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月別: 2014年4月

20年前から昨年秋そして昨日までの友達の命と神山先生( 後編)

2014 APR 27 0:00:57 am by 江崎 淳一

  彼の抱えていたトラブルは、夫婦喧嘩が発端で奥さんが警察にDVの被害の通報。警察が自宅にきてDVに当たらずと帰った翌日、奥さんの近所に住んでいる義理の父から体調が悪いので病院に連れって言ってくれとの電話。免許停止処分中の彼、奥さんは自宅におらず彼が無免許覚悟うえで、義理のお父さん宅へ車に乗り駐車場から出た瞬間に、前後パトカーに挟まれそのまま拘留(無免許運転の通報で警察待ち構えてました、ハメられた)。20日間の勾留後家に帰ると、家はめぼしい物を持ち出されもぬけの殻に。何故か警察から出てくる時に、自宅に行くときは警察に事前に連絡することと言われていて自宅に住むことも出来ない状態になっているとのことだった(アメリカで旦那の知らぬ間に子供を連れ去ると逆に、奥さんは誘拐犯になるのになーとその時は思った)。 その状態で知り合いの家に身を寄せ1カ月以上。

  息子が何処に居るか未だに分からないと。

  何よりも息子がどこにいるのか知りたいと。

  ほかのことはともかく、息子さんの居場所だけ絶対に探すと思い、再び九州に。 彼が集めていた情報、親族関係(奥さんの家族は全て地元にいる)、奥さんの交友関係を聞いて、次の日地元の知り合いの方が(元タクシー運転手さん)車の運転をしてくれるために来る朝、ほんの少し考えました。 彼が住んでいた人口44万人の市それと隣合わせの人口14万の市、そのどちらかかに絶対にいる。 ただどちらの市なのか? 車に乗り込み「どこにいくのー?」の問いに、自分の勘が囁いてくる「14万の方だ」と。「その町の中学校回ってください。」とお願い出発。 その日は日曜日、閑散としている1校目の中学校を車の中か見て次の学校へ。それの繰り返しで4校目。何故か「この学校にいるな」と思うと同時に車から一人黙って降り、部活を終へ着替えをしていた生徒に「2学期に一年生でXXXX君って転校生徒きた?」と聞くと、名前身長体格共にドンピシャの転校生がいるとの事。その後何校か、通り過ぎましたが何も感じないので、その日は終わり。 翌朝月曜日、昨日の中学校門前のコンビニへ。一人目の生徒登校から30分後に彼の子供さんが。一週間あれば見つけれるかなと思っていたのに、実働時間にして6時間。

  一か月後、奥さんのフェースブックを地元知り合いが見つけ、佐世保に移り住んだと言われた彼(そんなわけないじゃん。普通の人は2か月チョイで2回も、引っ越しできるわけない)。自分の勘がささやいてくる。翌日また九州に飛びました。6枚位ある、彼女のFBの写真。その中で外で取られているのは4枚。息子さんがいた中学校へ。スマホの地図を開き水路が一枚映っていた場所のを見つけるまでに15分。学校はちょとした丘の上。後は、等高線と水路とそれに河川を見ると学校を中心に12時から2時の間に絞られる。あとの3か所探し終えるのに、一時間少々、やっぱりなと。

  この間一番の懸念は彼の体がかなり悪いなと感じていた事、彼と共に歩くと息が上がり50メーター歩くのがやっと。息子さんの件で興奮して動き回っている彼を見ているのが本当に辛かった。60過ぎたばかりの彼。ありえないほどの血圧の数値。飲みすぎの人生。あれほどタフだった40代の彼。これは神山先生に。でも連れていけるでしょうか。しかし、願って待ってると来るいいきっかけが。彼は自分がそんなになりながら知り合いの老夫婦を見てもらいたと言い出す、それが11月。それじゃついでに彼も見てもらえる。先生の見立ては内臓全てが腫れ上がってるとのこと、でも「大丈夫直せます」の先生の一言。その夜ホテルの部屋で医者からは18ヵ月前にあと2年の寿命と言われていたと聞いた。

  その後漢方薬は飲み続けていた彼。しかし1月になり体調が辛いらしく地元の市民病院に行くと検査検査の毎日に。血圧220、血糖値3倍、C型肝炎、心臓血液逆流、それに伴い肺にも影響が出てると。夜になると背中が痛くて起きるとの電話。

  あまりにも問題があるので、医者も検査をたらい廻しにし、どう手を打つか考えているようで、でも心臓の弁を人工にするのが先決だと3月末をめどに手術の予定が立てられた。今回は、無理やり呼びました。3月の第2月曜日から、中2日開けて3回の鍼、神山先生が打ってくれました。来月また同じく3回鍼しましょう。そして、もう病院に行けば手術しないから検査してきなさいとの事。見事お医者さんが信じられない数値が出て手術は延期、また検査だと。何をしたと聞いてきたお医者さんに、鍼と漢方と言っても信じなかったらしい。

  そして今回、14日から1週間また3回の鍼。「もう、心臓はいきなり止まらないよ。次は肝臓を治すから。」と先生。「また、来月ねと」もう一回来れば後は漢方で治るかなと思うと。それが、昨日(4/21)でした。(ちなみに現在血圧130切ってます)
  
  今年初乗り1月3日モービルに一日乗って以来、体調が最悪になった自分。その時、神山先生からやんわりと、「お付き合いでモービル乗るのを止めれば」とのアドバイスを頂き乗るのを止めた。例年通り乗っていたらはたして彼を神山先生に連れていけてたか。勿論モービルに乗らないなんて夢も思っていなかったわけで。乗り始めれば週末はこっちにいなかった。結果モービルの唯一の弟子、年上の男友達、しょうがない小僧といつもフォローしてくれた彼の命が延びたのか。

  20年間の借りちょと返せたかな、健さん。

  それにしても、神山先生の技術(神山先生は自分は技術者と自分を表現する)は凄い。乗り物の機械を直し改造しパワーを上げるの簡単で、ちょっとした勉強と地味に時間を掛けて上げて行く機械いじりの腕と、それを判断できる感性と、プラス体力。しかし先生は命を直す。全ての患者さんは、体質など全てワンオフな訳で。エンジン焼きついてるはずなのに、部品も変えず。何のダメージを与えず、再生させる。「君はアメリカにモービルをいじるのを教わりに行く。私は海外に教えに行く。」神山先生から頂いた、未だに頭に焼付いるお言葉です。そう、先生は THE MASTER KAMIYAMA なのですね。生きてる間に1人会えるか会えないか。出会えました。ありがとうございます先生、友達助けて頂きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20年前から昨年秋そして昨日までの友達の命と神山先生 (前編)

2014 APR 23 0:00:37 am by 江崎 淳一

去年夏の終わり、1、2年間隔位でたまにくる彼からの電話が鳴る。

彼と最後に会ったのは約10年前。九州に移り住み、新しい奥さんと連れ子の長男、自分の3歳位の子供とを連れて、モービルに乗せるために新潟に旅行に来たのが最後の顔合わせ。

その後、彼から掛かってくる来る、3分の電話。 お互い、まだ電話が繋がってる確認のような会話で終わる電話。 それだけで蘇るあの年の思い出。彼への感謝の気持ちとともにいつも心の片隅にある感情。

20年位前のあの年、自分は24歳か25歳。 モービルに乗り始めて3シーズン目位で、夏にアルバイトで冬のモービルに焚くガソリン代の微々たるお金作っていた。当然新潟から実家の市川に帰るなんて出来ないわけで、20年落ちのランドクルザー40での寝泊り。 冬場になると関越の高速の下に、夏は農家の人が田んぼの行き来に使う雪に埋もれたトンネルで、毎日ランクルで雪を押しつぶし自分用トンネルを作り、そのトンネルの中にモービルも停め、晴れると朝から一人で黙々と田んぼを乗り越え魚野川河川敷をひたすら走っていた。当時越後湯沢あたりは、一晩で1メーターの積雪が当たり前、外に車を停めるなんかとんでもない。モービルを3日も外に置くと、雪から掘り出すのに軽く1時間の発掘土方作業だった。当時のモービルも2月以降でないと山に入れないような性能だった。

 

生意気盛りで、モービルを始めるきっかけになったレンタル・スノーモービル・ランドから飛び出し、誰にも拘束されないソロライダーに。当時からモービルは一人きりで乗るものではなく、今でも日本で出会ったモービル乗りでソロの本格的経験者は4人しかいない。

週末に人が居る山に独りで乗り入れた時、そこでスノー・モービル・ランドのメンバーになりたての彼と出会った。彼はその年に今までの仕事を辞めた人生の転換期で、学生時代全日本に出ていたスキーを15年ぶり再開するため、越後湯沢に滑りに来てモービルに出合ったばかりだった。

それから数週間、確か2月中旬頃から毎日彼と二人で乗り始める事に。自分と一緒に乗り始めた彼は、それはそれは悲惨な目に。雪に埋まる、木にぶつかる、体をぶつける、しかし汗だくになりながらもめげなかった彼。一週間経ち、ははーこのおじさん半端じゃないな、よし、一緒に乗るか、今は下手だけど上手くなるな。そんな思いを起こさせた男だった。

乗りましたよ、75日以上。雨が降ろうが、霧で10メーター先が見えなかろうが。一日も休まず5月まで。彼は1年目で、人が週末に10年乗っても達するかどうかのレベルになった。あの当時の自分は理論的に乗り方を説明出来なかったから、自身の本能に任せて乗るのを、彼は後ろから私のてラインについて来て、それだけでした。

朝起きると、毎日モービルにガソリンを積んでくれ、朝飯食べさせてもらい、飲み屋の2階の宴会場に毎日一緒に泊まっていた。本当にさりげなく面倒みてもらった。迂闊にも(本当に何で気が付かなかったのだろう)何年も経ってからその当時の事に気が付き、その借りを返さねばと心の片隅に。

そして、20年後の去年の夏の電話が。

いつもは、毎年一回のみの電話が、週一で来るようになり3日に1回、毎日になった時「何かトラブルあるでしょ」と聞くと、「実は、、、、」。20分後にチケットを取り、翌日初めての九州に。

こちらも、昨シーズンは交通事故以来悪かった調子が神山先生の針で回復したため、5月末まで毎週モービル乗っていたのがアダになり、6月には右半身麻痺。少しよくなりかけてきていた体に不安を抱えながら、スイッチを入れた。

降り立った九州の、湿度の低さに体は絶好調に、とりあえず夕飯を食べて眠った。

 

続きます。

 

 

 

 

 

平等院にて。

2014 APR 8 23:23:03 pm by 江崎 淳一

土曜始発の新幹線にのり8時過ぎに京都駅に。東さん三田さんそしてはじめてお会いする梶浦さんに改札口でお待ちいただき無事に合流、そのままローカル線で宇治駅へ。アー宇治茶ってここなのねーとお寺に向かう参道を、ゴロゴロ鞄を引きながら入場券売り場に到着。一向に入場券を買われずただボーっとして立ってること10分、出てこられた宮城様。普通にジャケット姿でいただいた名刺で、平等院住職様。ここに来る前ちょっと視線に入った平等院は10円玉の裏側?じゃないと小学生レベルの歴史のなさゆえ、目茶苦茶びっくり。その後、東さんとその話をしていると横にいた宮城さんが「一万円札の裏の鳳凰もここのですよ」と何気なく呟かれ、なお落ち込む自分の常識のなさ。(今、wiki見てましたら世界遺産でした)はーーー。

さて、平等院です。まずは本堂のなかに30分ごとに30人位の入れ入れ替えで拝観させて貰いました。気になったことが二つ。横にいらっしゃる宮城さんは、毎日一人でこのすばらしい仏像を眺めてるのではないか?ほんとになんともいえない後背の傾き方。まさに微妙その角度は不安定なほど前に倒れこんでいて、仏像様のお顔を見上げると、後背に目線が引き込まれそのまま天を見つめてしまう作りこみ。一人でここに一時間居れたらどんなに素晴らしかなと。と考えつつ天井を仏様目線で表玄関に持っていくとそこには、格子が組まれているのですが目線が外を見れる辺りだけ、格子がないのに気が付き宮城さんにその場でお伺いすると、外から仏様の顔が見えるようになっており朝日出ると仏様の顔が輝くように出来ていると、そして夕方には後光が差すように窓もあるとのこと。1000年前、本堂には入れたのほんの一部の人のみだけだったんだろうなと。ほとんどの人は、池越しに仏様を拝見していたなと外に出てみて感じました。そしてそのポジションから見る平等院の美しさ。外に出て行く途中に宮城さんに毎日一人で本堂に居られるのですか?ときいてみたところ「子供の時は、朝一人で床の雑巾がけしていたと」「しかも冬は目茶苦茶寒かった」と微笑んで教えてくれました。

 

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