草炎
2017 SEP 5 21:21:19 pm by 吉田 康子
週末に竹橋にある国立近代美術館に行ってきました。
ここは学生時代に独りで静かな時間を過ごしたい時によく足を運んだ場所です。その後は行った記憶が無いので、本当に何十年ぶり。美術館の周辺は毎日新聞社の建物と皇居、そしてその間に車が行き交う片側3車線の広い道路だけ。皇居を周回してジョギングする人達以外には歩いている人も少ない風景は、都会にありながらそこだけ特別な空間のように感じられます。
先週8/29の日経の日曜版に川端龍子の「草炎」(1930年絹本着色、六曲一双、各176.8×369.5cm)という作品が紹介されていました。これを一目見て気に入り、是非本物を見たいと思ったのがきっかけです。恥ずかしいことに私はこの作品について知識が無く、この画家を知りませんでした。
9月最初の週末、秋の気配がする小雨の午前中。にわか雨を表す「驟雨(しゅうう)」という言葉がぴったりくるような空模様。あいにくの天気のせいか開館直後の会場は訪れる人も少なくて静まりかえっていました。この絵は6枚2組の屏風(六曲一双というそうです)に仕立てられていて、全体の幅7mを越える大作。濃紺の絹の生地の上に濃淡のある金色で描いてあるのは、観賞用に栽培した草花でなく、そのへんの草むらで見かけるような雑草。そういえば見たことのある草ばかり。もわっと草いきれが伝わってきそうな力強さを感じました。
夏の夜の闇を思わせるような濃い背景に浮かび上がる金色の草たち。ほぼ単色に見えるのに遠近が感じられるのは何故?と近づいたり離れてみたりしてどんな風に描いているのか目を凝らしてみました。微妙な色彩の差や筆のタッチの違いも計算した上でのことなのでしょうか。奥行を感じさせる画面の一番奥の方から手前にかけて明るく色鮮やかに輝いているのは、強い太陽光の残像?それとも夏の月光?
この絵を見ていると、バルトークの「戸外にて」の「Out of Doors 戸外にて」 (BB 89/Sz. 81、1926年)第4曲”The Night Music”の息が詰まるような熱気が聞こえてくるような気がしました。この絵の背景に同調するかのような薄暗い展示室に浮かび上がる様は、「草炎」という名が相応しいと実感しました。
https://youtu.be/cZT6-ifNqiY
薄暗い展示室は4階から下の階に降りる順路となっていて、途中には「眺めのいい部屋」という名前が付いたガラス張りの部屋もありました。目の前の皇居の緑がとても美しく、無造作に並べられた椅子に座って一息するにはちょうどいい場所でレイアウトの巧みさを感じました。
一通り展示を見終わって外に出ると、雨上がりの空に流れが早い雲、そしてその隙間から明るい陽射しが差し込んできました。久しぶりの美術館、絵を見るだけの余裕が出て来た私自身が嬉しく、心にも栄養をたっぷり貰ったような豊かな気分になりました。
追記1
■きっかけになった記事を以下に添えておきます。
また、これは犬好きとして知られた川端龍子です。草炎の豪奢な厳しさからは予想がつかない、そばに寄り添っている犬との様子が何とも微笑ましいです。
追記2
■以下は印象に残った作品をいくつか。私の備忘録でもあります。
川合玉堂《二日月》絹本墨画淡彩、1907年
いわゆる墨絵と言われるものでしょうか。掛け軸に仕立てられていて、白黒の濃淡だけで奥行を表し、水や木々、石、山の稜線など様々な質感を出しているところに惹かれました。
藤田嗣治《武漢進撃》、油彩、1938-40年
ターナーの絵を思わせる構図で軍艦を描いたフジタの戦争画分類に入る作品だと思います。立ち上る煙、水面のさざ波、水平線と空との境に向かって進む軍艦の動きが伝わってくるような構図が見事。
パウル・クレー「破壊された町」
クレーの作品は暖かい色彩の楽しそうなものというイメージだったのに、これは題名通りの不気味な空気。
アンリ・マティス (1869-1954)「ルネ、緑のハーモニー」
緑と灰色を主調に、肘掛椅子に座る女性。「近年のマティス研究で重視される描き直しや掻き落としのさまが顕著に見られる、国内でも数少ない作例。」 と解説にありました。
画家にとって絵というものはいつが完成なんだろう?と解説を読んで考えました。画家が伝えたい事を全て描ききった時点がその作品の完成となるのだろうか?作品自体が後世まで残り、独り歩きをして売買の対象となる商品にもなり得るものだし、このあたりが音楽を演奏するという事と違うのかな?と。
そしてこの美術館をよく訪れた当時の記憶をたどってみると、入り口を入ってすぐに大きな桜の日本画がありました。検索してみると、たぶんこれだったような。
菊池芳文《小雨ふる吉野》(左隻) 1914年だそうです。懐かしい友人に再会したような温かい気持ちになりました。
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東 賢太郎
9/6/2017 | 12:17 PM Permalink
素晴らしい絵を有難うございます。こちらいま絵を見るだけの余裕がなく、うらやましいです。画家にとって絵というものはいつが完成なんだろう?面白い問いですね。写生でない場合は何を描いてるんだろうとも思います。対象物ですね。それを100%描いたらおしまいかと。
西村 淳
9/6/2017 | 9:45 PM Permalink
絵を見ることで、音を想像する、イメージする能力はわたしにはありません。バルトークの音が鳴る、ということ以前の問題のようです。音楽を連想させる絵があるなら絵を連想させる音楽もあるのかな、などと考えてもどちらも不可能。こういうことが出来ることを能力という、そしてできないことを無能と呼ぶのかしら。
吉田 康子
9/7/2017 | 1:13 AM Permalink
美術館まで足を運んで絵を見るというのは、なかなか出来そうで難しいものですね。お忙しいご様子が伝わってきます。
画家にしても作家や作曲家にしても、形あるものとして世の中に作品を出した場合は、それが完成品としても評価を受けるのだと思います。
演奏の録音録画の場合は修正して完成品を作れますが、演奏会のようなその時限りの場合は、完成を披露をすべく準備をしても未完になるか、色々な条件が相まって奇跡が起きるか・・なんだかスリリングなものですね。
吉田 康子
9/7/2017 | 1:47 AM Permalink
スーザン・トムズ「静けさの中から」は、私も読みました。その中で、音楽を聴くと本能的に色彩を感じるという「音楽の二次性感覚」についての記述がありました。フランスのピアニスト、エレーヌ・グリモーは「ハ長調は絶対に白」と言っているそうです。これは個人的な感覚によるものなので、「青」や「赤」だと主張する人もいるそうです。音楽と絵(または色彩)を関連付けるのは能力の有無ではなくて、その曲に対するイメージを膨らます想像力ではないでしょうか。