Sonar Members Club No.36

Since July 2013

如来(にょらい)考

2024 OCT 6 21:21:15 pm by 西 牟呂雄

 ウチは浄土真宗で、菩提寺は現在の場所に来たのは遥か後だが鎌倉時代の創建と伝わる。住職は代々『大江』さんと言って鎌倉幕府高官の大江広元の末裔である。
 本堂に鎮座するは阿弥陀如来像で、仏事のお経を聞いている時などにしげしげと見上げているが、なかなかありがたい。阿弥陀様は西方浄土の一尊、如来はサンスクリットのタターガタの漢訳で、この上もなく尊いという意味の呼称である。
 この『如来』という文字をジッと見つめていて心に浮かんだことがある。漢訳は当て字なんだろうが、読み下してみると『来るが如し』。
 形而上の教えはあくまで概念だから現実には起こりえない。だから信用できない、となってしまえば宗教は成り立たない。理論構造を実証できないがゆえに先に進めない、となると現代人の大半はとてもじゃないけど受け入れられなくなる。
 そうはいっても形而上としての心の支えが全くなければ人間には耐えられないことが多すぎる。例えば誰にも必ず訪れる死。いかなる合理的な知性でも簡単に腹落ちする解なぞない。宗教を否定した共産党独裁国家でも宗教が根絶やしになることはなかった。

 しかし生き延びるためには各宗派は凄まじいエネルギーを内部の改革に費やしている。 
 キリスト教は信仰を維持するために、まるで生物が細胞分裂やウィルスから回復するように宗派同士で血を流しあい洗練されてきたかに見える。
 イスラムでは今日ですらシーア派VSスンニ派、他宗教への攻撃と激しい対立はなくならない。ISの戦闘は記憶に新しい。
 ところが日本では多くの仏教宗派を生み出したが、宗門同士での相手の潰し合いのような対立は少なく、明らかに宗教戦争めいたものは物部VS蘇我の丁未の乱と島原の乱くらいだろうか。日本仏教の武装闘争である一向一揆や石山合戦はむしろ権力者と対峙したもので、それはそれで歴史上の自立作用かとも思われるが宗派対立ではない。つまり貴族の仏教(天台・真言・南都仏教)が武士の仏教(禅宗)になり庶民の仏教(浄土・浄土真宗)になるほど仏教が浸透し、その庶民が権力に対峙するほど豊かになった社会的構造変化だろう。しかも最後まで戦った相手は無神論者の信長であった。
 仏教が日本的に変化したところで、宗教戦争に至らなかったのは論争の際にご本尊を『如来 来る如し』としたために、まあそういうことにしておかないと先に進まない、ゴトクということで話を続けると、とやったためではなかろうか。仮説というか思い付きだが。
 当て字の『如来』に意味を込めたかどうか知らないが、そういうことにしてしまったとしたら日本人はうまいことやった。ナンチャッテ、博識の方、ご教示願えますか。ぜんぜん関係ないが『極道』も本来『道を極める』という意味だが今日の口語では全く違った使われ方だ。
 私の主催する『滋養教』もこれから『滋養如来』としようか。アッ、でも神道系だったよな。

 まじめなお坊様、思い付きですので怒らないでください。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

Categories:言葉

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊