岩灯火 十選
2023 MAY 10 21:21:34 pm by 西 牟呂雄

市井の俳人、岩灯火の句集が手に入った。三百あまりの秀作を、ヨットのデッキや農作業の合間に一句一句嘗めるように楽しんだ。
岩灯火氏は、長年基幹産業に従事し数々の事業を展開した人で、その足跡は全国に及び、また個人的にも多くの旅をした方である。作品にはその任地や旅先を思わせる句がちりばめられていた。
さて、俳句という芸術はその表現の短さから、作者或いは評者にとってそれぞれ独自の視点から解釈できる。即ち、作者の思いとは別の味わい方をされることも大いにあり、そこがまた面白い訳だ。
アンドレ・マルローは『日本人は永遠を一瞬に閉じ込めることができる唯一の民族だ』と言った。
解釈は人によるだろうが、巡る季節の一瞬を切り取る。或いは思い詰めて思索の果てに何かに目を留め、なんだこんなことだったのか、とフト気づく。子規は病魔との苦しい戦いの中で自然を写生し、生きる糧とした。そういうものではなかろうか。俳句は思想ではない。
筆者は岩灯火氏を存じ上げている。冷静沈着でありながら時に果敢に決断を下した。氏の日常が今日においてもそうしたものであることは疑いのない所で、いくつもの秀作を吟じた時に何に思いを巡らせていたのか想像するのも味わい深い。その視点から、十句を選んでみた。
しかし全編から選び出すという作業は困難を極めた。かなりの集中力を要しかつ時間もかかる。一つ選んでは、待てよ、と読み返すのは相当なエネルギーを使う。
ほんの思い付きで始めてみたが、二度とできない、しかしながら至福の時間ではあった。
声尽きし ところが墓所や 秋の蝉
お盆の墓参であろう。御尊父 或るいはご先祖の墓参りに汗をかきながら坂を登る。見えてきた時に、故人の姿が蘇り『どうも、お久しぶりです』と感慨にとらわれると、先程までやかましかった蝉の声が一瞬遠くなった。
窓越しの 冬日をつかむ 赤子かな
お孫さんをあやしていると、つくづく自分の子供の頃を思い出す。そしてこの子のこれからに思いを馳せざるをえない。すると冬の低い日光に移される柔らかい影を一生懸命に掴もうとしている姿が目に入る。何を考えているのか、自分にはこの頃の記憶はない。やれやれ・・・。
長閑さに 進まぬ読書 ときしずか
氏は著書もある文章家であり、主に純文学を好む大変な読書家でもある。
長編小説を読んでいるうちに物語が緩慢なために多少飽きる。作品とは無関係なことを考え出して関心はそっちに向かう。
風がページをめくる。
日に焼けた 簾朽ちゆく 和菓子店
散歩の途中に偶然見かけた流行らない和菓子屋。以前は気にも留めなかったが最近通るたびに目につく。変わらない風景は郷愁をさそうが、こうも落ちこぼれていると、かえって地上げに合うのじゃないか、御主人のヤル気がないのか、跡取り息子がサボってしょうもないのか。
そもそも客がいるのも見ていないし、それどころか店の人も見たことがない。
まぁ、大きなお世話なんだろうけれど。
沈む日に 紅葉の生気 よみがえる
紅葉は広葉樹の冬籠り前の最期の輝き。だが周囲はもう寒い。
この葉ももうすぐ1枚残らず落ちて寒さに備えるのか。さて、自分は何を備えるかな。
するとそこに雲の切れ間からまぶしい夕日が差してきた。振り返るとやや赤みの施された紅葉の何と輝かしいことか。時間はまだあるのだ。
薬尽きて 旅も終わりや 温め酒
おそらくは海外旅行ではないか。常備薬を日数分準備して旅立つ。名所・旧跡を訪ねながら様々な感慨に耽り、句集の中にはいくつかの作品がある。
その旅も終わりに近づいたことを表現したのだろう。同時に旅が予定通り終わることを感じさせる。そして次の旅に備えるのである。
一丁の 湯豆腐で足る 夕餉あり
家人が外出したため一人で夕飯を食べる。氏に料理の能力はない。だが、その場合にも楽しみ方は心得ており、豆腐一丁を手に入れてネギを刻み生姜を添え火にかけて待つ。
傍らにはどうしても酒がなければ。とっておきの冷酒を含んで、さてそろそろか。
湯豆腐の芯が適度に熱いのは、さて上げてから30秒後か1分後か、真剣に考えながら箸をつける。
春の雪 『へ』の字『へ』の字を 屋根に積む
温暖化とはいえ、春の雪はそう珍しくもない。少し積もるが解けるのも早い。
今日は晴れたので用事を済ませに家を出ると、はや屋根から滴る水音が聞こえる。見上げてみれば近在の家屋の瓦屋根に積もった雪は朝日に照らされて解け始めている。ポタッポタッ。
汝と我の 思い出も煮る 寄鍋屋
氏は大変に広範な人脈を持っていて、その誰もが驚くほどの人物なことに驚かされる。知己の末席に私が連なっているのは秘かな自慢ですらある。
その中のどなたかと鍋を囲んだのであろう。
さて、日本経済の行く末を憂うるウラ話か、政権中枢のコボレ話か。はたまた互いの秘かな悩みを打ち明け合ったのか。
人気なき 道の自販機 桜散る
人混みを嫌って桜の終わりを楽しもうと車を出した。『たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』とばかりに車を飛ばす。のどが渇いてお茶を買いに自販機の前に停まった。
なんだ、わざわざ人混みの中に行かなくても、人っ子一人いない道端にも同じように見事な桜が舞い散っているじゃないか。
番外
淡き骨 拾えば軽し 差す冬日
十句を選んだが、ほかにも捨てがたい名作がある。
すべてを所望の読者がいれば、作者の了解を得てお届けするにやぶさかでない。
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Categories:古典
