリラは別として組織だった大規模戦闘はあまりなく、インパール・ガダルカナル・南方島嶼部あたりで展開された米海兵隊との死闘とは様相が違う。大陸での日本軍もぞうだが、各部隊に『負けた』という実感が乏しい。現地住民においても敗走する日本軍というものを見ていないため露骨な反日感情も少ない。インドネシアは世界一の親日国である。蓮田の所属した熊本歩兵連隊も個別戦闘においては不敗だった。
 その勢いのまま8月15日の『終戦の詔』を聞いた。本土・大陸での各精鋭部隊が徹底抗戦を叫んで激高した例は多く、かの熊本歩兵聯隊でも青年将校等は極秘に決起部隊が編成され、蓮田は大隊長と擬せられた。その不穏な空気の中、連隊長中条豊馬大佐は8月18日に軍旗告別式を行うが、その訓示が極めてまずかった。
 その場にいた者の証言によれば、敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説く、あまりにも節操のない豹変と変節ぶりに蓮田は激高する。
 8月19日に閑院宮春仁王から聖旨を伝達され昭南神社にて軍旗の奉焼する際、蓮田は中条大佐を射殺し自身もこめかみに銃口を当てて引き金を引いた。享年41歳であった。
 遺体は現地で荼毘に付されたが、その死はかつての文学仲間に知らされ、敗戦翌年に偲ぶ会が催され、三島もこれに出席している。その死に様と天皇観が三島に影響を与えないはずがない。ただし、三島の文学作品へいかなる投影がなされたのか、それを検証する術を目下の筆者は持っていない。いずれ考察することもあろう。
 三島の死の前年である昭和44年には、蓮田の25回忌が行われ、そこで三島は「私の唯一の心のよりどころは蓮田さんであって、いまは何ら迷うところもためらうこともない」「私も蓮田さんのあのころの年齢に達した」と挨拶したとある。三島の年齢は昭和の年号と同じ、すなわち44歳で蓮田の没年を越えていたのである。
 蓮田の死、並びに三島の死は状況からみればテロの延長に過ぎず、ここで全うできなければ犯罪者として扱われる危ない綱渡りの延長線上にあるとも言われかねない。だがそこに至る気迫、覚悟たるや凄まじい。この気迫・覚悟といったものは時空を超えて伝播しないのだろうか。

 熊本の慈恵病院は日本で初めて設けられた「こうのとりのゆりかご」という「赤ちゃんポスト」で知られ、筆者もその運営の志を高く評価する。当時の病院理事長として開設を決断した産婦人科医、蓮田太二先生こそ蓮田善明の次男に当たる方だったこと、最近知った。蓮田の遺伝子のなせる業ということか。

三島由紀夫の幻影

三島由紀夫の幻影 Ⅱ

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