続・街道をゆく 旧甲州街道犬目宿
2024 JUL 13 15:15:35 pm by 西 牟呂雄
旧甲州街道は上野原あたりで現在の国道20号線よりやや北側の山間を通っていた。犬目峠を越える前後の休息のため、一村を以て宿場町をしつらえ犬目宿とした。江戸開府後に日本橋を起点とした五街道が整備され、参勤交代も定着した6代将軍徳川家宣の頃の話だ。
八王子から小仏峠の関所を過ぎると街道は山間部を縫うように進むので、実はほとんど富士山は見えない。ただ一か所、富士が顔を覗かせるのがこの犬目峠である。そのせいで浮世絵師が題材にしている。
このうち広重のものは実際の景観ではなく(こんな景色は犬目にはない)後に尋ねた『猿橋』の構図の類似が指摘されている一種のコラボと言ってよい。
一方北斎のものは浮世絵特有の富士山をデフォルメしてはいるものの、街道の雰囲気を良く伝えている。
中央高速で山梨県に入ると最初に談合坂S・Aがあるが、この談合坂の山側が犬目宿にあたる。この談合坂という地名は別に中央道建設の際に土建屋が談合したからではなく、犬目が歴史上わずかにその名を知られる事件に由来する。
このエリアは元々米作には不適な山間部のため、コメは甲府の商人からの買い付けに頼っていたが、天保の大飢饉の際には買い占めによる米価高騰から大規模な一揆が発生した。その際にリーダー格として指導したのが犬目出身の水越兵助だった。その兵助と志を同じくする現在の大月市エリアの無頼の徒を束ねていた森武七と語らったので談合坂という地名になった。
一揆は当初、貧民救済のため米・金を五カ年賦で借り受けて貸し付けるという綱領を持って良く統率され、現在の笛吹市春日居の穀物商小河奥右衛門宅を打ち壊して帰村した。
ところがその後、甲府盆地ではこの騒ぎに乗じた無宿人・博徒といった連中が大暴れしてメチャクチャになってしまうオチが付いている。兵助自身は騒動後家族とともに木更津に身を隠した後に戻ってきてこの地で義民として敬われている。
さて、多少迷いながら犬目宿に着いた。本来の町並みは昭和期の火事により大半が失われたというが、縫うように曲がりくねった先にそこだけ真直ぐな一本道が通り、両側に民家が整然と並びいかにも宿場町だというたたずまいである。
印象としては、大藩の長い行列がいっぺんに泊まるのには少々狭かったように見える。毛槍をかざしての『したーにー、したに』と整然とやるのは宿場に入ってから出るまでなので、この距離では長い行列には足りないのではないか。
というのも、宿場町では殿様の安全を確保するため、本陣を中心に入りと出の道を捻じ曲げた構造になっており、特に甲州街道は江戸に向う軍勢の防衛上の理由から西から来るところには宝勝寺という防衛拠点を置いているため直線が短い。
参勤交代は宿に大きな現金収入をもたらしたが、そのための役務提供は常備している人馬では足りず、近隣の民衆から助郷役を課したため民衆への負担も大きかった。
また、各大名が宿場で鉢合わせると大混乱になるため、時期やコースを調整して宿泊が重ならないようにしたらしい。
例えば御三家筆頭の尾張徳川家は普通に考えれば東海道を通りそうだが、しばしば中山道経由で甲州街道を使った。尾張藩は大藩であるから犬目宿のキャパをこえてしまう。その際に殿様が泊まった地元の素封家が今でも残っていたが、その理由は庭先から見えた富士山の景色が気に入ったからだ、と伝わっていた。
葵の御紋の高張提灯が掲げられ門番が立ち、武士であろうとも下馬しなければならない格式だと言うが、こんなところに普段武士なんぞ居るはずがない。
ところで以前のブログでも指摘したが、このエリアには桃太郎伝説があり、百蔵山の桃太郎が犬目の『犬』鳥沢の『雉』猿橋の『猿』を連れて岩殿山の『鬼』を退治したことになっていて、それにちなんで宝勝寺は犬の寺を称していた。近隣に犬嶋神社も3つほどあり、犬とは何かの関係がありそうだが分からない。
歴史的には戦国時代においてこの地域は甲斐と相模の国境にあたるためしばしば戦闘が行われた。即ち関東の支配者である小田原北条と甲斐郡内の覇者小山田が干戈を交えている。
主たる戦場は山中湖から御殿場へ抜ける都留郡や相模川沿いの厚木に加え、八王子城と対峙するこの辺りであった。古戦場の跡がある。
街道はそういった戦乱や天災、および利便性の改善のためにルートが変わったようで、今通っている旧甲州街道の更に前、古甲州街道ともいうべき道も残されている。この右上に上がっていく険しい道がそうである。籠や馬なら行けそうだが、馬車ともなるととても上がれない。
明治13年、天皇陛下全国後巡幸で山梨県にお出での際には馬車を仕立て文武百官を従えての大行列である。一つには大名行列以上の華やかさを演出する必要もあったのだろう。
そこで慌ててこしらえたの現在の旧『甲州街道』なのだ。
一行は上野原での宿泊の後、ここを通って犬目宿で小休止。大月の星野家で昼食、初狩の小林家で小休止、笹子峠手前の黒野田宿で宿泊した。
星野家は今でも立派な屋敷が残っていて名産『桃太郎納豆』を売っている。
小林家は筆者の祖母の実家だが、特に口伝は残っていない。当主が幼かったため小休止に於いては御尊顔を拝することはなかったと思われる。
こういった記念碑は『御小休(ごこやすみ)』として各地に残る。何しろ馬車に乗っての全国御巡幸であるから名望家・素封家・本陣などさぞ気合が入ったことだろう。筆者は都下荻窪にいたことがあるが、そこにも存在していた。
街道は古戦場跡を縫いながら、参勤交代の大名行列のために整備され、明治天皇行幸のおかげで広げられ、眼下に鉄道が通り車時代に至って通行をしやすいように国道20号線となって遥か下に移り犬目宿は廃れた。更には大動脈としての中央道が見えている。
尾張の殿様が愛でた富士を写メに捉えようとしたが、梅雨時だったので雲の中に埋もれてしまった。
いずれ、秋口の晴れ渡った時に挑戦しようと思っている。
殿様が見た時は、こんな無粋な鉄塔は無かったんだろうな。
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