ウィーンに恋して 冷たくされて
2017 JAN 15 13:13:40 pm by 野村 和寿
1991年に起きたウィーン取材のことを、26年経た2017年、思い起こして書いてみることにしました。それは、とても大変な取材でした。憧れていた恋人に一気にふられたような、ぼくにとっては、珍しくとても,辛口のブログになります。
面白くないかも知れないです。
1991年はモーツァルトの没後200年記念の年で、いろいろなモーツァルト関係のイベントがおこなわれていました。そこでゴールデン・ウィークを利用して、ウィーン・フィル・メンバーに一週間密着するというぼくが編集者をしていた音楽雑誌の企画で、ウィーンに行ったことがありました。
それまで、ぼくにとって、ウィーンというのは憧れの、理想の音楽都市だと思っていました。当時はまだヨーロッパ直行便はなく、アンカレッジ経由で15時間もかかったヨーロッパでした。ロンドンを経由して、18時間かかってウィーンに到着した。ウィーンの取材は、ウィーンの公立図書館から始まりました。ウィーンの一般の図書館で、モーツァルトはどうやって受け容れられているんだろう。ところが、ぼくの抱いていたウィーン=モーツァルト=音楽の街というステレオタイプなイメージは、もろくも崩れ去った。
1990年代のウィーンは、とくに、日本でのように、モーツァルトについて、お祭り騒ぎではなく、一般の市民達が、特にモーツァルトやクラシックが好きということもありませんでした。もちろん、ウィーンの土産物屋には、モーツァルトの顔を冠したチョコレートやグッズがあるにはありました。また5000シリング札はモーツァルトのデザインでした。しかし、ウィーンはなにも騒いでいませんでした。
モーツァルトの愛好家を自認する図書館長は、ボクの質問に少しも満足な答えを聞くことはできませんでした。モーツァルトに関するコーナーは貧弱で、日本のほうがよっぽど充実していました。古い本が並べられているだけでした。
ウィーンの若い音楽愛好家の家にも取材をしました。「モーツァルトは嫌いです。音楽がこまごまとしていて冗談すぎるから」と、さらっといってのけました。
音楽学生にも取材しました。普通のアパートに住む人にとっては、防音というのが、大きな問題で、音楽家の玉子たちには、ウィーンは決して優しくなかった。というよりもきわめて冷淡な印象がありました。練習する場所にも恵まれていませんでした。
さらに1991年当時にもウィーン楽友協会を取材したおりに、わかったことは、あの黄金のホールをとりしきっている会長は、第2次世界大戦の頃、ウィーンがナチスドイツと併合されていたころからずっと、楽友協会を牛耳ってきた女史。ファシズムと親しかった女性の館長の下、取材にはきわめて非協力的で、保守的で、まったくとりつくしまもありませんでした。
ウィーンのシェーンブルン宮殿で一般の老人夫婦が写真を撮っていたので、記念写真をとってあげましょうか? と聞いたらにべもなく、拒絶された。まるで、自分のテリトリーにむやみに立ち入ることを拒んでいるようでした。
ぼくが、感じた1991年のウィーンは、オーストリア社会党のちの社会民主党のフランツ・ヴラニツキーが、国民党との連立を組み、政権を担っていたが、ウィーン人にしてみると、みるべき政策もなく、デモも頻発していていました。
ウィーンの国立歌劇場にも行きました。ウィーンの駐車事情は極度に悪く、国立歌劇場近くの駐車場は、ことごとく満車で、街のパーキングというパーキングに、車がこれはどうやったら、発車できるんだろうとばかり、無理矢理に駐車がめだった。1時間ほど駐車場を探した挙げ句、入場ができました。
オペラでは、ムソグルスキーの『ホヴァンスティナ』を観ました。当時、音楽監督だった指揮者クラウディオ・アバドによる発掘で、復活上演されていた。1階の平土間席に陣取りましたが、取材目的で、当然のように、大事な取材道具の入ったかばんを、クロークに預けることなく、もって席に着いていました。
隣の過度に太った30代と思われる夫婦は、ボクの席を通って通路に出るときに、わざと、ぼくのかばんを踏みつけて通った。つまり、ボクが、かばんをクロークに預けもしないで、観劇するなんて、田舎者のするものだといわんばかりで、非常に自分自身のことを考えてばかり居て、冷酷な仕打ち、それが現実だった。オペラ観劇後のレストラン事情も決して恵まれては居ませんでした。終演が23時で、まだ近くでオープンしているレストランは非常に寒々としていました。注文した豆のスープは塩辛くてとても美味しいものではありませんでした。
通訳に雇用した日本人女性は、ウィーンにバイオリン留学にきたものの、すでに音楽にはなんらかの理由で、挫折を味わい、今は通訳のような仕事をしていた様子でしたが、これが、ウィーン人よりさらに、保守的で、頑迷で保守的なところは、日本語で通訳しながらも、自分に言い聞かせているようなところがあって、しかもギャランティーはしっかりと高額でした。ウィーン在住の日本人音楽評論家にも会った。彼もまた日本語でもって、ウィーン人のようにコンサーヴァティブそのものだった、これは想像の域を出ないが、こうした留学生のなれの果てのような日本人が、ウィーンには多くいて、それぞれが苦しい生活をしているようだった。あまりよい印象はもっていない。
1989年のベルリンの壁崩壊直後で、社会主義諸国の社会主義の崩壊があったとはいえ、オーストリアは、大きな誇れる産業もなく、地理的には、社会主義国の隣国、黄昏の西ヨーロッパの果てであり、自分たちが保守的に生きていくために、静かに質素に、他人の目に注意を向けながら、日々を暮らして、何もしないようにしようと思うしかないといった、きわめて保守的な空気感でした。
4月の終わりだというのに、吐く息は白く、なにか寒々しい感じがしました。
とてもボクが考えてきた往年のウィーンではないというのが第一印象だった。
ボクの思っているウィーンに対する甘いイメージは大きくひっくり返されてしまった。正直なところ興ざめでした。
ボクは、一番の取材目的である、ウィーン室内合奏団の録音場所であるカジノツェーゲルニッツに向かいました。朽ち果てたような古いホテル。入り口に、何もすることのない男達がたむろしていました。「ここに録音場所があるのか?」と聞くと、「知らない、そういえば、裏の方にあったかも」と、きわめて非協力的だった。裏に回ると、同じく朽ち果てたような昔は豪奢だった面影が、天井からさがったシャンデリアの電灯光が、漏れてきました。
日本のようにモーツァルト・イヤーの本場だとお祭りを想像していた雑誌記者は、そのあまりにも安易な日本的な考えにすっかりと困ってしまいました。
ボクは、ベルナルト・ベルトルッチ監督(代表作「ラスト・エンペラー」)のイタリア映画『暗殺の森』(1970年イタリア・フランス・ドイツ合作)を思い出していました。舞台は、大戦中のイタリアとフランス、撮影は名匠ヴィットリオ・ストラーロの暗い青がかった空気感のもとで、主人公役のジャンルイ・トランティニアンが殺し屋の映画だ。ウィーンとは違うけれど、世紀末的な色合い漂う、冷酷なまでの頽廃感が似ていると、思っていました。
ウィーン室内合奏団の話は次回へ・・・・つづきます。
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